第十六話 摘発の夜
八月二十七日、午後九時。
東京の夜は、まだ灰色を残していた。
富士山の大規模噴出は低下し、空から落ちてくる灰の量も明らかに減っていた。だが、首都圏の道路、屋根、植え込み、駅前広場、避難所の入口、病院の吸気口には、火山灰が残っている。人々は、灰を掃き、袋に詰め、吸い込まないようにマスクを直し、足元を滑らせないように歩いていた。
目に見える灰は、少しずつ片づき始めていた。
だが、目に見えない灰は、まだ舞っていた。
スマートフォンの画面の中で、怒号が飛び交っていた。
《鹿児島は東京を笑っている》
《東京は地方を下に見てきた》
《政府は都合の悪い投稿を認知戦扱い》
《中国人を守って日本人を黙らせる政権》
《自衛隊が避難所で撮影を妨害》
《鹿児島の経験共有は政府の演出》
《配布所に行って真実を撮れ》
《あの避難所にいる女を特定した》
最後の一文が、警察庁サイバー特別対策本部の画面で赤く囲まれた。
脅迫。
個人情報晒し。
避難所業務妨害。
差別扇動。
偽避難指示。
火山灰に関する危険な偽情報。
そして、外国勢力による認知戦との連動が疑われる投稿。
国内通信治安維持命令が発出されてから、すでに半日近くが経っていた。政府批判は対象外。救助妨害、脅迫、晒し、暴力扇動、外国工作連動を対象にする。総理はそう明言した。
それでも、ネット空間には反発が渦巻いていた。
《片っ端から特定するって、独裁じゃないか》
《災害を利用したネット弾圧》
《法の私物化が始まった》
《高嶺政権は国民を敵にした》
一方で、避難所や配布所の現場からは、別の声も上がっていた。
《撮影目的で怒鳴り込む人が減った》
《個人情報を晒された人を守ってほしい》
《偽の給水情報で高齢者が移動しかけた。危なかった》
《批判はいい。でも脅迫はやめて》
国は、二つの危険の間に立っていた。
放置すれば、救助と避難生活が壊れる。
踏み込みすぎれば、自由が壊れる。
その細い線の上で、夜が始まった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後九時二十分。
官邸危機管理センター。
高嶺紗枝首相は、通信治安維持命令の運用状況を確認していた。唇の傷はようやく塞がりかけていたが、疲労はさらに深くなっている。目の下には濃い影があり、声にはわずかな掠れがあった。
だが、判断は鈍っていなかった。
橘義隆官房長官が報告する。
「警察庁から第一次立件対象の整理が上がっています。避難所の個人情報を晒し、襲撃を示唆した投稿者。偽の避難指示画像を作成・拡散した者。配布所で口論を誘発し、切り取り動画で業務妨害を繰り返した者。外国人住民への集団的攻撃を呼びかけた者。火山灰を水で流せという危険情報を自治体公式風に偽装した者。これらを優先して立件します」
高嶺は、短く確認した。
「政府批判は入っていませんね」
警察庁担当者が答える。
「入っていません。政府批判、支援不足への不満、避難所環境への抗議、政策批判は対象外として除外しています」
「記録は」
「全件、対象理由、法的根拠、被害との関連、警告履歴を記録しています」
「第三者監視委員会へ」
「提出可能な形に整理中です」
高嶺は頷いた。
「よろしい」
その時、内閣サイバー・情報分析室長が、別画面を指した。
「総理、芋づる式に関係者が出ています。避難所動画の切り取り投稿を行っていた複数アカウントが、別の偽避難情報拡散アカウントと同じ管理端末を使っていた可能性があります。また、鹿児島・東京対立を煽っていた中核アカウント群の一部が、中国語圏の指示文と見られる文面を一時的に誤投稿しています」
会議室の空気が変わった。
橘が問う。
「国内にいる工作関係者ですか」
分析室長は慎重に答えた。
「断定には捜査が必要です。ただし、一部は日本国内回線から発信されています。国内にいる中国籍者、帰化者、日本人協力者、または名義貸し・端末貸しを使った可能性があります。一般の中国系住民とは明確に分けて扱う必要があります」
高嶺は、すぐに言った。
「そこを絶対に誤らないでください。工作に関わった個人を追う。属性を追うのではありません」
「はい」
小森進一防衛大臣が、防衛省から回線で入る。
『現場自衛官への誹謗中傷も減ってはいません。ただし、配布所や避難所での直接的な挑発は一部減少しています。隊員には、ネット上の罵倒を見続けないよう指示しています』
高嶺は少しだけ目を伏せた。
「隊員に言ってください。国は現場を守るために動いている、と」
『伝えます』
片倉皐月財務大臣が、静かに言った。
『総理、逮捕者が増えれば、野党は必ず法の私物化と言います』
高嶺は頷いた。
「言うでしょう」
『どうしますか』
「説明します。批判されても、手続きを崩さない。権力は、怒った時に最も危険です」
片倉は、少しだけ目を細めた。
『それを総理が覚えているなら、まだ大丈夫です』
高嶺は、小さく息を吐いた。
「忘れたら、止めてください」
『止めます』
そのやり取りは短かったが、会議室にいた者たちの背筋を伸ばした。
権力を使う夜だった。
だからこそ、誰かが権力を疑い続けなければならなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後十時。
警察庁サイバー特別対策本部。
第一次摘発が始まった。
公開投稿を証拠保全し、プラットフォームから保全されたログを確認し、令状に基づいて発信者情報を照会する。被害届のある脅迫投稿は、地域の警察と連携して捜査へ移す。避難所業務妨害については、自治体職員、警察官、現場にいた自衛官、避難者からの証言を集める。
壁面の大きな画面には、案件ごとの優先度が表示されていた。
赤。
橙。
黄。
赤は、人命・救助・避難所運営へ直接影響したもの。
最初に逮捕状請求へ進んだのは、東京都内の配布所で撮影を繰り返し、鹿児島出身の女性の顔と避難所名を晒し、さらに「現地で直接問い詰めろ」と煽った男だった。
男は、日本国籍だった。
だが、そのアカウントは、複数の不審アカウントから素材提供を受けていた。本人は、最初は自分の怒りで投稿していた。やがて、拡散され、称賛され、さらに過激な投稿を求められ、戻れなくなっていった。
捜査員が呟いた。
「工作に使われた一般人、という見方もできますね」
上司は答えた。
「使われたとしても、脅迫と晒しをしたのは本人だ。そこは切り分ける」
「はい」
次に立件対象となったのは、偽の自治体画像を作り、「火山灰は水で流せ」と発信したグループだった。火山灰を水で流せば排水溝が詰まり、避難所や道路の排水機能を悪化させる危険がある。実際、一部地域でその投稿を信じた住民が灰を大量の水で流し、側溝詰まりが発生していた。
さらに、外国人住民への集団攻撃を呼びかけたアカウント群も対象となった。
その中には、日本人もいた。
外国籍者もいた。
日本国内に滞在する中国籍者もいた。
別の国籍の者もいた。
国籍は一様ではなかった。
だが、行為は同じだった。
災害の中で、誰かを攻撃させようとしていた。
捜査本部長は、部下へ言った。
「発表では、国籍を前面に出すな。行為を出せ。脅迫、晒し、業務妨害、偽情報。そこを軸にする」
若い捜査員が頷いた。
「外国籍者の処分は」
「刑事手続きが先だ。入管の退去強制手続きは、法務省と連携。即時に見えるかもしれないが、手続きは省略するな」
「はい」
治安維持は、速度を求められていた。
だが、速度だけを求めれば、法は壊れる。
その緊張が、捜査本部の空気を重くしていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後十一時十分。
東京都内。
最初の逮捕者が出た。
容疑は、避難所業務妨害、脅迫、名誉毀損、個人情報の違法拡散に関わるものだった。男は、配布所で鹿児島出身の女性を撮影し、切り取り動画を投稿し、住所に近い情報を晒した疑いが持たれていた。
報道はすぐに流れた。
――――
ニュース速報
災害時の悪質投稿で逮捕者
避難所業務妨害などの疑い
警察庁が通信治安維持命令後初摘発
――――
SNSは、すぐに反応した。
《ついに逮捕された》
《脅迫と晒しなら当然》
《政府批判しただけで逮捕される時代》
《いや、個人情報晒して襲撃煽ったやつだろ》
《高嶺政権の言論弾圧が始まった》
《避難所を守るためなら必要》
《次は誰が捕まる?》
《怖くて何も言えない》
《政府批判は対象外って何度言えば》
鹿児島出身の女性がいる東京の避難所にも、そのニュースは届いた。
彼女は、スマートフォンを見たまま黙っていた。
東京の男性が言った。
「これ、あなたの件ですよね」
女性は、小さく頷いた。
「多分」
「よかった、って言っていいのか分からないです」
「私もです」
女性は、画面を閉じた。
「怖いのは、逮捕されたことより、あの動画を見て本気で怒った人がたくさんいたことです」
男性は黙った。
「逮捕で止まる人もいると思います。でも、怒りそのものは残る」
「じゃあ、どうしたら」
女性は、掲示板の火山灰対策紙を見た。
「明日も説明します。灰の片づけ方を」
男性は、少し驚いたように彼女を見た。
「続けるんですか」
「はい。やめたら、あの動画の人たちの思う通りになるので」
その言葉は、静かだった。
しかし、強かった。
☆☆☆ ☆☆☆
八月二十八日、午前零時。
逮捕者は、さらに増えた。
東京都内、神奈川県内、鹿児島県内、千葉県内、静岡県内。すべてが同じ種類の事件ではない。ある者は、避難所の個人情報を晒した。ある者は、偽の避難指示を作った。ある者は、外国人住民への襲撃を呼びかけた。ある者は、配布所で意図的に口論を起こし、撮影して拡散した。ある者は、火山灰に関する危険な偽情報を流した。
逮捕ではなく、任意聴取や警告にとどまる者も多かった。
だが、数は増えていた。
芋づる式だった。
一つのアカウントを調べると、素材提供者が出る。
素材提供者を調べると、複数の拡散役が出る。
拡散役を調べると、管理用の連絡グループが出る。
その中に、日本語と中国語が混じる。
国内回線と海外接続が混じる。
怒りで動いた一般人と、意図的に煽った工作関係者が混じる。
混じることこそが、認知戦の厄介さだった。
誰が敵かを単純化した瞬間、社会は別の罠にはまる。
官邸危機管理センターでは、深夜の報告が続いていた。
警察庁担当者が言った。
「逮捕者は増えています。ただし、発表は行為別に整理します。国籍別発表はしません。外国籍者については、刑事手続き後、入管法に基づく退去強制手続きへ進む事案があります」
高嶺が確認する。
「退去強制も、個別行為に基づくものですね」
「はい。治安維持命令に従わなかったことのみで一律処分するのではなく、脅迫、業務妨害、暴力扇動、外国工作関与、在留資格違反等を個別に確認します」
「よろしい」
法務省担当者が続ける。
「ただし、世論上は『外国人を国外追放』という見出しが先行する恐れがあります。差別扇動につながらない発表が必要です」
高嶺は頷いた。
「発表文に入れてください。一般の外国人住民、在留中国人を対象とするものではない。災害時の治安妨害に関与した個人への法的措置である、と」
橘が言った。
「野党は、必ず批判します」
「批判してください、と言いたいくらいです」
高嶺は疲れた声で言った。
「この措置は、批判されながら運用する方が安全です」
羽鳥真紀は、わずかに頷いた。
危険な権限は、称賛だけの中で使ってはいけない。
反対の声があることが、権力を現実につなぎ止める。
☆☆☆ ☆☆☆
午前一時三十分。
国会議員会館。
野党各党は、深夜にもかかわらず会合を開いていた。
中道改革連合の災害対策責任者は、資料を机に叩くように置いた。
「脅迫や偽情報への対応は必要です。しかし、国内通信治安維持命令という名称は強すぎる。政府が通信空間を治安対象と位置付けたこと自体が危険です」
民権民主党の議員が頷いた。
「政府批判は対象外と言っているが、運用次第でどうにでもなる。国会の監視を強化すべきだ」
公明平和党の議員は、より慎重だった。
「避難所業務妨害や個人情報晒しは許されません。ただし、外国籍者の国外退去処分については、人権上の手続きを確認しなければならない。災害時だからといって、手続きを省いてはならない」
社会民主会の議員は、声を荒げた。
「すでに法の私物化が始まっている。政府に批判的な声を、救助妨害という名で封じる道が開かれた」
令明新生組の議員も続いた。
「高嶺政権は、災害を利用して国民監視を始めた。従わないユーザーを片っ端から特定するなど、民主国家のやることではない」
会議室の空気は熱を帯びた。
だが、中道改革連合の責任者は、声を抑えて言った。
「ただし、我々は脅迫者やデマ拡散者を擁護していると思われてはいけない。避難所を守る必要はある。論点は、政府の権限をどう縛るかだ」
民権民主党の議員が言った。
「明朝、共同で政府へ申し入れを行う。命令の法的根拠、対象範囲、第三者監視、国会報告、外国籍者の退去手続き、誤特定時の救済。これを求める」
社会民主会の議員は不満げだった。
「もっと強く、撤回を求めるべきだ」
令明新生組の議員も頷いた。
「撤回要求だ。災害時の言論統制を許すな」
公明平和党の議員は静かに言った。
「撤回だけでは、避難所で脅されている人を守れません」
その一言に、会議室が一瞬静まった。
野党側も、一枚岩ではなかった。
政府を批判する。
だが、脅迫や偽情報で傷ついている被災者を見捨てるわけにもいかない。
政治は、ここでも難しい線の上にいた。
☆☆☆ ☆☆☆
午前三時。
法務省・入管庁合同対策室。
外国籍者への対応が始まっていた。
対象は、通信治安維持命令に従わなかった外国人すべてではない。脅迫、業務妨害、偽情報拡散、暴力扇動、外国工作との連動、在留資格違反など、個別の事実が確認された者だった。
それでも、退去強制という言葉は重い。
担当官が資料を見ながら言った。
「この人物は、留学資格で在留中。実態として就学なし。複数の偽情報拡散グループに参加。避難所襲撃を示唆する投稿あり」
別の担当官が答える。
「刑事手続きとの関係を確認。退去強制手続きは、本人聴取、証拠確認、異議申出の権利を明示」
「こちらは技能系在留資格。勤務先は実在。ただし、アカウント乗っ取りの可能性がある」
「慎重に。本人関与が曖昧なら退去手続きへ進めない」
「こちらは短期滞在。中国語の指示グループ管理者の一人と見られる。国内で複数端末を運用」
「公安と共有。外交ルートも確認」
現場には、焦りがあった。
政府は強く出ている。
世論も揺れている。
しかし、法務の現場が手続きを崩せば、政府批判は現実になる。
担当課長は言った。
「国外追放という言葉が一人歩きする。だが、我々が行うのは退去強制手続きだ。個別審査を省くな。国籍で扱うな。行為で扱え」
「はい」
その指示は、何度も繰り返された。
災害時の怒りが、雑な排除へ変わらないように。
☆☆☆ ☆☆☆
午前四時三十分。
鹿児島市。
市民団体代表への脅迫投稿を行った人物の一人が、任意同行されたという情報が入った。代表は、眠れないまま事務所にいた。
若い職員が言った。
「少しは減りますかね」
代表は首を振った。
「減るものもある。増えるものもある」
「増える?」
「政府の弾圧だって言う人が出る」
実際、SNSにはすでにその種の投稿が出始めていた。
《鹿児島の本音を言っただけで警察》
《東京支援に反対すると逮捕》
《政府に都合の悪い地方の怒りを封じるな》
代表は、画面を見ながら静かに言った。
「本音なら、名前を出して議論すればいい。脅迫は本音じゃない。暴力の予約だよ」
若い職員は黙った。
代表は、新しい投稿を作った。
《政府を批判してもいい。東京に不満を言ってもいい。鹿児島の苦労を語ってもいい。でも、誰かを脅したり、住所を晒したり、避難所を混乱させたりしてはいけません。火山灰の知識は、怒りではなく命のために使いましょう。》
投稿した直後、感謝の反応がついた。
罵倒もついた。
代表は、その両方を見た。
この国は今、灰だけでなく、言葉の掃除もしている。
そう思った。
☆☆☆ ☆☆☆
午前六時。
八月二十八日の朝が来た。
東京の空は、昨日より少し明るかった。火山灰の降り方は地域によって薄くなり、道路の除灰も進みつつある。だが、地面の灰は残り、車が通ると白く舞い上がる。マスクを外せる朝ではなかった。
避難所では、テレビがつけられた。
――――
ニュース速報
悪質投稿摘発相次ぐ
脅迫・偽情報・業務妨害で立件へ
外国籍者の一部は退去強制手続き
野党は「法の私物化」と批判
――――
東京の避難所で、鹿児島出身の女性はその速報を見ていた。
隣の男性が言った。
「また揉めそうですね」
「はい」
「でも、脅迫した人は捕まってほしいです」
「それは私も思います」
女性は、少し考えてから続けた。
「でも、怖いですね。政府が強い力を使うのも」
男性は頷いた。
「分かります」
「だから、ちゃんと見ていないと」
「自分たちも?」
「はい。批判も必要だと思います。脅迫は駄目。でも、政府を見張ることも大事です」
男性は、少し驚いた顔をした。
「あなた、被害に遭ったのに」
「被害に遭ったからです」
女性は、掲示板の紙を直した。
「誰かを守る力は、間違えると誰かを傷つけるので」
その言葉は、官邸の会議で出てもおかしくないほど重かった。
だが、それは避難所の掲示板の前で、灰を払う手から出た言葉だった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前七時三十分。
官邸朝会見。
高嶺紗枝は、逮捕者増加と野党批判について説明するため、会見室に立った。
――――
政府朝会見
悪質投稿の立件状況
退去強制は個別審査
政府批判は対象外
国会監視を受ける
――――
『国内通信治安維持命令に基づき、警察は、災害救助妨害、脅迫、個人情報晒し、偽避難情報、避難所・配布所への威力業務妨害、差別扇動、暴力誘発に関わる悪質事案について、法に基づき捜査を進めています。昨夜以降、複数の立件、逮捕、任意聴取が行われています』
高嶺は、原稿から目を上げた。
『外国籍者が関与した一部事案については、刑事手続きと並行し、入管法に基づく退去強制手続きの対象となる可能性があります。ただし、これは国籍や出自を理由としたものではありません。個別の違法行為、在留資格違反、治安妨害行為に基づくものです。一般の外国人住民、中国系住民を対象とするものではありません』
記者が問う。
「野党は、政府による法の私物化だと批判しています」
高嶺は、短く頷いた。
『その批判は重く受け止めます。この命令は強い措置であり、乱用されてはなりません。政府は、本日中に国会へ運用状況を報告し、第三者監視委員会を設置します。対象外となる政府批判の範囲も明示します』
「命令の撤回は考えていますか」
『現時点では撤回しません。避難所、配布所、医療搬送、除灰作業に実害が出ており、脅迫や偽情報で命が危険にさらされています。ただし、必要最小限、期間限定、対象限定を徹底します』
「逮捕者が芋づる式に増えています。政府はどこまで広げるのですか」
『犯罪や救助妨害に関わる行為が確認されれば、法に基づき対処します。一方で、怒りや不満、批判を広く摘発することはありません。政府が追うのは、声ではなく、脅迫、晒し、偽情報、妨害、暴力扇動という行為です』
別の記者が尋ねた。
「外国人の国外退去が、排外主義を助長する懸念は」
『あります。だからこそ、政府は繰り返し申し上げます。外国人一般、中国系住民一般を攻撃してはなりません。退去強制は個別審査に基づく法的手続きであり、国籍による集団的処分ではありません。差別や暴力を煽る投稿も、今回の治安維持の対象です』
高嶺は最後に言った。
『災害で傷ついた社会を、さらに疑心暗鬼で壊してはなりません。悪質行為には対処します。政府の権限には監視を受けます。その両方を行います』
会見は長く続いた。
記者たちの質問は厳しかった。
しかし、高嶺も逃げなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前九時。
野党合同記者会見。
中道改革連合、民権民主党、公明平和党、社会民主会、令明新生組の議員たちが並んだ。ただし、主張は完全には一致していなかった。
中道改革連合の代表代行が言った。
『災害時の脅迫、偽情報、避難所業務妨害は許されません。しかし、国内通信治安維持命令は、政府に極めて強い権限を与えるものです。国会による監視、第三者機関、対象範囲の明文化、期間限定を求めます』
民権民主党の議員が続いた。
『被災者の不満や政府批判が、救助妨害の名で萎縮してはなりません。政府は対象外の具体例を法的文書で明示すべきです』
公明平和党の議員は、慎重な声で言った。
『外国籍者への退去強制手続きについては、個別審査と人権保障が不可欠です。災害時であっても、法の手続きを省略してはなりません』
そこへ、社会民主会の議員が強い口調で割り込む。
『これは明らかに法の私物化です。高嶺政権は、災害を利用して国民監視を始めました。通信空間を治安維持の対象にするなど、民主主義への重大な挑戦です』
令明新生組の議員も声を張った。
『従わないユーザーを片っ端から特定する。これは国民への恫喝です。外国人の国外追放も、排外主義に道を開く危険な措置です。命を守るという名目で、政府が国民を黙らせようとしている』
記者から質問が飛ぶ。
「では、避難所の個人情報晒しや脅迫、偽避難指示にはどう対応すべきですか」
社会民主会の議員は、一瞬言葉に詰まった。
「それは、既存法で対応すべきです」
「既存法で対応していると政府は説明していますが」
「しかし、国内通信治安維持命令という包括的な名称が問題です」
中道改革連合の代表代行が補足した。
『我々は悪質行為の取り締まり自体に反対しているのではありません。問題は、災害時に政府権限が膨張することです』
その会見もまた、切り取られた。
《野党、脅迫者を擁護》
《野党、政府のネット弾圧を批判》
《公明平和党、人権手続きを要求》
《令明新生組、外国人国外追放に反対》
《中道改革連合、監視付きなら容認か》
ネット空間は、政治家の発言さえ、瞬時に刃物へ加工した。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十時三十分。
国会周辺。
災害対応中で通常の国会運営は制限されていたが、政府は野党の求めに応じ、国内通信治安維持命令の説明資料を各党へ配布した。
資料には、対象行為が列挙されていた。
脅迫。
個人情報晒し。
偽避難指示。
救助・避難所業務妨害。
暴力扇動。
差別扇動。
外国工作連動。
なりすましによる災害情報偽装。
対象外も明記された。
政府批判。
支援不足の訴え。
避難所環境への不満。
自衛隊配分への疑問。
財政措置への批判。
自治体対応への批判。
報道機関による取材。
ただし、取材を装った業務妨害や個人情報晒しは対象となる。
中道改革連合の議員は、資料を見ながら言った。
「ここまで書いたなら、法律上の根拠をさらに明確にする必要があります」
民権民主党の議員が頷く。
「命令ではなく、既存法運用の統合指針として整理し直せないか」
公明平和党の議員は、退去強制手続きの部分に赤線を引いた。
「ここは絶対に監視が必要です」
社会民主会と令明新生組の議員は、なお撤回を求めていた。
政治の対立は激しくなった。
だが、その一方で、政府資料を読み込み、権限を縛るための実務的議論も始まっていた。
批判は、単なる妨害ではなかった。
それは、権力が災害を理由に線を越えないための、もう一つの堤防でもあった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十一時。
警察庁は、第二次摘発を発表した。
逮捕者、任意聴取、書類送検予定者、警告対象者がさらに増えた。発表では国籍は前面に出されず、行為別に整理された。
しかし、一部報道とネット投稿は、外国籍者の退去強制手続きに焦点を当てた。
《災害デマ外国人を国外追放へ》
《中国籍関係者も含むか》
《政府、外国人処分を加速》
《排外主義か治安維持か》
高嶺は、報道見出しを見て眉を寄せた。
「こうなりますね」
橘が答える。
「避けられません。ただ、政府発表は行為別を維持しています」
高嶺は言った。
「法務省と警察庁に、外国人住民向けの説明を出させてください。あなた方を一括して疑っているのではない、と。相談窓口も」
羽鳥が頷く。
「はい」
小森が言った。
『自衛隊現場でも、外国人避難者が不安を訴えています。避難所では国籍に関係なく支援する、と再徹底します』
「お願いします」
片倉皐月が、静かに言った。
『経済復旧にも影響します。外国人労働者、留学生、技能者、医療・介護・物流に関わる人々が萎縮すれば、復旧は遅れます』
「分かっています」
高嶺は、少しだけ疲れた声で言った。
「だから、雑な正義にしない」
雑な正義。
それは、災害時に最も広がりやすいものだった。
誰かを悪者にすれば、少しだけ安心できる。
だが、その安心は、次の被害を生む。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十一時四十分。
東京の避難所。
鹿児島出身の女性は、火山灰対策の小さな説明会を開いていた。参加者は十数人。高齢者、子ども連れ、若い会社員、外国人避難者もいた。
「灰は水で流すと詰まります。少しずつ集めて袋へ入れてください。目に入ったらこすらず、洗える水があれば洗ってください。コンタクトより眼鏡がいいです。車はできるだけ動かさない方がいいです」
外国人避難者の一人が、たどたどしい日本語で尋ねた。
「灰、服、どうしますか」
女性は、ゆっくり答えた。
「外で軽く払ってから、中に入ってください。強く叩くと舞います。マスクをして」
即応予備自衛官の班長が、やさしい日本語で掲示を書き足した。
灰を すわない
水で ながさない
目を こすらない
外から 入る前に 服の灰を おとす
けんかを しない
こまったら 係の人へ
それを見た子どもが言った。
「けんかをしない、また書いてる」
班長が答えた。
「大事だからね」
避難所の外では、ネット上の怒号がまだ続いている。
だが、この部屋の中では、灰の扱いを学ぶ人々がいた。
それは、国家規模の通信治安維持命令とは比べものにならないほど小さな場面だった。
しかし、社会を戻すのは、こういう小さな場面の積み重ねでもあった。
☆☆☆ ☆☆☆
正午。
八月二十八日、午後零時。
国内通信治安維持命令の発出から、一日が経とうとしていた。
逮捕者は増えていた。
立件対象者も増えていた。
任意聴取、警告、アカウント凍結、投稿削除、ログ保全、令状請求、入管手続き。治安維持の歯車は回り始めていた。
同時に、野党の批判も強まっていた。
中道改革連合は、国会監視と期間限定を求めた。
民権民主党は、政府批判の萎縮防止を求めた。
公明平和党は、人権手続きの明確化を求めた。
社会民主会と令明新生組は、命令撤回と「法の私物化」批判を繰り返した。
ネット空間では、政府支持、政府批判、野党批判、野党支持、外国人差別への警戒、外国人排斥、鹿児島と東京の和解、鹿児島と東京の罵倒が、同時に流れていた。
収拾は、まだついていなかった。
だが、いくつかのことは変わり始めていた。
避難所で個人を晒す撮影者は減った。
偽の避難指示は、見つかるとすぐに警告表示がつくようになった。
鹿児島の火山灰経験共有は、攻撃を受けながらも広がった。
東京の避難所では、鹿児島出身者へ感謝の言葉をかける人が増えた。
外国人避難者向けの多言語掲示も増えた。
それでも、危うさは残っている。
権力の危うさ。
怒りの危うさ。
差別の危うさ。
善意が攻撃される危うさ。
政府が、正義の名で線を越える危うさ。
官邸危機管理センターで、高嶺紗枝は正午の報告を受けていた。
羽鳥が言った。
「摘発は進んでいます。避難所・配布所への直接妨害は一部減少。ただし、ネット上の政府批判と命令批判は拡大しています」
高嶺は頷いた。
「それは受けます」
橘が言った。
「野党は午後にも合同申し入れを行います」
「受けます」
小森が続ける。
『現場自衛官への罵倒は減っていませんが、避難所では挑発が減った地域もあります』
「現場へ、こちらの感謝を」
『伝えます』
片倉皐月が言った。
『財政措置と並行して、通信治安維持命令の監視費用、自治体広報支援、被害者支援も組みます』
「お願いします」
高嶺は、五つの画面を見た。
南海。
相模。
富士山。
南西諸島。
通信空間。
どれも、終わっていない。
だが、どれも、完全には崩れていない。
彼女は、静かに言った。
「この命令は、長く続けてはいけません」
羽鳥が頷いた。
「はい」
「終わらせるために使います。支配するためではなく、現場を守り、社会を落ち着かせ、できるだけ早く通常の法運用へ戻すために」
「記録します」
高嶺は、水を一口飲んだ。
唇の傷は、ほとんど塞がっていた。
だが、心のどこかに、あの鉄の味は残っている。
「権力は、使った後に必ず検証されなければならない」
橘が静かに答えた。
「はい」
正午。
八月二十八日の日本は、灰を払いながら、言葉の暴走を止めようとしていた。
逮捕者は増えた。
批判も増えた。
恐れも増えた。
それでも、避難所でマスクは配られ、鹿児島の知恵は東京へ届き、外国人避難者にも水が渡され、自衛隊は瓦礫と灰の中で任務を続け、警察は法の線を確認しながら悪質者を追い、野党は政府の線を監視しようとしていた。
それは、きれいな光景ではなかった。
混乱し、疑い合い、怒鳴り合い、間違いそうになりながら、それでも社会が自分自身を壊さないよう必死に踏みとどまる光景だった。
高嶺は、最後に言った。
「次の報告を」
羽鳥が答えた。
「はい」
災害は、まだ終わっていない。
治安維持も、まだ終わっていない。
そして、自由を守るための監視もまた、始まったばかりだった。




