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第八話 山が息をする

 八月十八日、午前七時三十分。


 相模トラフ・首都直下地震の発生から、十二時間が過ぎていた。


 東京の朝は、普段の朝ではなかった。電車の音は戻っていない。首都高速の一部は黒い影のように止まり、湾岸部の道路には液状化で噴き出した砂と水が残っていた。横浜港、川崎港、東京港、千葉港、木更津港、羽田空港。首都圏の物流と交通の要所は、点検、浸水、火災、津波警戒、道路寸断の中で、機能を部分的に失っていた。


 南海トラフ巨大地震からは四日目。西日本の救助は続いている。七十二時間を越えても、瓦礫の下から音が見つかる。高知、宮崎、和歌山、静岡、徳島。隊員たちは、疲労を超えた場所で動いていた。眠気ではない。体の芯が空洞になったような感覚。水を飲むことに罪悪感を覚える者。携行食の匂いで嘔吐する者。津波の音が消えない者。助けられなかった声を、まだ聞いている者。


 そして首都圏では、別の救助が始まっていた。


 横浜港の倒壊倉庫では、神崎二佐の部隊が夜通し捜索を続けていた。東京消防庁、神奈川県警、海上保安庁、自衛隊、港湾関係者。誰もが泥と油と汗に濡れている。東京湾の水位変動は落ち着き始めていたが、津波注意報や港湾部の立入制限は簡単には解除できない。崩れたコンテナの間から、まだ人の声が聞こえるかもしれない。


 神崎は、手袋を外さずにペットボトルを握っていた。蓋は開いている。だが、飲めていない。


 若い隊員が見た。


「二佐、水を」


「分かっている」


「飲んでください」


 神崎は、隊員を見た。言おうと思えば、いくらでも言えた。上官に指示をするな。自分の心配より現場を見ろ。だが、若い隊員の目には、恐れがあった。


 自分が倒れることへの恐れではない。


 指揮官が倒れることへの恐れだった。


 神崎は、ペットボトルを口に当て、一口飲んだ。水はぬるかった。


「これでいいか」


「はい」


「お前も飲め」


「はい」


 短い会話だった。


 だが、その一口で、部隊はまだ人間として動いていることを確認した。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時十三分。


 富士山周辺の地震計が、小さな異常を拾った。

 最初は、山体南東側の観測点だった。続いて、北東側、山麓の複数点。通常の構造性地震とは波形が違う。浅く、短く、どこか濁ったような揺れ。

 T大学地震火山研究センターの画面に、その波形が現れた時、藤崎は一瞬、意味を理解できなかった。


「先生」


 青見怜一(あおみれいいち)は、相模トラフの余震分布を見ていた。南海、相模、首都圏。画面はすでに災害の層で埋まっている。


「どうした」


「富士山です」


 青見の目が動いた。


「火山性か」


「まだ判断中です。ただ、マグニチュード3・4相当の浅いイベントが山体周辺で」


 数分後、二つ目が記録された。



 午前八時二十一分

 震源地 富士山周辺 暫定マグニチュード3・6 最大震度2



 藤崎の声が小さくなった。


「またです」


 青見は、ゆっくり椅子から立ち上がった。


 南海トラフ巨大地震。相模トラフ巨大地震。首都直下被害。東京湾の津波。西日本の広域被災。


 そこへ、富士山。


 口に出すだけで、現実感が崩れそうだった。


 青見は気象庁の緒方慎吾へ連絡した。


「富士山、見ていますか」


『見ています。火山性地震の可能性があります。火山部と共有中です』


「南海、相模の応力変化との関連は、まだ言えません」


『言えません。ただ、無視できません』


「官邸へ」


『上げます。表現は慎重にします』


 青見は、画面の富士山を見た。


 日本列島の災害は、海から山へ手を伸ばし始めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時四十分。


 官邸危機管理センター。


 高嶺紗枝(たかみねさえ)首相は、首都圏地震の朝の統合対策会議を終えたばかりだった。南海トラフ被災地の救助継続、首都圏の初動救助、津波と火災、帰宅困難者、海外支援の受け入れ、通信復旧、港湾と空港の機能確認。会議は終わっても、何も終わっていない。


 そこへ、富士山の報告が入った。


 羽鳥真紀(はとりまき)危機管理監が、声を落として言った。


「総理、富士山周辺で火山性と見られる地震が複数観測されています。午前八時十三分頃から、マグニチュード3・4から3・6相当。気象庁が監視を強化しています」


 高嶺は、数秒、言葉を失った。


 その沈黙は長かった。


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が画面越しに眉を寄せた。


『富士山ですか』


 羽鳥が頷いた。


「現時点で噴火の兆候と断定するものではありません。ただし、南海トラフ、相模トラフの巨大地震後であり、火山活動への影響を警戒する必要があります」


 片倉皐月(かたやまさつき)財務大臣が、ゆっくり息を吐いた。


『富士山が動けば、首都圏の残存機能にも影響します。降灰、交通、航空、電力、通信、水道、医療、物流。今の東京は、灰に耐えられる状態ではありません』


 高嶺は、机に置いた手を見た。指先が白くなっていた。


「気象庁の評価を待ちます。ただし、実務は先に確認してください。富士山周辺自治体、山梨、静岡、神奈川、東京都、国交省、環境省、農水省、防衛省。降灰、道路、避難、火山灰除去、航空制限。想定だけでも上げる」


 羽鳥が頷いた。


「はい」


 小森が言った。


『富士山周辺には、すでに首都圏地震対応と東海側対応で部隊の動きがあります。富士演習場周辺、東富士、北富士、静岡側、山梨側。部隊の安全確認を行います』


「お願いします。まだ噴火ではない。だが、準備は止めない」


 高嶺は、短く言った。


「今度は山ですか」


 誰も答えなかった。


 答えられる人間はいなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時三十分。


 駐屯地の朝は、戦場とは別の緊張に包まれていた。


 首都圏と西日本の両方へ現職自衛官と即応予備自衛官が展開し、各駐屯地には空白が生まれていた。その空白を埋めるため、追加召集された予備自衛官が、駐屯地警衛業務に入っていた。


 ある関東地方の駐屯地。


 正門前に、予備自衛官の班が立っていた。迷彩服の着こなしは現職ほど馴染んでいない者もいる。年齢も幅がある。普段は会社員、整備士、看護師、地方公務員、運送業、自営業。日常を持つ人々が、召集命令を受け、駐屯地へ戻ってきた。


 班長の予備陸曹長、坂井は、正門脇で隊員たちに言った。


「我々の任務は、地味だ。派手な救助ではない。瓦礫の中へ入るわけでも、ヘリで搬送するわけでもない」


 若い予備自衛官が、少し緊張した顔で聞いている。


「だが、ここを守れなければ、前に出ている部隊へ燃料も弾薬も食料も水も整備も出せない。駐屯地が機能しなければ、災害派遣も止まる。警衛は後方ではない。任務の根だ」


「はい」


「身分確認、車両確認、不審物確認、避難者対応、報道対応は広報へ、家族からの問い合わせは指定窓口へ。感情的になるな。ここにも、不安な人が来る」


 正門の外には、すでに数人の家族が来ていた。


「息子が災害派遣に行ってるんです。無事ですか」


「主人と連絡が取れません」


「ここで聞けば分かると思って」


 坂井は、正門勤務の隊員に目配せした。


 若い予備自衛官が一歩前へ出る。


「申し訳ありません。個別の安否について、こちらでは確認できません。専用窓口をご案内します。こちらへお願いします」


 声は少し硬かった。


 だが、逃げなかった。


 警衛とは、門を閉じるだけではない。


 不安を、門前で暴れさせないことでもあった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十時。


 首都圏各地で、即応予備自衛官の投入が始まっていた。


 即応予備自衛官は、普段は民間で生活しながら、有事や災害時には現職部隊と一体で行動する。南海トラフ被災地と首都圏被災地が同時に広がった今、その存在は単なる補助ではなかった。部隊を持続させるための、現実的な戦力だった。


 横浜市港湾部。


 神崎二佐の部隊に、即応予備自衛官の小隊が合流した。隊員たちの顔には、移動の疲労がある。召集を受け、家族に短く連絡し、職場に説明し、装備を受け取り、現地へ来た者たちだった。


 即応予備三曹の大迫は、神崎に申告した。


「即応予備小隊、到着しました。人員確認済み。救助支援、物資搬送、交通整理、避難所支援、いずれも可能です」


 神崎は頷いた。


「現場は余震、津波残留水、液状化、倒壊コンテナがある。無理はさせない。まず、搬送路確保と資材運搬に入れ」


「了解」


 大迫は、部下を振り返った。


「聞いたな。いきなり突っ込むな。現職の指示を受けろ。自分たちが来た意味を勘違いするな。穴を埋めるのも、命をつなぐ任務だ」


「はい!」


 若い即応予備自衛官が、倒壊倉庫の方を見た。


「中に人がいるんですか」


 大迫は答えた。


「いるかもしれない。だから、俺たちは通路を作る」


「救助には」


「救助班が入る。俺たちは救助班が入れるようにする」


 若い隊員は一瞬悔しそうな顔をしたが、すぐに資材を担いだ。


 前に出るだけが救助ではない。


 通路を作ること、担架を運ぶこと、水を渡すこと、休む者の代わりに立つこと。


 即応予備自衛官たちは、その隙間を埋め始めた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十一時十五分。


 富士山周辺で、火山性と見られる地震が再び増えた。



 午前十一時十五分

 震源地 富士山周辺 暫定マグニチュード3・8 最大震度2



 午前十一時四十二分

 震源地 富士山周辺 暫定マグニチュード4・0 最大震度3



 山梨県、静岡県の一部で、住民が揺れを感じた。南海トラフ、相模トラフの後で、山の揺れに敏感になっていた人々は、すぐにスマートフォンを見た。



   《富士山揺れてる?》


   《今度は富士山とかやめてくれ》


   《火山性地震って何?》


   《公式見るまで騒ぐな。でも怖い》


   《宝永地震の後に富士山噴火したって聞いたことある》


   《デマ流すな。まだ噴火じゃない》



 気象庁は、臨時の火山解説情報を準備した。



  ――――

  火山解説情報

  富士山周辺で火山性地震増加

  噴火の発生を示すものではない

  今後の情報に注意

  ――――



 青見は、その文面を見て、頷いた。


「今はこれが限界だ」


 藤崎が言った。


「でも、増えてます」


「分かっている」


「山体膨張は」


「まだ決定的ではない」


「もし出たら」


 青見は、短く答えた。


「段階が変わる」


 藤崎は、富士山の立体モデルを表示した。山体の下に、観測点が点で並ぶ。歪計、傾斜計、全球測位衛星システム(GNSS)、地震計。データは断片的だが、山の内部を見ようとする人間の目だった。

 富士山は、美しい山として見られてきた。

 だが、地質学者にとっては、巨大な火山だった。

 そして火山は、眠っている時も火山である。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 正午。


 南海トラフ被災地、首都圏被災地、そして富士山周辺。

 三つの危機が、同時に官邸の画面へ並んだ。

 高嶺紗枝は、昼の統合対策会議で、疲労の濃い閣僚たちを見渡した。


「状況を整理します」


 羽鳥が読み上げる。


「南海トラフ被災地では、七十二時間超の救助継続。高知、宮崎、和歌山、静岡で生存者救出あり。ただし、多数の行方不明者、避難所環境悪化、医療逼迫、港湾機能制限」


「首都圏」


「相模トラフ・首都直下地震により、神奈川、東京、千葉、静岡東部で甚大被害。東京湾、相模湾沿岸の津波被害、液状化、火災、帰宅困難者、鉄道停止、空港・港湾機能制限。東部方面隊、中部方面隊、東北方面隊の各部隊が災害派遣中」


「富士山」


「午前八時十三分頃から火山性と見られる地震が増加。現時点で噴火発生を示す決定的兆候はありませんが、監視強化。山梨、静岡、神奈川、東京都へ情報共有」


 小森進一が言った。


『現職自衛官は南海、首都圏に広く展開。即応予備自衛官の投入を拡大しています。物資搬送、避難所支援、道路啓開補助、救助支援、医療搬送補助。予備自衛官は駐屯地警衛、後方支援、物資集積所管理、車両誘導、家族問い合わせ対応に入っています』


 片倉皐月が続けた。


『予備費、補正、非常支出、全て通常枠では足りません。災害対応国債、緊急財政措置、自治体への直接資金供給、民間協力企業への即時支払いを組み合わせる必要があります』


 橘が言った。


「政治側の動きです。令明新生組、日本民衆共産党、社会民主会の一部から、海外軍支援受け入れ、自衛隊展開、首都圏優先への批判が出ています。一方、中道連盟と民権民主党は政府への協力姿勢を見せつつ、情報公開と補償を求めています」


 高嶺は、静かに答えた。


「批判は受けます。支援は受けます。救助は止めません」


 誰かが小さく息を吐いた。


 高嶺は続けた。


「富士山については、まだ噴火ではありません。だが、噴火した場合の降灰対応を今から始めます。火山灰は、水、電力、通信、交通、医療、農業、航空、全てを止めます。首都圏はすでに傷ついている。灰を待ってからでは遅い」


 羽鳥が頷く。


「火山灰対策本部を内閣府内に設置します」


「お願いします」


 高嶺は、画面の富士山を見た。


「美しい山ほど、怒った時の姿を忘れられがちです」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時三十分。


 駐屯地警衛に入った予備自衛官たちは、現場の別の疲労と向き合っていた。


 関東地方のある駐屯地では、正門前に救援物資を積んだ民間トラックが列を作っていた。被災地へ向かう燃料、飲料水、毛布、簡易トイレ、医療資材。全てが必要だった。だが、全てを無確認で入れるわけにはいかない。


 坂井予備陸曹長は、チェックリストを片手に指示を出す。


「車両番号、運転者身分、積荷、搬入先、許可番号。確認を飛ばすな」


 若い予備自衛官が、焦った声で言った。


「でも、早く通さないと」


「早く通すために確認する。ここで詰まらせるな。ここで事故を起こすな」


「はい」


 別の場所では、被災した家族を持つ隊員の親族が駐屯地へ来ていた。


「中に入れてください。息子がいるはずなんです」


 警衛の予備自衛官は、胸が痛んだ。自分にも家族がいる。召集の時、妻は何も言わずに送り出した。子どもは「いつ帰るの」と聞いた。答えられなかった。


 それでも、彼は門を開けなかった。


「申し訳ありません。こちらから安否確認窓口へおつなぎします。無断での入門はできません」


「親なのに」


「お気持ちは分かります」


「分かるわけないでしょう!」


 言葉が刺さる。


 予備自衛官は、一瞬だけ目を伏せた。


 坂井が横に立った。


「私も息子がいます。今、連絡は取れていません」


 親族の女性が黙った。


「それでも、ここを守らなければ、前に出ている隊員たちを支えられません。確認窓口へご案内します。必ず記録します」


 女性は泣きながら頷いた。


 坂井は、若い隊員へ小さく言った。


「門を守るとは、泣いている人を追い返すことじゃない。ルールを守った上で、次につなぐことだ」


「はい」


「慣れるなよ」


「え」


「つらいと思えるままでいい。慣れたら雑になる」


 若い隊員は、黙って頷いた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後三時。


 横浜市港湾部の災害派遣現場。


 即応予備自衛官の大迫は、現職隊員とともに搬送路を確保していた。重い鉄板、崩れたコンテナの一部、泥と水。港湾部は液状化で足場が悪く、数メートル進むだけで体力を奪われる。


 若い即応予備自衛官が肩で息をしていた。


「大迫、すみません、少し」


「下がれ。水を飲め」


「まだ行けます」


「その言葉は現職も予備も信用しない」


 大迫は厳しく言った。


「飲め」


 若い隊員は水を飲んだ。手が震えている。


「民間の仕事なら、ここで休んでる場合じゃないって怒られます」


「これは災害派遣だ。休まない奴から倒れる」


「でも、即応予備が足手まといに」


「足手まといになる前に休むのが即応予備の仕事だ」


 若い隊員は、少し笑った。


「厳しいですね」


「現職より厳しくしてる。俺たちは普段から毎日この体で動いているわけじゃない。無理の限界を見誤る」


 大迫は、自分の膝にも違和感があることを認めていた。普段の仕事ではここまで長時間、泥と鉄の中を動くことはない。訓練はしている。だが、訓練と現場は違う。


 それでも、彼らが入ったことで、現職隊員が一時間休めた。


 その一時間で、現職隊員は次の救助に戻れる。


 それが意味だった。


 大迫は、港湾倉庫の奥から聞こえた小さな音に顔を上げた。


「静かに」


 全員が動きを止める。


 コン。


 金属音。


 神崎二佐が叫んだ。


「生存反応あり。救助班、準備!」


 大迫は若い隊員を見た。


「今度は通路を作る。救助班が通れる幅だ」


「はい!」


 即応予備自衛官たちは、再び資材を担いだ。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後四時二十分。


 富士山周辺の地震活動は、断続的に続いていた。


 静岡県側、山梨県側、山体南東側。浅い地震が増えたり減ったりを繰り返す。大きな噴火の直前に必ず同じパターンが出るわけではない。火山は、地震以上に個性が強い。だからこそ、判断は難しい。


 気象庁の火山監視室では、担当者が傾斜計のデータを確認していた。


「南東側、微妙に動いていませんか」


「ノイズの可能性」


「複数点で同じ傾向が出れば」


「まだ弱い」


「火山性微動は」


「明瞭ではない」


 緒方は、地震火山部長として、南海トラフ、相模トラフ、富士山を同時に見ていた。常識的には、一つだけでも国家的危機だった。それが三つ、重なっている。


 彼は、T大学の青見と回線をつないだ。


『青見先生、富士山の傾斜、どう見ますか』


「微妙です。ただ、午前からの火山性地震増加と合わせると、監視段階を上げるべきです」


『噴火警戒レベルは』


「判断は気象庁です。ただ、自治体への事前説明は始めた方がいい」


『官邸は』


「すでに警戒しています」


 青見は、画面を見た。


「緒方さん」


『はい』


「宝永の名前は、まだ出さない方がいい」


『分かっています』


「出せば、社会が飛びます」


『しかし、誰かがSNSで出します』


「でしょうね」


 緒方は、苦く笑ったような息を漏らした。


『公式が遅れれば、デマが先に走る』


「公式が走りすぎれば、混乱を作る」


『難しいですね』


「難しいから、私たちがやるんです」


 青見はそう言ったが、自分自身に言い聞かせているようだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後五時三十分。


 東京湾岸の避難所。


 相模トラフ地震から一夜が明け、避難所には帰宅困難者、湾岸部から避難した住民、負傷者、外国人観光客、高齢者、乳幼児連れの家族が混在していた。自治体職員は疲労の限界に近い。そこへ、即応予備自衛官と予備自衛官による後方支援班が入った。


 食料配布、水配布、簡易トイレ設置、発電機の燃料管理、携帯充電場所の整理、医療スペースへの誘導。


 即応予備自衛官の一人、元看護師の資格を持つ女性陸士長が、高齢者の列を整理していた。


「薬を飲む時間のある方、こちらへ来てください。お薬手帳がある方は出してください」


 高齢の女性が言った。


「血圧の薬、家に置いてきた」


「名前は分かりますか」


「分からん」


「色や形は」


「白くて、小さい」


 情報としては足りない。


 それでも、聞くしかない。


 彼女はメモを取り、医療班へつないだ。


 別の即応予備自衛官は、外国人観光客に身振りで水の配布場所を示していた。


「WaTer. Here. One boTTle each.」


 英語は得意ではない。


 だが、伝わった。


 予備自衛官による駐屯地警衛だけでなく、即応予備自衛官による避難所支援も、現職部隊の手を救助へ戻すために必要だった。


 避難者の男性が、配布をしていた隊員に言った。


「あなたたちも、休んでください」


 隊員は、少し驚いた顔をした。


「ありがとうございます。交代で休みます」


「本当に休んでくださいよ。テレビで見ました。自衛隊の人、水も飲めなくなるって」


 隊員は、一瞬言葉に詰まった。


「はい。飲みます」


 そう答えて、腰のボトルから一口飲んだ。


 見せるように飲んだ。


 避難者が少し安心した顔をした。


 救助者が水を飲む姿は、避難者にとっても希望になることがある。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後六時四十五分。


 官邸では、富士山に関する夕方の評価会議が開かれた。


 気象庁、内閣府、防災科学技術関係者、青見、山梨県、静岡県、神奈川県、東京都、防衛省、国交省、警察庁、消防庁。画面は多数の小窓で埋まった。


 緒方が説明した。


『午前八時十三分頃から、富士山周辺で火山性と見られる地震が増加しています。最大で暫定マグニチュード4・0。現時点で明瞭な噴火開始を示す火山性微動は確認していません。一方で、一部の傾斜計、GNSSに微小な変化が見られ、引き続き精査中です』


 山梨県側の担当者が言った。


『住民へどう説明すべきでしょうか。南海、相模の後で、富士山という言葉だけで不安が広がっています』


 静岡県の担当者が続けた。


『富士山南麓は、相模トラフ地震の影響も受けています。避難所も開いている。ここで火山避難の話を出すと、現場が混乱します』


 青見が発言した。


「混乱を恐れて情報を遅らせると、逆にデマが走ります。今言うべきなのは、噴火したとは言えない、しかし火山活動に変化が見られるため、自治体と政府が準備を進めている、ということです。住民には、避難経路、降灰への備え、マスク、ゴーグル、車の使用制限、雨樋、飲料水の保護など、行動に落とした情報を出すべきです」


 高嶺紗枝は頷いた。


「政府広報を出します。富士山という言葉だけが独り歩きしないように、具体的行動を添える」


 小森防衛大臣が言った。


『富士山周辺の部隊、富士演習場関係、東富士、北富士、静岡・山梨方面の安全確認を進めます。ただし、現地部隊は首都圏・東海側支援にも関わっています。噴火対応が加われば、部隊配分はさらに厳しくなります』


 高嶺は、静かに言った。


「厳しいから、今から準備します」


 片倉皐月が加えた。


『火山灰対策費を別枠で準備します。除灰、道路、空港、鉄道、上下水道、農業、医療、通信。降ってからでは遅い』


 高嶺は、画面の富士山を見た。


「まだ噴火ではありません。ですが、国民にこう伝えます。山が静かであることと、安全であることは同じではない、と」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後七時三十分。


 政府は、富士山に関する広報を出した。



  ――――

  政府からのお願い

  富士山周辺で火山性地震増加

  噴火を示すものではありません

  備えを確認してください

  ――――



 高嶺紗枝は、短い動画で語った。


『富士山周辺で、火山性と見られる地震が増加しています。現時点で噴火の発生を示すものではありません。しかし、政府と気象庁、関係自治体は監視を強化し、必要な準備を進めています。富士山周辺、首都圏、静岡、山梨、神奈川、東京の皆様は、公式情報を確認し、マスク、飲料水、懐中電灯、車の使用、避難経路を確認してください。不確かな情報を拡散しないでください』


 SNSは、すぐに反応した。



   《今度は富士山? もうやめてくれ。》


   《噴火ではないって言ってる。でも備えろってことか。》


   《宝永地震の後に噴火したやつ思い出す。》


   《その話だけで煽るな。公式見よう。》


   《南海、相模、富士山とか日本どうなるの。》


   《静岡県民です。とりあえずマスクと水確認した。》


   《東京も降灰あるの?》


   《灰は本当に厄介。鹿児島の人たちすごい。》


   《桜島の灰をネタにしてた人、今こそ反省しろ。》



 感情は、災害より早く広がる。


 政府の広報班は、デマ訂正、火山灰対策、避難情報、交通情報を次々に出した。だが、相模トラフ地震で通信は不安定だった。届く場所と届かない場所の差が大きい。


 情報は水と同じだった。


 流れる経路が壊れれば、必要な場所へ届かない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時四十分。


 富士山南麓。


 自衛隊富士演習場周辺でも、地震の揺れは感じられていた。相模トラフ地震後の救援準備と部隊移動で、周辺の駐屯地と演習場は慌ただしい。そこへ富士山の火山性地震が重なった。


 現職隊員と即応予備自衛官の混成班が、車両と資材を確認していた。火山灰対策用のゴーグル、マスク、車両フィルター、スコップ、シート、発電機、燃料。まだ噴火していない。だが、噴火してから探す時間はない。


 即応予備自衛官の一人が、富士山の黒い稜線を見上げた。


「きれいですね」


 現職の二曹が答えた。


「きれいなままならいい」


「噴火、しますか」


「俺に聞くな。分かるわけない」


「ですよね」


 二曹は、少し言葉を和らげた。


「分からないから、準備する。さっき政府も言ってたろ」


「はい」


 その時、小さな揺れが来た。


 午後八時四十六分

 震源地 富士山周辺 暫定マグニチュード3・7 最大震度2


 車両のミラーが揺れた。誰も大きく騒がなかった。だが、全員が山を見た。


 富士山は、暗い空に沈黙していた。


 沈黙しているのに、そこに巨大な気配があった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後九時二十分。


 駐屯地警衛の夜は、さらに緊張を増していた。


 関東地方の駐屯地では、首都圏地震、富士山警戒、被災者家族、支援物資、報道、民間協力業者が入り混じり、正門周辺は昼よりも複雑になっていた。


 坂井予備陸曹長は、交代に入る予備自衛官へ言った。


「夜は判断が雑になる。疲れている時ほど、確認を飛ばすな」


「はい」


「不審車両、不審物、無許可撮影、混乱した家族対応。全部あり得る。だが、相手を敵扱いするな。不安な人間は声が大きくなる」


 若い予備自衛官が頷いた。


「坂井陸曹長」


「何だ」


「自分、災害派遣に出たかったです」


 坂井は、彼を見た。


「ここも災害派遣だ」


「でも、救助では」


「救助の手前だ。ここを守るから、救助に行ける。ここで車両を通すから、水が届く。ここで家族対応を受けるから、前の隊員が電話に引き戻されずに済む」


 若い隊員は、正門の外を見た。


「分かってるつもりなんです。でも、ニュースで現場を見ると」


「分かる」


 坂井は、静かに言った。


「俺も行きたい。だが、命令された場所で任務を果たすのが自衛官だ。現職も、即応予備も、予備も同じだ」


 その言葉は、派手ではなかった。


 だが、門の灯りの下で、確かに重かった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後九時五十三分。


 富士山の観測データが、明確に変わった。


 複数の傾斜計が、山体の膨張を示す方向へ動いた。GNSSの一部にも、山体がわずかに膨らむような変位が見えた。火山性地震の波形も、浅部へ移動しているように見える。


 気象庁火山監視室で、担当者が声を上げた。


「傾斜、出ました」


 緒方が画面へ近づく。


「ノイズでは」


「複数点です。南東側、北東側、山麓。時間も合っています」


「火山性微動は」


「弱いですが、連続成分らしきものが出始めています」


 緒方の顔が変わった。


「官邸へ。噴火警戒レベル引き上げの検討に入る。関係自治体へ即時共有」


 T大学にもデータが届いた。


 藤崎が、声を失った。


「先生」


 青見は画面を見た。


 山体膨張。


 火山性地震増加。


 微動らしき連続成分。


 まだ噴火ではない。


 だが、段階は変わった。


 青見は、椅子の背を握った。


「来るかもしれない」


 藤崎は、唇を震わせた。


「富士山が」


「まだ断定するな」


 青見は、自分にも言った。


「だが、官邸へは最大警戒で上げる」


 彼は、短い文面を打った。


   >富士山で山体膨張を示す観測データ。火山性地震増加と合わせ、噴火切迫の可能性を否定できない。関係自治体、周辺部隊、降灰想定地域への即時警戒強化が必要。


 送信。


 青見は、画面の富士山を見た。


 山が、息をしていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時。


 官邸危機管理センター。


 富士山の山体膨張データが、正式に報告された。


 羽鳥真紀の声は、抑えられていた。


「総理、富士山で山体膨張を示す観測データが入りました。火山性地震の増加、微動らしき連続成分と合わせ、気象庁は噴火警戒レベル引き上げの検討に入ります。関係自治体へ即時共有中です」


 会議室の空気が止まった。


 南海トラフ巨大地震。


 相模トラフ・首都直下地震。


 そして、富士山。


 高嶺紗枝は、数秒だけ目を閉じた。


 目を閉じれば、少しだけ逃げられる気がした。


 だが、彼女はすぐに目を開けた。


「関係自治体へ避難準備情報。富士山周辺部隊の安全確認。富士演習場、自衛隊施設、周辺住民、観光客、登山者の確認。降灰想定を首都圏へ共有。航空路、空港、鉄道、道路、電力、通信、水道、医療、全てに火山灰対策を出してください」


 小森進一が、画面越しに答えた。


『防衛省は富士山周辺部隊へ警戒強化を指示します。現職、即応予備、予備の任務配分を再確認。駐屯地警衛は継続。噴火時には、首都圏地震対応、南海トラフ対応、富士山噴火対応の三正面になります』


「分かっています」


 片倉皐月が言った。


『降灰が首都圏へ及べば、経済機能はさらに止まります。金融、物流、通信、交通、医療。火山灰は水に濡れると重く、除去に膨大な人員と費用が必要です』


「財政措置を」


『すぐに組みます』


 橘官房長官が、会見の準備を確認した。


「総理、今夜中に富士山について発信しますか」


 高嶺は、壁の時計を見た。


 午後十時。


 噴火はまだ始まっていない。


 しかし、時間はほとんど残っていないかもしれない。


「出します。噴火ではない。だが、準備を始める。そう伝えます」


 羽鳥が頷いた。


「文面を」


 高嶺は、画面に映る富士山の輪郭を見た。


 夜の山は、黒かった。


 美しくも、優しくもなかった。


 ただ、巨大だった。


 彼女は、静かに言った。


「山が動き始めました」


 誰も、その言葉を否定しなかった。


 午後十時。


 富士山は、まだ噴いていない。


 だが、日本はすでに、次の破局の入口に立っていた。


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