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第十九話 偽りの乾杯

 八月三十日、午前九時。


 日本は、まだ灰の中にいた。


 富士山の大規模噴出は低下し、空から降る火山灰は地域によって薄くなっていた。だが、地面に積もった灰は消えない。東京の道路では、除灰車両がゆっくりと進み、作業員と自衛官が灰を袋へ詰めている。排水溝を守るため、水で流さない。病院では吸気フィルターの交換が続き、学校では校庭の灰をどう処理するか、自治体が頭を抱えていた。


 南海トラフ巨大地震の被災地では、避難生活が長期戦に入っていた。水、食料、薬、衛生、遺体安置、仮設住宅、心のケア。相模トラフ・首都直下地震の被災地では、港湾と湾岸部の復旧、倒壊建物の捜索、液状化対策が進んでいる。富士山麓では、危険区域への立入禁止が続き、住民は家に戻れないまま避難所で朝を迎えていた。


 南西諸島の海では、中国艦艇群が距離を取り始めていた。


 だが、誰もまだ「撤退」とは言わなかった。


 米国大統領クラレンス・ヘイズが、日米安全保障条約第五条の発動要請を了承し、中国人民解放軍海軍の小型艇が発砲した瞬間の映像を公開した。その映像は、世界中を駆け巡った。


 夜の海。

 日本側の警告。

 中国側小型艇の接近。

 発砲の閃光。

 巡視船への被弾。

 無線の混乱。


 その映像は、人道支援という言葉を粉砕した。

 中国は、災害に苦しむ日本を助けに来たのではない。

 弱っている日本へ、軍事的圧力をかけに来た。

 国際社会は、そう受け止め始めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時二十分。


 官邸危機管理センター。


 高嶺紗枝(たかいちさえ)首相は、朝の国際情勢報告を受けていた。

 羽鳥真紀(はとりまき)危機管理監が、淡々と読み上げる。


「米国は、日米安全保障条約第五条に基づく共同対処協議を開始。米軍は沖縄、横須賀、佐世保、岩国、横田、座間で警戒態勢を維持。災害支援任務と防衛警戒を並行しています」


 外務省担当者が続ける。


「英国、フランス、ドイツ、イタリア、豪州、カナダ、インド、フィリピン、ベトナム、台湾が、中国側発砲への非難声明を出しています。国連安全保障理事会の緊急協議も調整中です」


 高嶺は頷いた。


「アフガニスタンとイランは」


「両国とも、災害時の軍事的圧力は容認できないとの声明を維持しています。中国側は強く反発していますが、声明撤回の動きはありません」


 そこへ、別の担当者が資料を差し込んだ。


「総理、ロシアです」


 会議室の空気が変わった。


 ロシア。


 中国と戦略的接近を深めていた国。


 そのロシアが、どちらへ動くかは、外務省が最も注視していた。


 担当者は、文面を読み上げた。


「ロシア外務省が声明を発表しました。内容は、中国側の発砲について『災害下にある隣接地域に対する軍事的緊張の拡大は、地域安定を損なう』とし、『関係国は即時に軍事行動を停止し、国際的手続きに基づく解決へ戻るべきである』としています。中国を名指しで強く糾弾する表現ではありませんが、事実上、中国側行動への批判です」


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が、防衛省から回線で言った。


『ロシアまで距離を置きましたか』


 外務省担当者が答える。


「はい。完全な日本支持ではありません。しかし、中国擁護ではありません。これは大きいです」


 高嶺は、静かに言った。


「中国の孤立が深まりますね」


 羽鳥が頷く。


「アフガニスタン、イランに加え、ロシアまでが中国側の行動を正当化しない立場を示したことで、中国は外交的に相当厳しい位置に置かれています」


 高嶺は、南西諸島の海図を見た。


 中国艦艇群のいくつかは、なお外洋側へ動いている。だが、完全に視界から消えたわけではない。


「孤立した大国は、危険です」


 その言葉に、会議室が静まった。


「追い詰めすぎず、撤退できる出口を残してください。ただし、責任を曖昧にする出口ではありません」


 外務省担当者が頷いた。


「はい」


 高嶺は続けた。


「米国、欧州、アジア各国と協調して、中国へ撤退を求める。日本単独の報復ではなく、国際秩序の回復として」


 片倉皐月財務大臣が、画面越しに言った。


『市場は、米国声明後に一部落ち着きましたが、ロシアの声明で中国の孤立が明確になると、逆に中国側の反応への警戒も出ます』


「経済対策も同時に」


『進めています。災害復旧と安全保障リスクを同時に織り込むのは、正直、悪夢のようですが』


「悪夢でも、数字は必要です」


『承知しています』


 高嶺は、わずかに頷いた。


 国は、灰を払いながら、戦争を避けながら、生活を支えながら、情報空間の悪意を追いながら、外交の綱を渡っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十時。


 世界の報道は、ロシア声明を大きく扱った。



  ――――

  ニュース速報

  ロシアも中国側行動に懸念表明

  アフガニスタン・イランに続き

  中国の外交的孤立深まる

  ――――



 東京の避難所では、人々がテレビを見ていた。


 鹿児島出身の女性が、火山灰対策の紙をまとめながら呟いた。


「ロシアまで」


 東京の男性が答える。


「中国、もう引くしかないんじゃないですか」


 即応予備自衛官の班長が、落ち着いた声で言った。


「完全に確認されるまでは、警戒は続きます」


「そうですよね」


 避難所の中では、少しずつ日常の作業が戻っていた。水の配布、薬の確認、トイレ清掃、灰の持ち込み防止。世界情勢が大きく動いていても、避難所の床を清潔に保たなければ、感染症が広がる。


 その横で、子どもが掲示板を指差した。


「けんかしない、まだ貼ってある」


 班長は答えた。


「大事だからね」


「中国ともけんかしない?」


 周囲の大人が、少しだけ固まった。


 班長は、しゃがんで言った。


「けんかにならないように、たくさんの人が止めているところだよ」


「でも、撃ったんでしょ」


「そうだね」


「じゃあ、怒っていい?」


 班長は、少し考えた。


「怒っていい。でも、怒りで何をするかは、よく考えないといけない」


 子どもは、難しそうな顔をした。そして、その答えは大人にも難しかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十一時三十分。


 南西諸島周辺海域。


 中国艦艇群は、明確に後退していた。ただし、中国側は撤退とは言わなかった。


 救援活動の一時停止。

 安全確保のための配置変更。

 不測の衝突を避けるための調整。


 そういう表現を使った。


 しかし、現場の海上保安官と自衛官には分かっていた。


 中国は、引いている。

 海上保安庁巡視船の船橋で、若い海上保安官がレーダーを見て言った。


「距離、さらに開きます」


 船長は頷いた。


「記録を続けろ」


「はい」


「引いている時ほど、事故が起きる。最後まで見る」


 若い海上保安官は、画面の点を見つめた。

 昨夜、同じ海で二十三名が死んだ。

 中国艦艇が遠ざかっても、その事実は遠ざからない。

 甲板では、亡くなった海上保安官を知る乗員が、黙って海を見ていた。

 誰も声をかけなかった。


 哀悼は、命令されるものではない。


 ただ、その場に沈むものだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後零時。


 国会議員会館。


 野党会合が開かれていた。


 内閣不信任案を提出するかどうか。

 国内通信治安維持命令をどう追及するか。

 中国への抗議決議にどう対応するか。


 ロシアまでが中国批判に回ったことで、情勢は大きく変わっていた。


 中道改革連合の代表代行が言った。


「不信任案は、現時点では提出を見送るべきです。南西諸島から中国艦艇が後退しているとはいえ、まだ完全撤退ではない。国会が政権を倒す動きを見せれば、国際的に日本の指揮系統が揺らいでいると見られる」


 民権民主党の国対委員長も頷いた。


「通信治安維持命令への追及は続ける。だが、安全保障対応では、政府と情報共有すべきです」


 公明平和党の議員は言った。


「犠牲者への哀悼決議、中国への抗議決議、政府権限監視の特別委員会。この三つを同時に進めるべきです」


 社会民主会の議員は、強く反発した。


「中国を追い詰めれば、戦争になる。第五条発動を評価するような決議には乗れません」


 令明新生組の議員も続ける。


「高嶺政権は、米国の核の傘を利用して中国を挑発している。通信治安維持命令で国内を黙らせ、外では米国と軍事行動。危険すぎる」


 中道改革連合の代表代行は、眉をひそめた。


「核という言葉を軽々に使うべきではありません。政府は核使用など一言も言っていない」


 社会民主会の議員が言った。


「言っていないだけで、裏では何を話しているか分からない」


 その言葉に、部屋の隅にいた一人の議員が、わずかに目を動かした。

 その議員とは、中道改革連合所属の有島芳政である。元左派ジャーナリストで過激な市民運動や、新左翼系団体との近さを何度も指摘されてきた人物だった。

 彼はその場では黙っていた。だが、目だけが別の計算をしていた。


 野党会合は午後一時過ぎに終わった。表向きの結論は、


 内閣不信任案提出の一時見送り。

 政府への監視強化。

 中国への抗議決議に関する各党協議。


 それは、比較的穏当な結論に見えた。

 しかし、その直後、国会議員会館内の別の部屋で、まったく別の会合が始まることになる。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時三十分。


 国会議員会館。


 日本民衆共産党代表、桐生玄二(きりゅうげんじ)の執務室。

 カーテンは閉じられていた。

 室内にいたのは、桐生玄二だけではなかった。


 社会民主会代表、佐原美都(さはらみやこ)

 令明新生組代表、雨宮蓮司(あまみやれんじ)

 中道改革連合の有島芳政(ありしまよしまさ)

 そして、立憲民政党の四人の議員。

 自らを憲法学者と称し、政府の安全保障政策を執拗に追及してきた小湊博章(こみなとひろあき)

 中国共産党幹部だった父を持つという噂を否定し続け、複雑な結婚歴と強い発信力で知られる蓮城美蘭(れんじょうみらん)

 かつて秘書給与をめぐる不正事件で有罪判決を受けながら政界へ戻った辻倉清花(つじくらきよか)

 元テレビアナウンサーで、政権批判の激しさから「狂犬」と呼ばれる杉瀬秀明(すぎせひであき)

 彼らの名は、表の野党会合の出席者名簿には残っていない。


 桐生の机の上には、一台のノート端末が置かれていた。画面には、動画ファイルのサムネイルが表示されている。


 映像は、首相官邸の一室らしき場所だった。

 高嶺紗枝首相に似た女性。

 米国大使に似た男性。

 机の上にはワイングラス。

 画面は隠し撮り風に揺れている。

 音声は、少しこもっていた。


『米国の核弾頭で中国を叩けば、すぐに終わる』


『そのための第五条です』


 そして、二人がワイングラスを合わせる。

 乾いた音。

 乾杯。


 動画はそこで終わっていた。

 部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。

 最初に口を開いたのは、雨宮蓮司だった。


「これは、本当に通るのか」


 有島芳政が低く笑った。


「通すんだよ。災害対応中に首相と米国大使が秘密会合。核攻撃を笑いながら話す。映像の衝撃があれば、検証より先に燃える」


 小湊博章が、眉をひそめた。


「憲法上、これは重大な問題だ。いや、映像が本物ならだが」


 蓮城美蘭が冷たく言った。


「本物かどうかなど、最初の二十四時間は問題ではありません。世論が動けばいい」


 辻倉清花は、少し不安そうに画面を見た。


「でも、生成AIだと見抜かれたら」


 有島は答えた。


「見抜く前に、報道させる。反高嶺のメディアに『官邸内部から入手した隠し撮り』として売り込む。大手が一社でも流せば、あとは勝手に拡散する」


 杉瀬秀明が、強い口調で言った。


「これは政権を倒せる。二十三人の死を利用して、米国と核戦争を狙う首相。絵として完璧だ」


 佐原美都が、慎重に言った。


「中国政府との線は消してあるのか」


 桐生玄二が頷いた。


「直接の痕跡は残していない。向こうの生成AIチームが作ったものだが、こちらに来るまでに複数の手を通している」


 小湊が言った。


「しかし、官邸映像という設定なら、角度や照明、警備記録と照合される」


 蓮城は冷笑した。


「だから隠し撮り風なのです。荒いほど、それらしく見える。完璧な映像は逆に疑われる」


 有島が続けた。


「メディアには、完全な真偽確認前に『疑惑映像』として出させる。断定させなくていい。疑惑で十分だ」


 辻倉が呟いた。


「でも、真相を追う記者もいるでしょう」


 有島の顔から笑みが消えた。


「そこは、こちらで押さえる」


 雨宮が尋ねる。


「押さえるとは」


 有島は、声を低くした。


「新左翼系の連中が動く。革新マルクス戦線、赤衛中核同盟、その周辺。記者の自宅前で抗議、勤務先への電話、取材先への圧力。もちろん、こちらは知らないことにする」


 佐原が不快そうに眉を動かした。


「暴力はまずい」


 有島は肩をすくめた。


「暴力ではない。市民の抗議だ」


 桐生玄二は、沈黙していた。


 彼は、机の上の動画を見つめていた。


 災害。

 発砲。

 日米安保第五条。

 ロシアまで中国批判。

 高嶺政権への支持が戻りかけている。


 このままでは、通信治安維持命令への追及も、戦時下の政局に埋もれる。


 だから、別の爆弾が必要だった。


 映像という爆弾。

 偽りの乾杯。

 核攻撃という言葉。


 それを国民の怒りと恐怖へ投げ込む。

 桐生は、静かに言った。


「出す」


 部屋の全員が彼を見た。


「今夜、出す。まずは反高嶺のメディアへ。次に匿名アカウント群。真偽確認を求める声が出たら、政府の隠蔽だと返す」


 小湊が頷いた。


「国会で追及する準備をする。映像が本物かどうかではなく、政府が説明責任を果たすべきだという形にする」


 杉瀬が笑った。


「テレビ向きだ。絵がある。核がある。米国がある。乾杯がある」


 蓮城が、端末を閉じた。


「では、始めましょう」


 午後一時五十八分。


 日本が中国艦艇の後退を確認し、世界が中国孤立を報じる中、国会議員会館の一室で、次の認知戦が放たれようとしていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後二時三十分。


 都内、反高嶺色の強いネットメディア編集部。


 編集長の端末に、匿名の連絡が入った。


   >官邸内部映像。高嶺首相と米国大使。核攻撃発言。

   >災害対応中の秘密会合。

   >今出さなければ、消されます。


 添付された動画を見た編集長は、息を呑んだ。


 高嶺首相らしき女性。

 米国大使らしき男性。

 ワイングラス。

 核弾頭。

 中国攻撃。

 乾杯。


 編集部がざわめいた。


 若い記者が言った。


「これ、本物ですか」


 編集長は答えなかった。

 別の記者が言う。


「官邸の部屋、こんな構造でしたっけ」


「音声が少し変です」


「顔は似てます」


「生成AIの可能性もあります」


 編集長は、動画を何度も再生した。


 衝撃は強い。だが、あまりにも強すぎる。

 事が事なだけに、真偽確認なしで出せば、世界を揺らす。米国との関係にも影響する。そして、中国の宣伝に利用される可能性もある。


 若い記者が言った。


「確認しましょう。官邸、米国大使館、映像解析、時刻照合。最低限」


 編集長は頷いた。


「そうだ。これは軽く扱えない」


 その時、編集部の代表電話が鳴り始めた。


 一件。


 二件。


 三件。


 SNSにも、見知らぬアカウントからの圧力が来た。



   《映像を握り潰すな》


   《政府の犬になるのか》


   《真実を出せ》


   《高嶺の核密談を隠すメディア》



 さらに、編集長の個人端末にも連絡が来た。



   >出さなければ、あなたが政府と取引した証拠を出す。



 根拠のない脅し。


 だが、編集部の空気は一気に変わった。


 若い記者が青ざめた。


「何ですか、これ」


 編集長は、低く言った。


「圧力だ」


 その背後で、革新マルクス戦線を名乗る匿名アカウントが、編集部前での抗議を呼びかけ始めていた。

 真相を辿ろうとした瞬間、圧力が来た。それ自体が、映像の危うさを物語っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後三時。


 内閣サイバー・情報分析室。


 異常拡散の兆候が検知された。

 まだ動画そのものは大規模公開されていない。

 だが、「核密談」「官邸隠し撮り」「高嶺乾杯」「米国核弾頭」という単語が、不自然なタイミングで複数アカウントから出始めていた。


 分析官が声を上げる。


「新しいキャンペーンです。キーワード群が立ち上がっています」


 室長が画面を見た。


「動画は」


「まだ確認できていません。ただし、複数の反政権系アカウントが、同じ言い回しで『とんでもない映像が出る』と予告しています」


「中国系ネットワークとの接続は」


「一部あります。先日の鹿児島・東京対立煽動アカウント群の一部が、同じタグを使い始めています」


 室長は、すぐに官邸へ連絡した。


「新たな認知戦の可能性。核密談を示唆する動画または偽情報が準備されている恐れ」


 官邸危機管理センターで報告を受けた高嶺は、眉をひそめた。


「核密談?」


 橘官房長官が、端末を見ながら言った。


「高嶺首相と米国大使が、官邸で中国への核攻撃を話した、という噂が出ています」


 会議室の空気が凍った。


 高嶺は、短く言った。


「事実無根です」


 外務省担当者も即答した。


「米国大使とのそのような会合はありません。そもそも、災害対応と南西危機で、首相官邸内の面会記録はすべて残っています」


 羽鳥が言った。


「映像が出る可能性があります」


「捏造映像ですね」


「その可能性が高いです」


 高嶺は、わずかに目を閉じた。


 中国は、海で押し返され、世界から孤立し始めた。

 ならば、次は日本国内を揺らす。

 米国との同盟を疑わせる。

 首相が核攻撃を望んだという映像を出す。

 災害対応中の国民に、恐怖と怒りを投げ込む。


 高嶺は言った。


「米国大使館へ即時確認。共同で否定できる準備を。官邸入退館記録、首相動静、会議映像、同時刻の出席者、すべて保全してください。映像が出たら、感情ではなく時系列と技術解析で潰します」


 内閣サイバー担当が頷いた。


「はい」


 高嶺は、低い声で続けた。


「ただし、出る前に騒ぎすぎない。こちらから噂を拡散しない」


 認知戦への対応は、早すぎても遅すぎてもいけない。

 火種を見つけたからといって、政府自身が酸素を送ってしまうことがある。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後四時。


 中国外務省は、米国の映像公開を「悪質な捏造」と批判しつつ、日本と米国が中国への軍事的圧力を高めていると主張した。


 だが、その主張とほぼ同時に、匿名アカウント群が「高嶺核密談映像」を示唆し始めた。



   《米国第五条の裏で、とんでもない会話が官邸で行われていた》


   《高嶺と米国大使が核攻撃を笑っていた》


   《近日中に映像が出る》


   《災害対応中にワインで乾杯》


   《二十三人の死を利用して中国を核攻撃》



 投稿は、まだ証拠を出していなかった。だが、怒りを先に作っていた。

 証拠を見る前に、怒る準備をさせる。それが認知戦の手口だった。


 官邸の情報分析室では、拡散パターンを追っていた。


「鹿児島・東京対立煽動と同じアカウント群が参加」


「中国語圏の外部サイトで、同じ文言が先に出ています」


「国内の一部政治関係者アカウントが、ほぼ同時に反応」


「メディア関係者への圧力投稿も確認」


 室長は、顔を硬くした。


「これは、国内協力者がいる」


 その報告は、官邸へ上がった。


 高嶺は、静かに言った。


「名前は」


「まだ断定できません。ただし、複数の国会議員関係者の周辺アカウントが、異常に早く反応しています」


 橘が低く言った。


「国会内から漏れている可能性も」


 高嶺は、しばらく黙った。


 国内政治の対立はある。

 政府批判もある。

 それは民主主義の中で当然だ。


 だが、外国政府と共謀して、戦争危機下に核攻撃捏造映像を流すなら、それは批判ではなく、国家を壊す行為だった。


「警察庁、公安、内閣サイバー、合同で追ってください。国会議員が関わっている可能性があるなら、法に基づき慎重に。しかし、ためらわないでください」


 羽鳥が答えた。


「はい」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後五時三十分。


 反高嶺メディアの編集部前。


 数十人の抗議者が集まり始めていた。

 彼らは、映像を公開しろ、と叫んでいた。


「核密談を隠すな!」


「高嶺政権の犬になるな!」


「真実を出せ!」


 その中には、純粋に怒っている者もいた。

 だが、明らかに場を仕切る者たちがいた。


 黒い帽子。

 揃ったプラカード。

 同じ文言。

 拡声器。


 彼らは「革新マルクス戦線」や「赤衛中核同盟」の周辺団体名を使っていた。かつての極左暴力集団の流れを引く、架空の新左翼過激派組織である。


 編集部の若い記者は、窓から外を見ていた。


「これ、偶然じゃないですよね」


 編集長は、厳しい顔で言った。


「偶然でこんなに早く集まらない」


「映像、どうしますか」


「出さない。少なくとも、検証前には出さない」


「でも、外は」


「外が騒ぐほど、怪しい」


 その時、別の記者が声を上げた。


「官邸と米国大使館が、それぞれ同時刻の動静記録を出す準備をしているようです」


 編集長は頷いた。


「なら、先に検証記事を書く。『疑惑映像が持ち込まれたが、真偽未確認。圧力を受けている』と」


「攻撃されますよ」


「映像を鵜呑みにして出すよりましだ」


 編集部は、記事を書き始めた。

 しかし、その動きも監視されていた。

 数分後、SNSでは、編集部を攻撃する投稿が増えた。



   《映像を握り潰す反高嶺メディア》


   《政府に買収された》


   《記者の名前を晒せ》


   《編集部へ抗議を》



 圧力は、さらに強まった。

 真相を辿ろうとする者を黙らせるために。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後六時三十分。


 官邸。


 米国大使館から正式な回答が届いた。


 高嶺首相と米国大使が、映像にあるような会合を行った事実はない。

 該当時刻、米国大使は大使館内で本国との安全保障協議に参加していた。

 官邸側の入退館記録にも、該当する入館記録はない。

 首相は同時刻、危機管理センターで南西諸島対応会議に出席していた。

 複数の閣僚、官僚、記録映像、議事録が存在する。


 内閣サイバー・情報分析室は、まだ公開前に一部入手した動画断片を解析し、すぐに不自然点を見つけた。


 照明の反射が官邸実室と合わない。

 ワイングラスの縁に映る人物の形が破綻している。

 音声の息継ぎが不自然。

 首相の口元と発話が微妙にずれている。

 米国大使に似た男性の手の動きに、生成映像特有の滑りがある。

 官邸の壁面装飾が、過去の報道写真を合成したように見える。


 専門家は、短く言った。


「生成AIによる捏造の可能性が極めて高いです」


 高嶺は、報告を聞いて頷いた。


「米国と共同否定を」


 外務省担当者が答える。


「準備済みです」


「映像が公開された場合、即時に時系列と解析結果を出します」


 羽鳥が言った。


「総理、国会議員関係者の関与疑いについては」


 高嶺は、低く言った。


「まだ公表しない。証拠が必要です。焦れば、こちらが政治弾圧に見える」


 橘が頷いた。


「はい」


 高嶺は、画面に映る捏造動画の静止画を見た。


 自分に似た顔が、ワイングラスを持っている。そもそも高嶺はアルコールが得意ではない。ほぼ下戸といっていいほどにアルコールに耐性がないのだ。


 画面に映るワイングラスを持つ自分に似た顔――吐き気がした。


 災害で人が死んでいる。

 南西の海で二十三名が死んだ。

 その死の直後に、首相が核攻撃を笑う映像。


 そんなものを作る人間がいる。


 高嶺は、静かに言った。


「これは、ただのデマではありません。二十三名への冒涜です」


 会議室の誰も、反論しなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後七時三十分。


 ついに動画が出た。

 最初に投稿したのは、匿名の動画アカウントだった。

 数分後、複数の反高嶺アカウントが一斉に拡散した。

 さらに、令明新生組、社会民主会、日本民衆共産党系の一部関係者アカウントが「真偽を問う」と称して引用した。



   《高嶺首相と米国大使の核密談映像か》


   《災害対応中にワインで乾杯》


   《中国を米国核弾頭で攻撃する発言》


   《政府は説明せよ》



 映像は、恐ろしい速度で広がった。

 人々は、怒る前に確認しなかった。

 怒りが、確認の代わりになった。



   《本当なら終わり》


   《戦争を望んでいたのか》


   《二十三人の死を利用して核攻撃?》


   《高嶺は辞めろ》


   《映像がAIっぽい。落ち着け》


   《火消しが湧いてる》


   《米国大使館の動静を確認しろ》


   《そんなの政府が改竄する》



 官邸は、即時に動いた。



  ――――

  政府発表

  拡散中の核密談映像は事実無根

  首相と米国大使の当該会合なし

  生成AIによる捏造の疑い

  解析結果を公表予定

  ――――



 同時に、米国大使館も声明を出した。



  ――――

  米国大使館声明

  拡散中の映像は虚偽

  大使は該当時刻に官邸訪問せず

  米国は核攻撃協議を行っていない

  偽情報に注意

  ――――



 さらに、官邸は時系列を出した。


 該当時刻、高嶺首相は危機管理センターで南西諸島対応会議。

 出席者名。

 議事録。

 官邸内記録。

 米国大使の所在。

 入退館記録。

 映像解析の初期所見。


 しかし、偽動画はなお広がった。

 真実より、怒りの方が速かった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時三十分。


 国会議員会館、桐生玄二の執務室。


 動画が拡散される様子を、彼らは見ていた。

 杉瀬秀明は、笑みを浮かべた。


「燃えた」


 辻倉清花は、不安そうに言った。


「官邸がすぐ否定しました。米国大使館も」


 小湊博章が答える。


「否定するのは当然です。問題は説明責任を求め続けることだ」


 蓮城美蘭は、端末を見ながら言った。


「すでに『政府が改竄している』という投稿が伸びています。時系列を出されても、信じない層は信じません」


 有島芳政が頷いた。


「真実を争うな。疑惑を残せ」


 佐原美都は、少し青ざめていた。


「これは、やりすぎでは」


 雨宮蓮司も沈黙していた。

 桐生玄二は、椅子に深く座っていた。


「ここで引けば、我々が終わる」


 有島が続ける。


「メディアへの圧力を強める。検証記事を出すところには、疑惑隠しだと攻撃する。革新マルクス戦線の連中は、すでに動いている」


 辻倉が声を落とした。


「暴力事件になったら」


 有島は冷たく言った。


「自然発生の市民の怒りだ」


 その言葉に、部屋の中の何人かが目を逸らした。


 ――もう戻れない――


 その空気が、確かにあった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後九時。


 警察庁サイバー特別対策本部。


 捏造動画の発信源追跡が始まった。


 最初の投稿アカウント。

 素材拡散アカウント。

 国内政治関係者の引用タイミング。

 中国語圏サイトでの事前告知。

 極左暴力集団系アカウントによるメディア圧力。


 すべてが線でつながり始めた。


 分析官が言った。


「これは、先日の鹿児島・東京対立煽動と同じネットワークを一部使っています」


 別の分析官が続ける。


「動画ファイルのメタデータは削られていますが、圧縮履歴に中国系生成AIプラットフォームの特徴と一致する痕跡があります」


 室長が問う。


「国内協力者は」


「複数の国会議員関係者アカウントが、一般公開前に動画の存在を示唆しています。時刻が合いすぎています」


「令状準備。だが、国会議員本人に踏み込むなら、政治的爆発になる。証拠を固めろ」


「はい」


 通信治安維持命令が、再び重い意味を持ち始めた。

 今度の対象は、一般ユーザーではない可能性がある。


 国会議員。

 政党幹部。

 外国政府。

 極左暴力集団。

 捏造映像。


 国家安全保障危機の中で、それらが結びついているかもしれない。


 捜査員たちの顔には、緊張が浮かんでいた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時。


 官邸。


 高嶺紗枝は、緊急会見を開いた。



  ――――

  内閣総理大臣緊急会見

  核密談映像は捏造

  米国大使館と共同否定

  生成AIによる認知戦の疑い

  ――――



『現在、私と米国大使が、官邸内で中国への核攻撃について話し、ワイングラスで乾杯しているとされる映像が拡散されています。この映像は事実無根です。そのような会合は存在しません。米国大使館も、同様に否定しています』


 高嶺は、正面を見た。


『該当時刻、私は官邸危機管理センターで南西諸島対応会議に出席していました。出席者、議事記録、映像記録、入退館記録があります。米国大使は官邸を訪問していません。政府は、映像の解析結果を順次公表します』


 記者が問う。


「総理、これは中国による認知戦ですか」


『中国政府との関係を含め、現在分析中です。ただし、生成AIによる捏造映像が、外国勢力の情報工作と連動して拡散された疑いが強いと見ています』


「国内政治家の関与はありますか」


 会見室がざわめいた。


 高嶺は、少しだけ間を置いた。


『現時点で、個別の人物について申し上げる段階ではありません。証拠に基づき、法に従って対応します。政党や立場にかかわらず、外国政府と共謀して国家安全保障を損なう偽情報を流した者がいれば、厳正に対処します』


「政府に批判的なメディアへの圧力になりませんか」


『なりません。メディアが真偽を確認すること、政府を批判することは当然です。しかし、捏造映像を事実のように拡散し、真相確認を行う記者へ圧力をかける行為は、報道の自由ではありません』


 高嶺は、少しだけ声を強めた。


『二十三名の海上保安官と自衛官が亡くなりました。その死を利用し、核攻撃を笑う首相という偽りの映像を作ることは、犠牲者とそのご家族への冒涜です。国民の皆様には、どうか拡散前に確認してください。怒りを利用されないでください』


 その言葉は、短く切り取られた。



   《怒りを利用されないでください》



 だが、同時に別の切り取りも出た。



   《高嶺、国内政治家の関与を示唆》


   《政府、野党弾圧へ》


   《核密談映像を捏造と断定》



 事実を出しても、切り取りは止まらなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時。


 世界の反応は早かった。


 米国国務省は、捏造動画について「悪質な偽情報」と断定し、日本政府と共同で対処すると表明した。

 英国、フランス、ドイツも、生成AIを用いた国家安全保障危機下の偽情報拡散を非難した。

 台湾は、中国発の認知戦と類似するとして警戒を呼びかけた。

 ロシアは、慎重な表現ながら、「核使用に関する虚偽情報の拡散は、地域の緊張を不必要に高める」と声明を出した。

 中国は、動画との関与を否定した。


 だが、否定すればするほど、タイミングの不自然さが際立った。


 中国艦艇が後退し、ロシアまでが距離を置いた直後。

 日本国内で、首相と米国大使の核密談映像が拡散される。

 それは、あまりにも都合が良すぎた。


 官邸危機管理センターで、羽鳥が言った。


「総理、動画の拡散速度は落ち始めています。米国大使館の否定と官邸記録の公開が効いています。ただし、信じたい層には残ります」


 高嶺は頷いた。


「完全には消せません」


「はい」


「なら、証拠を積み上げるしかありません」


 警察庁から報告が入った。


「極左暴力集団系アカウントによるメディア圧力、確認。編集部前の威力業務妨害の疑いで、警視庁が対応中です。捏造動画の初期拡散アカウントについても、ログ保全に入りました」


 高嶺は言った。


「真相を辿るメディアを守ってください。政府に批判的であっても、検証する報道機関は守る対象です」


 橘が頷いた。


「はい」


 高嶺は、少しだけ疲れた声で続けた。


「批判する自由を守ることと、捏造を止めることは矛盾しません」


 その言葉は、危機管理センターの議事録に残された。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時四十分。


 国会議員会館。


 桐生玄二の執務室には、重苦しい空気が漂っていた。


 動画は広がった。

 だが、官邸と米国大使館の否定は早すぎた。

 時系列も出た。

 解析も出た。

 メディアの一部は、動画をそのまま出すのではなく、捏造疑惑として報じ始めた。

 さらに、編集部への圧力が問題視され始めている。


 有島芳政は、苛立ったように机を叩いた。


「メディアが腰抜けなんだ」


 小湊博章は、顔色が悪かった。


「これは、まずい。政府が国内政治家の関与を示唆した」


 蓮城美蘭は、端末を見ながら言った。


「まだ証拠は出ていません。こちらからは何も言わないことです」


 辻倉清花は、小さな声で言った。


「でも、圧力をかけた団体の線を辿られたら」


 有島は睨んだ。


「お前が怯えてどうする」


 佐原美都は、ついに言った。


「これは、もう政治活動の範囲を超えている」


 雨宮蓮司も、苦い顔で頷いた。


「中国政府との線が出たら、終わる」


 桐生玄二は、黙っていた。

 彼の表情は読めなかった。しかし、彼の手は、机の下で固く握られていた。


 午後十一時五十分。


 部屋の外で、遠く足音がした。

 誰かが来たわけではない。

 ただの警備員かもしれない。


 だが、室内の全員が一瞬、息を止めた。


 その時、彼らは初めて、自分たちが何をしたのかを身体で理解し始めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月三十一日、午前零時。


 日付が変わった。


 中国艦艇群は、日本周辺からさらに距離を取っていた。

 完全撤退の確認にはまだ時間が必要だったが、強行上陸の勢いは失われていた。米国の第五条了承、発砲映像の公開、アフガニスタン、イラン、ロシアを含む各国の非難によって、中国は事実上、世界から孤立しつつあった。

 だが、その孤立の影は、日本国内へ偽情報として落ちていた。


 核密談捏造動画。

 反首相メディアへの売り込み。

 検証しようとする記者への圧力。

 極左暴力集団の動員。

 国会議員関係者の不自然な動き。

 中国発生成AIの痕跡。


 それらはまだ、すべてが証明されたわけではない。しかし、一本の線になり始めていた。


 官邸危機管理センターで、高嶺紗枝は午前零時の報告を受けていた。


 羽鳥が言った。


「中国艦艇、後退継続。国際的非難拡大。捏造動画の拡散は一部鈍化。ただし、陰謀論化して残存。警察庁、公安、内閣サイバーが発信源と国内協力者の追跡を継続しています」


 小森進一が続ける。


『南西方面の警戒は継続。犠牲者二十三名のご家族対応、部隊ケアを進めています』


 片倉皐月が言った。


『市場は不安定ですが、中国後退と米国第五条で最悪の崩れは避けています。災害復旧財政は予定どおり進めます』


 橘義隆が報告する。


「野党は、明日以降、政府の通信治安維持命令と捏造動画への対応をめぐり、さらに追及する見込みです。ただし、動画そのものを正面から本物と主張する議員は減っています」


 高嶺は頷いた。


「批判は受けます。ですが、捏造には屈しません」


 羽鳥が尋ねた。


「総理、少し休みますか」


 高嶺は、しばらく黙った。


 南海の被災地。

 相模の港。

 富士山の灰。

 南西の海。

 ネット空間の悪意。

 そして、国会議員会館のどこかで作られた偽りの乾杯。


 すべてが、彼女の前に並んでいた。


「十分だけ」


 片倉が画面越しに即座に言った。


『三十分』


 高嶺は、小さく笑った。


「二十分」


『妥協しましょう』


 羽鳥が記録した。


「二十分休息」


 高嶺は椅子に座った。


 目を閉じる。


 だが、眠る前に一つだけ言った。


「真実は、遅いですね」


 羽鳥は答えた。


「でも、積み上げられます」


 高嶺は、目を閉じたまま頷いた。


 午前零時。


 日本は、災害と戦火の入口から、かろうじて踏みとどまっていた。

 だが、今度は偽りの映像が、国内の信頼を焼こうとしていた。

 灰は少しずつ薄くなっている。

 中国艦艇も遠ざかっている。

 それでも、言葉と映像の中には、まだ火種が残っていた。

 この国は、瓦礫だけでなく、真実までも掘り起こさなければならなくなっていた。


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