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第二十一話 追跡された影

 八月三十一日、午後六時。


 夕方の東京は、灰色の薄膜をまとっていた。


 富士山の大規模噴出はすでに低下し、空から新たに降る灰は少なくなっていた。それでも、街はまだ噴火の後にあった。歩道の端、植え込み、駅前広場、病院の換気設備、避難所の入口。そこには白く乾いた火山灰が残り、風が吹くたびに細かく舞い上がった。

 首都圏の除灰は、ようやく本格的な計画作業へ移りつつあった。救急搬送路、病院、浄水場、通信施設、物資集積所、避難所、学校、鉄道、港湾。優先順位が何度も書き換えられ、自治体と自衛隊、建設業者、道路会社、消防、警察が連携していた。

 南海トラフ巨大地震の被災地では、避難生活が長期化していた。高知の避難所では、感染症を防ぐために寝床の間隔が見直され、宮崎では入浴支援と水の配布が続いている。和歌山の孤立集落にはようやく薬が届き、徳島の港では破損した岸壁の応急確認が進んでいた。

 相模トラフ・首都直下地震の被災地では、湾岸部の復旧と遺体確認、行方不明者捜索、道路啓開が続いていた。横浜港では、灰と泥をかき分けながら、港湾機能の一部再開に向けた仮設導線が作られていた。


 そして南西諸島では、中国人民解放軍海軍の艦艇群が、沖縄本島および先島諸島の直接脅威海域から姿を消していた。


 米国大統領クラレンス・ヘイズによる日米安全保障条約第五条発動了承。

 発砲映像の公開。

 アフガニスタン、イラン、ロシアまでを含む各国の中国批判。


 中国は、引かざるを得なかった。

 だが、国は平穏へ戻っていなかった。

 海から軍艦が去った後、国内には別の爆発物が残されていた。

 首相官邸で高嶺紗枝首相と米国大使が秘密裏に会い、「米国核弾頭で中国を攻撃する」と話しながらワイングラスで乾杯していたという捏造動画。


 午前中には米国大使のアリバイが出た。首相官邸には、発災後一度も米国大使は訪れていなかった。高嶺は該当時刻、危機管理センターで会議に出席していた。米国大使は避難中であり、本国との協議記録も残っていた。


 午後二時までには、インターネット上でも動画が捏造であることは広く知られ始めた。

 それでも、火は消えなかった。

 捏造であっても、反政府感情を抱える者たちにとっては、十分な燃料だった。



   《映像が偽物でも、高嶺が危険なのは変わらない》


   《捏造と決めつける政府こそ怪しい》


   《米国と口裏合わせしただけ》


   《国民が信じたということは、信じられるだけの政権不信がある》


   《真偽ではなく、高嶺政権の本質が問題》



 真実が勝ったのではない。


 偽りの一部が剥がれただけだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後六時三十分。


 内閣サイバー・情報分析室。


 大型画面には、問題の捏造動画の解析結果が表示されていた。


 顔の微細な揺れ。

 音声波形。

 照明反射。

 背景の官邸内装との不一致。

 ワイングラスに映る人物像の破綻。

 米国大使とされる人物の手指の形状変化。

 動画圧縮履歴。

 生成AI由来のノイズ。


 その下に、さらに別の解析結果が追加されていた。


 分析官の一人が、声を抑えて言った。


「米国内の動画生成AI環境を経由して作成された痕跡が出ました」


 室長が顔を上げた。


「米国内?」


「はい。ただし、米国企業の公開AIサービスか、米国内サーバーを使った中継環境かは未確定です。生成処理の一部が米国内のクラウド基盤を通過した可能性があります」


「どのAIか」


「現在調査中です。商用サービスの可能性もありますが、モデル固有の出力癖が、中国語圏で開発・運用されている動画生成AIのものに近いという所見も出ています」


 室長は、ゆっくり息を吐いた。


「つまり、米国内のクラウドか出口を使いながら、中国製または中国系の生成AI基盤で作った可能性」


「はい。ただし断定には、米国側のログとサービス側の協力が必要です」


 別の分析官が続けた。


「米国側にも照会をかけています。向こうも重大案件として、独自に追跡を開始しています」


 室長は即座に官邸へ報告を上げた。


 数分後、官邸危機管理センターに情報が届いた。


 羽鳥真紀(はとりまき)危機管理監が読み上げる。


「捏造動画について、米国内の動画生成AI環境を経由して作成された痕跡。使用AIは調査中。ただし、中国系動画生成AIの特徴と一致する可能性あり。米国側も追跡中」


 高嶺紗枝(たかみねさえ)は、静かに資料を見た。


「米国内で作られた、という言い方は危険ですね」


 橘義隆(たちばなよしたか)官房長官が頷いた。


「はい。米国政府が作ったかのように悪用される恐れがあります」


 外務大臣の秋庭遼介(あきばりょうすけ)が、画面越しに入った。


『米国側とは表現を合わせます。米国内のインフラを経由した可能性、という表現にとどめるべきです。中国系AIの可能性は、確度が上がるまで公表しない方がよい』


 高嶺は頷いた。


「そうしてください。敵を間違える発表は、敵を助けます」


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が言った。


『国内の反政府アカウントは、すでに『米国製AIで作られたから米国の自作自演』と言い始めています』


 高嶺は、目を細めた。


「早いですね」


 内閣サイバー担当者が答える。


「はい。米国内経由という断片だけを拾って、米国関与説へ変換する動きがあります」


 高嶺は、机に置いた手を軽く握った。


「だから、事実は丁寧に。米国とも共同で。急ぎますが、急ぎすぎない」


 羽鳥が頷いた。


「はい」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後七時三十分。


 東京の避難所。


 鹿児島出身の女性は、火山灰対策の資料を整理しながら、スマートフォンに流れてくる新しい投稿を見ていた。



   《捏造動画、米国内AIで作成か》


   《米国の自作自演では》


   《中国製AI説も出てる》


   《もう何が本当か分からない》



 東京の男性が、隣でため息をついた。


「また話が変わってますね」


「はい」


「米国が作ったって言ってる人もいます」


「まだ分からないのに」


「分からないから、好きなように言えるんでしょうね」


 女性は、掲示板に貼った紙を見た。



   不確かな映像を広げない

   公式情報と複数確認

   怒りを利用されない

   けんかしない



 彼女は、少し苦笑した。


「けんかしない、だけでは足りなくなってきましたね」


 男性が言った。


「じゃあ、何を足します?」


 女性は少し考えた。


 そして、紙の下に手書きで一行を加えた。



   わからない時は、わからないまま待つ



 男性は、それを見て頷いた。


「これ、大事ですね」


「難しいですけど」


 避難所の中では、子どもがその文字を読もうとしていた。


「わからないときは、わからないまま、まつ」


 子どもは顔を上げた。


「待つの、苦手」


 女性は笑った。


「大人も苦手だよ」


 その言葉は、避難所の空気を少しだけ柔らかくした。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時三十分。


 米国ワシントン。


 米国国家安全保障会議の技術分析チームは、日本側から送られた捏造動画の解析情報と、自国のクラウド事業者、AIサービス事業者、通信ログを照合していた。

 クラレンス・ヘイズ大統領は、短い報告を受けていた。


『大統領、動画は米国内クラウドインフラを一部経由しています。ただし、生成モデルそのものは米国製とは限りません。中国語圏で運用される動画生成AIの出力特徴と一致する可能性があります』


 ヘイズは眉をひそめた。


『中国が米国インフラを使って、日本の首相と米国大使の偽動画を作った可能性か』


『その可能性があります。さらに、日本国内からのアクセス痕跡があるかについて、日本側と照合中です』


『日本国内のどこからだ』


『まだ断定前です』


 ヘイズは、少しだけ椅子にもたれた。


 中国艦艇は引いた。


 だが、情報戦は終わっていない。

 むしろ、軍艦よりも安く、速く、深く、同盟を割ろうとしている。


『判明したら、直ちに高嶺首相へ伝える』


『はい』


 ヘイズは、短く付け加えた。


『慎重に。だが、隠すな。もし日本の政治中枢から関与が出たなら、これは日本国内だけの問題ではない』


 部屋の空気が重くなった。

 同盟国の国会施設から、外国製AIを使って、同盟を破壊する捏造動画が作られた。

 もしそれが事実なら、外交事件であり、内政危機であり、情報戦の実例だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後九時三十分。


 官邸。


 高嶺は、九月一日の国会出席要望について最終調整を受けていた。

 橘が説明する。


「野党側は、核密談捏造動画、日米安保第五条、通信治安維持命令について、総理の国会出席を要求しています。映像が捏造であることは広がっていますが、野党は『疑われた理由』と『政府の説明責任』を軸に質問する見込みです」


 高嶺は、資料を見ながら言った。


「出席します」


 羽鳥が確認する。


「時間は、午前十時から午後二時までの間で調整中です」


「災害対応は」


「危機管理センターは副長官と羽鳥が継続。南西警戒は防衛省、外務省、国家安全保障局が即応。必要時は国会内へ即時連絡します」


 小森進一防衛大臣が言った。


『私も出席します。外務大臣も』


 秋庭遼介外務大臣が頷いた。


『米国関連の話ですので、私も必要でしょう』


 片倉皐月財務大臣が画面越しに言った。


『総理。向こうは時間を食いつぶしに来ますよ』


「分かっています」


『当たり障りのない質問を延々と続け、災害対応から総理を離す。それ自体が目的になります』


「それでも、出ない選択はありません」


『なら、短く答えてください。相手の土俵に乗らない』


 高嶺は、少しだけ笑った。


「皐月さんに質疑の先生をしてもらう日が来るとは」


『財務委員会で鍛えられましたので』


 その短い冗談に、ほんの少しだけ空気が緩んだ。


 だが、すぐに高嶺は真顔に戻った。


「国会で、偽動画をめぐる追及がある。捏造と分かっていても、国民の前で説明する必要があります。ただし、政府批判は受ける。捏造の拡散と脅迫、外国工作は別問題として扱う。そこを崩さない」


 橘が頷いた。


「はい」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時。


 南海トラフ被災地、高知県内の避難所。


 森下三曹は、スマートフォンで明日の国会中継予定を見ていた。

 井ノ口が隣に座った。


「総理も大変やな」


「はい」


「でも、国会に出ちょる間、こっちは大丈夫ながか」


 森下は、一瞬考えた。


「大丈夫にするために、官邸も各省庁も残っています。自分たちもいます」


 井ノ口は頷いた。


「ならえい」


 少し沈黙してから、井ノ口は言った。


「でも、あの動画、嘘やったんやろ」


「そのようです」


「何でそんなことするがやろうな」


 森下は答えられなかった。


 津波で壊れた町を見た。

 救えなかった人を見た。

 水を飲めなくなった隊員を見た。

 灰に覆われた首都を見た。

 南西の海で二十三名が死んだ。

 その上で、偽動画を作る人間がいる。


 森下には、理解できなかった。


 井ノ口は、静かに言った。


「人の心にも津波が来るがやな」


 森下は、少し驚いた。


 その言葉は、胸に残った。


「はい」


 彼は、低く答えた。


「そうかもしれません」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 九月一日、午前零時。


 日付が変わった。


 中国艦艇は、南西諸島の直接脅威海域から消えていた。


 だが、警戒は続く。

 富士山の降灰は薄くなった。

 だが、灰は残る。

 南海トラフと相模トラフの避難生活は続く。

 だが、支援も続く。


 核密談動画は捏造と判明しつつある。


 だが、反政府感情の燃料として残る。


 官邸危機管理センターで、高嶺は午前零時の報告を受けた。


 羽鳥が言った。


「動画について、米国内インフラ経由の可能性、使用AIは調査中。米国側の調査も進行中。国内からのアクセス有無については、照合継続」


 高嶺は頷いた。


「明日の国会までに、追加情報が出る可能性は」


「あります」


 秋庭外務大臣が言った。


『米国側は、重大な進展があれば即時連絡するとしています』


 小森が続ける。


『国会中でも、緊急連絡を入れます』


「分かりました」


 片倉皐月が言った。


『総理、今日は少しでも寝てください。国会は体力を削ります』


「分かっています」


『本当に?』


「……三十分」


『一時間』


「四十五分」


『最近、妥協点が固定されましたね』


 高嶺は、小さく笑った。


「国家運営には妥協が必要です」


 羽鳥が記録した。


「四十五分休息」


 高嶺は椅子に座り、目を閉じた。


 明日、国会へ出る。

 テレビとインターネット中継が入る。

 多くの国民が見る。

 野党は、すでに捏造と分かりつつある動画で時間を使うだろう。

 それでも、答えなければならない。

 真実は、何度でも説明しなければならない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時。


 九月一日の朝。


 東京の空は、少し明るかった。


 灰の霞はまだ残るが、数日前のような重い白さではない。道路では、早朝から除灰作業が始まり、避難所では水と簡易食の配布が行われていた。テレビは、国会中継の予定を繰り返し伝えていた。



  ――――

  ニュース速報

  本日、首相が国会出席へ

  核密談捏造動画・日米安保・通信治安維持で質疑

  テレビ・インターネット中継予定

  ――――



 東京の避難所では、鹿児島出身の女性と東京の男性が、テレビの前を通り過ぎた。


「見るんですか」


 男性が尋ねた。


 女性は少し考えた。


「少しだけ。全部見ると疲れそうです」


「分かります」


「でも、見ないとまた切り取りだけ見ることになるので」


 男性は頷いた。


「それもそうですね」


 避難所の掲示板には、昨日の手書きの言葉が残っていた。



   わからない時は、わからないまま待つ



 その下に、誰かが小さく書き足していた。



   わかったふりをしない



 女性は、それを見て少し笑った。


「いいですね」


「誰が書いたんでしょうね」


 誰かは分からない。


 だが、避難所は少しずつ、情報災害への防波堤を自分たちで作り始めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時三十分。


 国会議事堂。


 高嶺紗枝首相は、防衛大臣の小森進一、外務大臣の秋庭遼介、官房長官の橘義隆らとともに国会へ入った。

 テレビカメラが並び、インターネット中継の機材も設置されている。記者たちの視線は鋭い。傍聴席も、通常とは違う緊張を帯びていた。

 高嶺は、議場へ入る前に小森と秋庭を見た。


「何が来ても、事実で返します」


 小森が頷いた。


「はい」


 秋庭も答えた。


「米国関連は、私が補足します」


 高嶺は、深く息を吸った。


 災害対応を止めているわけではない。

 官邸では羽鳥が指揮を続けている。防衛省、外務省、内閣サイバー、警察庁、各自治体、自衛隊、海上保安庁は動いている。


 それでも、首相が国会へ縛られる時間は重い。

 片倉皐月の言った通り、これは時間を食いつぶす質疑になる可能性が高かった。

 議場に入ると、ざわめきが起きた。

 高嶺は、淡々と席へ向かった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十時。


 国会質疑が始まった。


 議長が開会を告げる。

 テレビとインターネット中継が、一斉に始まった。

 最初に質問に立ったのは、中道改革連合の議員だった。


「総理。まず、核密談とされる映像について、政府は捏造と判断したとのことですが、その根拠を簡潔に説明してください」


 高嶺は答えた。


「該当時刻、私は官邸危機管理センターにおいて南西諸島対応会議に出席していました。複数の閣僚、関係省庁職員、議事記録、映像記録があります。また、米国大使は発災後、一度も首相官邸を訪問していません。米国大使館の所在記録もあります。加えて、映像解析で生成AIによる捏造の特徴が複数確認されています」


 議員は頷いた。


「政府は、捏造映像を理由に報道機関を萎縮させることはありませんか」


「ありません。真偽を検証する報道は守られるべきです。ただし、捏造と知りながら社会混乱を目的に拡散し、脅迫や業務妨害に関与する行為は別です」


 ここまでは、実務的な質問だった。

 次に立った立憲民政党の議員は、やや語気を強めた。


「総理。映像が捏造であるとしても、国民がこれを信じた背景には、高嶺政権が日米安保第五条をめぐって十分な説明をしてこなかったことがあるのではありませんか」


 高嶺は答えた。


「日米安全保障条約第五条については、中国側からの発砲、海上保安官および自衛官二十三名の死亡を受け、米国へ正式要請し、米国が了承したものです。政府は会見と資料で説明を続けています。説明が足りない点があれば、補います。しかし、説明不足を理由に捏造映像を正当化することはできません」


 議員は続けた。


「正当化しているわけではありません。国民の不信を問うています」


「不信には向き合います。捏造には対処します。その二つを分けて扱うことが必要です」


 議場に小さなどよめきが起きた。


 その後も、同じような質問が続いた。


 捏造動画について。

 米国大使の動静について。

 官邸入退館記録について。

 動画解析について。

 通信治安維持命令について。

 報道機関への対応について。

 政府批判と偽情報の線引きについて。


 どれも重要ではあった。


 だが、すでに前日から公開されている内容が多かった。


 高嶺の時間は、少しずつ削られていった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十一時三十分。


 官邸危機管理センター。


 羽鳥真紀は、国会中継を横目に見ながら、災害対応の報告を処理していた。


「南海トラフ被災地、宮崎県南部の避難所で発熱者増加。医療班増派」


「相模トラフ被災地、横浜港仮設導線の一部復旧。物資搬入可能量がやや増加」


「富士山麓、降雨予測あり。泥流警戒を強化」


「首都圏除灰、病院周辺の優先作業継続」


「南西諸島、外洋監視継続。中国艦艇の直接接近なし」


 羽鳥は、一つ一つ指示を返した。


 首相が国会にいても、災害は止まらない。


 官邸は動き続けなければならなかった。


 その時、内閣サイバー・情報分析室から緊急報告が入った。


「米国側から追加連絡の可能性あり。捏造動画の使用AI特定に進展」


 羽鳥は、すぐに反応した。


「外務省と防衛省へ共有。国会内連絡線を開いておいてください」


「はい」


 国会では、なお当たり障りのない質問が続いていた。

 だが、裏では、事態が動き始めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後零時三十分。


 国会内控室。


 休憩時間中、高嶺は短い食事を取るよう促された。小さなおにぎりと水。彼女は二口だけ食べた。

 片倉皐月からメッセージが入っていた。



   >食べるのも任務です。最低でも半分。



 高嶺は、画面を見て少しだけ笑った。

 その横で、小森防衛大臣が防衛省からの報告を読んでいた。


「南西方面は落ち着きつつあります。ただ、完全に通常には戻せません」


 秋庭外務大臣は、米国側との連絡メモを見ていた。


「米国の技術チームが、かなり深く追っています。午後に何か出るかもしれません」


 高嶺は、水を飲んだ。


「国会中に?」


「あり得ます」


 高嶺は、議場の方を見た。


「なら、ここで受けるしかありませんね」


 小森が言った。


「もし中国製AIと判明すれば、議場の空気は変わります」


 秋庭は低く言った。


「さらに、日本国内からのアクセスが出れば、もっと変わります」


 高嶺は、二人を見た。


「証拠が出るまで、何も言いません」


 小森と秋庭は同時に頷いた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時。


 質疑が再開された。


 社会民主会の議員が質問に立った。


「総理。捏造動画であると政府は言いますが、その判断を政府自身が行うことに問題はありませんか。第三者機関による検証が必要ではありませんか」


 高嶺は答えた。


「必要です。政府解析に加え、外部の映像解析専門家、ファクトチェック団体、米国大使館の記録も含めて検証しています。政府だけの判断で済ませる考えはありません」


 令明新生組の議員が続いた。


「総理は、通信治安維持命令を使って、この動画を拡散した市民を摘発するつもりではありませんか」


「単に映像を見た、疑問を述べた、政府に説明を求めた、という行為は対象ではありません。対象となるのは、捏造と知りながら脅迫、個人情報晒し、業務妨害、暴力扇動、外国工作との連動を行った場合です」


「政府が捏造と決めれば、何でも取り締まれるではありませんか」


「そうならないよう、法的手続き、記録、第三者監視、国会報告を行っています」


 質問は、同じ場所を回り続けた。

 議場の一部には、苛立ちが見え始めていた。


 災害対応の時間が食いつぶされている。


 そう感じる与党議員もいた。


 一方で、野党側には、政府を逃がさないという姿勢があった。

 テレビとインターネット中継を見ている国民の反応も割れていた。



   《同じ質問ばかり》


   《でも政府権限はチェックしないと》


   《捏造動画で何時間使うんだ》


   《説明責任は必要》


   《被災地対応を進めてくれ》


   《高嶺、落ち着いてる》


   《野党も引き際考えろ》



 その時、議場内の政府側席にいた秋庭外務大臣の秘書官が、紙を持って近づいた。


 秋庭の顔色が変わった。


 ほぼ同時に、小森防衛大臣の端末にも緊急連絡が入った。


 高嶺は、二人の表情を見た。


 何かが来た。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時四十分。


 米国ホワイトハウスから、首相官邸へ緊急連絡が入った。


 クラレンス・ヘイズ大統領から高嶺首相宛ての緊急情報。

 捏造動画は、中国製の動画生成AIを用いて作成された可能性が極めて高い。


 米国側は、使用された生成AI基盤を特定。


 さらに、その動画生成AIへのアクセス経路を追跡した結果、日本国内の国会議員会館からのアクセスが確認された。


 詳細なログ、時刻、接続元範囲、認証情報、使用プロンプト断片、出力ファイルの生成履歴について、米国側は日本政府へ共有する準備に入った。


 官邸危機管理センターで、羽鳥は一瞬言葉を失った。


「国会議員会館……」


 橘官房長官も、表情を硬くした。


「首相へ。防衛大臣、外務大臣へも同時に」


 国会内の政府控室に、暗号化された緊急メモが届けられた。


 秋庭外務大臣が最初に読み、顔を上げた。

 小森防衛大臣が続いて読み、目を細めた。


 高嶺に紙が渡された。


 彼女は、短い文面を読んだ。


 中国製動画生成AI。


 米国が特定。


 日本国内の国会議員会館からアクセス。


 高嶺は、しばらく紙を見たまま動かなかった。


 そして顔を上げ、小森と秋庭を見た。


 三人の視線が重なった。


 議場では、なお質問が続いていた。


 ある議員が、捏造動画を信じた国民の不安について長々と話している。


 だが、政府側席の空気は完全に変わっていた。


 秋庭が低く言った。


「総理。これは、国会に関わる情報です」


 小森も言った。


「議長への通告が必要です」


 高嶺は頷いた。


「すぐに」


 秋庭が、議長席へ文書を回す手続きを取った。


 高嶺は、議場の天井を一瞬見上げた。


 国会議員会館から、外国製AIを使って、首相と米国大使の核密談捏造動画が作られた可能性。


 それは、もはや単なるデマではなかった。


 国会そのものが、認知戦の発射台にされた可能性だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時五十五分。


 議長席。


 議長は、政府側からの緊急通告文を受け取り、事務総長と短く協議した。


 内容は極めて重大だった。

 国会議員会館からのアクセス。

 中国製動画生成AI。

 米国政府からの緊急情報。

 捏造動画。

 国会で現在、その動画をめぐって質疑が行われている。


 議長は、議場を見渡した。


 与党席も野党席もざわついている。まだ詳細を知らない者が多い。だが、政府側の動きから、ただならぬ情報が入ったことは伝わっていた。


 議長は、木槌を鳴らした。


「静粛に願います」


 議場が少し静まった。


「ただいま政府側より、本日の質疑に関わる重大な情報について、外務大臣より緊急に報告したい旨の申し出がありました。議院運営上、これを許可します」


 議場が一気にざわめいた。


 野党席から声が飛ぶ。


「何だ!」


「質疑逃れか!」


「先に質問を続けるべきだ!」


 議長が再び木槌を鳴らした。


「静粛に。外務大臣、発言を許します」


 秋庭遼介外務大臣が立ち上がった。


 高嶺、小森、秋庭の三人は、もう一度だけ顔を見合わせた。


 午後二時。


 秋庭は、議場全体へ向けて口を開いた。



  ――――

  国会緊急報告

  米国政府より緊急情報

  捏造動画は中国製動画生成AIで作成

  日本国内の国会議員会館からアクセス確認

  詳細は日米で精査中

  ――――



『ただいま、米国政府より、日本政府に対し、極めて重大な情報提供がありました。本日まで問題となっている、内閣総理大臣と米国大使による、いわゆる核密談映像について、米国政府は、当該映像が中国製の動画生成AIを用いて作成された可能性が極めて高いと判断し、その使用基盤を特定したとの連絡を受けました』


 議場が騒然となった。


 秋庭は、声を強めた。


『さらに、米国側の追跡により、当該動画生成AIへのアクセス経路の一部として、日本国内の国会議員会館からのアクセスが確認されたとの情報提供を受けています』


 野党席から怒号が飛んだ。


「何を言っている!」


「国会への侮辱だ!」


「証拠を出せ!」


「政府の謀略だ!」


 与党席からもざわめきが広がる。


 議長が木槌を鳴らした。


「静粛に! 静粛に願います!」


 秋庭は続けた。


『現時点で、個別の議員名、政党名、部屋番号等を申し上げる段階ではありません。米国政府から提供される技術情報、接続記録、時刻、認証情報、国内通信記録を、日本政府として精査します。国会に関わる重大事案であるため、議長、議院運営委員会、関係機関と協議し、法に基づき慎重かつ厳正に対応します』


 小森防衛大臣は、席で拳を握っていた。

 高嶺は、表情を変えずに前を見ていた。


 秋庭は最後に言った。


『これは、政府批判や報道の自由の問題ではありません。外国製の生成AIを用いた捏造映像が作成され、日米同盟と日本の安全保障、災害対応中の国内世論を揺るがす目的で拡散された疑いがあるという問題です。しかも、そのアクセス経路に国会議員会館が含まれる可能性がある。政府は、国会の権威を守るためにも、真相解明に全面的に協力します』


 議場は、完全に混乱していた。


 中道改革連合の一部議員は、青ざめていた。

 立憲民政党の一部議員も、互いに顔を見合わせている。

 日本民衆共産党、社会民主会、令明新生組の席では、怒号と沈黙が混じっていた。


 小湊博章は、紙を握りしめていた。

 蓮城美蘭は、表情を消していた。

 辻倉清花は、唇を震わせていた。

 杉瀬秀明は、何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。


 有島芳政の席は、空いていた。

 桐生玄二も、議場にはいなかった。

 その空席が、かえって目立った。


 テレビとインターネット中継は、この瞬間を全国へ流していた。



   《国会議員会館からアクセス?》


   《中国製AIで作ったって米国が特定?》


   《これ、とんでもない話では》


   《野党どうするの》


   《証拠を待て》


   《政府の罠だと言い始めるぞ》


   《国会が認知戦の発射台にされた?》


   《これは政局じゃ済まない》



 午後二時。


 九月一日の国会は、質疑の場から、事件現場へ変わった。


 高嶺紗枝は、席に座ったまま、静かに息を吸った。


 動画は捏造だった。


 それだけでは終わらなかった。


 誰が作ったのか。

 誰がアクセスしたのか。

 誰が売り込んだのか。

 誰が圧力をかけたのか。


 そして、なぜ国会議員会館がそこに出てくるのか。


 真実は、また一段、深い場所へ潜った。


 だが、初めてその入口が、国会の真ん中で開かれた。


 高嶺は、心の中で思った。


 真実は遅い。

 だが、追いつき始めている。


 議場のざわめきは、まだ止まらなかった。

 議長の木槌の音が、何度も響いた。


 午後二時。


 日本は、災害と安全保障と情報戦のただ中で、ついに国会内部へ伸びる影を見つけた。


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