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第十八話 同盟の夜明け

 八月二十九日、午後七時。


 高嶺紗枝(たかみねさえ)首相の声明が終わった直後、官邸危機管理センターの空気は、さらに重くなった。


 南西諸島周辺で中国側から発砲があり、海上保安官と自衛官、合わせて二十三名が死亡した。


 その事実は、災害に打ちのめされていた日本社会へ、さらに別の種類の沈黙を落とした。


 南海トラフ巨大地震。

 相模トラフ・首都直下地震。

 富士山噴火。

 降灰。

 通信空間の治安悪化。


 そして、中国人民解放軍海軍による発砲。


 日本は、あまりにも短い時間の中で、自然災害と安全保障危機の両方を浴びていた。


 官邸の大型画面には、五つの情報群が並んでいた。南海被災地の避難所状況。相模トラフ被災地の港湾復旧。富士山の火山活動と降灰域。国内通信治安維持命令の摘発状況。そして南西諸島周辺海域の艦艇配置図。


 高嶺は、その中でも南西諸島の海図から目を離せなかった。


 赤い点。

 青い点。

 白い線。

 艦艇、巡視船、航空機、港湾、島。


 地図上では、それらは記号にすぎない。


 だが、そこには二十三名の命が消えた海があった。


 羽鳥真紀(はとりまき)危機管理監が、低い声で報告した。


「総理、米国側は、クラレンス・ヘイズ大統領の声明準備に入っています。ホワイトハウス、国防総省、国務省が同時に動いています」


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が、防衛省から回線で言った。


『米軍は沖縄、横須賀、佐世保、岩国、横田、座間の各拠点で警戒を引き上げています。災害支援任務と防衛態勢を並行させる形です』


 外務省担当者が続けた。


「米国側は、日本政府からの日米安全保障条約第五条発動要請を正式に受領。大統領が直接声明を出す見込みです」


 高嶺は、わずかに頷いた。


「中国側は」


「発砲を否定し、日本側の危険な接近が原因と主張しています。ですが、こちらが米側へ共有した映像、無線、監視データでは、中国側小型艇からの発砲が明確に確認できます」


 高嶺は、静かに言った。


「映像は国際社会へ」


「米国側も、同時に公開する意向です」


 その言葉に、会議室の何人かが顔を上げた。


 米国が出す。


 それは、日本単独の主張ではなく、同盟国が同じ証拠を持って国際社会へ示すということだった。


 高嶺は、深く息を吸った。


「ヘイズ大統領と、直接話します」


 外務省担当者が頷いた。


「回線を準備しています」


 会議室の誰も、余計なことを言わなかった。


 災害対策本部でありながら、そこは今、戦争を避けるための部屋になっていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後七時四十分。


 ホワイトハウスとの首脳回線がつながった。


 画面の向こうに、米国大統領クラレンス・ヘイズの顔が映った。疲労の色はある。だが、その表情は硬く、決断の前にいる指導者の顔だった。


『高嶺首相。まず、亡くなられた二十三名の海上保安官、自衛官、そしてそのご家族に、合衆国を代表して深い哀悼の意を表します』


「ありがとうございます、大統領」


 高嶺の声は低かった。


『映像と通信記録を確認しました。中国側からの発砲であると、合衆国も判断します』


 会議室の空気が、一段変わった。

 米国が判断した。

 それは、中国側の否定を大きく揺るがす言葉だった。


 高嶺は言った。


「日本政府は、日米安全保障条約第五条の発動を正式に要請しました」


『受けます』


 ヘイズは、ほとんど間を置かなかった。


『日本の施政下にある領域で、日本の公務員が攻撃され、命を落としました。これは同盟の問題です。合衆国は日本とともに立ちます』


 高嶺は、画面を見つめた。


「日本は、戦争を望みません」


『我々も望みません。だが、抑止は曖昧さでは成り立ちません。中国がこれ以上進めば、代償があると理解させる必要があります』


「日本は、無許可上陸を認めません。さらなる発砲があれば、防衛措置を取ります」


『合衆国軍は、日本と共同で対応する態勢に入ります。私は、まもなく記者会見を行います。同時に、合衆国政府が保有するリアルタイム監視映像の一部を公開します』


 高嶺は、わずかに息を呑んだ。


「映像を」


『はい。中国側小型艇からの発砲、小型艇の進路、警告を続ける日本側巡視船、そして中国艦艇群の展開を、編集せず、必要な安全処理をした上で出します。世界に見せます』


 高嶺は、ゆっくり頷いた。


「ありがとうございます」


『高嶺首相。日本は今、災害のただ中にあります。中国はその弱みを突こうとした。これは断じて許されません』


 ヘイズの声は、低くなった。


『合衆国は、日本を孤立させません』


 高嶺は、初めて少しだけ目を伏せた。


 その言葉に安堵したのではない。


 むしろ、重さを感じたからだった。


 同盟が動く。


 世界が動く。


 その先に、どれだけの危険があるのか、彼女は知っていた。


「大統領。日本も、同盟国として責任ある対応を取ります」


『承知しています』


 回線が切れた。


 官邸危機管理センターは静まり返っていた。


 高嶺は、羽鳥へ言った。


「米国声明に合わせて、日本側も映像、無線記録、時系列を整理してください。事実だけを出す。怒りではなく、証拠で」


「はい」


 小森が言った。


『現場へ、米国が日米安保第五条を了承すると伝えます』


「お願いします。ただし、挑発するな、とも」


『承知しています』


 同盟は盾である。

 剣に見せてはならない。

 その線を誤れば、戦争は加速する。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時三十分。


 ホワイトハウス記者会見室。


 クラレンス・ヘイズ大統領が演壇に立った。背後には合衆国旗と大統領旗。隣には国防長官、国務長官、国家安全保障担当補佐官が並んでいた。

 記者席は満席だった。

 世界中のメディアが、同時通訳を通じてその言葉を待っていた。


 ヘイズ大統領は、原稿を見ずに話し始めた。


『本日、日本の南西諸島周辺で、中国人民解放軍海軍の小型艇から、日本の海上保安庁および自衛隊に対する発砲がありました。これにより、二十三名の日本の自衛官と海上保安官が命を落としました。合衆国は亡くなられた方々とそのご家族、日本国民に深い哀悼の意を表します』


 記者室は静まり返った。


『合衆国政府は、日本政府からの日米安全保障条約第五条発動の要請を正式に受領し、これを了承します。日本の施政下にある領域への攻撃は、日米同盟に対する重大な挑戦です。合衆国は、日本と共同して対処します』


 その瞬間、世界中の速報が走った。



  ――――

  ニュース速報

  米国大統領

  日米安保条約第五条発動了承

  日本と共同対処へ

  中国側発砲映像を公開

  ――――



 ヘイズ大統領は続けた。


『合衆国は戦争を望みません。しかし、同盟国が攻撃された時、沈黙することもありません。中国政府に対し、直ちに艦艇を撤退させ、発砲の責任を認め、これ以上の挑発を停止するよう求めます』


 そして、画面が切り替わった。


 会見室の背後の大型モニターに、南西諸島周辺の映像が映し出された。


 夜の海。

 日本側海上保安庁巡視船の警告音声。

 中国側小型艇の進路。

 赤外線映像。

 発砲の瞬間。

 小さな閃光。

 巡視船外板への衝撃。

 無線の混乱。

 位置情報と時刻表示。


 映像は、編集された宣伝映像ではなかった。

 軍事機密を避けるための処理はされていたが、発砲の流れは明確だった。


 ――中国側が撃った――


 世界が、それを見た。


 ヘイズ大統領は、最後にこう述べた。


『中国政府が人道支援を主張するなら、軍艦と銃撃ではなく、国際的手続きと透明性を用いるべきです。災害に苦しむ日本に対し、武力で圧力をかけることは、国際社会が許すものではありません』


 会見と同時に、大統領の公式SNSにも投稿が出た。



   《合衆国は、日本政府からの日米安全保障条約第五条発動要請を了承した。日本への攻撃は、同盟への攻撃である。中国海軍は直ちに撤退せよ。米国は日本とともに立つ。》



 続けて、短い動画も投稿された。


 中国小型艇の接近。

 警告。

 発砲。

 被弾。

 そして、位置情報。


 その動画は、数分で世界中へ拡散した。


 中国側の主張は、崩れ始めた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後九時。


 官邸危機管理センター。


 米国の会見を見終えた直後、室内には言葉にならない緊張が残っていた。


 米国が第五条を了承した。

 映像を出した。

 世界が見た。


 高嶺紗枝は、画面から目を離し、外務省担当者へ向いた。


「各国反応は」


 外務省担当者が答える。


「欧州各国は、米国声明に追随する形で中国への非難声明を準備しています。英国、フランス、ドイツ、イタリア、豪州は、すでに日本支持を明確にする見込みです。台湾も強い非難声明を出します」


 羽鳥が、別の情報を見て声を上げた。


「総理、アフガニスタンです」


 会議室の視線が集まる。


「アフガニスタン暫定政府が、中国側の行動を批判する声明を出しました。災害に苦しむ国へ軍事的圧力をかけることは容認できない、と」


 外務省担当者が続ける。


「イランからも声明です。中国の友好国としての立場を維持しつつも、日本への発砲と災害時の軍事圧力は正当化できない、としています」


 会議室に、低いざわめきが広がった。


 アフガニスタン。


 イラン。


 中国と距離が近いと見られていた国々からも、批判が出た。


 それは単なる外交的反応ではなかった。

 中国が、国際社会の中で孤立し始めたことを意味していた。

 高嶺は、すぐには言わなかった。

 孤立した大国は、危険である。

 追い詰められた相手は、引くこともあれば、逆に出ることもある。


 高嶺は言った。


「中国側の撤退兆候は」


 防衛省担当者が答える。


「一部艦艇で進路変更の兆候があります。ただし、完全撤退ではありません。小型艇は母船へ戻りつつありますが、まだ警戒が必要です」


「現場へ。勝ったと思うな。最後まで警戒」


 小森が頷いた。


『伝えます』


 高嶺は、さらに言った。


「外交ルートで、中国へ。今なら撤退の余地がある、と伝えてください。これ以上進めば、中国自身が完全に国際社会から孤立すると」


 外務省担当者が頷く。


「はい」


 高嶺は、画面の海図を見た。

 戦わずに退かせる。

 それが、今の最大の勝利だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時。


 世界の反応は、雪崩のように広がった。


 英国首相は、米国の判断を支持し、日本との連帯を表明した。

 フランス大統領は、中国側の発砲を「災害下の国家への許されない圧力」と非難した。

 ドイツ首相は、国際法と透明な人道支援手続きの尊重を求めた。

 イタリア、豪州、カナダ、インド、フィリピン、ベトナム、台湾が次々に声明を出した。

 国連安全保障理事会の緊急協議も要請された。


 そして、想定外の声明が相次いだ。


 アフガニスタン。

 イラン。

 中央アジアの一部国家。

 中東の複数国。


 中国との関係を重視してきた国々までもが、発砲映像を見た後、中国側の行動を擁護しきれなくなった。

 その映像は、あまりにも明確だった。


 中国側小型艇が接近する。

 日本側が警告する。

 中国側が発砲する。

 日本側が被弾する。


 人道支援という言葉は、銃声の前で崩れた。

 中国外務省は、米国の映像は捏造であると反論した。

 しかし、米国だけでなく、日本、複数の同盟国、商業衛星企業、独立系海洋監視団体が、同じ時刻の艦艇位置を確認し始めた。

 中国の反論は、説得力を失っていった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時三十分。


 南西諸島周辺海域。


 中国艦艇群の一部が、明確に進路を変えた。

 沖縄本島へ向かっていた艦艇が、外洋側へ。

 先島諸島方向へ接近していた小型艇が、母船へ。

 ヘリは甲板へ固定され、ローターは停止した。


 海上保安庁巡視船の船橋では、誰もすぐには喜ばなかった。


 船長が言った。


「撤退と判断するな。距離を取っただけだ」


 若い海上保安官が頷く。


「はい」


「負傷者搬送状況は」


「継続中です」


「犠牲者の搬送は」


 若い海上保安官は、一瞬だけ声を詰まらせた。


「準備中です」


 船長は、目を閉じなかった。


「丁重に扱え」


「はい」


 海の上では、同盟が動き、中国が後退し始めていた。


 だが、二十三名は戻らない。


 勝ったという言葉は、誰の口からも出なかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月三十日、午前零時。


 官邸危機管理センター。


 高嶺紗枝は、午前零時の総括報告を受けていた。


 羽鳥が言った。


「中国艦艇群の一部が後退。米国第五条了承後、国際社会の中国非難が急拡大。アフガニスタン、イランも中国側行動を批判。中国は事実上、外交的に孤立しつつあります」


 小森が続ける。


『現場は警戒継続。中国側の完全撤退までは、態勢を下げません。米軍との共同監視、情報共有は開始されています』


 外務省担当者が言った。


「中国側は映像捏造を主張していますが、国際的には支持を得られていません。撤退の外交的出口を探っている可能性があります」


 高嶺は、机の上に置かれた二十三名の名簿を見た。


「出口は用意してください」


 橘が顔を上げた。


「中国へ、ですか」


「はい。責任を曖昧にさせるためではありません。これ以上、人を死なせないためです」


 小森が言った。


『ただし、撤退が確認されるまでは』


「警戒継続です」


 高嶺は、即答した。


 片倉皐月(かたくらさつき)が、画面越しに言った。


『総理、国内では第五条了承を歓迎する声と、戦争になるのではという恐怖が同時に広がっています。市場、物流、災害復旧にも影響します』


「分かっています」


『明朝には、国民へ落ち着いた説明が必要です』


「午前七時に会見します」


 羽鳥が言った。


「総理、少し休んでください」


 高嶺は、断ろうとして、やめた。

 この数日で、彼女は学んでいた。

 倒れる首相は、国を守れない。


「三十分」


 片倉が画面越しに即座に言った。


『一時間』


 高嶺は、わずかに笑った。


「四十五分」


『またそれですか』


「妥協です」


 羽鳥が静かに言った。


「四十五分、記録します」


 高嶺は椅子に座った。

 目を閉じる前に、もう一度だけ南西諸島の海図を見た。

 中国艦艇のいくつかが、外洋へ向かっている。


 それでも、まだ終わりではない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前一時三十分。


 東京の避難所。


 米国大統領の会見映像が、スマートフォンの画面で繰り返し流れていた。

 鹿児島出身の女性も、東京の男性も、同じ画面を見ていた。


 発砲の瞬間。

 被弾。

 警告音声。

 米国大統領の声明。

 日米安全保障条約第五条。


 東京の男性が、低い声で言った。


「本当に撃ったんですね」


 女性は頷いた。


「映像、見たくなかったです」


「でも、見ないと信じない人もいる」


「そうですね」


 近くにいた外国人避難者が、不安そうに尋ねた。


「戦争、なりますか」


 男性は答えられなかった。

 女性も答えられなかった。


 そこへ、即応予備自衛官の班長が来た。


「政府は戦争を避けるために動いています。今は、公式情報を確認してください。避難所は通常どおり運営します。水、マスク、医療相談は続けます」


 外国人避難者は、小さく頷いた。


 避難所の中で、誰かが泣いていた。


 二十三名の死。

 米国の声明。

 中国の後退。


 それらは大きなニュースだった。

 だが、避難所では明日の水とトイレと薬も、同じくらい現実だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前三時。


 国会議員会館。


 野党各党は、対応を修正していた。


 内閣不信任案の提出は、少なくともこの夜は見送られる方向になった。


 中道連盟の代表代行が言った。


「通信治安維持命令への追及は続ける。しかし、今は中国の発砲と日米第五条への対応が優先です」


 民権民主党の議員が頷く。


「政府を白紙委任しない。だが、国として中国を非難する決議は必要です」


 公明平和党の議員が言った。


「犠牲者への哀悼決議、中国への抗議決議、同時に政府権限監視の国会委員会設置を求める」


 社会民主会の議員は、不満を隠さなかった。


「高嶺政権の強硬姿勢が戦争を招いた可能性を追及すべきです」


 令明新生組の議員も言った。


「第五条了承で一気に戦争へ向かう。止めるべきだ」


 中道連盟の代表代行は、静かに言った。


「戦争を止めるためにも、中国側の発砲を曖昧にしてはいけない。撃った側を責めずに政府だけを責めれば、現場の海上保安官と自衛官を二度殺すことになる」


 その言葉に、会議室は静まり返った。

 野党は割れたままだった。

 だが、不信任案を今すぐ出す空気は、少なくとも薄れた。


 中国の発砲映像は、政局の時間を止めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前四時三十分。


 北京。

 中国政府の内部も、激しく揺れていた。

 米国大統領が第五条了承を発表した。

 発砲映像が世界へ流れた。

 アフガニスタンとイランまでが批判した。

 友好国の沈黙なら、まだ耐えられた。

 だが、友好国からの批判は、国内外へ別の意味を持つ。


 中国側は、当初、日本が危険な接近を行ったと主張した。だが、米国の映像公開により、その主張は国際的に通りにくくなった。強行上陸の口実だった「人道支援」は、銃声によって壊れていた。

 中国艦隊への命令は、段階的後退へ変わり始めた。


 撤退とは言わない。


 配置転換。

 安全確保。

 救援活動の一時調整。


 中国側は、そういう表現を使った。


 だが、実際には日本から引かざるを得なくなっていた。

 南西諸島でこれ以上進めば、米軍との直接対峙になる。

 国際社会からの孤立は深まる。

 災害に苦しむ日本へ軍事圧力をかけた国として、長く記憶される。


 中国政府は、出口を探し始めた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時。


 南西諸島の朝。


 中国艦艇群は、明確に距離を取り始めていた。

 沖縄本島周辺から外洋へ。

 先島諸島周辺から西方へ。

 鹿児島島しょ部への圧力をかけていた別動艦も、進路を変えつつあった。

 海上保安庁、海上自衛隊、航空自衛隊、陸上自衛隊、米軍は、警戒を下げなかった。


 だが、現場には、夜とは違う空気があった。


 若い海上保安官が、双眼鏡を下ろした。


「離れていきます」


 船長は言った。


「まだ見る」


「はい」


「最後まで見る。見えなくなってからも見る」


「はい」


 犠牲者の搬送は、すでに進んでいた。

 負傷者は治療を受けている。

 巡視船の甲板では、乗員たちが言葉少なに動いていた。

 中国艦艇が離れていく。


 だが、誰も手を振らない。


 誰も笑わない。


 海には、まだ二十三名の不在が残っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前七時。


 高嶺紗枝は、朝の会見に立った。


 四十五分の休息を取ったはずだったが、顔色はまだ白い。だが、目は昨夜より少し落ち着いていた。



  ――――

  政府朝会見

  米国、日米安保第五条を了承

  中国艦艇に後退の動き

  警戒継続

  災害対応は継続

  ――――



『アメリカ合衆国ヘイズ大統領は、日本政府からの日米安全保障条約第五条発動要請を了承し、日本と共同対処する意思を明確に示しました。米国政府が公開した映像により、中国側小型艇からの発砲が国際社会にも明らかになっています』


 高嶺は続けた。


『中国艦艇群の一部には、南西諸島周辺から距離を取る動きが確認されています。しかし、政府は警戒を継続します。完全な撤退、発砲停止、責任の明確化、再発防止が確認されるまで、態勢を緩めません』


 記者が問う。


「中国は撤退しているのですか」


『一部に後退の動きがあります。ただし、政府としては、完全撤退と判断していません。現場は警戒を継続しています』


「米国の第五条了承により、日本は戦争に近づいたのではありませんか」


『第五条の了承は、戦争を始めるためではありません。これ以上の攻撃を抑止し、戦争を避けるための同盟の意思表示です。日本は引き続き、外交的解決を求めます』


「アフガニスタンやイランまで中国を非難しています。中国は孤立したと見ますか」


『国際社会の多くが、中国側の発砲と災害時の軍事圧力を問題視していることは事実です。日本は、この国際的な支持を、報復ではなく、撤退と再発防止につなげます』


 別の記者が問う。


「国内災害対応への影響は」


『南海トラフ、相模トラフ、富士山噴火、降灰、通信治安、すべての対応は継続しています。安全保障危機があっても、被災地支援を止めることはありません』


 高嶺は、最後にこう言った。


『亡くなられた二十三名を、戦争の理由にしてはなりません。彼らの犠牲を、これ以上の犠牲を止めるために生かさなければなりません』


 その言葉は、会見室に静かに落ちた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時。


 東京の避難所。


 会見を見ていた人々は、黙っていた。

 鹿児島出身の女性が、火山灰対策の紙を直していた。


 東京の男性が言った。


「中国、引くんですかね」


「分かりません」


「でも、米国が出たら、引くしかないですよね」


「そうだといいです」


 近くにいた外国人避難者が、少し安心したように言った。


「戦争、ならない?」


 即応予備自衛官の班長が答えた。


「ならないように、政府と関係機関が動いています。避難所は通常どおりです。今日も水とマスクを配ります」


 その言葉に、人々は少しだけ現実へ戻った。


 戦争。

 同盟。

 中国。

 米国。


 それらは大きすぎる言葉だった。


 だが、避難所の一日は、配水の時間、トイレの清掃、薬の確認、灰の持ち込み防止から始まる。


 国際秩序が揺れても、人は水を飲まなければならない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時。


 八月三十日の日本は、危機の山を一つ越えようとしていた。


 中国艦艇群は、日本周辺から段階的に距離を取り始めている。完全撤退ではない。謝罪もない。責任も認めていない。だが、強行上陸の勢いは失われていた。


 米国が第五条を了承し、映像を公開した。

 アフガニスタンとイランまでが中国を批判した。

 欧州、豪州、台湾、インド、東南アジア各国が日本支持を表明した。


 中国は、事実上、世界から孤立しつつあった。


 日本から引かざるを得なくなっていた。


 それでも、日本国内には重いものが残っている。


 二十三名の死。

 南海トラフ被災地の避難生活。

 相模トラフ被災地の復旧。

 富士山の灰。

 通信治安維持命令への不安。

 野党による政権監視。

 ネット空間の分断。

 外国人住民への不安。

 自衛隊、海上保安庁、警察、消防、自治体職員、医療者の疲労。


 官邸危機管理センターで、高嶺紗枝は午前九時の報告を聞いていた。


 羽鳥が言った。


「中国艦艇の後退は継続。ただし警戒継続。米国、共同監視を強化。国際社会の中国非難は拡大」


 小森が続ける。


『現場の緊張は続いています。犠牲者搬送、ご家族対応、負傷者治療、部隊再編を進めます』


 片倉が言った。


『市場は不安定ですが、米国声明後に一定の落ち着きも出ています。災害復旧財政と防衛・海保支援を同時に組みます』


 橘が続ける。


「野党は、不信任案を一時保留する方向です。ただし通信治安維持命令への追及は続ける見込みです」


 高嶺は頷いた。


「追及は受けます。記録を出してください」


 外務省担当者が言った。


「中国側へ、撤退確認と責任協議のための外交ルートを開いています」


「お願いします」


 高嶺は、五つの画面を見た。


 海は少しずつ遠ざかる赤を映していた。

 灰はまだ地上に残っていた。

 ネット空間の赤い線も消えていない。

 災害地図は、どれもまだ赤かった。


 だが、南西の海だけは、昨夜よりほんの少し青が戻り始めていた。


 高嶺は、静かに言った。


「退かせることができても、亡くなった二十三名は戻りません」


 誰も答えなかった。


「だから、これ以上増やさない。それを今日の方針にします」


 羽鳥が頷いた。


「はい」


 午前九時。


 日本は、戦火の入口から、かろうじて一歩引き戻された。


 同盟が動き、世界が動き、中国は後退し始めた。


 しかし、勝利ではなかった。


 それは、これ以上の死を止めるための、ぎりぎりの押し返しだった。

 外では、灰を払う音がしていた。

 避難所では、水が配られていた。

 南西の海では、まだ艦艇が見張っていた。

 官邸では、次の報告が待っていた。


 高嶺は、席に戻り、資料を開いた。


「次の報告を」


 羽鳥が答えた。


「はい」


 八月三十日、午前九時。


 日本はまだ、終わっていなかった。

 だが、滅びてもいなかった。

 灰と血と同盟の朝の中で、国はまた、次の一時間を生き延びようとしていた。


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