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第五話 七十二時間

 八月十五日、午前三時。


 南海トラフ巨大地震の夜は、まだ明けていなかった。


 発災から、まもなく二十二時間。太平洋沿岸の広い範囲では、なお津波警報が継続していた。大津波警報から津波警報へ切り替わった地域もあったが、それは安全を意味しない。海はまだ息をしていた。湾の奥で水位が上下し、港の中では切れたロープと流された船がぶつかり合い、暗い水面の下で車や瓦礫が見えない障害物となっていた。


 高知県黒潮町の高台避難所では、森下三曹が懐中電灯を胸に下げ、避難者の間を歩いていた。仮眠は十 分。眠ったというより、目を閉じていた時間が十 分あっただけだった。


 子どもが熱を出した。高齢者の薬が切れかけている。持病のある男性が胸の痛みを訴えている。水は足りない。トイレはすでに限界に近い。スマートフォンの電池が切れ、家族と連絡が取れない人々の不安が、夜の湿った空気の中で膨らんでいた。


 井ノ口は、避難者名簿を膝に置いて、まだ空欄の名前を見つめていた。

 津波に呑まれた男性の名前は、誰かが書き込もうとして、途中で止めたままだった。


 行方不明――。


 その四文字を書けば、現実が一段階進んでしまう気がした。


 森下が近づいた。


「少し休んでください」


「自衛隊さんこそ」


「自分は交代で回っています」


「そう見えん」


 井ノ口は、森下の目の下の影を見た。若い。まだ二十代半ばに見える。その若さの顔に、半日で何年分もの疲れが刻まれていた。


「水、飲めましたか」


 森下が尋ねる。


 井ノ口は、少しだけ笑った。


「二口」


「十分です」


「たった二口でか」


「昨日の夜なら、飲めなかったでしょう」


 井ノ口は、黙って頷いた。


 暗い体育館の奥で、誰かが寝言のように泣いていた。海の音は聞こえないはずだった。だが、多くの人の耳には、まだ聞こえていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前三時四十分。


 宮崎県日南市の臨時指揮所では、成瀬一尉が地図の上に赤い線を引いていた。


 沿岸部への進入可能ルート。津波再来時の退避経路。倒壊家屋が密集する地区。孤立者情報。水が引いたように見えるが、まだ危険な低地。夜間進入不可区域。

 地図はすでに汚れていた。泥、汗、水滴、赤鉛筆の跡。紙の上でさえ、被災地は形を失いつつあった。


 副官が報告した。


「第一検索班、休息中。第二検索班、三十分後に交代可能。三曹は救護テントで待機継続です」


 成瀬は、ほんのわずかに目を伏せた。


「あいつは」


「水を少し飲めました。眠れてはいません」


「戻せるか」


「衛生の判断では、今は不可です」


「分かった」


 成瀬は、短く答えた。


 指揮官としては、それで終わりだった。だが、人間としては終わらない。救えなかった命に苦しみ、助けた命に泣き、水を飲めなくなった部下が、テントの中で横になっている。その横で、自分は次の救助計画を引いている。


 冷たい。


 そう思った。

 だが、冷たくなければ、次の判断ができない。


 副官が携行食を差し出した。


「一尉」


「後で」


「後ではありません」


 成瀬は、地図から目を離さなかった。


「食えない」


「知っています。だから、今、一口だけです」


 成瀬は、数秒黙った。副官は引かなかった。

 やがて、成瀬は袋を受け取り、ほんの少しだけ口に入れた。味はしない。噛むことが作業のようだった。


「飲み込んでください」


「分かっている」


 成瀬は水を一口飲んだ。喉を通る瞬間、胸の奥が痛んだ。

 朝の声が戻る。


 助けて。


 成瀬は目を閉じた。


 副官が静かに言った。


「戻ってきてください」


 成瀬は、目を開けた。


「戻っている」


「なら、次の指示を」


 成瀬は地図を見た。


「午前四時半から、内陸側倒壊家屋を優先する。沿岸低地は警報解除まで入らない。焦るな。焦る者から下げろ」


「了解」


 その声は、疲れていた。

 それでも、指揮の形を保っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時三分。


 発災から二十四時間。


 官邸危機管理センターの壁面時計が、その時刻を示した。誰かが声に出したわけではない。だが、そこにいた全員が意識していた。


 一日――。


 最初の一日が終わった。

 だが、終わったものなど何もなかった。


 高嶺紗枝(たかみねさえ)首相は、大型画面の前に立っていた。画面には被災各県の地図が映っている。赤、黄色、黒。浸水、道路寸断、通信途絶、孤立、医療逼迫、避難所、救助要請。


 羽鳥危機管理監が報告した。


「発災二十四時間時点で、全容はなお不明。確認不能地域が多数あります。沿岸部の詳細確認は津波警報と夜間のため制限。夜明け後、航空偵察と衛星画像解析を拡大します」


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が回線越しに続けた。


『現職自衛官の投入規模を拡大中。即応予備自衛官の招集を進めます。予備自衛官による駐屯地警衛支援も段階的に開始します。ただし、移動経路が限られ、現場到着には時間差が出ます』


 片倉皐月(かたくらさつき)財務大臣が言った。


『物資は出しています。問題は、届かないことです。港湾、道路、空港、全てが制約を受けています。七十二時間後に使用可能と考えられる港湾候補を前提に、海上輸送の再構成が必要です』


 高嶺は頷いた。


「国交省と海保、自衛隊で港湾確認を最優先に。被災地に近い港だけにこだわらない。使える港から入れる」


 橘官房長官が、深夜から早朝にかけての世論状況を報告した。


「政府批判、政府擁護、被災地支援、デマ訂正が錯綜しています。令明新生組、日本民衆共産党、社会民主会の一部議員からは、臨時情報が出ていたにもかかわらず被害を防げなかった政府の責任を追及する発信が出ています。一方、救助中の自衛隊や消防への感謝と、救助者の休息を求める投稿も増えています」


 高嶺は、短く答えた。


「返答は不要です。今は七十二時間との戦いです」


 七十二時間。


 災害医療と救助の現場で、何度も語られてきた時間。もちろん、その後に救われる命もある。七十二時間で命が尽きると決まっているわけではない。だが、瓦礫の下、低体温、脱水、外傷、圧迫、持病、孤立。時間が経つほど、救助の可能性は細くなる。


 発災から七十二時間となるのは、八月十七日午前五時三分。

 そこまで、あと四十八時間。


 高嶺は、画面を見た。


「全省庁に伝えてください。今からの二日間は、国家としての時間を救助現場に合わせる。通常の手続きで間に合わないものは、記録を残して先に動かす。命を待たせない」


 羽鳥が頷いた。


「はい」


 首相の声は低かった。


「時計を見るたびに、誰かの呼吸が細くなっていると思ってください」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時二十分。


 夜明けとともに、被害の実像が少しずつ露出し始めた。


 高知県黒潮町では、津波が引いた低地に、泥と瓦礫の平原が広がっていた。家があった場所に、家の形はない。車が屋根の上に乗り、船が道路の中央に横たわり、電柱が束になって倒れている。

 森下の班は、高台側から慎重に降りられる範囲を確認していた。津波警報はなお継続しており、完全な低地進入はできない。監視員を置き、退避経路を確保し、短時間で確認して戻る。


「聞こえたら、音を出してください!」


 森下が叫んだ。


 返事はない。


 瓦礫を叩く音もない。


 もう一度叫ぶ。


「自衛隊です! 聞こえたら、音を出してください!」


 沈黙。


 この沈黙が、一番つらい。


 声が聞こえれば走れる。音がすれば掘れる。泣き声がすれば、そこへ向かえる。だが、何も返らない場所では、どこから手をつければいいのか分からない。


 班長が言った。


「森下、左の家屋跡を確認。深追いするな」


「了解」


 泥に足を取られながら、森下は進んだ。足元に畳が沈んでいる。どこかでガラスが割れる音がした。余震ではない。瓦礫が自重で崩れただけだった。

 森下は、崩れた柱の下に、家族写真のアルバムを見つけた。泥に濡れ、顔は判別できない。

 彼は手を伸ばしかけ、止めた。


 今は遺品を拾う時間ではない。


 命を探す時間だ。


 そう自分に言い聞かせる。


「誰かいますか!」


 声は、瓦礫に吸い込まれた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前七時四十五分。


 宮崎県日南市で、強い余震が起きた。



 午前七時四十五分

 震源地 日向灘 暫定マグニチュード6・4 最大震度5強



 成瀬一尉の部隊は、倒壊家屋の検索中だった。余震の瞬間、全員が姿勢を低くした。支えていた柱が軋み、二階部分がわずかにずれた。


「退避!」


 成瀬の声が飛ぶ。

 隊員たちは一斉に外へ出た。十秒後、家屋の奥が崩れ落ちた。

 若い隊員が、息を荒げた。


「中に、まだ」


「確認できていない」


「でも、音が」


「確認できていない!」


 成瀬は強く言った。

 自分でも、残酷な声だと思った。

 だが、確認できていない音に全員を突っ込ませることはできない。救助ではなく、犠牲の追加になる。

 余震が収まった後、成瀬は深呼吸した。


「支柱を追加。安全評価をやり直す。進入はそれから」


 隊員は唇を噛んだ。


「七十二時間まで、時間がありません」


「分かっている」


「だったら」


「分かっている!」


 成瀬の声が一瞬だけ荒れた。

 周囲が静かになった。


 成瀬は、自分の声に気づき、目を閉じた。


「――すまない」


 隊員は首を振った。


「いえ」


 成瀬は、全員を見た。


「焦りは分かる。俺も焦っている。だが、焦った救助は、救助者を殺す。救助者が死ねば、次の現場へ行けない。七十二時間と戦うために、手順を飛ばすな」


 隊員たちは頷いた。

 誰も納得などしていない。


 それでも、頷いた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十五日、正午。


 被災地の空には、ヘリの音が増え始めた。航空偵察、医療搬送、物資輸送、孤立確認。だが、機体数は足りない。燃料も限られる。着陸できる場所も少ない。


 高知、徳島、和歌山、三重、愛知、静岡。各県の災害対策本部は、救助要請を優先順位で並べる作業に追われていた。


 優先順位。


 その言葉は、紙の上では冷静だった。

 現場では、残酷だった。

 高知県の対策本部で、職員が声を震わせた。


「この地区、高齢者施設があります。連絡途絶。優先度を上げるべきです」


 別の職員が言う。


「こちらの集落は、昨日夕方に生存者の音確認あり。今朝以降、応答なし。先に行かないと」


「でも施設は人数が多い」


「音があった方が救命可能性は高い」


「人数で見るのか、可能性で見るのか」


 会議室が沈黙した。


 答えはない。


 それでも、決めるしかない。

 県の危機管理監が、目を閉じてから言った。


「救助可能性、人数、到達時間、二次災害リスク。この四つで判断します。責任は本部で持つ」


 誰かが泣きそうな顔で頷いた。

 七十二時間との戦いは、命の重さを比べることではない。

 だが、限られた時間と人員の前では、順番を決めなければならなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後三時。


 官邸では、七十二時間対策会議が開かれた。


 高嶺紗枝(たかみねさえ)片倉皐月(かたくらさつき)小森進一(こもりしんいち)橘義隆(たちばなよしたか)羽鳥真紀(はとりまき)、関係省庁幹部、気象庁の緒方、そしてT大学の青見怜一(あおみれいいち)がオンラインで参加していた。


 羽鳥が冒頭で言った。


「現在、発災から三十四時間弱。残り約三十八時間で七十二時間となります。もちろん、その後も救助は継続しますが、脱水、圧挫、低体温、持病悪化のリスクが急増します」


 小森が続けた。


『自衛隊は各方面から投入を続けています。ただし、被災範囲が広すぎる。現職、即応予備、予備自衛官による支援体制に移行中ですが、移動路確保が鍵です。道路啓開と港湾使用可否確認が遅れると、救助力が被災地中心部へ届きません』


 国交省担当者が地図を示した。


「瀬戸内側と日本海側からの迂回輸送を検討しています。港湾については、比較的使用可能性のある拠点を優先確認中。高知新港、徳島小松島港、名古屋港、清水港などは被害状況により制約が大きい可能性があります。代替港も含めて輸送網を再構成します」


 片倉が言った。


「金は出します。問題は、手続きではなく現場への到達です。民間トラック、フェリー、航空、鉄道復旧区間、自衛隊輸送を組み合わせる必要があります」


 高嶺は、青見へ視線を向けた。


「余震と津波の見通しは」


 青見は、疲労の濃い顔で答えた。


『南海トラフ全域に及ぶ巨大地震後です。マグニチュード6級から7級の余震は、今後も発生し得ます。津波についても、沿岸地形によっては長時間にわたり危険な水位変動が続く可能性があります。救助活動は、常に退避経路を確保した上で行う必要があります』


「現場は七十二時間に焦っています」


『焦るべきです。しかし、焦って死んではいけない』


 青見の声は、静かだった。


『救助者の二次被害は、救命力を削ります。自然は、こちらが急いでいることを考慮しません』


 高嶺は頷いた。


「その言葉を、現場向けの指示にも入れます」


 会議の終わりに、橘が政治状況を報告した。


「野党の一部は、七十二時間後に政府責任を問う姿勢を強めています。一方、与党内の反高嶺派も、官邸の情報統制が強すぎると不満を漏らしています」


 高嶺は、数秒黙った。


「七十二時間後に責任を問うと言うなら、七十二時間までは救助を妨げないでほしい。会見ではそう言います」


 橘が少し驚いた顔をした。


「かなり強い表現です」


「強くていいです」


 高嶺は、時計を見た。


「今は、政治家が言葉で現場の時間を奪ってはいけない」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後五時二十六分。


 四国沖で比較的強い余震が発生した。



 午後五時二十六分

 震源地 四国沖 暫定マグニチュード6・9 最大震度5強



 高知県黒潮町の低地で活動していた森下の班は、直ちに退避姿勢を取った。泥の上で膝をつく。瓦礫が崩れ、遠くで金属音が響く。


 無線が鳴った。


『津波水位変動確認。低地活動班、ただちに高台へ戻れ』


 班長が叫ぶ。


「撤収! 全員戻る!」


 森下は、直前まで確認していた家屋跡を見た。中から音はなかった。だが、もしかすると、音を出せない人がいるかもしれない。


 足が止まった。


 班長が怒鳴った。


「森下!」


「はい!」


「戻れ!」


 森下は走った。泥に足を取られ、転びかける。背後で、水位がじわじわと上がっていた。津波という言葉から想像する壁ではない。だが、泥水が静かに戻るだけでも、瓦礫の中では十分に人を殺す。


 高台に戻った時、森下は息を切らしながら拳を握った。


「また、途中で」


 班長が言った。


「戻ったから、次に行ける」


「でも、あそこに」


「いるかもしれない。いないかもしれない。今は戻る判断が正しい」


 森下は唇を噛んだ。


「正しい判断ばかりが、胸に残ります」


 班長は、低く答えた。


「それが災害派遣だ」


 森下は、何も言えなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時。


 日没後、被災地の空気は再び変わった。


 昼間の救助で見えていたものが、闇に隠れる。瓦礫の角、泥の深さ、水路の位置、崩れかけた壁、落ちた電線。全てが見えにくくなる。ライトを照らせば、そこだけは見える。だが、周囲の闇は逆に濃くなる。

 宮崎県日南市の救護テントで、若い三曹は、ようやく浅い眠りに落ちていた。数十分後、叫びながら目を覚ました。


「来る!」


 衛生隊員がすぐに肩を押さえた。


「ここはテントだ。高台だ。水は来ていない」


 三曹は荒く息をしていた。


「音がしました」


「発電機の音だ」


「違う。波の」


「今、俺の声を聞け。手を見ろ。ここにいる」


 三曹は、自分の手を見た。震えている。泥は落としたはずなのに、爪の間にまだ残っているように見えた。


「任務に戻れませんか」


「今夜は戻さない」


「明日は」


「明日の朝、医官が判断する」


 三曹は、悔しそうに毛布を握った。


「七十二時間が近いのに」


「だから、壊れた隊員を戻せない」


「壊れてません」


 衛生隊員は、少しだけ厳しい声になった。


「壊れかけていることを認めるのも、任務だ」


 三曹は、目を閉じた。

 その言葉は、どんな叱責より痛かった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時十八分。


 T大学地震火山研究センター。


 青見怜一は、南海トラフの余震分布を見ていた。マグニチュード6級の余震は続いている。南海、東南海、東海。広大な震源域の縁辺で、地震活動が不規則に続いていた。

 その時、別の画面が小さく点滅した。

 相模トラフ周辺の海底地殻変動観測。


 青見は、目を細めた。


「藤崎」


「はい」


「相模湾側のデータ、今更新されたか」


 藤崎が別端末を開く。


「はい。房総南方沖から相模湾口付近で、微小な変位が出ています。ただ、ノイズかもしれません」


「時系列を出して」


 数分後、GNSS、海底地殻変動、ひずみ計のデータが重ねられた。大きくはない。だが、同じ方向の変化が複数点に出ていた。


「スロースリップか」


 藤崎の顔が硬くなった。


「相模トラフですか」


「まだ、そう呼ぶには早い。だが、プレート境界付近で小さなすべりが始まった可能性がある」


 青見は、気象庁の緒方へ連絡した。


『こちらでも確認中です』


「南海トラフ巨大地震の応力変化が相模側へ影響した可能性を考えるべきです」


『官邸へ上げますか』


「上げます。ただし、表現は極めて慎重に。今、首都圏に不用意な言葉を投げると、避難と物流と救助支援が混乱する」


『分かっています』


 青見は、画面を見た。

 南海トラフの巨大破壊は、終わっていないのかもしれない。

 それは余震だけではなく、別の境界面へ、静かに力を渡しているのかもしれなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時。


 官邸に、相模トラフ周辺の異変が報告された。


 羽鳥危機管理監が資料を読み上げる。


「相模トラフのプレート境界付近で、ごく小規模なスロースリップと見られる変動が観測されています。現時点で地震発生を示すものではありません。気象庁、内閣府、専門家で監視を強化します」


 会議室が静かになった。

 高嶺紗枝は、ゆっくり尋ねた。


「首都直下につながる可能性は」


 青見がオンラインで答えた。


『今の段階で、そのように言うことはできません。ただし、南海トラフ巨大地震により、広域の応力場が変化しています。相模トラフ周辺でスロースリップが始まった可能性がある以上、監視は一段上げるべきです』


「公表は」


 緒方気象庁地震火山部長が答えた。


『現時点では、観測事実を内部共有し、精査します。公表する場合も、不確実性を明確にする必要があります』


 橘官房長官が慎重に言った。


「首都圏に不安が広がれば、被災地支援に向かう物流、医療、行政支援にも影響します」


 高嶺は頷いた。


「隠すのではなく、確認する。確認できたら、正確に出す。現段階では、首都圏自治体に監視強化として共有。過度な表現は避ける」


 羽鳥が書き留める。


「はい」


 小森防衛大臣が言った。


『東部方面隊にも情報共有します。ただし、南海トラフ対応の主力展開を乱さないようにします』


 高嶺は、画面の地図を見た。

 西日本が壊れている。

 そこへ、首都圏の不安が重なろうとしている。

 国家の神経は、さらに細く引き伸ばされていった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十六日、午前二時三十五分。


 相模湾沖で、小さな地震が発生した。



 午前二時三十五分

 震源地 相模湾沖 暫定マグニチュード3・7 最大震度2



 神奈川県の沿岸部と伊豆半島東部で、わずかな揺れが感じられた。多くの人は眠っていた。だが、官邸、気象庁、T大学、東部方面隊の監視要員は、その点を見逃さなかった。

 青見は、画面に表示された震源を見て、深く息を吐いた。


「来たな」


 藤崎が言った。


「相模トラフの群発ですか」


「まだ一つだ。だが、始まりかもしれない」


 その二十六分後、二つ目。



 午前三時一分

 震源地 房総半島南方沖 暫定マグニチュード3・9 最大震度1



 さらに、午前三時四十八分。



 午前三時四十八分

 震源地 相模湾沖 暫定マグニチュード4・2 最大震度3



 相模トラフ周辺で、群発地震が始まった。


 青見は、南海トラフの余震分布と相模トラフの震源分布を並べて表示した。西の巨大破壊と、東の微小なざわめき。二つの現象は、地図上では離れている。だが、プレート境界としては、無関係と言い切れる距離ではない。


 藤崎が、かすれた声で言った。


「これ、首都圏に出すんですか」


「出すなら、言葉を選ばなければならない」


「出さなければ、隠したと言われます」


「出し方を誤れば、混乱を起こす」


 青見は、疲れた目を閉じた。


 科学の言葉は、いつも細い橋を渡っている。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時三分。


 発災から四十八時間。


 官邸では、七十二時間まで残り二十四時間を切ったことが確認された。

 高嶺紗枝は、深夜から一度も仮眠を取っていなかった。羽鳥が何度か休息を促したが、首相は「十分だけ後で」と言い続けていた。その十分は来なかった。


 小森防衛大臣の顔にも疲労が濃い。片倉財務大臣は財務省と官邸を行き来しながら、物資と財源の決裁を続けていた。橘官房長官は会見とデマ対応で、声が少し掠れていた。


 羽鳥が報告した。


「発災四十八時間。七十二時間まで残り二十四時間。救助要請はなお多数。孤立地域も多数。夜明け後、航空偵察と道路啓開を最大化します。相模トラフ付近の群発地震については、監視強化中です」


 高嶺は、全員を見た。


「今日が山です」


 誰もが分かっていた。


 七十二時間の手前、最後の丸一日。


 ここで届くか。

 ここで掘れるか。

 ここで水を入れられるか。

 ここで医療へつなげられるか。


 その差が、生死を分ける。


「各省庁に伝えてください。今日だけは、通常業務という言葉を使わない。全て救助のために組み替える」


 橘が頷いた。


「総理会見は午前六時です」


「行います」


 高嶺は、わずかに椅子に手を置いた。立ちくらみがした。羽鳥が気づく。


「総理」


「大丈夫です」


「大丈夫でなくても、会見はできます。水を」


 高嶺は、コップを受け取った。


 水を飲む。


 その瞬間、彼女は、現場で水を飲めない自衛官の報告を思い出した。

 飲める場所にいる者が、飲まなければならない。

 飲んで、判断しなければならない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時。


 高嶺紗枝首相は、会見室に立った。



  ――――

  内閣総理大臣声明

  発災四十八時間

  七十二時間まで残り二十四時間

  救助活動を最優先

  ――――



『南海トラフ巨大地震の発生から四十八時間となりました。今も多くの方が救助を待っています。政府は、七十二時間を強く意識し、自衛隊、警察、消防、海上保安庁、自治体、医療機関、民間事業者と連携し、救助、医療搬送、孤立地域支援、物資輸送を最優先に進めます』


 高嶺は、原稿から目を上げた。


『七十二時間を過ぎても、救助を諦めることはありません。しかし、今この瞬間、時間と戦っている命があります。国民の皆様にお願いします。被災地への不要不急の移動は控えてください。道路を空けてください。通信を救助と安否確認に譲ってください。不確かな情報を拡散しないでください』


 記者が質問した。


「相模湾沖で地震が続いているとの情報があります。政府は把握していますか」


 会見室がざわめいた。

 高嶺は、逃げなかった。


『相模トラフ周辺で小規模な地殻変動と地震活動が観測されていることは把握しています。現時点で、ただちに大規模地震につながると評価しているものではありません。気象庁と専門家が監視を強化しています。首都圏の皆様は、過度に恐れず、家具の固定、避難経路、家族との連絡方法を確認してください』


「首都直下地震の前兆ですか」


『そのように断定できる段階ではありません。断定できないことを断定することは、混乱を招きます。政府は確認された事実を正確にお伝えします』


 青見は、T大学の研究室でその会見を見ていた。


 よく言った、と思った。


 隠さない。煽らない。断定しない。


 その三つを同時に満たす言葉は、いつも少ない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時三十分。


 相模トラフ付近の群発地震は続いていた。



 午前八時三十二分

 震源地 相模湾沖 暫定マグニチュード4・1 最大震度3



 午前九時十五分

 震源地 房総半島南方沖 暫定マグニチュード3・8 最大震度2



 午前十時六分

 震源地 相模湾沖 暫定マグニチュード4・4 最大震度3



 首都圏では、不安が広がった。スーパーで水を買う人が増え、駅では防災情報を見る人が足を止めた。だが、南海トラフ被災地への支援物資輸送が滞るほどの混乱は、まだ起きていなかった。


 政府と自治体が、言葉を選び続けたからだった。



   《相模湾揺れてる。怖い。》


   《政府が発表した。隠してないだけマシ。》


   《首都圏も備えろ。でも買い占めはやめよう。》


   《西日本が大変な時に東京がパニックになるな。》


   《怖いものは怖い。備えるしかない。》



 一方、西日本では、相模トラフのニュースを見る余裕すらない地域が多かった。


 高知では、瓦礫の下から音がした。

 和歌山では、孤立した集落へ水が届いた。

 静岡では、津波で寸断された地区から妊婦が搬送された。

 宮崎では、若い三曹が、医官の判断で軽作業から復帰した。瓦礫へは入らない。救護所で搬送名簿を整理し、水を配る任務だった。


 三曹は、最初のペットボトルを渡す時、手が震えた。


 老婆が受け取り、言った。


「ありがとうね」


 三曹は、少しだけ頭を下げた。


「一口ずつ飲んでください」


 自分も、後で飲もうと思った。

 それは、回復ではない。

 回復の始まりだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 正午。


 七十二時間まで、残り十七時間あまり。


 官邸では、救助優先順位の再調整が行われていた。新たに航空偵察で確認された孤立集落。衛星画像で判明した浸水区域。SNSの救助要請のうち位置情報が確認できたもの。消防からの生存反応ありの報告。自衛隊からの到達困難地域。


 羽鳥が、声を落として言った。


「救助要請が多すぎます。全てに同時には届きません」


 高嶺は、机に両手を置いた。


「優先順位を示してください」


「生存反応あり、医療緊急性あり、到達可能性あり、この三条件を最優先。その次に孤立人数の多い地域、要支援者施設、通信途絶地域」


「それで進めてください」


 橘が言った。


「必ず、後で批判されます」


「当然です」


 高嶺は即答した。


「しかし、決めなければ今死ぬ人がいます。後の批判を恐れて、今の判断を止めない」


 片倉が静かに言った。


「記録を残しましょう。なぜその順番にしたのか。救えなかった理由を、曖昧にしないために」


 高嶺は頷いた。


「はい。救えなかった命に対して、最低限の誠実さです」


 会議室に、重い沈黙が落ちた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後二時四十分。


 高知県黒潮町。


 森下の班は、倒壊した家屋の下から、かすかな音を聞いた。金属ではない。木を叩くような音。


「静かに!」


 班長が叫んだ。

 全員が息を止める。


 コン、コン。


 確かに音がある。


「生存反応あり!」


 森下の胸が跳ねた。

 場所は狭い。二次倒壊の危険が高い。重機は入れない。手作業で掘るしかない。

 班長が判断した。


「支柱を入れろ。三十分で開口部を作る。余震が来たら即退避」


 森下は、手を動かした。泥を掻き、木材を切り、畳を引き抜く。手袋の中で指が痛い。肩が重い。腰が痺れる。だが、音がある。


「聞こえますか! 自衛隊です!」


 かすかな声が返った。


「――水」


 森下は歯を食いしばった。


「今行きます! もう少し待ってください!」


 待ってください。


 その言葉が残酷だと思った。


 だが、今はそれしか言えなかった。


 余震が来た。



 午後二時五十七分

 震源地 四国沖 暫定マグニチュード6・2 最大震度5弱



 支柱が軋む。班長が叫ぶ。


「退避!」


 森下は動かなかった。奥から声がしたからだ。


「森下!」


「声が!」


「戻れ!」


 班長が彼の襟を掴んで引き戻した。直後、上部の瓦礫が崩れ、さっき森下がいた場所に木材が落ちた。

 森下は呆然とした。

 班長が怒鳴った。


「死ぬぞ!」


「でも、中に」


「お前が死んだら、その人を誰が掘る!」


 森下は、泥の上に手をついた。


「すみません」


「謝るなら、生きて掘れ!」


 揺れが収まると、彼らはまた戻った。


 七十二時間までの時計が、頭の奥で鳴っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後五時三分。


 七十二時間まで、残り十二時間。


 政府は、全国へ短い緊急広報を出した。



  ――――

  政府からのお願い

  七十二時間まで残り十二時間

  救助活動を最優先

  道路・通信を空けてください

  ――――



 高嶺紗枝は、会見で言った。


『今、現場では、瓦礫の下からの小さな音、かすかな声を頼りに救助が続いています。道路の渋滞、不要な通信、デマ情報は、救助を遅らせます。どうか、被災地へ向かう車両、救助要請、医療搬送を優先してください』


 質問が飛んだ。


「総理、七十二時間を過ぎた場合、政府は救助から復旧へ軸足を移すのですか」


 高嶺の目が鋭くなった。


『移しません。七十二時間は重要な目安ですが、救助を諦める時刻ではありません。ただし、そこへ向けて今できる救助を最大化するという意味で、極めて重要な時間です』


「相模トラフの群発地震が続いています。首都圏への対応は」


『監視を継続しています。首都圏の皆様には、冷静な備えをお願いします。政府は南海トラフ被災地の救助と、首都圏を含む広域防災の両方を同時に行います』


 その言葉は重かった。


 一つの国家が、二つ目の危機の影を見ながら、一つ目の災害から命を掘り出そうとしていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時。


 相模トラフ付近の群発地震が、止まった。


 正確には、気象庁の観測網に表示される有感・微小地震の頻度が、午後八時を境に急に下がった。相模湾沖、房総半島南方沖で続いていた小さな点の更新が途絶える。


 藤崎が最初に気づいた。


「先生、相模側、止まりました」


 青見は、画面を見た。


「何分」


「最後のイベントから、もう二十 分です」


「機器障害は」


「確認します」


 気象庁、海底観測網、GNSS、ひずみ計。データは生きていた。観測が止まったのではない。地震活動が止まっている。


 藤崎は、少しだけ安堵した顔をした。


「終息でしょうか」


 青見は、すぐには答えなかった。

 地震活動が増えることは不安だ。

 だが、急に止まることも、別の不安を呼ぶ。


「終息と決めるには早い」


「でも、止まったなら」


「静かになる時が、一番嫌なこともある」


 青見は、相模トラフのスロースリップ推定域を表示した。小さなすべり。群発。停止。

 その組み合わせが、胸の奥に重く沈んだ。

 彼は官邸へ連絡した。


「相模トラフ付近の群発地震が午後八時以降、急に低下しています。観測障害ではないようです」


 羽鳥が応答した。


『評価は』


「終息とは言いません。監視継続です。むしろ、静穏化として扱い、注意を下げないでください」


『分かりました』


 官邸では、その報告を聞いた高嶺が、画面の東側を見た。


「静かになった、ですか」


 青見が答えた。


『はい。静かになりました』


「良い知らせではないのですか」


『良い知らせかどうかは、まだ分かりません』


 高嶺は、短く息を吐いた。


「分かりました。分からないことを、分からないまま扱います」


 それは、危機管理における最も難しい態度だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後九時三十分。


 高知県黒潮町の救助現場。


 森下たちは、午後から続けていた倒壊家屋の開口に成功した。中にいたのは、六十代の男性だった。梁と家具の間にできたわずかな空間で、奇跡的に圧死を免れていた。


 脱水が強い。意識は混濁している。だが、生きている。


「搬出!」


 隊員たちが慎重に体を引き出す。森下は男性の手を握った。


「聞こえますか。外です。外に出ました」


 男性の唇が動いた。


「……水」


 衛生隊員が湿らせたガーゼを口に当てる。


「一気に飲ませない。少しずつ」


 森下は、男性の手を握ったまま、空を見た。


 星が出ていた。

 発災から六十四時間近く。

 七十二時間の壁が迫る中で、一人が救われた。

 班長が森下の肩を叩いた。


「よく戻った」


 森下は、泥だらけの顔で頷いた。


「戻って、よかったです」


「そうだ。戻ったから掘れた」


 森下は、昼間に引き戻された瞬間を思い出した。あの時、班長が襟を掴まなければ、自分は死んでいたかもしれない。そうなれば、この男性を掘る手は一つ減っていた。


 戻ることも、救助だった。

 彼は初めて、その意味を少しだけ理解した。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時。


 八月十六日の夜は、重く深かった。


 南海トラフ巨大地震から、まもなく六十六時間。七十二時間まで、残り六時間あまり。


 官邸危機管理センターでは、誰も声を荒げなくなっていた。疲れすぎると、人は怒鳴る力も失う。代わりに、短い言葉だけが行き交う。


「高知、生存救出一名」


「和歌山、孤立集落へ水到達」


「静岡、医療搬送完了」


「宮崎、余震で検索一時中断」


「相模トラフ、午後八時以降、群発停止。監視継続」


 高嶺紗枝は、壁の時計を見た。


 午後十一時――。


 あと六時間三分で、発災七十二時間。


 彼女は、深夜の声明を出すため、会見室へ向かった。



  ――――

  内閣総理大臣声明

  七十二時間まで残り六時間

  救助を継続

  希望を捨てないでください

  ――――



『南海トラフ巨大地震の発生から、まもなく六十六時間となります。七十二時間まで残り六時間あまりです。現場では今も、瓦礫の下から生存者が救出されています。政府は、七十二時間を過ぎても救助を諦めません。しかし、今この時間が極めて重要であることも事実です』


 高嶺は、カメラを見た。


『救助に当たる皆さん。どうか、手順を守ってください。焦りは当然です。悔しさも当然です。それでも、生きて次の現場へ向かうことが、次の命を救います』


 彼女は、一拍置いた。


『被災地の皆さん。暗い夜が続いています。声を出せる方は、近くの物を叩いてください。避難所にいる方は、隣の人に声をかけてください。首都圏の皆さん。相模トラフ周辺の観測については監視を続けています。過度に恐れず、備えを確認してください。全国の皆さん。今、私たちは一つの長い災害の中にいます。どうか、支え合ってください』


 声明が終わる頃、宮崎県日南市では、成瀬一尉が次の検索班を送り出していた。


「焦るな。手順を飛ばすな。生きて戻れ」


 若い三曹は、救護所で名簿を書きながら、その声を聞いた。ペットボトルの水を一口飲んだ。まだ波の音はした。だが、飲めた。

 高知県黒潮町では、森下が救出された男性を見送った後、泥の上に座り込みそうになった。班長が腕を引く。


「座るなら高台だ」


「はい」


「飯を食え」


「はい」


 森下は、今度は反論しなかった。


 T大学では、青見怜一が南海トラフの余震分布と、静かになった相模トラフの観測データを並べて見ていた。

 西では、七十二時間との戦い。

 東では、不自然な沈黙。

 藤崎が、かすれた声で言った。


「先生、相模側、本当に静かですね」


 青見は、画面から目を離さなかった。


「静かすぎる」


 その言葉は、誰にも届かないほど小さかった。


 午後十一時――。


 列島は、七十二時間の壁へ向かっていた。

 西の瓦礫の下では、まだ誰かが音を鳴らしているかもしれない。

 東の海底では、何かが音もなく進んでいるかもしれない。

 救助者たちは、疲れた足で立ち上がった。

 内閣は、眠れぬまま時計を見た。

 そして日本は、次の夜明けを待った。


 それが救いの朝になるのか。


 それとも、新たな破局の前の朝になるのか。


 まだ、誰にも分からなかった。


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