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第十五話 通信治安

 八月二十七日、午前七時。


 東京の空は、まだ完全には戻っていなかった。


 富士山の噴火は大規模な噴出を終え、火口列からの噴煙も明らかに弱まっていた。だが、灰は消えない。空気の中に残り、道路の端に残り、屋根に残り、排水溝に残り、車両のフィルターに残り、人の喉に残った。

 首都圏では、除灰作業が続いていた。東京、神奈川、千葉、静岡、山梨。自治体、自衛隊、消防、警察、建設業者、道路会社、鉄道会社、電力会社、通信会社、医療機関が、灰と地震被害の二重の復旧に当たっている。

 南海トラフ巨大地震の被災地では、避難生活の長期化が本格化していた。高知、宮崎、和歌山、徳島、三重、愛知、静岡。仮設トイレ、入浴支援、感染症対策、遺体安置、家族照会、孤立集落への物資輸送。相模トラフ・首都直下地震の被災地では、倒壊現場の捜索と港湾・道路・医療機関の復旧が続いている。

 南西諸島の海では、中国艦艇群の多くが距離を取り始めたものの、完全撤退には至っていなかった。政府は警戒を継続しつつ、支援物資を第三国機関経由で受け取る調整を続けている。


 物理的な危機は、少しずつ持久戦に入っていた。

 だが、インターネット空間は違った。

 そこでは、災害がまだ噴火していた。


 スマートフォンの通信が復旧する地域が増えるにつれ、SNSには、安否確認、支援要請、避難所情報、除灰方法、医療情報が流れた。同時に、罵声、差別、なりすまし、偽動画、切り取り映像、地域対立、政府不信、自衛隊不信、外国人攻撃、そして中国側の認知戦と見られる投稿が、雪崩のように流れ込んだ。


 鹿児島と東京。

 地方と首都。

 日本人と中国人。

 被災地と非被災地。

 政府支持と政府批判。

 自衛隊感謝と自衛隊不信。


 対立軸は、増えすぎていた。

 そして、その一つ一つに、被災者の疲労と怒りが絡みついていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前七時二十分。


 官邸危機管理センター。


 高嶺紗枝(たかみねさえ)首相は、朝の情報災害対策会議に出席していた。壁面の一つの画面には、従来の地図ではなく、SNS上の拡散網が映し出されている。点と線。投稿、再投稿、引用、動画、コメント。赤く表示されたものは、災害デマ、誹謗中傷、脅迫、差別扇動、避難所業務妨害につながる可能性のある投稿群だった。


 その赤い線は、富士山の降灰予測図より複雑だった。


 橘義隆(たちばなよしたか)官房長官が報告した。


「鹿児島・東京間の対立投稿は、昨日よりさらに増加。火山灰経験共有の投稿を攻撃するアカウント群が継続活動。東京側では、鹿児島県民への中傷、鹿児島側では東京住民への侮辱が確認されています。ただし、初動拡散の一部には不審なアカウント群が強く関与しています」


 内閣サイバー・情報分析室長が続けた。


「日本人を装った中国政府系工作関係者、またはその協力者と疑われる複数アカウントが確認されています。加えて、煽られた一般ユーザーが自発的に中傷へ参加し、工作由来の投稿と一般投稿が混在しています。すでに自然発火に近い状態です」


 高嶺は、画面を見つめた。


「自然発火」


 分析室長は頷いた。


「はい。最初の火種は外から投げ込まれた可能性が高い。しかし、今は国内利用者自身の怒り、疲労、不安が燃料になっています」


 警察庁担当者が言った。


「避難所や配布所で、ネット上の投稿を発端とした口論、小競り合い、威力業務妨害が増えています。個人の住所や勤務先を晒す行為、被災者への脅迫、外国人住民への攻撃予告も確認されています」


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が、防衛省から回線で入る。


『自衛隊現場でも、隊員への罵倒が増えています。東京優遇、地方軽視、中国人保護、政府の犬、自衛隊による言論統制など、さまざまです。現場には挑発に乗らないよう徹底していますが、隊員の精神的負担が増しています』


 片倉皐月(かたくらさつき)財務大臣が低く言った。


『避難所運営、物資配布、除灰、医療搬送に支障が出始めれば、これは表現の問題ではなく、人命の問題です』


 高嶺は、机の上に置いた手を握った。


「総務省、警察庁、内閣サイバー・情報分析室、法務省、プラットフォーム各社との連携状況は」


 総務省担当者が答える。


「削除要請、アカウント凍結要請、災害情報の上位表示、注意喚起ラベルは進んでいます。ただし、投稿量が多すぎます。削除される前に切り取られ、別のアカウントで再拡散されています」


 警察庁担当者が続ける。


「脅迫、業務妨害、名誉毀損、差別扇動、なりすまし、外国勢力との連動が疑われる案件について、捜査に入っています。ただし、通常手続きでは速度が追いつきません」


 会議室が静かになった。

 高嶺は、ゆっくり言った。


「国内通信区間における治安維持を命じます」


 誰もすぐには返事をしなかった。

 その言葉が重すぎたからだった。


 国内通信区間。


 つまり、海外からの情報工作だけでなく、日本国内から発信され、日本国内で拡散され、日本国内の避難所や配布所や被災地を混乱させる通信そのものを、治安維持の対象にするということだった。


 高嶺は続けた。


「ただし、無制限監視ではありません。対象を明確にしてください。災害救助妨害、避難所・配布所への威力業務妨害、脅迫、個人情報晒し、外国工作との連動、なりすまし、差別扇動、暴力誘発。政治的意見や政府批判は対象外です」


 橘が、鋭く頷いた。


「法的整理を急ぎます」


 法務省担当者が言った。


「通信の秘密との関係を慎重に整理する必要があります。公開投稿、プラットフォームからの通報、被害届、令状に基づく開示、緊急避難的なログ保全要請を区別します」


 高嶺は頷いた。


「区別してください。ここで憲法を壊せば、中国の認知戦にこちらから負けることになります」


 羽鳥が静かに言った。


「名称は」


 高嶺は、一瞬考えた。


「国内通信治安維持命令。災害時限定。国会報告と第三者監視を付けます」


 橘が書き留める。


「対象ユーザーは」


 警察庁担当者が答えた。


「まず、警告に従わず、被災者への脅迫、避難所業務妨害、個人情報晒し、暴力扇動を続けるユーザーを特定します。公開情報、通報、プラットフォーム協力、令状手続きにより、順次身元確認へ進みます」


 高嶺は、短く言った。


「従わない者は、片っ端から特定してください。ただし、法に従って」


 その声は冷たかった。

 だが、怒りではなかった。


 救助を邪魔する者。

 避難所を混乱させる者。

 地域を割る者。

 差別を煽る者。

 偽情報で人を危険な場所へ動かす者。


 それらを放置すれば、次に死ぬのは画面の向こうの誰かではなく、避難所で咳をする子どもであり、配布所で列に並ぶ高齢者であり、灰の中で動く隊員だった。


 高嶺は言った。


「これは言論への攻撃ではありません。救命活動を守るための治安維持です。その線を絶対に崩さないでください」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時。


 警察庁サイバー特別対策本部。


 大型画面に、対象投稿群が並んでいた。そこには、単なる怒りや不満の投稿も混じっていたが、重点対象として抽出されたものは明確だった。


 避難所の住所と特定個人の名前を晒し、襲撃を示唆する投稿。

 鹿児島県民を名指しで攻撃し、勤務先へ嫌がらせを呼びかける投稿。

 東京の避難者を侮辱し、配布所へ押しかけるよう煽る投稿。

 中国系住民への集団的攻撃を呼びかける投稿。

 自衛隊が避難者を殴ったとする偽動画。

 存在しない政府命令を偽造した画像。

 火山灰を水で流せという誤情報を、自治体公式風に見せかけて拡散する投稿。

 危険区域へ戻ってもよいという偽情報。


 警察庁幹部が言った。


「災害救助妨害に直結するものから優先。公開投稿の証拠保全。プラットフォームへ緊急通報。脅迫と個人情報晒しは身元開示手続き。外国工作連動疑いは公安、外事、内閣サイバーと共有」


 若い捜査員が尋ねる。


「単なる暴言は」


「対象外だ。腹が立つ投稿と、犯罪や救助妨害は分けろ」


「線引きが難しいです」


「難しいから記録を残す。なぜ対象にしたか、どの法令に触れるか、どの被害と結びつくか」


 別の捜査員が報告する。


「避難所動画切り取りの中心アカウント、複数が同じ国内回線から投稿。契約名義は日本人ですが、ログイン履歴に海外接続と不自然な端末切替があります」


「特定を進めろ。だが、発表は慎重に。国籍で雑に語るな」


「はい」


 現場の空気は、災害対策本部というより、治安事件の捜査本部に近くなっていた。

 だが、対象は街頭ではない。

 画面の中の言葉だった。


 その言葉が、現実の避難所を壊し始めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時三十分。


 官邸会見室。


 高嶺紗枝は、緊急声明を出した。



  ――――

  内閣総理大臣声明

  国内通信治安維持命令

  救助妨害・脅迫・差別扇動を特定

  政府批判は対象外

  ――――



『現在、南海トラフ巨大地震、相模トラフ・首都直下地震、富士山噴火への対応が続く中、インターネット上で、被災者、地域、外国人住民、自衛隊、自治体職員、医療者に対する悪質な誹謗中傷、脅迫、個人情報の晒し、偽情報の拡散が急増しています』


 会見室は静まり返っていた。


『これらの一部は、避難所運営、物資配布、救助活動、除灰作業、医療搬送に実害を生じさせています。また、外国勢力による認知戦の疑いがある投稿群も確認されています』


 高嶺は、言葉を強めた。


『政府は、本日、国内通信区間における治安維持を命じました。対象は、災害救助を妨害する偽情報、脅迫、個人情報晒し、避難所や配布所への威力業務妨害、差別扇動、暴力誘発、外国工作との連動が疑われる行為です。警告に従わず、これらの行為を続ける者については、法に基づき、順次特定し、厳正に対処します』


 記者たちが一斉にメモを取る。


『一方で、政府への批判、政策への疑問、被災地からの不満、支援不足を訴える声は、この命令の対象ではありません。政府は批判を封じるためにこの措置を行うのではありません。命を守る現場を、悪意ある通信から守るために行います』


 質問が飛んだ。


「総理、通信の秘密や表現の自由を侵害する恐れはありませんか」


 高嶺は即答した。


『その恐れがあるからこそ、対象を限定し、法的手続きを明確にし、国会報告と第三者監視を付けます。公開投稿、被害通報、プラットフォームの規約違反対応、令状に基づく情報開示を区別します。無制限の監視は行いません』


「従わないユーザーを片っ端から特定するという理解でよいですか」


『脅迫、個人情報晒し、避難所業務妨害、災害偽情報、暴力扇動など、命と治安に関わる悪質行為について、警告に従わない者は法に基づき特定します。片っ端から、という表現が意味するのが無差別であるなら違います。悪質行為を続ける者を取り逃がさない、という意味なら、その通りです』


「政権批判を装った投稿も対象になりますか」


『政権批判そのものは対象外です。たとえば、政府対応が遅い、支援が足りない、自衛隊配分に疑問がある、という意見は当然あり得ます。一方で、避難所の個人を晒して襲撃を呼びかける、偽の避難指示を流す、特定地域や外国人住民への暴力を煽る、救助活動を妨害する投稿は対象です』


 高嶺は、最後に言った。


『災害時の自由は、命を奪うための自由ではありません。表現の自由は、救助を妨害し、人を脅し、差別を煽る免罪符ではありません。政府は、この線を守ります』


 その声明は、国内外に衝撃を与えた。


 支持する声。

 警戒する声。

 反発する声。

 恐れる声。

 そして、挑発する声。


 ネット空間は、さらに燃え上がった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時。


 東京の避難所。


 高嶺の声明が流れると、避難者たちは複雑な表情で画面を見た。

 鹿児島出身の女性は、掲示板の前で火山灰対策の説明を準備していた。昨夜から、彼女への中傷は少し増えていた。だが、感謝の言葉も増えていた。

 朝、彼女に謝った男性が、隣に立った。


「これで少しは止まりますかね」


 女性は首を横に振った。


「すぐには止まらないと思います」


「ですよね」


「でも、止めようとしている人がいるって分かるだけでも、少し違います」


 避難所の入口では、即応予備自衛官の班長が自治体職員と話していた。


「撮影ルールを入口に掲示します。個人が映る撮影は許可制、配布列や医療スペースの撮影禁止。取材は自治体窓口へ」


 自治体職員が頷く。


「警察にも共有します」


 その時、一人の男が入口で声を上げた。


「撮影禁止って、政府の命令か? やっぱり言論統制だろ!」


 班長は静かに答えた。


「避難者の安全と個人情報保護のためです」


「都合悪いから撮らせないんだろ」


「火山灰対策の掲示や配布情報は撮影できます。個人の顔、医療スペース、混乱を煽る撮影を制限しています」


「言い訳だ」


 男はスマートフォンを向けた。


 警察官が近づいた。


「配布所運営を妨害しないでください。警告です」


「警告? 俺を特定するのか?」


「業務妨害に当たる行為を続ければ、法に基づき対応します」


 男の顔が一瞬こわばった。

 それまでなら、挑発すれば周囲が乗った。

 だが、この朝は少し違った。

 周囲の避難者の一人が言った。


「撮るより、マスク配るの手伝ってくださいよ」


 別の人も続けた。


「ここで揉めると、子どもが怖がる」


 男は舌打ちし、外へ出た。

 完全に収まったわけではない。

 だが、避難所の中では、挑発に乗らない空気が少しずつ生まれ始めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十時。


 鹿児島市。


 火山灰経験共有を続けていた市民団体の代表は、警察から連絡を受けた。彼女への脅迫投稿の一部が、正式に捜査対象となったという。

 代表は、電話を切った後、しばらく黙っていた。


 若い職員が尋ねる。


「大丈夫ですか」


「大丈夫ではないね」


 代表は正直に言った。


「でも、少し安心した」


 彼女のアカウントには、まだ罵倒が届いている。



   《東京の犬》


   《鹿児島を裏切るな》


   《お前の住所を知っている》


   《支援をやめろ》



 最後の二つは、もはや意見ではない。

 脅迫だった。

 若い職員は、悔しそうに言った。


「何で、助けようとしてる人がこんな目に遭うんですか」


 代表は、窓の外の桜島の方を見た。


「止めようとする人を黙らせるのが、分断のやり方だから」


「怖くないんですか」


「怖いよ」


 代表は、机の上の資料を整理した。


「でも、灰の片づけ方を知らない人がいる。子どもの目をこするなって、知らない人がいる。水で流したら詰まるって、知らない人がいる。怖いから黙ったら、その人たちに届かない」


 若い職員は、黙って頷いた。


 代表は、次の投稿を打った。



   《脅迫を受けていますが、火山灰対策の発信は続けます。鹿児島の経験は、誰かを責めるためではなく、困っている人を守るために使います。灰は水で流さないでください。目をこすらないでください。無理な外出を避けてください。》



 送信。


 すぐに、感謝の返信がついた。

 罵倒もついた。


 だが、代表は画面を閉じなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十一時三十分。


 警察庁サイバー特別対策本部。


 特定作業は進んでいた。


 公開投稿の証拠保全。

 プラットフォームへの緊急照会。

 被害届との照合。

 避難所業務妨害動画の投稿者確認。

 個人情報晒しに関与したアカウント群の分析。

 海外接続と国内発信の組み合わせ。

 日本人名を使った不審アカウント。

 実在の被災者になりすました偽アカウント。

 中国語圏の指示文を翻訳したような内部メッセージの痕跡。


 だが、作業は単純ではなかった。


 捜査員の一人が言った。


「このアカウント、最初は工作系に見えましたが、実在の日本人です。投稿内容は酷いですが、組織連動はありません」


 上司が答える。


「脅迫はあるか」


「ありません。誹謗中傷に近いですが、業務妨害までは微妙です」


「なら、プラットフォームの規約対応。刑事事件にするな」


「はい」


 別の捜査員が報告する。


「こちらは避難所の住所と個人名を晒し、襲撃を示唆。警告後も継続。プラットフォームからログ保全済み。令状請求準備」


「優先」


 さらに別の報告。


「外国人住民への集団攻撃を呼びかけたアカウント。国内回線。過去に複数の災害デマを拡散。協力者の可能性」


「公安と共有。だが、発表では国籍に触れるな。行為で示せ」


「了解」


 片っ端から特定する。

 その言葉は乱暴に聞こえる。

 だが、現場では一件ずつ線を引いていた。


 怒りと犯罪。

 批判と脅迫。

 不満と業務妨害。

 誤情報と意図的偽情報。


 その線引きを誤れば、治安維持は言論弾圧になる。

 誤らなければ、命を守る盾になる。


 捜査員たちは、その細い線の上を歩いていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 正午。


 官邸には、各党から反応が届いていた。


 中道連盟は、災害時の偽情報対策には理解を示しつつ、国会への即時報告と第三者監視を求めた。

 民権民主党は、救助妨害への対応を支持しながらも、政府批判を対象外とする明文化を求めた。

 令明新生組、日本民衆共産党、社会民主会の一部議員は、強く反発した。



   《高嶺政権は災害を利用してネット言論統制を始めた》


   《政府批判を救助妨害扱いする危険な命令》


   《国内通信治安維持という名称自体が危険》


   《国民を片っ端から特定するなど許されない》



 一方で、被災自治体の一部からは、早急な対応を求める声が上がった。



   《避難所でのデマと脅迫が職員を追い詰めている》


   《配布所業務を妨害する撮影と煽動を止めてほしい》


   《批判は受けるが、偽情報で人が動くと命に関わる》



 高嶺は、それらを読んだ。


 反発は当然だった。

 自分でも、この命令が危うい線に立つことは分かっている。

 だからこそ、手続きと監視を付けた。

 それでも、批判は必要だった。

 権力は、災害時にこそ肥大化しやすい。


 高嶺は、橘へ言った。


「国会への報告資料を今日中に出してください。第三者監視委員会の人選も」


「はい」


「反対意見も議事録に残します。危険な措置であることを、政府自身が忘れないために」


 橘は、少し驚いた顔をした。


「承知しました」


 高嶺は、画面の赤い拡散図を見た。

 自由を守るために、自由を壊す者を止める。

 その言葉は簡単だ。

 実行は、地雷原だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時三十分。


 横浜港。


 神崎二佐の部隊は、港湾部の捜索と除灰支援を続けていた。通信治安維持命令のニュースは、現場にも届いていた。


 若い隊員が言った。


「二佐、ネットの誹謗中傷、特定するらしいですね」


 神崎は、灰の積もった地図から目を離さなかった。


「そうらしいな」


「自分たちのことも、色々書かれてます」


「見るな」


「見てしまいます」


 神崎は、少しだけ顔を上げた。


「なら、読む時間を決めろ。無制限に見るな」


「気になります」


「気になるのは分かる。だが、瓦礫は画面の外にある」


 若い隊員は黙った。


 神崎は続けた。


「批判はある。感謝もある。罵倒もある。全部を背負うな。俺たちが背負うのは、目の前の担架だ」


「はい」


 即応予備陸曹の大迫が、横で聞いていた。


「二佐、いいこと言いますね」


「お前も見てるのか」


「見てしまいます」


「見るな」


「了解です」


 短いやり取りの後、彼らはまた作業に戻った。

 灰を払い、通路を作り、担架を通す。

 ネット空間が燃えていても、現場の救助は物理だった。

 手を動かさなければ、人は助からない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後三時。


 最初の一斉特定結果が、警察庁から官邸へ報告された。


 警告後も脅迫を続けたアカウント。

 避難所住所と個人名を晒したアカウント。

 偽の避難指示画像を拡散した中核アカウント。

 配布所で口論を誘発し、切り取り動画を複数投稿していた人物。

 外国人住民への襲撃を呼びかけたアカウント。

 火山灰を水で流せという偽情報を自治体公式風に加工した発信者。


 その一部は、実在の日本人だった。

 一部は、日本国内に滞在する外国籍者だった。

 一部は、名義貸しや乗っ取りが疑われた。

 一部は、海外からの操作と国内端末を組み合わせていた。


 警察庁担当者が報告する。


「重大な脅迫と業務妨害については、順次任意聴取、家宅捜索、逮捕も視野に進めます。単純な誹謗中傷については、プラットフォーム対応と警告を優先します」


 高嶺は尋ねた。


「誤特定のリスクは」


「あります。したがって、公開発表では個別名を出しません。捜査手続きも慎重に行います」


「それで」


 高嶺は頷いた。


「見せしめにしないでください。目的は恐怖ではなく、被害停止です」


 警察庁担当者は、背筋を伸ばした。


「承知しました」


 その一方で、対策本部の中には、もっと強い措置を求める声もあった。


 遮断。

 一括凍結。

 投稿制限。

 本人確認義務。


 非常時だからこそ、強権的な案はいくらでも出てくる。


 高嶺は、それらをすべて聞いた上で言った。


「一線を越えないでください。災害の敵は、国民ではありません」


 この言葉は、議事録に残された。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後四時三十分。


 東京都内の配布所で、午前中に挑発していた撮影者の一人が、警察から事情聴取を受けたという情報が流れた。

 それだけで、配布所周辺の空気は少し変わった。

 露骨に挑発する者が減った。

 しかし、完全には消えない。


 今度は、別の形になる。



   《政府に目をつけられるから黙ろう》


   《配布所で文句を言うと特定される》


   《被災者の声を封じる高嶺政権》



 不満そのものは、消えない。

 むしろ、治安維持命令への不信として再構成された。

 避難所の鹿児島出身の女性は、その投稿を見てため息をついた。


 東京の男性が言った。


「また燃えてますね」


「はい」


「でも、朝よりは少しマシです」


「そうですね」


 掲示板の前では、火山灰対策の説明を聞く人が増えていた。鹿児島県の資料、東京都の資料、気象庁の資料、政府の注意喚起。紙に印刷された情報は、スマートフォンの画面より遅い。だが、遅い分だけ、目の前の人が説明できる。


 女性は言った。


「ネットは速すぎますね」


 男性は頷いた。


「ここは、少し遅くて助かります」


 避難所の中では、遅い情報が人を救うこともあった。

 顔の見える人から、紙で、声で伝えられる情報。

 それは、認知戦への小さな抵抗だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後六時。


 官邸では、国内通信治安維持命令の運用状況が再報告された。


 橘が説明する。


「命令発出後、悪質な脅迫投稿と個人情報晒しは一部で減少。一方、政府による言論統制という批判投稿が急増しています。政府批判自体は対象外として、明確に線引きする発信を続ける必要があります」


 高嶺は頷いた。


「午後七時に再度説明します。対象外の具体例も出してください」


 羽鳥が言った。


「たとえば、政府対応が遅い、支援配分がおかしい、自衛隊の派遣が足りない、避難所環境が悪い、こうした批判は対象外」


「対象は」


「脅迫、個人情報晒し、偽避難指示、救助妨害、配布所業務妨害、暴力扇動、差別扇動、なりすまし、外国工作連動」


「分かりやすく」


 片倉皐月が言った。


『言葉が硬いと、結局また誤解されます。国民向けには、こうです。怒っていい。困っていると言っていい。政府を批判していい。でも、人を脅すな、晒すな、嘘で動かすな、避難所を壊すな』


 高嶺は、わずかに笑った。


「それを使いましょう」


 片倉は肩をすくめた。


『財務省らしくない言葉ですが』


「今は、その方が伝わります」


 会議室に、少しだけ空気が戻った。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後七時。


 高嶺紗枝は、再び会見室に立った。



  ――――

  政府説明

  通信治安維持命令の対象

  政府批判は対象外

  脅迫・晒し・偽情報・救助妨害を止める

  ――――



『本日発出した国内通信治安維持命令について、不安や批判が出ていることを承知しています。改めて申し上げます。政府対応が遅い、支援が足りない、避難所環境が悪い、自衛隊の配分がおかしい、財政措置に疑問がある。こうした批判は、この命令の対象ではありません』


 高嶺は、少しだけ言葉を柔らかくした。


『怒っていい。困っていると言っていい。政府を批判していい。しかし、人を脅さないでください。個人情報を晒さないでください。偽の避難指示を流さないでください。避難所や配布所を混乱させないでください。地域や国籍で人を攻撃しないでください』


 記者席の一部が顔を上げた。


『この命令は、国民の声を消すためではありません。命を守る現場を壊す悪質行為を止めるためです。運用には、法的手続き、記録、国会報告、第三者監視を付けます。政府自身も、この措置が危険な力を持ち得ることを理解しています。だからこそ、限定して使います』


 質問が飛んだ。


「総理、すでに特定されたユーザーがいるとのことですが」


『脅迫、個人情報晒し、偽情報による避難誘導、配布所業務妨害など、悪質事案について、警察が法に基づいて対応しています。個別案件については答えません』


「中国による認知戦との関係は」


『一部に外国勢力による認知戦の疑いがあります。しかし、すべての問題を外国のせいにするつもりはありません。国内の怒りと不安も、現実にあります。だからこそ、工作を暴くことと、国内の苦しみに向き合うことを同時に行います』


 この言葉は、前回よりも多くの人に届いた。

 完璧ではない。

 反発は続く。

 だが、命令の輪郭は少し明確になった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時。


 八月二十七日の夜が始まった。


 物理的な灰は、少しずつ薄くなっていた。

 だが、言葉の灰はまだ空中に舞っていた。


 鹿児島では、火山灰対策を発信する市民団体が、脅迫を受けながらも投稿を続けていた。

 東京の避難所では、鹿児島出身の女性が、火山灰の片づけ方を説明していた。

 横浜港では、神崎二佐が隊員に「画面ではなく瓦礫を見ろ」と言い、救助と除灰を続けていた。

 高知では、森下三曹がようやく家族に二度目の連絡を送った。



   >今日も水を飲んだ。少し食べた。任務継続。



 宮崎では、若い三曹が入浴支援の後、自分も風呂に入り、久しぶりに自分の肌の色を見た。

 富士山麓では、柳沢が避難所の掲示板に「けんかしない。うそをすぐ信じない。困ったら大人へ」と、子どもにも読める紙を貼った。

 駐屯地では、坂井予備陸曹長が正門で言った。


「確認を飛ばすな。人を雑に扱うな。怒鳴られても、こっちは線を守る」


 南西の海では、巡視船がなお警戒を続けていた。

 そして警察庁サイバー特別対策本部では、悪質な投稿者の特定が続いていた。


 一件ずつ。

 法に基づいて。

 記録を残しながら。

 救助を守るために。


 官邸では、高嶺紗枝が危機管理センターの画面を見ていた。


 南海。

 相模。

 富士山。

 南西諸島。

 そして、通信空間。


 五つ目の災害地図は、まだ赤かった。


 羽鳥真紀が言った。


「総理、午後八時です」


 高嶺は頷いた。


「今日の命令は、始まりにすぎませんね」


「はい」


「強すぎれば自由を壊す。弱すぎれば救助が壊れる」


「難しい運用になります」


 高嶺は、唇の傷に触れそうになり、手を止めた。

 傷は、もう塞がりかけている。

 だが、痛みは記憶として残っている。


「なら、難しいまま扱いましょう。簡単だと思った瞬間に、権力は間違えます」


 羽鳥は、静かに頷いた。


「はい」


 午後八時。


 ネット空間の収拾は、まだついていなかった。

 だが、政府は初めて、そこを災害現場として扱い始めた。


 道路の灰を払うように。

 避難所の導線を守るように。

 港の瓦礫をどけるように。

 海の制止線を守るように。


 言葉の中にも、線を引き始めた。


 その線が、自由を守る線になるのか。

 それとも、別の危険な線になるのか。


 答えは、まだ出ていなかった。


 だが、少なくともこの夜、避難所でマスクを配る手を止めさせないために、配布所で高齢者を脅させないために、鹿児島と東京を殴り合わせないために、中国系住民を攻撃させないために、そして被災者の怒りを本物の声として残すために、誰かがその線の上に立たなければならなかった。


 高嶺は、静かに言った。


「次の報告を」


 羽鳥が答えた。


「はい」


 八月二十七日、午後八時。


 日本は、灰と瓦礫と通信の中で、まだ立っていた。

 折れたまま。

 それでも、線を守ろうとしていた。


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