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第六話 静穏

 八月十七日、午前零時。


 南海トラフ巨大地震から、まもなく七十一時間。


 列島の南側には、夜が沈んでいた。だが、その夜は眠りのためのものではなかった。高知、徳島、和歌山、三重、愛知、静岡、宮崎、大分、愛媛。広い沿岸部の避難所には、疲れ切った人々が身を寄せていた。体育館の床、学校の廊下、公民館の畳、山の上の集会所、道の駅の駐車場。どこにも、十分な水と食事と静けさはなかった。


 津波警報は多くの地域で解除または切り替えが進んでいたが、低地への帰還は依然として危険だった。道路は瓦礫と泥で埋まり、港には流された車と船が折り重なり、海水を含んだ建物は自重で崩れ始めていた。夜の闇は、被災地から色を奪い、臭いだけを残した。泥、海水、油、木材、腐り始めたもの、そして人が長時間集まった避難所の汗と不安の匂い。


 高知県黒潮町の高台避難所では、森下三曹が壁にもたれて座っていた。眠ってはいない。目を閉じると、瓦礫の下から聞こえた音が戻る。片方だけの子どもの靴が見える。泥に濡れた家族写真が浮かぶ。


 彼の膝の上には、半分だけ残った携行食が置かれていた。


 食べなければならない。

 分かっている。

 昨日、班長に言われた。苦しいまま食え。任務だからだ。食べることも戻る作業だ、と。

 それでも、口に入れる直前で手が止まる。

 救出された男性は助かった。だが、その隣の家からは、何の音も返ってこなかった。何度呼んでも、返事はなかった。

 森下は、自分の指先を見た。爪の間に泥が残っている。洗っても落ちない。落ちないのは泥ではなく、記憶なのだと分かっていた。


 班長が隣に座った。


「食えたか」


「半分です」


「半分食えたなら上等だ」


「上等には見えません」


「昨日は一口で泣いてた」


 森下は、少しだけ苦笑した。


「言わないでください」


「言う。覚えとけ。戻ってきてる証拠だ」


 森下は、携行食を見た。


「班長」


「何だ」


「七十二時間を過ぎたら、どうなるんですか」


 班長は、すぐには答えなかった。避難所の外では、夜風がブルーシートを揺らしていた。遠くの発電機が低く鳴っている。その音が時々、海鳴りのように聞こえる。


「どうにもならん」


「え」


「時計が五時三分を過ぎても、俺たちは掘る。呼ぶ。探す。水を運ぶ。担架を運ぶ。七十二時間は目安だ。命令じゃない」


「でも、生存率は」


「下がる」


 班長は、淡々と言った。


「それは事実だ。だから焦る。だから急ぐ。だが、過ぎたら終わりじゃない。過ぎてから救われる命もある」


 森下は黙った。


「ただな」


 班長は続けた。


「心が折れやすくなる。こっち側が勝手に、もう間に合わないと思い始める。だから、そこからが別の戦いだ」


「別の戦い」


「諦める理由が増えてから、諦めない戦いだ」


 森下は、携行食をもう一口食べた。

 味はしなかった。

 それでも、飲み込んだ。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前一時二十分。


 宮崎県日南市の臨時救護所では、若い三曹が名簿を整理していた。


 彼はまだ瓦礫の中へ戻されていない。医官の判断で、救護所内の搬送整理、避難者への水配布、要薬者の確認に当たっていた。本人は前線へ戻りたいと言い続けたが、成瀬一尉は許可しなかった。


 水を配る任務。


 それは、彼にとって瓦礫へ入るより難しい任務だった。

 ペットボトルを持つ。水面が揺れる。すると、津波が戻る。助けてという声が戻る。朝、成瀬に止められた現場が戻る。


 だが、彼は配った。


「一口ずつ飲んでください」


 避難者の男性が受け取った。


「自衛隊さんも飲んじょるか」


 三曹は、一瞬止まった。


「はい。飲んでいます」


 本当は、まだ十分には飲めていない。だが、嘘ではない。飲めるようになってきた。一口ずつ。衛生隊員に数えられながら。目を閉じて。水を波ではなく水として飲む練習をしている。


 男性は言った。


「自衛隊さんが倒れたら、わしら困るからな」


 三曹の胸が詰まった。


「はい」


 その時、テントの外から成瀬一尉の声が聞こえた。


「搬送車両、二台目をこちらへ。優先は圧挫症候群疑い。点滴維持」


 三曹は、反射的に立ち上がりかけた。

 衛生隊員が視線だけで制した。

 今の任務はここだ。

 三曹は、唇を噛み、名簿へ目を戻した。


 名前を書く。

 年齢を書く。

 症状を書く。

 搬送先を書く。


 それは前線ではない。だが、救助の一部だった。

 彼は、震える手でペットボトルを取り、自分の口へ近づけた。


 一口。

 飲み込む。


 波の音が少し遠くなった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前二時。


 官邸危機管理センター。


 高嶺紗枝(たかみねさえ)首相は、椅子に座っていなかった。立ったまま、大型画面の前で報告を聞いていた。座れば、眠気が襲ってくる。眠気に負ければ、次の判断が遅れる。周囲は何度も休息を促したが、彼女は十五分だけ目を閉じると答え、その十五分は毎回、別の報告で消えた。


 羽鳥真紀(はとりまき)危機管理監が、静かな声で報告した。


「発災から七十二時間まで、残り三時間余りです。高知、和歌山、宮崎、静岡で夜間救助継続。強い余震は深夜以降、発生していません。ただし、南海トラフ震源域では小規模な余震活動が続いています」


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が、防衛省から回線で続けた。


『現場部隊の疲労は極限に近い。交代は進めていますが、道路啓開の遅れ、孤立地域の広さ、津波被害の複雑さで、同じ部隊が長時間踏ん張っている箇所があります。急性ストレス反応、脱水、睡眠不足、食欲不振、過呼吸、フラッシュバックの報告が増えています』


 高嶺は、小さく頷いた。


「後送基準は」


『医官判断を優先。本人が希望しても、任務継続不可と判断した場合は下げます。ただ、現場では本人が下がることに強い罪悪感を示す例が多い』


 片倉皐月(かたくらさつき)財務大臣が言った。


『救助者用の休息拠点、食事、水、医療、心理支援に必要な追加支出を出します。避難者支援だけでなく、救助者支援も災害支出として明確にします』


 高嶺は、画面の中の小森を見た。


「防衛省として隊員に明確に伝えてください。休むことは任務です。水を飲むことも、食べることも、眠ることも、次の命を救うための任務だと」


『すでに発信しています。さらに徹底します』


 橘義隆(たちばなよしたか)官房長官が資料を差し出した。


「総理、午前五時三分に向けて声明案です」


 高嶺は紙を受け取った。


 七十二時間。


 その言葉の重さを、彼女は何度も聞いてきた。だが、今は違った。画面上の時計が、その時刻へ近づくたび、瓦礫の下で呼吸する人の胸が少しずつ上下しなくなっていくような錯覚があった。


 高嶺は声明案の一部に線を引いた。


「ここ、変えてください」


「どこでしょう」


「七十二時間を迎えました、ではなく、七十二時間を越えても救助を続けます、に」


 橘は頷いた。


「分かりました」


 高嶺は、低い声で言った。


「時刻を区切りにしてはいけない。区切りにするのは、救助する側の心です」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前三時三十分。


 T大学地震火山研究センター。


 青見怜一(あおみれいいち)は、南海トラフ震源域の余震分布と相模トラフの観測データを並べていた。


 相模トラフ付近の群発地震は、八月十六日午後八時以降、止まったままだった。機器障害ではない。観測網は生きている。海底地殻変動も、全球測位衛星システム(GNSS)も、ひずみ計も、データを吐き続けている。


 しかし、地震がない。

 ないことが、不気味だった。


 藤崎が、眠気で赤くなった目を擦りながら言った。


「先生、相模側、十二時間近く有感・微小活動が低下したままです」


「そうだな」


「スロースリップは」


「完全に止まったとは言えない。変位は小さいが、まだ残っているように見える」


「地震が止まって、すべりだけ残る」


「可能性の一つだ」


 藤崎は、声を落とした。


「それ、危なくないですか」


 青見は、答えなかった。


 危ない、と言えば予測になる。

 安全ではない、と言えば不安を広げる。


 しかし、地震学者として、彼の胸の奥にある警戒は、昨日よりも強くなっていた。


 南海トラフの巨大破壊は、東海まで達した。そこから東側、相模トラフへ応力場が変わった可能性はある。相模トラフは、首都圏の南に横たわる。そこが大きく動けば、東京、神奈川、千葉、静岡東部に甚大な被害が出る。相模湾、東京湾の津波。湾奥での増幅。港湾、羽田、川崎、横浜、千葉、浦安、江東、品川。


 青見は目を閉じた。

 まだ、何も起きていない。

 だが、何も起きていないことが、今は一番恐ろしい。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時三分。


 南海トラフ巨大地震発生から、七十二時間。


 その瞬間、被災地で何かが変わったわけではなかった。


 瓦礫は瓦礫のままだった。泥は泥のままだった。避難所の寒さと暑さ、臭いと疲労、喉の渇きと不安も変わらなかった。海はまだ濁り、道路はまだ切れ、通信はまだ届かない地域があった。

 しかし、人間の心の中で、何かが重く動いた。


 高知県黒潮町で、森下は腕時計を見てしまった。


 午前五時三分。


 見なければよかったと思った。

 昨日、班長は言った。七十二時間は命令ではない。過ぎても掘る。探す。呼ぶ。

 それでも、時計は無慈悲だった。


 森下は、瓦礫の前に立ち、叫んだ。


「自衛隊です! 聞こえたら音を出してください!」


 返事はない。


 もう一度。


「聞こえたら、音を出してください!」


 沈黙。


 彼の喉が詰まった。


 班長が横に立つ。


「声を出せ」


「出しています」


「もっと出せ」


「はい」


 森下は息を吸った。


「誰かいますか!」


 声が裏返った。


 それでも、叫んだ。


 七十二時間を過ぎたからといって、耳を閉じるわけにはいかない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 同じ時刻、官邸会見室。


 高嶺紗枝首相は、七十二時間を迎えた声明を出した。



  ――――

  内閣総理大臣声明

  発災七十二時間

  救助を継続

  命を諦めません

  ――――



『南海トラフ巨大地震の発生から、七十二時間となりました。七十二時間は、救命において極めて重要な目安です。しかし、救助を終える時刻ではありません。政府は、自衛隊、警察、消防、海上保安庁、自治体、医療機関、民間事業者、そして海外からの支援とも連携し、救助を続けます』


 高嶺は、言葉を切った。


『現場の皆さん。時間との戦いの中で、救えた命、救えなかった命、その両方を背負って活動していることを、政府は知っています。どうか、手順を守り、生きて次の現場へ向かってください。救助者が生きることは、次の命を守ることです』


 記者席は静まり返っていた。


『被災地の皆さん。声が出せる方は、声を出してください。近くの物を叩いてください。避難所にいる方は、隣の人と声をかけ合ってください。全国の皆さん。道路と通信を空け、公式情報を確認し、支援の輪を広げてください』


 質問が飛んだ。


「総理、七十二時間までに救えなかった命について、政府の責任をどう考えますか」


 会見室の空気が凍った。


 高嶺は、記者を見た。


『救えなかった命に対する責任から、政府は逃げません。ただし、今この瞬間も救助は続いています。責任の検証は必ず行います。今は、瓦礫の下の声を聞く時間です』


 別の記者が問う。


「相模トラフ周辺の地震活動が止まっているとの情報があります。これは安全になったということですか」


 高嶺は、短く息を吸った。


『安全になったと判断しているものではありません。相模トラフ周辺では、昨日まで小規模な地震活動が観測され、その後、活動が低下しています。気象庁と専門家が監視を続けています。首都圏の皆様は、過度に恐れず、しかし備えを確認してください』


 隠さない。

 煽らない。

 安心させすぎない。


 その三つを、彼女は必死に守っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時三十分。


 夜が明けると、救助は再び加速した。


 七十二時間を越えた後の朝。現場の空気は複雑だった。焦りは一段階深くなり、同時に、どこかで心が折れそうになる。もう遅いのではないか。今掘っている場所に、生きている人はいないのではないか。そんな考えが、隊員たちの手を重くする。


 宮崎県日南市で、成瀬一尉は隊員たちを集めた。


「七十二時間を越えた」


 誰も目を逸らさなかった。


「だが、救助は終わらない。過去の災害でも、七十二時間を越えて救われた人はいる。俺たちは時計を見て諦めるためにいるんじゃない。命の可能性がある限り、探すためにいる」


 若い隊員が、小さく頷いた。


 成瀬は続けた。


「ただし、焦るな。手順を飛ばすな。余震、倒壊、津波残留水、感染、熱中症。全部が敵だ。敵を増やすな」


「はい!」


「もう一つ」


 成瀬は、救護テントの方を見た。


「下がる判断を恥じるな。休む判断を恥じるな。水を飲め。食え。倒れるな。倒れないことも救助だ」


 その言葉を、若い三曹はテントの入口で聞いていた。

 彼はまだ前線復帰ではない。だが、今日は搬送補助に入る許可が出ていた。瓦礫には入らない。担架の受け渡し、水分補給、搬送者名簿。それでも、昨日より一歩前だった。

 成瀬が彼を見つけた。


「行けるか」


 三曹は敬礼した。


「はい。今の任務を行います」


「今の、が大事だ」


「はい」


 成瀬は頷いた。

 復帰とは、元の場所へ戻ることではない。

 今立てる場所に立つことだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時。


 南海トラフ震源域の余震活動が、止まった。


 最初に気づいたのは、T大学の藤崎だった。


「先生」


 青見は相模トラフの画面を見ていた。


「どうした」


「南海側です。更新が止まっています」


「観測障害か」


「確認します」


 気象庁、海底地震計、防災科研、各地の震度計、通信回線。障害ではなかった。少なくとも、主要な観測網は生きている。にもかかわらず、午前八時以降、南海トラフ震源域で続いていた余震活動が、急激に静かになっていた。


 相模トラフの群発地震は、前夜から止まったまま。


 そして今、南海トラフの余震まで止まった。

 藤崎は、画面を見つめたまま言った。


「静かに、なりましたね」


 青見は答えなかった。


 静かになった。


 その表現が、あまりに不気味だった。

 地震の後、余震が続くのは自然だ。震源域が応力を調整し、割れ残りや周辺断層が動く。そのざわめきが、今朝八時を境に消えた。

 もちろん、一時的な揺らぎかもしれない。統計的な偏りかもしれない。観測される規模以上の地震がたまたま減っただけかもしれない。

 だが、南海トラフの巨大破壊後、相模トラフの小さなすべりと群発、その停止。そして南海側余震の停止。


 青見の背中に、冷たいものが走った。


「官邸へ上げる」


 藤崎が頷いた。


「表現は」


「余震活動の一時的低下。監視強化。安全を意味しない」


 青見は、短く言った。


「それ以外は言えない」


 だが、言えないことほど、彼の胸の中で大きくなっていった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時四十五分。


 官邸危機管理センターに、青見からの報告が入った。


 羽鳥危機管理監が読み上げる。


「午前八時以降、南海トラフ震源域での余震活動が急激に低下。観測障害ではないと見られる。相模トラフ付近の群発地震は、前夜以降停止したまま。気象庁、専門家は監視を強化」


 会議室が静まり返った。


 小森防衛大臣が、画面越しに言った。


『現場にはどう伝えるべきですか。余震が止まったと言えば、活動制限を緩める圧力が出ます』


 青見が答えた。


『余震が止まったから安全、ではありません。むしろ、なぜ止まったのか分からない段階です。現場の安全基準は緩めないでください』


 高嶺紗枝首相は、地図を見た。

 西日本の被災地では、七十二時間を越えた救助が続いている。相模トラフ付近では、群発地震が止まっている。南海トラフの余震も止まった。

 静けさが、列島を覆い始めていた。


「公表は」


 緒方気象庁地震火山部長が答えた。


『定例解説情報で、余震活動が一時的に低下しているが、引き続き強い揺れや津波に注意、と説明します。相模トラフについても監視継続とします』


「安全という言葉は使わないでください」


『使いません』


 高嶺は、羽鳥へ言った。


「首都圏自治体にも共有。備えを確認。ただし、被災地支援の物流を止めない表現で」


「はい」


 橘官房長官が小さく言った。


「静かになったことで、国民は少し安心するかもしれません」


 青見が、画面越しに言った。


『安心してもらうこと自体は悪くありません。ただ、警戒を解かれると困ります』


 高嶺は頷いた。


「では、こう言います。揺れが減っても、備えは減らさない」


 橘がメモに書いた。


 ――揺れが減っても、備えは減らさない――


 それは、この日の政府広報の中心になった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十時。


 静穏化は、現場には一瞬の救いとして届いた。

 宮崎県日南市では、午前八時以降、強い余震が来ていなかった。瓦礫の中で作業する隊員たちは、体感としてそれを感じていた。


「揺れませんね」


 若い隊員が呟いた。

 成瀬一尉は、すぐに言った。


「油断するな」


「はい」


「揺れない時間ほど、手順を守れ」


 隊員は頷いたが、表情には少しだけ安堵が見えた。


 その安堵を責めることはできない。強い余震のたびに身を伏せ、支柱を確認し、撤退し、また戻る。その繰り返しは、体力だけでなく精神を削っていた。揺れない時間は、救助者にも避難者にも必要だった。

 成瀬も、心のどこかでは同じだった。


 揺れないでくれ。

 もう揺れないでくれ。


 そう願っていた。

 だが、指揮官としては、その願いを表に出せない。願いは判断を曇らせることがある。


 成瀬は、若い三曹へ声をかけた。


「水は」


「飲みました」


「食事は」


「少し」


「嘘は」


「少し、本当です」


 成瀬は、ほんのわずかに笑った。


「ならいい」


 三曹は、搬送名簿を抱えたまま、瓦礫の方を見た。


「一尉」


「何だ」


「揺れが止まると、逆に怖いです」


 成瀬は、三曹を見た。


「俺もだ」


 三曹は驚いた顔をした。

 成瀬は続けた。


「怖いと思えるなら、まだ判断できる。怖くなくなったら、下がれ」


「はい」


 静けさの中で、二人は瓦礫の方へ向かった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 正午。


 首都圏では、相模トラフの群発停止と南海トラフ余震の低下が、ニュースとして伝えられていた。



   『南海トラフ震源域の余震活動、一時的に低下』

   『相模トラフ周辺の群発地震は停止状態』

   『専門家「安全を意味しない。備え継続を」』



 東京駅では、支援物資輸送、災害派遣関連の移動、帰省からの戻り、運休と遅延で、人の流れが複雑に絡んでいた。大きな混乱はない。だが、空気は重かった。


 港区の高層ビルでは、企業の危機管理担当者が社員へ通知を出していた。



   >首都圏でも家具固定、備蓄、避難経路を確認してください。

   >被災地支援物資輸送を妨げないため、不要不急の大量購入は控えてください。

   >余震・相模トラフ関連情報については公式発表を確認してください。



 江東区の湾岸マンションでは、住民がエレベーター停止時の階段経路を確認していた。品川区では、家族が避難所まで歩いてみた。横浜市の港湾部では、倉庫会社が津波避難ビルの鍵と非常階段を確認した。川崎市では、工場地帯の防災担当者が、薬品タンクと非常停止手順を再確認していた。


 静けさは、人を油断させる。


 同時に、人を備えさせることもできた。

 政府広報の短い文面が、繰り返し流れた。



   『揺れが減っても、備えは減らさない。』




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時三十分。


 官邸では、海外支援の受け入れ調整が本格化していた。


 米国からの大規模支援作戦は、横須賀、座間、岩国、佐世保、横田、三沢を軸に展開準備が進んでいた。台湾の救援隊は第一陣の調整に入り、欧州各国の軍医、看護師、輸送部隊、艦艇支援も次々と申し出が整理されていた。

 だが、被災地の港湾はまだ完全には使えない。空港も滑走路、燃料、アクセス道路の制約を受ける。支援を受けるには、受け入れる側の力が必要だった。


 羽鳥が報告した。


「米軍支援は、医療、輸送、通信、浄水を優先。台湾は救援隊と支援金の調整。欧州各国は医療チームと艦艇輸送。受け入れ拠点は、被害の少ない空港、基地、港湾を組み合わせます」


 片倉皐月が言った。


「支援金の受け入れ、物資購入、輸送契約、自治体配分、全て同時に動かします。財務省は通常の査定ではなく、後追い精算を前提にします」


 橘が確認する。


「野党から、海外軍の受け入れについて国会説明を求める声があります」


 高嶺は、疲れた表情のまま言った。


「説明します。ただし、救助と物資輸送を止めてまでではありません。中道連盟、民権民主党には個別に説明を。令明新生組、日本民衆共産党、社会民主会にも同じ資料を渡します」


「反発は避けられません」


「反発する自由はあります。救助を妨げる自由はありません」


 その言葉に、橘は頷いた。

 高嶺は続けた。


「そして首都圏の備えも進めます。相模トラフについて、何も起きないことを願います。しかし、願いを政策にはしない」


 羽鳥が言った。


「東部方面隊、警視庁、東京消防庁、神奈川、千葉、静岡、首都圏自治体との連絡体制を一段上げます」


「表には出しすぎないでください。だが、実務は上げる」


「はい」


 静かになった海底を前に、政府は音を立てずに備えを増やしていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後三時。


 南海トラフ被災地では、七十二時間を越えた救助が続いていた。

 高知県黒潮町で、森下は倒壊家屋の前に膝をつき、耳を澄ませていた。


 音はない――


 昨日なら、すぐに次へ行けたかもしれない。だが、七十二時間を越えた今、沈黙の重さが違う。

 班長が言った。


「次へ移る」


 森下は、瓦礫を見た。


「もう一度だけ呼ばせてください」


 班長は腕時計を見た。


「十秒」


 森下は頷き、瓦礫に向かって叫んだ。


「自衛隊です! 聞こえたら、音を出してください!」


 沈黙。


「誰かいますか!」


 沈黙。

 十秒。


 班長が言った。


「行くぞ」


 森下は敬礼に近い動作で瓦礫に頭を下げた。

 誰に向けたのか、自分でも分からなかった。


「次へ行きます」


 班長は何も言わなかった。


 救助現場では、諦めるという言葉は使わない。

 だが、次へ行くという判断はある。

 それが、どれほど胸を切るものか。


 森下は歩き出した。

 足は重かった。

 それでも、次の場所へ向かった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後四時三十分。


 T大学地震火山研究センター。


 青見怜一は、相模トラフの観測データを凝視していた。

 午後になっても、群発地震は止まったままだった。南海トラフ震源域の余震も、午前八時以降、顕著な活動がない。観測網は生きている。海底地殻変動には、わずかながら不穏な変位が残っている。


 藤崎が、静かに言った。


「先生、これ、公表資料ではどう書くんですか」


「余震活動は一時的に低下。相模トラフ付近の活動は低調。引き続き監視」


「それだけですか」


「それ以上は、根拠を超える」


「でも、先生は警戒してますよね」


 青見は、しばらく黙った。


「している」


「なら」


「警戒していることと、予測できることは違う」


 藤崎は、悔しそうに画面を見た。


「言えないんですね」


「言えない」


 青見は、椅子から立ち上がった。体が重い。何日も眠っていない。目の奥が痛む。だが、眠れるはずがなかった。

 南海トラフが割れた時、観測網は先に悲鳴を上げた。今、観測網は沈黙している。

 悲鳴より、沈黙の方が怖い時がある。


 青見は、官邸向けの短い所見を書いた。



   「相模トラフ付近の群発停止および南海トラフ震源域の余震活動低下は、安全を意味するものではない。

    南海トラフ巨大地震後の広域応力変化を踏まえ、相模湾、東京湾、房総南方沖の観測を強化すべき。

    首都圏自治体には、過度な社会的混乱を避けつつ、津波避難、帰宅困難者、港湾部、湾岸低地の備えを確認させる必要がある。」



 送信する前に、青見は一度だけ手を止めた。


 この文面で、足りるのか。

 足りるはずがない。


 だが、科学者が書けるのは、根拠のある警告だけだった。


 彼は送信した。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後五時。


 官邸に、青見の所見が届いた。


 高嶺紗枝は、それを読んだ後、東部方面隊、警察庁、消防庁、国交省、海上保安庁、東京都、神奈川県、千葉県、静岡県との連絡体制強化を指示した。


「首都圏に不安を広げすぎず、実務を上げる。湾岸部、港湾、地下街、帰宅困難者、鉄道、空港、病院、通信、電力。確認項目を分けてください」


 羽鳥が即座に答えた。


「はい」


 小森防衛大臣が言った。


『東部方面隊には、南海トラフ支援を維持しつつ、首都圏事案への即応確認を行わせます。ただし、表向きには通常の警戒強化とします』


「それでお願いします」


 片倉皐月が言った。


『首都圏で混乱が起きれば、被災地支援の物流も止まります。買い占め抑制、燃料供給、金融決済、通信維持も同時に必要です』


 橘が言う。


「午後六時に政府広報を出しますか」


 高嶺は頷いた。


「出します。内容は、首都圏だけではなく全国向けに。静穏化を安心材料にしすぎない。備えの再確認」


 羽鳥が確認した。


「相模トラフの表現は」


「観測を強化している。大規模地震を予測するものではない。ただし、備えを確認。これで」


 高嶺は、ふと窓の外を見た。

 東京の夕方は、赤く染まり始めていた。

 この街は、まだ動いている。電車が走り、車が流れ、ビルの窓が光り、人々がスマートフォンを見ながら歩いている。西日本で巨大災害が進行している中でも、首都の日常は完全には止まらない。

 だからこそ、次に何かが起きた時の落差は大きい。


 高嶺は、目を閉じなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後五時三十分。


 宮崎県日南市。


 成瀬一尉は、瓦礫の前で若い三曹と並んで立っていた。三曹は搬送補助の任務を終え、短い休息に入るところだった。

 南海トラフの余震は、午前八時以降、体感でも止まっていた。静かだった。発電機の音、重機の音、人の声、ヘリの音。地面そのものの声が消えていた。


 三曹が言った。


「一尉、静かですね」


「ああ」


「怖いです」


「そうだな」


「これで終わりならいいのに」


 成瀬は答えなかった。


 終わりならいい――


 全員がそう思っている。


 だが、災害派遣の現場にいると分かる。終わりは、こちらが決めるものではない。余震が止まっても、瓦礫は崩れる。水が引いても、感染症が来る。救助が終わっても、避難生活が続く。避難生活の後に、生活再建が来る。喪失が来る。怒りが来る。政治が来る。時間差で心が折れる。


 三曹は、小さな声で言った。


「自分、朝のこと、まだ許せません」


「許さなくていい」


「え」


「無理に許すな。忘れるな。ただ、そこに座り込むな」


 三曹は、成瀬を見た。


「背負って立て、ですよね」


「そうだ」


 三曹は、ペットボトルを取り出した。自分から蓋を開け、一口飲んだ。


 成瀬は、それを見て何も言わなかった。

 褒めるには重すぎる。


 だが、彼の中では、それは今日の救助の一つだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後六時。


 八月十七日の夕方。


 相模トラフの群発地震は、止まったままだった。

 南海トラフ震源域の余震も、午前八時以降、目立った活動を見せていなかった。

 列島は、静かだった。


 静かすぎた。


 高知県黒潮町では、森下が泥のついた手で水を飲んだ。食事も少し取った。七十二時間を越えた後も、彼らは呼び続けていた。

 宮崎県日南市では、成瀬一尉が交代表を確認し、無理をしている隊員を下げた。若い三曹は搬送名簿を抱え、次の避難者に水を渡していた。

 和歌山では、民宿の主人が、行方不明者の欄にまだ印をつけられずにいた。

 静岡では、市職員が、泣きながらも電話を取り続けていた。

 官邸では、高嶺紗枝首相が、午後六時の政府広報を確認していた。



  ――――

  政府からのお願い

  揺れが減っても備えは減らさない

  南海トラフ被災地では救助継続

  首都圏でも備えを確認

  ――――



 高嶺は、原稿を読み終えると、羽鳥に言った。


「この文面で出してください」


「はい」


 橘が尋ねた。


「総理、少し休まれては」


 高嶺は、答えようとして、壁面の地図を見た。


 西日本の被災地。

 静かな相模湾。

 東京湾の湾岸。

 横浜、川崎、品川、江東、浦安、船橋、千葉、木更津。


 地図の東側が、妙に明るく見えた。


「あと少しだけ」


 羽鳥は、もう反論しなかった。


 T大学では、青見怜一が相模トラフの画面を見続けていた。藤崎は隣で、更新されない震源リストを何度も確認している。


「先生」


「何だ」


「何も、出ません」


 青見は、画面から目を離さなかった。


「それが怖い」


 午後六時。


 地震発生まで、まだ少し時間があった。


 人々は、そのことを知らなかった。

 西では、救助が続いていた。

 東では、日常が辛うじて続いていた。


 そして相模トラフの海底では、音もなく、何かが限界へ近づいていた。


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