第十七話 南西の銃声
八月二十八日、午後零時。
日本は、五つの災害地図を抱えていた。
南海トラフ巨大地震。
相模トラフ・首都直下地震。
富士山噴火と降灰。
南西諸島をめぐる中国艦艇群の圧力。
そして、国内通信空間の治安悪化。
富士山の大規模噴出は低下していた。だが、空はまだ完全には澄んでいない。東京の道路には灰が残り、横浜港では液状化の泥と火山灰が混ざり、静岡と山梨の避難所では火山ガスと泥流の警戒が続いていた。南海トラフ被災地では、避難生活の長期化が人々の体力を削っていた。相模トラフ被災地では、港湾復旧と倒壊現場の捜索が続いている。
その一方で、ネット空間では、国内通信治安維持命令に基づく摘発が広がっていた。
逮捕者は増えた。
任意聴取も増えた。
アカウント凍結も増えた。
警告も増えた。
国外退去手続きの対象となる外国籍者も出始めた。
政府は繰り返した。
対象は、政府批判ではない。
脅迫、個人情報晒し、偽避難指示、救助妨害、配布所業務妨害、差別扇動、暴力誘発、外国工作との連動である、と。
だが、その説明は、すべての人に届いたわけではなかった。
野党は、動き始めていた。
中道改革連盟、民権民主党、公明平和党、社会民主会、令明新生組。立場は微妙に異なる。悪質な脅迫や偽情報への対応は必要だと認める党もあった。だが、国内通信治安維持命令という名称と、政府が「従わないユーザーを特定する」とした姿勢は、強い反発を呼んでいた。
その矛先は、高嶺紗枝首相へ向いていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後零時三十分。
国会議員会館。
野党五党の幹部が、長机を囲んでいた。窓の外には、灰でくすんだ東京の空が見える。街は災害の中にある。だが、政治もまた止まっていなかった。
中道改革連盟の代表代行が、資料を開いた。
「国内通信治安維持命令の運用は、すでに逮捕者と退去強制手続きへ進んでいます。政府は対象限定と言っていますが、権力の拡大は現実です」
民権民主党の国対委員長が頷いた。
「政府批判は対象外だと説明している。しかし、被災者が支援不足を訴えることまで萎縮すれば、被害が見えなくなる」
公明平和党の議員が静かに言った。
「外国籍者の退去強制手続きは、個別審査が必要です。災害時でも、人権手続きは省略できません」
社会民主会の議員は、机を叩いた。
「これは明白な法の私物化です。高嶺政権は、災害を口実に国民監視を始めた。ここで止めなければ、次は政府批判が摘発される」
令明新生組の議員が続く。
「内閣不信任案を準備すべきです。災害対応の失敗、富士山噴火への遅れ、中国艦艇対応の混乱、そして通信治安維持命令。これ以上、任せられない」
会議室の空気は荒れた。
だが、中道改革連盟の代表代行は、すぐには同意しなかった。
「今、不信任案を出せば、災害対応の足を引っ張ると言われます」
「言われても出すべきだ」
社会民主会の議員が即答する。
「政権が危険な権限を持った時、野党が黙る方が無責任です」
民権民主党の国対委員長は、腕を組んだ。
「出すにしても、理由を整理する必要がある。脅迫者やデマ発信者を擁護しているように見えてはいけない」
令明新生組の議員が言った。
「政府はそう印象操作するでしょう。だからこそ、法の私物化という軸で押す」
公明平和党の議員は、窓の外を見た。
「被災地は今も苦しんでいます。不信任案が本当に被災者のためになるのか」
その問いに、全員が一瞬黙った。
政治的には、攻め時だった。
だが、国はまだ瓦礫と灰の中にあった。
それでも、会議の結論は一つの方向へ傾いていった。
内閣不信任案提出の準備。
災害対応中の政権を揺さぶる、重い一手だった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後二時。
官邸危機管理センター。
高嶺紗枝は、野党の動きを報告で聞いた。
橘義隆官房長官が言う。
「野党各党が、内閣不信任案提出の準備に入った模様です。表向きの理由は、国内通信治安維持命令による法の私物化、外国籍者への退去強制、災害対応の遅れ、南西諸島対応の混乱です」
高嶺は、少しだけ目を閉じた。
怒りではない。
疲労でもない。
ただ、呼吸を整えるためだった。
「そうですか」
片倉皐月財務大臣が画面越しに言った。
『この時期に不信任案ですか』
声には怒りが滲んでいた。
高嶺は首を横に振った。
「野党には野党の役割があります。強い権限を使った以上、批判されるのは当然です」
小森進一防衛大臣が、防衛省から入る。
『総理、現場はそれどころではありません』
「分かっています」
『南海、相模、富士山、南西、通信治安。どれも継続中です。政治が揺れれば、現場に響きます』
高嶺は静かに答えた。
「だからこそ、こちらは揺れない。批判は受けます。資料は出します。国会報告もします。第三者監視も進めます。ですが、救助と治安維持は止めません」
羽鳥真紀危機管理監が、別の資料を差し込んだ。
「総理、南西方面です」
部屋の空気が変わった。
羽鳥は続けた。
「中国艦艇群の一部が、再び沖縄本島方向と先島諸島方向へ動いています。前回よりも明確です。海上保安庁、海上自衛隊が警戒を上げています。搭載小型艇、ヘリ、輸送用と思われる艦艇の動きが確認されています」
高嶺の表情が一瞬で変わった。
「このタイミングで」
誰も答えなかった。
あまりにも都合が良すぎた。
国内で、通信治安維持命令をめぐって政府批判が高まり、野党が内閣不信任案の準備を始め、ネット空間の収拾もつかない。政府は国内対応で手一杯に見える。
その瞬間に、中国が南西諸島へ再び強く動いた。
偶然であってほしい。
だが、偶然と見るには、あまりにも整いすぎていた。
高嶺は言った。
「防衛省、外務省、国家安全保障局。即時、南西対応会議」
羽鳥が頷く。
「はい」
高嶺は、野党不信任案の資料を横に置いた。
政治の火は国内にある。
しかし今、海の向こうから別の火が迫っていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時十分。
南西諸島周辺海域。
中国人民解放軍海軍の艦艇群は、これまでより明確に分かれて動き始めた。
一群は沖縄本島周辺へ。
一群は宮古島、石垣島、与那国島方面へ。
さらに、鹿児島県の島しょ部へ圧力をかけるように、別動の艦艇が南西方向へ展開していた。
中国側は、依然として「救援隊輸送」と主張した。
だが、日本政府の指定した受け入れ拠点ではない。
人員名簿は不完全。
物資リストも曖昧。
非武装確認も不十分。
そして、艦艇の動きは、港湾への強行接近を疑わせるものだった。
海上保安庁巡視船が、警告を発した。
『日本政府の承認なき港湾進入、上陸、航空機発着は認められない。進路を変更せよ』
中国側は応答した。
『我々は人道支援を目的としている。日本側は被災者救援を妨害している』
同じ言葉。
だが、今回の海は違った。
中国艦艇の一部から、小型艇が海面へ降ろされる準備が確認された。
ヘリのローターも回り始めた。
沖縄本島、宮古、石垣、与那国の各地で、警戒が一段上がった。
陸上自衛隊の隊員たちは、災害派遣と防衛警戒の両方の装備を確認した。住民避難の案内板の横で、重要施設警戒の指示が飛ぶ。医療物資の搬入路と港湾防衛の導線が重なる。
宮古島の駐屯地で、若い隊員が上官に言った。
「本当に来るんですか」
上官は、短く答えた。
「来させない」
「撃つことになりますか」
「撃たないために止める。だが、撃たれれば守る」
若い隊員は唇を結んだ。
災害派遣で人を助けるために動いていた手が、今度は島を守るために震えていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後四時。
官邸国家安全保障会議。
大型画面には、南西諸島周辺の海図が映っていた。中国艦艇の位置、日本側巡視船、海上自衛隊艦艇、航空監視、沖縄本島、宮古島、石垣島、与那国島、鹿児島県の島しょ部。
小森進一防衛大臣が、厳しい声で報告する。
『中国艦艇群は、複数方向から接近しています。救援名目を維持していますが、上陸または港湾進入を既成事実化する意図が疑われます。海上保安庁が前面で警告、海上自衛隊が後方で警戒、航空自衛隊が空域監視、陸上自衛隊が沖縄本島、先島諸島、鹿児島島しょ部で重要施設と住民安全を確保しています』
外務大臣代理が続けた。
「中国政府へ、強い抗議と即時進路変更要求を出しています。米国、台湾、欧州各国へも状況共有済み。米国とは、日米安全保障条約に関する協議準備に入っています」
高嶺は、画面を見つめた。
「米国大統領は」
外務省担当者が答える。
「クラレンス・ヘイズ大統領へ、緊急連絡ルートを開いています。正式要請には、防衛省・外務省双方の文書と総理の政治判断が必要です」
小森が言った。
『総理。現時点では、上陸阻止と警告の段階です。ただし、中国側が発砲または上陸を強行した場合、日本単独の事態ではなくなります。日米安全保障条約第五条の適用要請を視野に入れるべきです』
会議室が静まった。
日米安全保障条約第五条。
日本の施政下にある領域への武力攻撃に対し、日米が共通の危険に対処する条項。
それを要請するということは、単なる外交抗議ではない。
日本が、同盟国とともに中国との武力衝突を覚悟するということだった。
高嶺は、短く言った。
「まだ撃たれていません」
小森は答える。
『はい。ですが、撃たれてから書類を作る時間はありません』
高嶺は、目を閉じなかった。
「準備してください。発動要請文書を、防衛省と外務省で作成。条件は明確に。中国側による日本領域への武力攻撃、海上保安庁・自衛隊への攻撃、強行上陸が確認された場合、直ちに米国大統領へ要請します」
外務省担当者が頷いた。
「はい」
高嶺は続けた。
「同時に、中国政府へ最後の警告ではなく、明確な警告を出してください。日本政府は無許可上陸を認めない。発砲、上陸、港湾侵入は重大な結果を招く、と」
羽鳥が記録する。
片倉皐月が画面越しに言った。
『総理、国内は不信任案で揺れています』
高嶺は、低く答えた。
「だからこそ、国としての線を失ってはいけません」
彼女の声には、疲れよりも冷えた覚悟があった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後五時三十分。
国会議員会館では、野党各党が内閣不信任案の文案を詰めていた。
その時、南西諸島で中国艦艇群が再接近している速報が流れた。
――――
ニュース速報
中国艦艇群が沖縄・先島方面へ再接近
政府、国家安全保障会議を開催
海保・自衛隊が警戒強化
――――
会議室に沈黙が落ちた。
社会民主会の議員が、まず口を開いた。
「このタイミングで、政府が安全保障危機を利用する可能性がある」
中道改革連盟の代表代行が、鋭く言った。
「逆です。中国がこのタイミングを利用している可能性もある」
令明新生組の議員が反論する。
「政府の情報をそのまま信じるのですか」
民権民主党の国対委員長が、資料を閉じた。
「不信任案は準備する。ただし、今この瞬間に提出するかは再検討が必要です。武力衝突になれば、国会として一致した対応が求められる」
社会民主会の議員は不満げだった。
「だからこそ、戦争に向かう政権を止めるべきです」
公明平和党の議員が静かに言った。
「まず事実確認です。中国側が本当に強行上陸を試みているのか。発砲があったのか。政府の対応は妥当か。そこを見ずに動けば、国会が国内分断を深める」
会議は割れた。
政府批判の火は消えていない。
だが、海の向こうから迫る危機が、野党にも重い判断を迫っていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後七時。
沖縄本島周辺。
中国艦艇群の一部から、小型艇が海面へ降ろされた。
日本側は即時警告を発した。
『日本政府の承認なき接近、上陸は認められない。ただちに母船へ戻れ』
小型艇は進路を変えなかった。
海上保安庁巡視船が進路を塞ぐように動く。海上自衛隊護衛艦は後方で警戒態勢を維持する。航空自衛隊は上空を監視し、陸上自衛隊と沖縄県警、海上保安庁の陸上部隊が港湾周辺を固めた。
沖縄本島の港湾近くでは、住民が避難指示に従って移動していた。
「港に近づかないでください!」
「建物の中へ!」
「公式情報を確認してください!」
自治体職員の声が響く。
避難所では、テレビに海の映像が映っていた。灰のニュースを見ていたはずの人々が、今度は南西の海を見ている。
高齢の男性が呟いた。
「災害の次は、戦か」
誰も答えられなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後八時二十分。
先島諸島方面。
宮古島、石垣島、与那国島周辺でも、中国側の接近が強まった。
海上保安庁巡視船と海上自衛隊艦艇が、複数方向の動きに対応する。現場は混乱していたが、指揮系統は維持されていた。
与那国島の駐屯地では、若い隊員が家族へ送るつもりだったメッセージを消した。
>大丈夫。心配しないで。
嘘になる気がした。
彼は書き直した。
>任務中。島を守る。必ず帰る。
送信はしなかった。
上官の声が飛ぶ。
「配置につけ!」
彼はスマートフォンをしまった。
島の夜は、いつもより暗く見えた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後九時。
官邸。
高嶺紗枝は、記者会見に臨むことを決めた。
橘義隆官房長官が確認する。
「総理、発言の強さに注意が必要です」
「分かっています」
「中国と一戦交える覚悟、という表現は、国際的に極めて強い意味を持ちます」
「覚悟がないと思われれば、上陸されます」
橘は言葉を失った。
高嶺は、ゆっくり続けた。
「戦争を望むわけではありません。むしろ絶対に避けたい。ですが、避けたいからこそ、ここで曖昧にできない。日本の領域へ無許可で上陸し、海保や自衛隊へ攻撃するなら、日本は退きません」
小森が画面越しに言った。
『総理、現場はその言葉を聞きます』
「だから言葉を選びます」
片倉皐月が低く言った。
『国民も聞きます』
「はい」
高嶺は立ち上がった。
南海、相模、富士山、通信治安、内閣不信任案、そして中国の上陸作戦。
国内のことで手一杯どころか、国そのものが限界に近かった。
それでも、ここで首相が曖昧な顔をすれば、現場の海上保安官と自衛官が最前線で孤立する。
彼女は、会見室へ向かった。
――――
内閣総理大臣緊急会見
中国艦艇による強行接近
無許可上陸は認めず
日本領域への攻撃には断固対応
――――
『本日、中国人民解放軍海軍の艦艇群が、救援を名目として、沖縄本島および先島諸島周辺へ強硬な接近を行っています。一部では小型艇や航空機による接近の動きも確認されています。日本政府は、無許可の港湾進入、上陸、航空機発着を断じて認めません』
高嶺の声は低かった。
『日本は、国際社会からの支援を拒んでいるのではありません。正式な手続きに基づく支援は受け入れます。しかし、軍艦を用い、日本政府の承認なく日本の領域へ入ろうとする行為は、人道支援ではありません。主権への挑戦です』
記者席の空気が張り詰める。
『私は、中国との戦争を望みません。日本国民の誰も、それを望んでいません。南海トラフ巨大地震、相模トラフ巨大地震、富士山噴火という未曾有の複合災害の中で、これ以上の苦しみを国民に負わせたくありません』
高嶺は、わずかに息を吸った。
『しかし、日本の領域を守る責任から逃げることはできません。海上保安庁、自衛隊、警察、自治体職員、住民が危険にさらされる中、日本政府が曖昧な態度を取ることはありません。中国側が発砲し、上陸を強行し、日本の施政下にある領域を侵すならば、日本は中国と一戦交える覚悟で、国民と領土を守ります』
会見室が凍りついた。
『同時に、防衛省および外務省は、米国政府に対し、日米安全保障条約第五条の発動に関する協議と要請準備に入っています。日本は同盟国、友好国と連携し、衝突を避ける最大限の努力を続けます。しかし、主権と国民の命を守る線は譲りません』
質問が飛んだ。
「総理、一戦交える覚悟とは、武力行使を意味しますか」
『日本は専守防衛の国です。攻撃を望むものではありません。しかし、武力攻撃を受けた場合、国民と領域を守るために必要な対応を取ります』
「日米安全保障条約第五条を正式に要請したのですか」
『現時点で、発動要請に向けた協議と準備を進めています。中国側が武力攻撃または強行上陸を行った場合、直ちに正式要請します』
「国内では内閣不信任案の準備が進んでいます。政権維持のために危機を利用しているとの批判があります」
高嶺は、その記者を見た。
『国会の判断は国会にあります。野党の批判も受けます。しかし、南西諸島の現場で海上保安官と自衛官が向き合っている危機は、政権維持のための道具ではありません。現実です』
会見は、全国へ流れた。
避難所で。
駐屯地で。
巡視船で。
護衛艦で。
野党の会議室で。
そして、中国艦艇の動きを監視するすべての現場で。
☆☆☆ ☆☆☆
八月二十九日、午前零時。
南西諸島周辺の緊張は、さらに高まっていた。
中国側の小型艇は、一時的に距離を取りながらも、完全には母船へ戻らなかった。ヘリも甲板上で待機を続けていた。沖縄本島、宮古、石垣、与那国、鹿児島島しょ部。各地で住民への注意喚起が続く。
防衛省と外務省では、米国への正式要請文書が最終確認されていた。
宛先は、米国大統領クラレンス・ヘイズ。
内容は、日米安全保障条約第五条に基づく協議と、発動要請の準備。
発動条件は明確に書かれた。
中国側による日本施政下領域への武力攻撃。
海上保安庁または自衛隊への攻撃。
強行上陸。
防衛省の担当者は、文書を読み上げた。
「日本国政府は、日米安全保障条約第五条に基づき、共通の危険に対処するため、米国政府との即時協議を要請する――」
外務省担当者が頷いた。
「文言はこれで」
小森進一防衛大臣は、署名欄を見た。
『総理へ回してください』
官邸で、高嶺は文書を受け取った。
彼女は、最後まで読んだ。
そして署名した。
ペン先が紙を走る音が、やけに大きく聞こえた。
この署名が使われないことを、彼女は心から願った。
だが、使う覚悟がなければ、署名する資格はなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前二時。
沖縄本島近海。
海上保安庁巡視船が、中国側小型艇の接近を阻止していた。互いの距離は近い。海上自衛隊護衛艦は後方で警戒し、航空自衛隊機が上空を監視する。
巡視船の船橋では、船長が静かに命じた。
「警告継続。進路を塞ぐ。接触を避けろ」
通信担当が繰り返す。
『日本政府の承認なき接近、上陸は認められない。ただちに母船へ戻れ』
中国側から返答。
『人道支援を妨害するな』
その言葉を何度聞いたか、もう誰も数えていなかった。
若い海上保安官が、双眼鏡を握りしめていた。
「距離、縮まります」
船長が言う。
「慌てるな」
小型艇は、巡視船の前で進路を変えた。
一旦は離れた。
だが、別の方向から別の艇が動く。
まるで隙を探しているようだった。
船長は歯を食いしばった。
「入れるな」
その一言が、夜の海に落ちた。
☆☆☆ ☆☆☆
午前四時三十分。
野党側は、高嶺の会見を受けて、対応を協議していた。
社会民主会と令明新生組は、会見を強く批判した。
「一戦交える覚悟など、首相が口にしてよい言葉ではない」
「戦争危機を煽り、不信任案を封じようとしている」
しかし、中道改革連盟と民権民主党、公明平和党の一部は、判断を留保した。
中道改革連盟の代表代行は言った。
「中国側が実際に強行上陸を試みているなら、国会が政府を麻痺させるわけにはいかない」
社会民主会の議員が反発する。
「だからと言って、高嶺政権を信任するのか」
「信任ではない。危機対応中に不信任案を出す時期を見極めると言っている」
民権民主党の国対委員長が言った。
「政府の通信治安維持命令は問題だ。しかし、中国の行動は別問題です。ここを混ぜると、野党全体が現実を見ていないと言われる」
令明新生組の議員は、苛立った声で言った。
「政府のシナリオに乗る気ですか」
公明平和党の議員が静かに答えた。
「シナリオではなく、海上保安官と自衛官が現場にいます」
また沈黙が落ちた。
不信任案は、まだ準備されたまま机の上にあった。
だが、提出の時刻は決められなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前六時。
沖縄本島、宮古、石垣、与那国の朝は、緊張の中で明けた。
住民には、港湾周辺へ近づかないよう呼びかけが続く。学校や公共施設は一部閉鎖され、避難所には高齢者や子ども連れが集まった。
沖縄本島の避難所で、女性が小さな子どもを抱いていた。
「お母さん、戦争になるの」
子どもが尋ねた。
女性は答えられなかった。
近くにいた自治体職員が、ゆっくり言った。
「ならないように、みんなが動いています」
「自衛隊の人?」
「自衛隊の人も、海上保安庁の人も、警察の人も、役所の人も」
「お母さんも?」
女性は、子どもを抱きしめた。
「お母さんは、あなたを守る」
外では、ヘリの音が遠くに聞こえた。
それが日本側のものか、中国側のものか、避難所にいる人々には分からなかった。
分からない音は、人を最も不安にする。
☆☆☆ ☆☆☆
午前八時。
官邸朝会見。
高嶺紗枝は、前夜の会見に続き、南西諸島情勢と国内対応について説明した。
――――
政府朝会見
南西諸島警戒最高水準
日米安保第五条協議準備
国内災害対応は継続
――――
『南西諸島周辺では、中国人民解放軍海軍による強硬な接近が続いています。日本政府は、無許可の港湾進入、上陸、航空機発着を認めません。海上保安庁、自衛隊、警察、自治体が連携し、住民の安全確保に当たっています』
高嶺は続けた。
『防衛省および外務省は、米国政府との間で、日米安全保障条約第五条に基づく協議と発動要請に関する準備を進めています。日本は衝突を望みません。しかし、日本の施政下にある領域が武力攻撃を受けるなら、同盟国と連携して対処します』
記者が問う。
「総理、昨夜の『一戦交える覚悟』発言は、国内外で大きな反響を呼んでいます。撤回しますか」
『撤回しません。ただし、意味を明確にします。日本は戦争を望みません。中国国民を敵視するものでもありません。日本政府が示したのは、日本の領域と国民の命を守る責任から逃げないという覚悟です』
「国内では内閣不信任案の準備が進んでいます」
『国会の判断には従います。しかし、現場の危機対応は一秒も止めません。与野党を問わず、国民の命と領域を守るために必要な協力をお願いしています』
その言葉は、野党にも向けられていた。
批判してよい。
だが、現場を止めないでほしい。
それが、高嶺の本音だった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十時三十分。
先島諸島周辺。
中国側の小型艇が、再び進路を変え、ある港湾方向へ接近を試みた。
海上保安庁巡視船が警告する。
『ただちに進路を変更せよ。日本政府の承認なき接近は認められない』
小型艇は止まらない。
巡視船が間に入る。
その時、中国側小型艇の一つから、閃光が見えた。
最初、誰もそれを認めたくなかった。
次の瞬間、巡視船の外板に衝撃音が走った。
銃撃だった。
通信が乱れる。
『被弾! 被弾!』
『負傷者あり!』
『中国側から発砲!』
海上保安庁の現場に、怒号が飛んだ。
同時刻、別方向でも銃声が確認された。海上自衛隊の警戒部隊にも被害が出た。港湾近くの陸上警戒に当たっていた自衛官にも、流れ弾と見られる被害が発生した。
中国側は、すぐに「日本側が接触を試みたための自衛措置」と主張した。
日本側は、即座に否定した。
現場映像、無線記録、複数の監視データが、中国側からの発砲を示していた。
南西の海に、ついに血が流れた。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十一時。
官邸危機管理センター。
羽鳥真紀の声は、硬かった。
「総理、中国側小型艇からの発砲を確認。海上保安庁巡視船、自衛隊部隊に被害。複数の死傷者が出ています。詳細確認中」
高嶺は、画面を見たまま動かなかった。
小森進一防衛大臣の声が入る。
『総理、現場から第一報です。海上保安官、自衛官に死者。負傷者多数。現在確認中ですが、犠牲者は増える可能性があります』
高嶺は、低く尋ねた。
「映像確認は」
『確認中。ただし複数情報源で、中国側からの発砲と判断しています』
外務省担当者が言った。
「米国へ、即時連絡可能です。日米安全保障条約第五条発動要請の条件に該当する可能性があります」
高嶺は、文書を手に取った。
昨夜署名した要請文書。
使われないことを願った文書。
だが、現実は、それを机の上に置いてくれなかった。
「犠牲者数を確認してください」
数分が、異様に長かった。
防衛省から、再度報告が入る。
『現時点で、海上保安官と自衛官、合わせて二十一名の死亡を確認。負傷者多数。詳細はなお確認中』
会議室の空気が止まった。
二十一名。
数字ではない。
海上保安官。
自衛官。
それぞれに名前があり、家族があり、帰る場所があった。
高嶺の手が、わずかに震えた。
羽鳥が見た。
高嶺は、唇を噛まなかった。
もう、血で自分を立たせる段階ではなかった。
彼女は、震える手を机に置き、ゆっくり言った。
「米国大統領へ、日米安全保障条約第五条発動を正式に要請します。防衛省、外務省、直ちに」
外務省担当者が答える。
「はい」
小森が続けた。
『防衛省からも、米国防当局へ同時通報します』
「中国政府へ、最も強い抗議を。発砲の即時停止、艦艇の撤退、責任者の処罰、被害者への謝罪と補償を要求」
「はい」
高嶺は、画面を見つめた。
二十一名。
その重さが、胸に沈んだ。
それでも、指示は続けなければならない。
「現場へ。さらなる被害を出さない。だが、上陸は阻止。負傷者搬送を最優先。米軍との連携を開始。住民避難を拡大」
羽鳥が復唱する。
会議室が一斉に動き出した。
日本は、ついに武力攻撃を受けた。
☆☆☆ ☆☆☆
正午。
高嶺紗枝は、再び会見室に立った。
顔色は白かった。
だが、声は沈んでいた。
沈んでいるからこそ、重かった。
――――
内閣総理大臣緊急声明
中国側からの発砲確認
海上保安官・自衛官二十三名死亡
日米安保第五条発動を正式要請
――――
『本日午前、南西諸島周辺において、中国人民解放軍側の小型艇から、海上保安庁および自衛隊に対する発砲がありました。政府は、複数の情報に基づき、中国側からの攻撃と判断しています』
記者席は、完全に静まり返っていた。
『この攻撃により、現時点で、海上保安官および自衛官、合わせて二十一名の死亡を確認しています。負傷者も多数出ています。亡くなられた方々は、日本の領域と住民の安全を守る任務の中で命を落とされました。政府を代表し、深い哀悼の意を表します』
高嶺は、言葉を止めた。
一秒。
二秒。
三秒。
深く頭を下げた。
会見室の誰も、音を立てなかった。
高嶺は顔を上げた。
『政府は、米国政府に対し、日米安全保障条約第五条の発動を正式に要請しました。防衛省および外務省を通じ、米国大統領クラレンス・ヘイズ氏および米国政府と即時協議に入っています』
彼女の声は、震えていなかった。
『日本は戦争を望みません。しかし、日本の施政下にある領域で、日本の公務員が攻撃され、命を奪われた以上、政府は国民と領域を守る責任を果たします。中国政府に対し、発砲の即時停止、艦艇の撤退、責任の明確化、謝罪と補償を要求します』
質問が飛ぶ。
「総理、これは戦争状態ですか」
『政府として、現在、武力攻撃事態に該当するかを含め、法的評価を進めています。いずれにせよ、日本は攻撃を受けました。必要な防衛措置を取ります』
「自衛隊は反撃するのですか」
『現場では、さらなる被害を防ぎ、住民を守り、上陸を阻止するため、必要な措置を取ります。詳細は作戦上答えられません』
「内閣不信任案の準備について、野党へ何を求めますか」
高嶺は、わずかに目を伏せた。
『野党には野党の役割があります。政府への批判も必要です。しかし、今この瞬間、南西諸島の現場で亡くなった二十三名がいます。負傷者がいます。住民がいます。どうか、国会として、国民の命を守るために必要な判断をお願いしたい』
その言葉は、政治的な攻撃ではなかった。
祈りに近かった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後一時三十分。
米国ホワイトハウス。
クラレンス・ヘイズ大統領は、日本政府からの正式要請を受け取った。
すでに米軍は、横須賀、座間、沖縄、横田、岩国、佐世保、三沢で災害支援と警戒監視を並行していた。南海トラフ巨大地震後の「新トモダチ作戦」として、米軍は医療、輸送、物資支援を展開していた。相模トラフ地震後には首都圏支援にも入っている。
その米軍が、今度は同盟条約の最前線に立つことになる。
ヘイズ大統領は、国家安全保障会議で短く言った。
『日本は攻撃を受けた。同盟は言葉ではなく、行動で示す』
米国政府は、日米安全保障条約第五条に基づく協議開始を発表し、日本の施政下領域への攻撃に対し、米国が日本と共同で対応する意思を明確にした。
その速報は、日本にも届いた。
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ニュース速報
米国大統領
日米安保第五条協議開始を表明
日本と共同対処の意思
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官邸危機管理センターで、その速報を聞いた高嶺は、目を閉じなかった。
安堵ではない。
むしろ、重さが増した。
同盟が動くということは、危機が一段上がったということでもあった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時。
南西諸島周辺では、日本側の警戒態勢がさらに強化された。
海上保安庁は負傷者搬送と巡視体制の再編を行い、海上自衛隊は護衛艦を再配置し、航空自衛隊は空域監視を強めた。陸上自衛隊は、沖縄本島、宮古、石垣、与那国、鹿児島島しょ部で住民避難と重要施設防護を継続した。
米軍も情報共有と支援態勢を強めた。
中国側は、発砲を否定し、日本側の危険な接近が原因だと主張した。
だが、日本側は映像、無線、監視データを整理し、国際社会へ示す準備を進めていた。
そして、死亡者が二名追加され、死者二十三名となった。
南西の海で亡くなった二十三名の氏名は、まだ全員公表されていない。
家族への連絡が優先された。
ある海上保安官の妻は、電話口で言葉を失った。
ある自衛官の父は、最初、聞き間違いだと思った。
ある母親は、息子が「必ず帰る」と送ろうとして送らなかったメッセージを、後に遺品として受け取ることになる。
国の危機は、大きな言葉で語られる。
しかし、死はいつも、一つの家の中へ落ちる。
☆☆☆ ☆☆☆
午後四時三十分。
国会議員会館。
野党の会議室では、空気が前日とは違っていた。
二十三名の死亡。
日米安全保障条約第五条の正式要請。
米国大統領の協議開始表明。
中国側の発砲。
内閣不信任案は、机の上にあった。
だが、誰もすぐには提出を口にしなかった。
中道改革連盟の代表代行が言った。
「政府批判は続けます。しかし、今この瞬間に不信任案を出せば、国として誤ったメッセージになる」
民権民主党の国対委員長も頷いた。
「通信治安維持命令については監視を続ける。だが、中国の攻撃への対応では、政府に協力する」
公明平和党の議員が言った。
「犠牲者への哀悼決議を先に出すべきです」
社会民主会の議員は、それでも反発した。
「高嶺政権の強硬発言が危機を招いた可能性もある。ここで政府に白紙委任するわけにはいかない」
令明新生組の議員も言った。
「戦争へ進む政権を止めるのが野党の責任です」
中道改革連盟の代表代行は、静かに返した。
「止めるべきは戦争です。しかし、中国側が撃った事実を無視して政府だけを責めれば、国民の命を守れません」
野党は割れた。
政府への不信。
戦争への恐怖。
同盟への現実。
犠牲者への哀悼。
政局への計算。
すべてが入り混じった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後六時。
官邸。
高嶺紗枝は、犠牲者二十三名の第一報名簿を受け取った。
まだ公表前のものだった。
海上保安官。
陸上自衛官。
海上自衛官。
年齢、所属、家族連絡状況。
紙の上の文字が、重かった。
高嶺は、一人ひとりの名前を目で追った。
途中で、手が止まった。
二十代の自衛官。
家族連絡、母親へ実施。
高嶺は、紙を置いた。
羽鳥が静かに言った。
「総理」
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
だが、今は崩れる時間ではない。
「弔意の準備を。政府として、最大限の敬意を示します。ご家族への説明、補償、心理支援、すべて最優先で」
小森が画面越しに答えた。
『防衛省、海上保安庁と連携します』
高嶺は、少しだけ声を低くした。
「二十三名を、数字にしないでください」
『はい』
片倉皐月が言った。
『補償は、即時に出します。手続きで待たせません』
「お願いします」
高嶺は、再び地図を見た。
南西諸島の海が赤く表示されている。
その赤は、もう警戒色だけではなかった。
血の色を帯びていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後七時。
八月二十九日の日本は、完全に別の段階へ入っていた。
南海トラフ巨大地震の被災地では、避難者たちがテレビの前で黙祷した。
相模トラフ被災地の横浜港では、神崎二佐が作業を止め、隊員たちとともに海の方角へ頭を下げた。
富士山麓の避難所では、柳沢が子どもに「今日は静かにお祈りしよう」と言った。
鹿児島市の市民団体代表は、火山灰対策の投稿の前に、犠牲者への哀悼を投稿した。
東京の避難所では、鹿児島出身の女性と東京の男性が、同じ画面を見て黙っていた。
南西諸島では、住民避難が続き、海上保安庁と自衛隊と米軍が警戒を強めていた。
国会では、不信任案の提出判断が揺れていた。
官邸では、高嶺紗枝が午後七時の声明に立った。
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内閣総理大臣声明
犠牲者二十三名に哀悼
日米共同対処協議開始
国民の命と領域を守る
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『本日、中国側からの発砲により、海上保安官および自衛官、合わせて二十三名が命を落としました。改めて、深い哀悼の意を表します。ご家族の悲しみを思う時、言葉はあまりにも足りません』
高嶺は、一度、言葉を切った。
『政府は、米国政府に対し、日米安全保障条約第五条の発動を正式に要請し、米国政府は協議開始と共同対処の意思を示しました。日本は、同盟国、友好国と連携し、中国側に発砲停止、艦艇撤退、責任の明確化を求めます』
彼女の声は、低く、重かった。
『私は、戦争を望みません。しかし、国民の命と日本の領域を守る責任から逃げることはありません。南海トラフ、相模トラフ、富士山噴火、降灰、国内通信治安、すべての危機が続いています。それでも、政府は災害対応を止めません。被災地支援を止めません。南西諸島を見捨てません』
記者席は静まり返っていた。
『与野党を問わず、国会の皆様にもお願いします。政府への批判は受けます。権限の監視も必要です。しかし、今この瞬間、国民の命を守るために必要な対応には、どうか力を貸してください』
最後に、高嶺は頭を下げた。
『亡くなられた二十三名の任務と犠牲を、政府は決して忘れません』
午後七時。
会見が終わった。
外の空は、灰の名残でまだ少し白かった。
南西の海には、艦艇の灯が並んでいた。
日本は、災害の国から、戦火の入口に立つ国へと変わりかけていた。
それでも、各地で人々はまだ動いていた。
水を配る者。
灰を払う者。
避難者を誘導する者。
港を守る者。
島を守る者。
ネットの悪意を追う者。
政府を監視する者。
そして、亡くなった二十三名の名を、まだ知らないまま祈る者。
午後七時。
日本は、折れたまま、さらに重いものを背負った。
だが、まだ立っていた。




