第二十話 映像の灰
八月三十一日、午前二時。
東京の空は、まだ灰を含んでいた。
富士山の大規模噴出は低下し、降灰の勢いも多くの地域で弱まっている。それでも、街の端々には白い粉が残り、道路の排水溝、駅前広場、避難所の入口、病院の吸気口、学校の校庭に、噴火の記憶が積もっていた。夜間の除灰作業は続き、自衛隊、自治体、建設業者、消防、警察、民間事業者が、照明の下で静かに動いている。
南海トラフ巨大地震の被災地では、避難所の夜が深かった。高知、宮崎、和歌山、徳島、愛知、静岡。眠れない人々が、毛布の中でスマートフォンを握っている。相模トラフ・首都直下地震の被災地では、湾岸部の復旧と捜索が続き、横浜港、川崎港、東京湾岸では、液状化の泥と灰が混じった路面を作業灯が照らしていた。
南西諸島の海では、中国人民解放軍海軍の艦艇群が、さらに外洋へ距離を取り始めていた。
米国大統領クラレンス・ヘイズが日米安全保障条約第五条の発動要請を了承し、米国が公開した発砲映像によって、中国側の「人道支援」という主張は崩れた。アフガニスタン、イランに続き、ロシアまでが中国側の行動へ懸念と批判を示したことで、中国は外交的に孤立した。
その孤立は、軍艦を引かせた。
しかし、軍艦が引いても、偽情報は引かなかった。
首相官邸で、高嶺紗枝首相と米国大使が、災害対応中に秘密裏に会い、「米国核弾頭で中国を攻撃する」と話しながらワイングラスで乾杯していたという、隠し撮り風の捏造動画。
官邸も米国大使館も、即座に否定した。
高嶺首相は、該当時刻に危機管理センターで南西諸島対応会議に出席していた。米国大使は、発災後、一度も首相官邸を訪れていない。むしろ相模トラフ・首都直下地震と富士山噴火の影響で、大使館側も一部機能を退避させ、米国大使自身も安全確保のため、大使館関係施設から別の臨時拠点へ避難していた。
アリバイは、あった。
記録も、あった。
それでも、映像は残った。
映像は、真実より速かった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前二時三十分。
官邸危機管理センター。
高嶺紗枝は、二十分の休息から戻っていた。眠れたわけではない。椅子に体を預け、目を閉じただけだった。それでも、戻った彼女の目は、少しだけ焦点を取り戻していた。
羽鳥真紀危機管理監が、深夜報告を始めた。
「南西諸島方面、中国艦艇群の後退は継続。沖縄本島、宮古、石垣、与那国周辺から距離を取っています。海上保安庁、海上自衛隊、航空自衛隊、陸上自衛隊、米軍による警戒監視は継続」
小森進一防衛大臣が、防衛省から回線で続けた。
『午前七時までには、中国艦艇が沖縄・南西諸島周辺の直接脅威海域から離脱する可能性が高いと見ています。ただし、完全撤退確認までは警戒を下げません』
高嶺は頷いた。
「二十三名のご遺族対応は」
『海上保安庁、防衛省、各所属部隊で対応を続けています。ご家族への説明、搬送、弔意、補償手続き、隊員心理支援を進めています』
「お願いします。数字にしないでください」
『はい』
外務省担当者が資料を開いた。
「ロシア声明後、中国側はさらに孤立しています。中国外務省は米国映像を捏造と主張し続けていますが、国際的支持は得られていません。一方で、中国系情報ネットワークは、核密談捏造動画の拡散に軸足を移しています」
橘義隆官房長官が続けた。
「捏造動画について、反高嶺系メディア数社に持ち込みがありました。そのうち一部は慎重に検証へ回っていますが、明朝の情報番組で取り上げる動きがあります」
高嶺の表情が硬くなった。
「放送するのですか」
「『真偽不明の疑惑映像』という形で扱う可能性があります」
羽鳥が補足する。
「映像そのものを流さず静止画だけにする局もありますが、一部番組は映像を流す準備をしているとの情報です」
高嶺は、低く言った。
「米国大使館と共同で再度声明を――」
高嶺が弦を続ける前に、橘官房長官が言葉をかぶせた。
「発災後、米国大使は一度も首相官邸を訪れていない。該当時刻、首相は危機管理センター。米国大使は避難中であり、大使館側の記録もある。これを明確に」
橘官房長官の言に、高峰が、そして外務省担当者が頷く。
「はい」
内閣サイバー・情報分析室長が言った。
「動画解析の追加結果です。顔の微細な動き、音声波形、照明反射、官邸室内の構造不一致、ワイングラスの反射破綻、米国大使とされる人物の手指の生成異常が確認されています。生成AIによる捏造の可能性は極めて高い」
高嶺は静かに尋ねた。
「作成元は」
「中国発の生成AI基盤に由来する特徴が複数あります。ただし、最終編集は国内で行われた可能性があります。国内政治関係者、極左暴力集団系ネットワーク、中国側情報工作の接点を公安、警察庁、内閣サイバーで追っています」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
国内政治家。
外国政府。
極左暴力集団。
生成AI。
戦争危機の中で、それらが結びついている可能性。
高嶺は言った。
「証拠で進めてください。怒りで動かない。疑いだけで公表しない」
橘が頷いた。
「はい」
高嶺は、画面上の捏造動画の静止画を見た。
自分に似た女が、ワイングラスを掲げている。
その顔は、自分のようで、自分ではなかった。
だが、これを見た人々の怒りは本物になる。
偽物が、本物の怒りを生む。
それが、今の認知戦だった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前三時四十分。
国会議員会館。
日本民衆共産党代表、桐生玄二の執務室には、まだ灯りがついていた。
昨夜の会合に参加した者たちは、一部が帰り、一部が残っていた。机の上には、問題の動画が入った端末と、複数の通信メモが置かれている。
有島芳政は、苛立った様子で画面を見ていた。
「官邸の否定が早すぎる」
杉瀬秀明が吐き捨てるように言った。
「米国大使館まで即座に否定した。反応が早いということは、痛いところを突かれたという見方もできる」
小湊博章は、額に手を当てていた。
「しかし、首相動静、官邸入退館記録、大使の所在記録が出れば、映像の信憑性は崩れる」
蓮城美蘭は、冷静に答えた。
「崩れてもいいのです。完全に信じさせる必要はありません。疑わせることが目的です」
辻倉清花は、声を潜めた。
「でも、国内協力者の線を追われています。警察庁と公安が動いている」
有島が睨んだ。
「ここで怯えるな」
佐原美都は、硬い表情で言った。
「私は、これ以上は乗れません。動画の出所が中国側と繋がれば、政治生命どころの話ではない」
雨宮蓮司も沈黙したままだった。
桐生玄二は、椅子に深く腰掛けていた。彼は、窓のない執務室の壁を見ていた。
中国艦艇は引いている。
米国は第五条を了承した。
ロシアまで中国批判に回った。
高嶺政権は、危機対応によって支持を戻しつつある。
このままでは、国内通信治安維持命令への批判も、捏造動画の疑惑も押し流される。
桐生は、低く言った。
「朝の情報番組で流させる」
佐原が顔を上げた。
「まだやるのですか」
「真偽不明でいい。疑惑映像として流せばいい。国民に見せることが重要だ」
小湊が言った。
「国会への首相出席要求を出します。映像の真偽ではなく、核攻撃をめぐる政府の姿勢をただすという名目で」
杉瀬が頷く。
「テレビで燃やし、国会で追う。高嶺は災害対応中でも出てこざるを得ない」
辻倉は、なお不安そうだった。
「捏造だと確定したら」
蓮城が冷たく言った。
「捏造だとしても、なぜ国民が信じたのか、という問題に移ればいい。政府への不信があるからだと」
有島が笑った。
「そうだ。真偽ではなく、不信だ。燃料になればいい」
この一言に、部屋の空気が凍った。
燃料――。
国民の恐怖も、怒りも、災害も、二十三名の死も、すべて燃料。
佐原は、その言葉を聞いて明確に顔を背けた。
だが、もう止められなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前五時。
南西諸島周辺海域。
東の空が白み始める頃、中国艦艇群はさらに遠ざかっていた。
海上保安庁巡視船のレーダー画面で、中国艦艇を示す点が、沖縄本島、宮古、石垣、与那国の直接警戒線から外れていく。海上自衛隊と航空自衛隊、米軍の監視も、それを確認していた。
船長は、まだ撤退とは言わなかった。
「距離は」
「さらに開いています」
「進路は」
「西南西方向。母港方面へ向かう可能性」
「記録継続」
「はい」
若い海上保安官は、双眼鏡を下ろした。目の下には濃い疲労がある。
彼は、昨日まで同じ船にいた同僚の顔を思い出していた。
二十三名。
その中には、直接話したことのある者もいた。訓練で顔を合わせた者もいた。名前だけ知っていた者もいた。
中国艦艇が消えていく海を見ながら、彼は思った。
なぜ、もっと早く引かなかったのか。
なぜ、撃ったのか。
なぜ、あの人たちが死ななければならなかったのか。
答えは、海の向こうへ遠ざかっていった。
だが、記録は残る。
映像も、無線も、航跡も。
そして、死者の名前も。
☆☆☆ ☆☆☆
午前六時三十分。
防衛省中央指揮所。
中国艦艇の後退状況が、正式に整理されていた。
小森進一防衛大臣は、報告書を読み上げる担当者の声を聞きながら、目を閉じなかった。
「沖縄本島周辺、直接脅威海域から中国艦艇は離脱。宮古、石垣、与那国周辺、直接脅威海域から離脱。鹿児島島しょ部方面の別動艦も後退。午前七時時点で、沖縄・南西諸島海域における中国人民解放軍海軍艦艇の直接的存在は確認されない見込み。ただし、外洋での警戒監視は継続」
小森は、短く言った。
「午前七時に、官邸へ正式報告」
「はい」
部下が少しだけ安堵した表情を見せた。
小森は、それを責めなかった。
人間だ。
安堵くらいしていい。
だが、彼自身は安堵しなかった。
二十三名が死んだ後の撤退に、勝利という言葉はない。
彼は、現場部隊への通達文を自ら確認した。
警戒継続。
挑発行為への冷静対応。
犠牲者への弔意。
負傷者支援。
隊員心理ケア。
災害派遣任務継続。
最後の一文に、彼は赤で線を引いた。
――災害派遣任務継続――
中国艦艇が去っても、南海トラフ被災地も、相模トラフ被災地も、富士山麓も、灰の首都も残っている。
自衛隊は、戦火を避けた後も、瓦礫へ戻る。
☆☆☆ ☆☆☆
午前七時。
官邸危機管理センター。
羽鳥真紀が、正式に報告した。
「総理。午前七時現在、中国人民解放軍海軍の艦艇は、沖縄本島および南西諸島周辺の直接脅威海域から離脱しました。防衛省、海上保安庁、米軍が確認。外洋監視は継続します」
会議室に、わずかな息が漏れた。
高嶺紗枝は、すぐには言わなかった。
長い数秒の後、静かに頷いた。
「現場に伝えてください。警戒継続。ただし、ここまで踏みとどまったことに感謝すると」
小森が答えた。
『はい』
「犠牲者二十三名への弔意は、変わりません」
『はい』
外務省担当者が続ける。
「米国、欧州、台湾、豪州、インド、アフガニスタン、イラン、ロシアにも、中国艦艇の後退確認を共有します。中国側へは、撤退を確認しつつ、発砲責任と再発防止を求める抗議を継続します」
高嶺は頷いた。
「お願いします」
その時、橘義隆官房長官が、険しい顔で別のモニターを指した。
「総理、始まりました」
画面には、早朝の情報番組が映っていた。
反高嶺色が強いことで知られる民間放送局の情報番組だった。
司会者が、緊張した表情で話している。
『真偽は不明ですが、重大な疑惑映像が持ち込まれました。災害対応中、首相官邸で高嶺総理と米国大使が秘密裏に会合し、中国への核攻撃に関する会話をしていた可能性を示すものです』
高嶺は、表情を変えなかった。
画面が切り替わる。
隠し撮り風の映像。
高嶺に似た女。
米国大使に似た男。
ワイングラス。
こもった音声。
『米国の核弾頭で中国を叩けば、すぐに終わる』
『そのための第五条です』
乾杯。
映像は、ぼかしと「真偽不明」のテロップ付きで流された。
だが、流された。
その瞬間、インターネットは爆発した。
――――
ニュース速報
情報番組が核密談疑惑映像を放送
官邸・米国大使館は事実無根と否定
生成AI捏造疑い
――――
《テレビで流れたぞ》
《高嶺終わった》
《真偽不明って言いながら流すのやばい》
《米国大使館が否定してる》
《否定するに決まってる》
《官邸に大使が来てないなら映像おかしい》
《災害中にワイン? ありえないだろ》
《AIっぽいけど信じたい人が信じてる》
《国会に首相を呼べ》
高嶺は、モニターを見つめた。
怒りではなく、冷たさが胸の奥に広がっていく。
発災後、一度も米国大使は官邸に来ていない。
自分は、ワイングラスどころか、まともに温かい食事も取れていない。
それでも、この映像を見た誰かは、彼女が二十三名の死を利用し、中国への核攻撃を笑ったと信じる。
そう信じたい者もいる。
高嶺は言った。
「即時対応。米国大使館と共同声明。アリバイ資料を再掲。放送局へ抗議と訂正要請。第三者解析機関の所見も出してください」
橘が答える。
「はい」
羽鳥が続ける。
「野党が、国会への総理出席要望を出す準備に入りました」
「受けます」
会議室が一瞬止まった。
高嶺は続けた。
「ただし、災害対応と安全保障対応を止めない範囲で。出席可能な時間を調整してください。逃げたと言われるより、出て否定した方がよい」
片倉皐月が、画面越しに言った。
『総理、罠です』
「分かっています」
『それでも出るのですか』
「真実から逃げれば、偽りの方が大きくなります」
片倉は、何も言わなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前八時。
米国大使館。
米国大使ハロルド・ウィンスローは、臨時拠点の会議室で報告を受けていた。相模トラフ・首都直下地震以降、大使館の一部機能は安全確保のため分散され、大使自身も警備上の理由から、限られた場所で米国本国、在日米軍、日本外務省と連絡を取っていた。
彼は、発災後、一度も首相官邸を訪れていなかった。
その記録は明確だった。
入退館記録。
車両移動記録。
警備ログ。
通信会議記録。
本国との協議映像。
同席者。
すべてがある。
ウィンスロー大使は、問題の映像を見て、顔をしかめた。
『これは、私ではない』
側近が言った。
『顔は似せていますが、耳の形と顎の動きが違います。音声も合成の可能性が高いです』
『官邸には行っていない。ワインなど飲んでいる時間もない』
大使は、深く息を吐いた。
『日本は災害の中にある。二十三名が亡くなった。その直後に、こんな映像を作るのか』
側近は黙った。
怒りよりも、呆れに近い沈黙だった。
ウィンスロー大使は、声明文に目を通した。
米国大使は、当該期間中、首相官邸を訪問していない。
高嶺首相と核攻撃に関する会話を行った事実はない。
映像は生成AIを用いた捏造の疑いが極めて高い。
米国は、日本政府と連携し、悪質な偽情報に対処する。
大使は署名した。
『すぐ出してください。日本語でも英語でも』
声明は、午前八時十五分に公開された。
同時に、大使館は、大使の該当時刻の所在記録の一部を、警備上支障のない範囲で公開した。
米国側のアリバイが、インターネットに乗った。
偽動画の足元が、崩れ始めた。
☆☆☆ ☆☆☆
午前九時三十分。
国会。
野党は、首相の国会出席要求を正式に準備した。
中道改革連合、立憲民政党、社会民主会、令明新生組、日本民衆共産党の一部議員が、緊急の国会説明を求めた。
要求文には、こう書かれていた。
核密談疑惑映像について、真偽を含め、首相自ら国会で説明すること。
日米安全保障条約第五条発動に関する米国との協議内容を説明すること。
通信治安維持命令によって、当該映像の拡散者を不当に摘発しないこと。
政府による報道機関への圧力を行わないこと。
中道改革連合の幹部は、内心では映像に強い疑念を持っていた。
米国大使のアリバイが出た以上、本物とは考えにくい。
だが、政府に説明を求めること自体は必要だと判断した。
一方、日本民衆共産党、社会民主会、令明新生組の一部議員は、なお攻める姿勢を崩さなかった。
小湊博章が記者団へ言った。
「映像が捏造かどうかだけではありません。国民がこの映像を信じてしまうほど、高嶺政権への不信が高まっていることこそ問題です」
蓮城美蘭は、別の取材で言った。
「米国大使館の記録も、政府間で調整された可能性を否定できません。国会で徹底追及します」
辻倉清花は、慎重に言葉を選んだ。
「真偽は確認が必要です。ただ、戦争に関わる重大疑惑である以上、総理は説明すべきです」
杉瀬秀明は、テレビカメラの前で声を荒げた。
「災害対応中に、核攻撃を語った疑惑です。真実なら内閣総辞職どころではない。捏造だと言うなら、国会で堂々と証明すればいい」
その発言は、また切り取られた。
《野党、核密談疑惑で首相追及へ》
《米国大使アリバイ後も追及》
《真偽より不信が問題と野党議員》
インターネットでは、すでに反応が分かれていた。
《もう捏造確定だろ》
《米国大使、官邸来てないじゃん》
《でも政府の記録なんて信用できない》
《映像見たら本物っぽい》
《AIだって専門家が言ってる》
《真偽より高嶺が危険》
《捏造でも政府批判のカンフル剤になるってことか》
捏造と分かり始めても、怒りは消えなかった。
むしろ、捏造をきっかけに、元々あった反政府感情が噴き出していた。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十一時。
内閣サイバー・情報分析室。
捏造動画の拡散図は、急速に変化していた。
午前七時のテレビ放送直後、拡散は爆発的に伸びた。
午前八時十五分、米国大使館がアリバイ声明を出す。
午前九時、複数の映像解析専門家が、生成AIによる捏造の可能性を指摘。
午前十時、官邸が首相動静、危機管理センター出席記録、官邸入退館記録を再掲。
午前十一時には、主要ファクトチェック団体と複数メディアが「捏造の可能性が極めて高い」と報じ始めた。
分析官が言った。
「午後二時までには、一般層にも捏造認識がかなり広がると思われます」
室長が頷く。
「ただし、反政府層、陰謀論層、外国工作アカウント群では残る」
「はい。すでに論点が変わっています。『映像が捏造でも、そう疑われる政府が悪い』『核攻撃の意思がない証明にはならない』『米国と口裏合わせした』という方向です」
「捏造の否定だけでは足りない」
「はい。感情の処理が必要です」
その言葉は、技術者らしくない響きだった。
だが、正しかった。
偽情報は、事実で潰せる部分と、事実では潰せない部分がある。
信じたい怒り。
疑いたい恐怖。
政府を憎むことで自分の苦しみを整理したい人々。
そこへ捏造動画は、よいカンフル剤となっていた。
室長は、官邸へ報告した。
「午後二時までに、捏造認識は広がる見込み。ただし、反政府感情を持つ国内ユーザー、外国人工作関係者、極左暴力集団系アカウント群にとっては、映像の真偽と無関係に動員材料として残ります」
高嶺は、報告を聞き、静かに答えた。
「分かりました。午後二時に、政府として整理説明を出します。それまでは、データを積み上げてください」
橘が言った。
「総理、国会出席要求への回答は」
「午後以降、時間を区切って応じます。災害対応を止めない範囲で」
片倉皐月が画面越しに言った。
『総理、捏造と分かっても、出れば出たで説明責任を尽くしたことになります。ただ、相手はそれを利用します』
「利用されても、逃げるよりはよい」
高嶺は、少しだけ疲れた表情で言った。
「この国では、真実も出席しなければならないようです」
その皮肉に、誰も笑わなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
正午。
東京の避難所。
鹿児島出身の女性は、火山灰対策の説明を終えた後、スマートフォンで核密談動画に関するファクトチェックを読んでいた。
東京の男性が横に座った。
「やっぱり捏造みたいですね」
「米国大使、官邸に来ていないって」
「避難してたんですよね」
「はい。アリバイまで出てます」
男性は、ため息をついた。
「でも、まだ信じてる人がいる」
女性は頷いた。
「信じたいんだと思います」
「怖いですね」
「はい。灰と同じです。降ってきた時より、積もった後の片づけが大変です」
男性は、少しだけ苦笑した。
「全部、灰に例えますね」
「今は、そう見えてしまいます」
避難所の掲示板には、火山灰対策の紙の横に、新しい紙が貼られていた。
不確かな映像を広げないでください
公式情報と複数の確認を見てください
怒りを利用されないでください
避難所では地域・国籍・政治的立場で争わないでください
子どもがそれを見て言った。
「また、けんかしないって書いてる」
女性は答えた。
「大事だからね」
それは、すでに避難所の合言葉になりつつあった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後二時。
インターネット上の流れは、大きく変わっていた。
米国大使館が公開した大使の所在記録。
官邸の入退館記録。
首相の危機管理センター出席記録。
複数の映像解析専門家による生成AI指摘。
反高嶺メディアの一部も、持ち込まれた映像について「検証前に断定すべきでない」「捏造の可能性が高い」と報じ始めた。
午前中に動画を流した情報番組の放送局は、午後になって短い訂正コメントを出した。
――――
放送局コメント
朝の情報番組で扱った映像について
米国大使館と官邸の記録により
捏造の可能性が高まったため
今後は検証結果を踏まえて報じます
――――
曖昧な表現だった。
謝罪ではない。
だが、後退だった。
SNSでは、怒りが別方向へ向かい始めた。
《やっぱりAI捏造だった》
《流した番組、責任取れ》
《野党議員、これ引用してたよな》
《でも高嶺政権が危険なのは変わらない》
《捏造でも疑われる政府が悪い》
《中国の認知戦じゃないの?》
《中国人差別に持っていくな》
《国内協力者を調べろ》
《政府の野党弾圧が始まるぞ》
捏造だと分かっても、混乱は終わらなかった。
むしろ、次の段階へ移った。
誰が作ったのか。
誰が流したのか。
誰が圧力をかけたのか。
野党議員は関与したのか。
中国政府は関与したのか。
政府はこれを口実に野党を弾圧するのか。
新しい疑念が、次々に生まれていく。
午後二時、高嶺紗枝は政府説明に立った。
――――
政府説明
核密談映像は捏造と判断
米国大使の官邸訪問記録なし
生成AI使用の疑い
発信源を捜査
――――
『本日朝、一部情報番組で放送された、私と米国大使が官邸内で中国への核攻撃について話したとされる映像について、政府は、米国大使館、官邸記録、映像解析結果を総合し、捏造映像であると判断しています』
高嶺は、淡々と続けた。
『発災後、米国大使が首相官邸を訪問した事実は一度もありません。該当時刻、私は官邸危機管理センターで複数の閣僚、関係省庁職員と南西諸島対応会議に出席していました。米国大使も、避難および本国協議の記録があり、映像のような会合は物理的に不可能です』
記者が問う。
「国内政治家の関与は」
『捜査中です。現時点で断定的なことは申し上げません。ただし、外国政府系の情報工作、生成AIを用いた捏造、国内協力者、極左暴力集団系ネットワークによるメディア圧力の可能性を含め、関係機関が調べています』
「野党は国会出席を求めています」
『応じます。災害対応と安全保障対応を止めない範囲で、国会に出席し、説明します』
「この映像を流したメディアへの処分は」
『報道機関への処分を政府が軽々に語るべきではありません。ただし、捏造映像の拡散により社会混乱や安全保障上の被害が生じた場合、関係法令に基づき、事実関係を確認します。真相を検証する報道は守られなければなりません。捏造を拡散する行為とは分けて考えます』
高嶺は、最後に言った。
『捏造であったとしても、一度流れた映像は、人々の不安と怒りを刺激します。だからこそ、国民の皆様にお願いします。怒りを利用されないでください。事実を確認してください。災害と安全保障の中で、私たちは互いを疑わせる攻撃を受けています。どうか、踏みとどまってください』
その言葉は、また切り取られた。
《怒りを利用されないでください》
だが、別の切り取りも出た。
《政府、国内政治家関与を示唆》
《メディア処分を否定せず》
《捏造でも不安は本物》
情報空間は、まだ静かにならなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時三十分。
国会議員会館。
午前中に強気だった議員たちの空気は変わっていた。
核密談映像が捏造であることは、もはや否定しにくくなっていた。
小湊博章は、記者団に囲まれていた。
「映像を本物と断定したわけではありません。重大疑惑として説明を求めたまでです」
記者が問う。
「米国大使の官邸訪問が一度もなかったことは確認しましたか」
「政府と米国大使館の発表を精査します」
「では、なぜ朝の時点で強く追及したのですか」
「事が重大だからです」
蓮城美蘭は、別の場所で言った。
「映像が捏造だとしても、高嶺政権が米国とどのような軍事協議をしているのか、透明性が必要です」
辻倉清花は、言葉をさらに慎重にした。
「捏造であれば、許されない行為です。同時に、政府はこれを理由に野党やメディアへの弾圧をしてはなりません」
杉瀬秀明は、なお攻撃的だった。
「映像の真偽ばかりに矮小化するな。国民がなぜ信じたのか。高嶺政権への不信が根本問題だ」
その発言は、支持者には刺さった。
だが、一般層からは反発も出た。
《捏造を流しておいて真偽ばかりに矮小化するなは無理がある》
《国民が信じたんじゃなく、信じさせようとしたんだろ》
《野党議員の初動、ちゃんと検証して》
一方、桐生玄二、有島芳政らは、公の場に姿を見せなかった。
公安と警察庁は、国会議員会館周辺の通信ログ、関係者の接触記録、極左暴力集団系アカウントとの連動を慎重に追っていた。
国会議員に対する捜査は、政治的に極めて重い。
だが、外国政府と共謀して安全保障危機下に捏造映像を作り、拡散した疑いがあるなら、見逃すことはできない。
その線は、すでに司法と政治の最も危険な境界に触れていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後四時。
南西諸島。
中国艦艇の姿は、直接脅威海域から消えていた。
海上保安庁、海上自衛隊、航空自衛隊、米軍は、監視を継続している。沖縄本島、宮古、石垣、与那国の住民避難指示や注意喚起は、段階的に見直しが始まった。ただし、港湾周辺の警戒は続いている。
避難所の一つで、自治体職員が住民へ説明した。
「中国艦艇は周辺海域から離れています。ただし、警戒は続いています。港湾周辺には、まだ近づかないでください」
高齢の男性が尋ねた。
「もう大丈夫なのか」
職員は、少し迷ってから答えた。
「少し良くなりました。でも、完全に大丈夫とはまだ言えません」
「正直でいい」
男性は頷いた。
「もう、安心ですって言われても信じられんからな」
職員は、頭を下げた。
「分かりました。分からないことは、分からないと言います」
この数週間で、行政の言葉も変わっていた。
安心してください、だけでは届かない。
危険は残っています。
ここまでは分かっています。
ここから先は確認中です。
そう言う方が、むしろ信頼された。
☆☆☆ ☆☆☆
午後五時。
官邸危機管理センター。
八月三十一日午後五時の総括会議が始まった。
羽鳥が報告する。
「中国艦艇は午前七時までに沖縄・南西諸島の直接脅威海域から離脱。警戒監視は継続。米国、共同監視継続。国際的には、中国への非難が続いています」
外務省担当者が続ける。
「アフガニスタン、イラン、ロシアの声明以降、中国はさらに孤立しています。ただし、中国外務省は発砲を認めず、米国映像と日本側主張を捏造としています」
小森進一が言った。
『現場は警戒しつつ、災害派遣任務へ比重を戻しつつあります。犠牲者二十三名への対応、負傷者支援、隊員心理ケアを継続します』
片倉皐月が報告する。
『市場は最悪の混乱を避けていますが、捏造動画問題で政治不安が再燃しています。災害復旧財政への影響を抑えるため、明日、追加支援の具体額を出します』
橘義隆が言った。
「核密談捏造動画は、午後二時までにインターネット上でも捏造認識が広がりました。ただし、反政府感情を持つ国内ユーザー、外国人工作関係者、極左暴力集団系アカウントでは、なお動員材料として利用されています」
内閣サイバー・情報分析室長が続けた。
「『捏造でも疑われる政府が悪い』『映像は偽物でも核攻撃の意思は否定できない』『政府が米国と口裏合わせした』という二次言説が伸びています。捏造動画は、カンフル剤として機能しました」
高嶺は、静かに頷いた。
「火は消えたのではなく、燃え方が変わったのですね」
「はい」
警察庁担当者が報告する。
「動画の作成、拡散、メディア圧力、極左暴力集団系の威力業務妨害について捜査中です。国会議員関係者の関与可能性については、慎重に証拠を固めています」
高嶺は言った。
「法に従って。政治的報復に見える動きは避けてください。しかし、国家安全保障危機下で外国政府と共謀して捏造映像を流した者がいるなら、肩書に関係なく対処します」
橘が頷いた。
「はい」
高嶺は、五つの画面を見た。
南海。
相模。
富士山。
南西諸島。
通信空間。
さらに、その奥にもう一つの地図が見える気がした。
国会。
政党。
メディア。
外国政府。
極左暴力集団。
生成AI。
それらが絡み合う、目に見えない戦場だった。
高嶺は、ゆっくり言った。
「中国艦艇は去りました。ですが、中国の認知戦は、国内に残っています」
羽鳥が答える。
「はい」
「そして、それに乗る日本人もいます」
「はい」
「外国人もいます」
「はい」
「反政府感情を持つこと自体は、罪ではありません。政府を批判することも罪ではありません。ですが、捏造映像を作り、暴力集団を使い、災害と死者を利用して国を壊そうとする行為は、別です」
会議室は静かだった。
高嶺は続けた。
「明日から、真相解明の段階に入ります。災害対応を止めず、安全保障警戒を続け、通信治安維持命令の運用を監視しながら、この捏造動画の線を追う」
片倉が、画面越しに言った。
『総理、また仕事が増えましたね』
高嶺は、ほんのわずかに笑った。
「減ったことがありません」
『休息も予定に入れてください』
「入れます。守れるかは別ですが」
『守らせます』
その短いやり取りに、会議室の空気が少しだけ緩んだ。
だが、すぐに次の報告が入った。
南海トラフ被災地の感染症兆候。
相模トラフ被災地の港湾復旧遅延。
富士山麓の泥流警戒。
首都圏の除灰進捗。
外国人避難者への差別相談。
核密談捏造動画の二次拡散。
終わるものは、一つもなかった。
午後五時。
八月三十一日の夕方。
中国艦艇は、沖縄・南西諸島の海から姿を消した。
だが、偽りの映像は、まだ人々の手の中に残っていた。
捏造だと分かっても、怒りは消えない。
むしろ、捏造を口実に、反政府感情を持つ者たちは再び声を上げ始めていた。
政府を疑う者。
米国を疑う者。
中国の関与を否定する者。
野党の関与を疑う者。
外国人を攻撃しようとする者。
それを止めようとする者。
情報空間は、まだ灰色だった。
高嶺紗枝は、資料を閉じた。
「次の報告を」
羽鳥が答えた。
「はい」
午後五時。
日本は、海から迫った軍艦を退けた。
しかし、国内に残された偽りの灰は、これから掘り起こさなければならなかった。




