表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/20

第四話 夜へ

 八月十四日、午後三時。


 太平洋沿岸は、まだ海に支配されていた。


 南海トラフ巨大地震の発生から十時間近くが過ぎている。それでも、災害は過去形にならなかった。津波は繰り返し押し寄せ、引き波は港をさらい、湾の奥では水位が不気味に上下していた。大津波警報は各地で継続し、沿岸部へ戻ることは固く禁じられていた。

 高知県黒潮町の高台では、避難者たちが海の方を見ないようにして座っていた。誰もが見てしまえば、そこに自分の家がないこと、道がないこと、昨日までの町がないことを認めなければならなかった。

 井ノ口は、消防団の法被の上から泥のついた雨具を羽織り、避難者に水を配っていた。ペットボトルを持つ手は震えている。


「一口ずつ。喉が渇いてなくても、少し飲んでください」


 そう言いながら、自分は飲めなかった。


 喉は焼けるほど乾いている。唇も割れている。だが、ペットボトルを口に近づけると、坂の下で津波に呑まれた男性の顔が浮かぶ。声が戻る。


 ――助けて――。


 水が口に入る直前で、胃が縮んだ。井ノ口はボトルを下ろした。


 仲間の団員が気づいた。


「お前、飲んでないやろ」


「後で飲む」


「後でって、朝から言いよる」


「配ってからでえい」


 仲間は、井ノ口の肩を掴んだ。


「お前も避難者を支える側や。倒れたら終わりやぞ」


 井ノ口は答えなかった。

 水を飲むことが、生き残った自分だけに許された行為のように思えた。

 それが理屈ではないことは分かっている。だが、体が拒んだ。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 同じ頃、宮崎県日南市。


 成瀬一尉の部隊は、津波の第二波、第三波の合間を縫って、内陸側から孤立した住宅地へ接近していた。泥水は膝下まで残り、瓦礫と流木、車、屋根材、畳、冷蔵庫、漁具が混ざり合っている。

 隊員たちは命綱を取りながら進んだ。二人一組では足りない。三人一組、互いの身体を見失わない距離。誰かが足を取られれば、すぐに引き戻す。


 成瀬は無線を握った。


『こちら成瀬。第一検索線、北側住宅地へ進入。津波再来の監視員を高台に配置。異常水位を確認した場合、即時撤収』


『了解。次波警戒継続』


 若い三曹は、成瀬の後ろを歩いていた。朝、進入を止められたあの隊員だった。救えなかった声が、まだ耳に残っている。さっき一人を救った。だが、それで消えるものではなかった。

 泥の中から、子どものぬいぐるみが半分だけ見えていた。

 三曹は一瞬、足を止めた。


 成瀬が振り返った。


「止まるな」


「はい」


「見たものを心に入れるなとは言わん。だが、足を止めるな」


「はい」


 十秒後、右手の半壊家屋から音がした。

 金属を叩くような、小さな音。

 隊員全員が止まった。

 成瀬が叫んだ。


「音を出せる方! もう一度、音を出してください!」


 沈黙。


 三秒。

 五秒。

 八秒。


 また、金属音。


「いた!」


 三曹が駆け出しかけた。


「待て!」


 成瀬の声が飛んだ。


「周囲確認! 二次倒壊、感電、ガス臭!」


 隊員が素早く確認する。


「電線なし!」


「ガス臭なし!」


「柱、一本浮いてます! 支柱必要!」


 成瀬は判断した。


「支柱を入れろ。進入は俺と三曹。外はロープ保持」


 三曹が顔を上げる。


「自分でいいんですか」


「今、動けるなら行け。動けないなら下がれ」


 三曹は、泥だらけの顔で頷いた。


「行けます」


 崩れた玄関から、二人は中へ入った。家具が折り重なり、畳がめくれ、天井板が斜めに垂れている。奥から、かすれた声が聞こえた。


「ここ――」


「自衛隊です! 今行きます!」


 老婆が、倒れた食器棚と柱の間に挟まれていた。顔は白く、足元には泥水が流れ込んでいる。


「痛い――」


 三曹が膝をつく。


「大丈夫です。大丈夫です」


 老婆は三曹の袖を掴んだ。


「うちの息子は」


 三曹の喉が詰まった。周囲に、他の人影はない。


 成瀬が静かに言った。


「まず、あなたを出します。息子さんも必ず探します」


 その瞬間、余震が来た。



 午後三時二十二分

 震源地 南海沖 暫定マグニチュード6・8 最大震度5強



 家屋が悲鳴を上げた。


 天井板が落ち、埃が舞う。外から隊員が叫ぶ。


『一尉、退避!』


 成瀬は柱を見た。支柱が効いている。だが、長くは持たない。


「三曹、足元を抜く。十秒で出す」


「はい!」


「お母さん、痛いです。でも出ます。息を吸って」


「はい――」


「三、二、一!」


 家具を押し上げる。三曹が老婆の体を引く。老婆が叫ぶ。


 五秒。

 七秒。

 九秒。


 抜けた。


「搬出!」


 外の隊員がロープを引き、老婆を外へ出す。成瀬と三曹が続いた直後、奥の壁が崩れた。

 三曹は外へ転がり出て、泥の上で荒く息をした。

 救助された老婆は担架に載せられ、震える手で三曹の袖をもう一度掴んだ。


「ありがとう――」


 三曹は答えようとして、声が出なかった。

 さっきの救えなかった声と、今の「ありがとう」が、胸の中でぶつかった。

 彼はその場で嘔吐した。

 朝から何も食べていない。吐くものは胃液しかなかった。


 成瀬がすぐに膝をついた。


「下がれ」


「まだ、行けます」


「下がれ。これは命令だ」


「でも」


「お前は今、救助者から要救護者に近づいている」


 三曹の目が揺れた。


「自分は、まだ――」


「分かっている。だから今、止める」


 成瀬は衛生隊員を呼んだ。


「急性ストレス反応。脱水もある。補液、休息。単独にするな」


 三曹は、泥の中で拳を握った。


「一尉、すみません」


「謝るな。戻るために下がるんだ」


 成瀬はそう言いながら、自分の喉の渇きを思い出した。

 彼もまた、朝から水を数口しか飲んでいなかった。

 指揮官は倒れられない。

 その思い込みが、すでに危険な領域へ入り始めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後四時。


 官邸危機管理センターでは、被害の輪郭が少しずつ見え始めていた。だが、その輪郭はあまりに巨大だった。


 高知県、徳島県、和歌山県、三重県、愛知県、静岡県、宮崎県、大分県、愛媛県。沿岸部で浸水多数。道路寸断。港湾機能停止。停電は広域。携帯電話基地局の停止も相次いでいる。鉄道は西日本、東海、関東の広範囲で運転見合わせ。高速道路は橋梁点検と路面損傷で寸断箇所多数。

 高嶺紗枝(たかみねさえ)首相は、報告を黙って聞いていた。顔色は悪い。だが、声は崩れなかった。

 羽鳥危機管理監が言った。


「発災七十二時間以内の救命を最優先に、孤立地域の確認、医療搬送、津波警報下での活動制限の整理が必要です」


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が、防衛省から回線で続けた。


『現職部隊の投入は進めています。ただ、津波警報が継続する地域では、沿岸進入に強い制限があります。隊員の疲労も早く出始めています。日向灘地震から続けて活動している第八師団の一部は、すでに限界に近い』


「交代は」


『道路寸断と広域被害で時間がかかります。即応予備自衛官の招集準備を加速。予備自衛官による駐屯地警衛の穴埋めも進めます』


 片倉皐月(かたくらさつき)財務大臣が割って入った。


『物資調達は出しています。ただ、港湾が使えない地域が多い。陸路も寸断。空輸は滑走路確認待ち。海上輸送は津波警報と港湾被害の確認が前提です』


 高嶺は、地図を見つめた。


「発災七十二時間で使える港湾候補の確認を急いでください。港が死ねば、物資が死にます」


 国土交通省の担当者が応じた。


「各地方整備局、海上保安庁、港湾管理者と確認中です。被害の少ない港から、緊急輸送港として使えるか判断します」


 高嶺は頷いた。


「人命救助、医療、水、通信。この四つを最優先。政治日程は全て後回しです」


 橘官房長官が、慎重に言った。


「一部野党から、政府の臨時情報対応が不十分だったとの声明が出始めています。令明新生組、日本民衆共産党、社会民主会の議員が、SNSで政府批判を強めています」


 会議室の空気が硬くなった。

 高嶺は、短く言った。


「返しません」


「よろしいのですか」


「今、言葉を返す相手は政党ではありません。瓦礫の下の人です」


 誰も反論しなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後四時三十分。


 高知県黒潮町の高台避難所。

 自衛隊の先遣部隊が到着した。森下三曹の班だった。徒歩で山道を越え、崩れた道路を迂回し、予定より大幅に遅れてたどり着いた。

 避難者たちの目が、一斉に彼らへ向いた。


「自衛隊が来た」


「助かった」


 その言葉は、森下の胸を圧迫した。


 助かった。


 まだ誰も助かっていない。水は足りない。けが人はいる。下には行方不明者がいる。余震は続く。津波警報も続く。自分たちは、万能ではない。

 だが、人々は、自衛隊の迷彩服を見た瞬間、希望を見てしまう。

 班長が声を張った。


「けが人を優先して確認します! 歩ける方は一か所に集まってください! 水は少しずつ分けます! 沿岸部へは絶対に戻らないでください!」


 森下は、けが人の確認に回った。捻挫、切創、打撲、脱水、過呼吸。医療資材は限られる。

 井ノ口が森下に近づいた。


「消防団です。下の地区にまだ残ってる人がいるかもしれん」


 森下は頷いた。


「津波警報解除までは下へ入れません。高台側から確認できる範囲を見ます」


 井ノ口の顔が歪んだ。


「分かっちゅう。でも、さっき、目の前で――」


 言葉が途切れた。

 森下は、何も言えなかった。

 彼自身も、倒壊家屋から救った女性の手の感触がまだ残っている。助けた命は温かかった。だが、その温かさが、助けられなかったであろう無数の命を逆に想像させた。

 班長が二人の間に入った。


「今やることを決めます。避難者名簿、けが人、要薬者、要搬送者、飲料水残量。下の確認は、監視員を置いて目視のみ」


 井ノ口は、目を閉じて頷いた。


「はい」


 その時、避難所の隅で子どもが泣き出した。


「おうち帰りたい」


 母親が抱きしめる。


「まだ帰れんよ」


「なんで」


「海が、まだ怒ってるから」


 森下は、その言葉を聞いて、海の方を見ないようにした。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後五時十分。


 宮崎県日南市の臨時救護所。

 若い三曹は、テントの隅で座っていた。衛生隊員が水を差し出す。


「少しずつ飲め」


 三曹は受け取ったが、口をつけられなかった。


「飲めないです」


「吐き気か」


「違います」


「何がある」


 三曹は、ペットボトルの水面を見つめた。


「水の音が、波の音に聞こえます」


 衛生隊員は、表情を変えなかった。


「そうか」


「喉は渇いてます。でも、口に近づけると、あの音が戻ってきます。助けてって声も」


 衛生隊員は、三曹の前にしゃがんだ。


「今の反応は、弱さじゃない。脳と体が危険を覚えて、過剰に反応している。急性ストレス反応だ。後でPTSDの症状として残る可能性もある。だから、今ここで潰さない」


 三曹は、唇を噛んだ。


「自分は任務に戻れますか」


「戻るために、今は飲む。俺が数える。水を見るな。俺の声を聞け」


「はい」


「一口だけでいい。三、二、一」


 三曹は、目を閉じて口をつけた。水が舌に触れた瞬間、肩が跳ねる。だが、飲み込んだ。

 衛生隊員が頷いた。


「それでいい」


 三曹の目から涙が落ちた。


「たった一口なのに」


「その一口が任務だ」


「救助じゃないのに」


「救助に戻るための任務だ」


 三曹は、ペットボトルを両手で握りしめた。

 外では、ヘリの音と、遠くの余震による瓦礫の崩れる音が重なっていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後五時四十四分。


 紀伊半島沖で、強い余震が発生した。



 午後五時四十四分

 震源地 紀伊半島沖 暫定マグニチュード7・0 最大震度6弱



 和歌山県すさみ町の高台では、避難者たちが一斉に悲鳴を上げた。立っていた人が倒れ、石垣の一部が崩れ、木の枝が折れて落ちた。

 民宿の主人は、点呼表を胸に抱えたまま叫んだ。


「崖から離れて! 真ん中へ! 座って!」


 母親が娘を抱きしめる。若い男性客が、高齢者の肩を支える。主人は、まだ足りない一名の欄を見てしまいそうになり、紙を折った。

 救えなかったかもしれない人の名前は、紙の上ではまだ空欄だった。

 確定させたくなかった。

 揺れが収まると、遠くでまた海が動く音がした。


「戻らないでください! 絶対に戻らないでください!」


 主人は何度も叫んだ。

 その声は、宿泊客に向けたものだった。

 同時に、自分自身に向けたものでもあった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後六時。


 日没が近づくと、救助の難度はさらに上がった。

 停電した町に、夜が落ち始めている。津波で街灯は倒れ、道路は泥に覆われ、目印となる建物は流されていた。地図は役に立ちにくい。昨日までの道が、今日の道ではない。

 宮崎県内の自衛隊部隊では、疲労が露骨に出始めていた。

 重い資材を持つ手が遅れる。返事が一拍遅れる。無線の復唱で言い間違いが出る。泥に足を取られて転倒する隊員が増える。

 成瀬一尉は、それを見逃さなかった。


「第一分隊、交代。十五分休息」


 隊員が反射的に答える。


「まだ行けます」


「行けるかどうかは俺が決める。下がれ」


「しかし」


「下がれ!」


 隊員は悔しそうに唇を噛み、後ろへ下がった。

 成瀬自身も、足が重かった。頭痛がする。耳の奥で波の音が続いている。何度も無線を聞き返しそうになる。

 副官が近づいた。


「一尉も休息を」


「俺はいい」


「よくありません」


 成瀬は副官を見た。

 副官は、いつになく強い目をしていた。


「指揮官が倒れれば、部隊全体が止まります」


 成瀬は反論しようとして、言葉が出なかった。


 正しい。


 正しい言葉は、ときに腹立たしい。


「五分だけだ」


「十分です」


「五分」


「では、水を飲んでください」


 成瀬は、差し出された水を見た。喉は渇いている。だが、自分が水を飲む間にも、瓦礫の下で誰かが待っていると思うと、手が止まった。

 副官は言った。


「一尉。飲まない指揮官は、部下に水を飲ませられません」


 成瀬は、目を閉じた。


 それは命令より効いた。


 彼は水を飲んだ。ぬるい水だった。喉を通る感覚が、ひどく現実的だった。


「……まずいな」


 副官が少し笑った。


「生きてる味です」


 成瀬も、ほんのわずかに笑った。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後六時三十分。


 官邸では、夜間救助体制への移行会議が開かれた。


 羽鳥危機管理監が報告した。


「日没後、沿岸部の救助活動は大幅に制限されます。津波警報が解除されていない地域では進入不可。内陸側倒壊家屋、孤立避難所、医療搬送を優先します」


 小森防衛大臣が言った。


『現場から疲労と急性ストレス反応の報告が出ています。特に日向灘地震から連続投入された部隊で、食事・水分を取れない隊員、救えなかった事案に固着して動きが鈍る隊員が出始めています』


 会議室が静かになった。

 高嶺は、ゆっくり言った。


「交代を進めてください」


『進めています。ただ、道路と津波の制約で交代部隊の到着が遅れています』


「医官、衛生、心理支援は」


『部隊内で対応開始。防衛医科系、各方面衛生隊、必要なら民間の災害精神医療チームとも連携します』


 片倉財務大臣が口を開いた。


『現場隊員の休息拠点、食料、飲料、仮眠スペースの確保に必要な費用は、災害対応費で即時処理します。自衛隊員を消耗品のように使うことは、結果として救命数を減らします』


 小森防衛大臣は短く答えた。


『ありがとうございます』


 高嶺は、全員を見渡した。


「救助者を守ることも、救助です。国民向けの発信にも入れます。自衛隊、消防、警察、自治体職員、医療者が休むことを批判しないでほしい、と」


 橘官房長官が頷いた。


「会見で明言します」


 高嶺首相は、少しだけ息を吐いた。


「現場の人間が罪悪感で水を飲めなくなるような国にしてはいけない」


 その言葉は、誰の胸にも残った。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後七時。


 高嶺首相は、官邸から夜の声明を出した。



  ――――

  内閣総理大臣声明

  夜間も津波警報継続

  沿岸部に戻らないでください

  救助者の休息にも理解を

  ――――



『南海トラフ巨大地震の発生から、十四時間近くが経過しました。津波は今も繰り返し襲来しており、沿岸部に戻ることは極めて危険です。夜間は足元の危険、余震、津波再来により、救助活動にも大きな制約が生じます』


 首相は、カメラをまっすぐ見た。


『現場では、自衛隊、消防、警察、海上保安庁、自治体職員、医療関係者が、強い余震と津波の危険の中で救助を続けています。彼らにも休息、水分、食事が必要です。救助者を守ることは、次の命を守ることです。どうか、そのことを理解してください』


 その言葉は、SNSで広がった。



   《救助者を守ることは次の命を守ること。ほんとにそう。》


   《自衛隊が休むなとは誰も言えない。》


   《いや、家族が瓦礫の下にいる側からしたら休むなって思ってしまう。》


   《その気持ちも分かる。でも倒れたら救助できない。》


   《現場の人、ご飯食べて。水飲んで。お願いだから。》


   《高嶺紗枝、こういう言葉は強い。》


   《政府擁護するな。臨時情報があったのに被害が出てる。》


   《責任追及は後で。今は命。》



 批判も擁護も、祈りも怒りも、夜の通信網を流れた。

 だが、通信が途切れた地域では、誰もその言葉を知らなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後七時四十五分。


 静岡県御前崎市。


 市役所の災害対策本部では、職員たちが非常用発電機の明かりの下で情報整理を続けていた。外は暗くなり、余震のたびに庁舎が軋む。

 若い女性職員が、受話器を握ったまま固まっていた。

 上司が近づく。


「どうした」


「電話の向こうで、助けてって言っていて……途中で切れました」


「場所は」


「聞けませんでした。泣いていて、住所が、途中で」


 女性職員は唇を震わせた。


「私、聞き返してしまって。早く場所を言ってくださいって。そしたら、切れて」


 上司は、彼女の肩に手を置いた。


「記録は」


「残しました」


「なら、次の電話を取る」


「でも」


「あなたが悪いんじゃない。場所が分からなければ救助を送れない。冷たく聞こえる言葉も、救助の一部だ」


 女性職員は涙を拭いた。

 電話が鳴った。

 彼女は一度深く息を吸い、受話器を取った。


「御前崎市災害対策本部です。今いる場所を教えてください」


 声はまだ震えていた。


 だが、つながった命に向き合った。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時二十分。


 高知県黒潮町。


 森下三曹は避難所の隅で携行食を開けた。班長が命じた休息だった。袋を開けると米の匂いがした。

 口に入れようとした瞬間、昼に救助した女性の顔が浮かんだ。助けた人の顔ではない。途中の道で見た、片方だけの子どもの靴。泥の中のランドセル。瓦礫の下から聞こえなかった声。


 喉が閉じた。

 食べ物が、砂のように感じられた。


 森下の横に班長が座った。


「食え」


「すみません。入らないです」


「一口でいい」


「無理です」


 班長は、森下の手から袋を取り上げず、ただ隣に座った。


「俺も、最初の災害派遣の時、食えなかった」


 森下は驚いて顔を上げた。


「班長もですか」


「ああ。自分が飯を食う間に、誰かが死ぬんじゃないかと思った」


「今、まさにそれです」


「でもな、食わなかった俺は、次の日に倒れかけた。結果、班に迷惑をかけた」


 森下は袋を見つめた。


「食べるのが、申し訳ないです」


「申し訳ないまま食え」


「そんな」


「楽になってから食うんじゃない。苦しいまま食う。任務だからだ」


 森下は、震える手で米を一口だけ口に入れた。噛めない。喉が動かない。

 班長が言った。


「水」


 森下は水を飲んだ。米が喉を通った。


 涙が出た。


「情けないです」


「違う。戻ってこい。心が現場の下に引っ張られてる。飯を食うのは、こっちへ戻る作業だ」


 森下は、もう一口食べた。

 避難所の外では、暗い海がまだ低く鳴っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後九時五分。


 三重県鳥羽市沖で強い余震が発生した。



 午後九時五分

 震源地 熊野灘 暫定マグニチュード6・9 最大震度5強



 三重県、和歌山県、愛知県の避難所で悲鳴が上がった。体育館の照明が一瞬消え、非常灯だけになった施設もあった。津波警報は継続しており、海から離れたはずの人々が、今度は建物の倒壊を恐れた。

 愛知県豊橋市の避難所では、子どもが一斉に泣き出した。母親たちは抱きしめるが、自分たちも震えている。

 自治体職員が拡声器を持って叫んだ。


「落ち着いてください! 建物の中央に集まってください! 窓から離れてください!」


 その職員の膝も震えていた。

 だが、声を出した。

 声を出すことで、自分も立っていられた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後九時三十分。


 防衛省。


 小森防衛大臣は、現場部隊の疲労状況を確認していた。


「第八師団の一部は強制休息を入れてください。本人申告に任せない」


 統幕幹部が答える。


「現場は人手不足です」


「知っています。それでもです」


「救助要請が多数残っています」


「疲労で判断を誤れば、二次被害が出ます。救助隊が二次被害を出せば、さらに救助要請が増える」


 小森は、言葉を切った。


「指揮官に伝えてください。休ませることも指揮です。本人が行けると言っても、行かせない判断を恐れるな、と」


 その命令は、成瀬一尉の部隊にも届いた。

 成瀬は無線を聞き、少しだけ目を閉じた。


 ――休ませることも指揮――


 彼はその言葉を、胸の中で繰り返した。

 直後、部下の一人が倒れた。熱中症と疲労、そして過呼吸だった。彼は瓦礫の前で、突然、動けなくなっていた。


「声が、聞こえるんです」


 隊員はそう言った。


「下から、ずっと。実際には何も聞こえてないのに」


 衛生隊員が脈を取る。


「呼吸が浅い。過換気。急性ストレス反応。後送します」


 隊員は首を振った。


「嫌です。戻ります」


 成瀬は膝をついた。


「戻らなくていい」


「嫌です。自分だけ下がれません」


「お前だけじゃない。俺が下げる」


「でも、まだ人が」


「いる。だから、お前は今下がる」


 隊員は涙を流した。


「救えなかったら、自分のせいです」


 成瀬は、強く言った。


「違う。災害のせいだ。地震のせいだ。津波のせいだ。お前のせいじゃない」


 隊員は、子どものように泣いた。

 成瀬はその肩を押さえながら、自分にも同じ言葉を言い聞かせていた。


 お前のせいじゃない――。


 だが、心は簡単には信じなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時。


 官邸危機管理センターでは、海外支援の受け入れ準備が本格化していた。


 米国からは、東日本大震災以来となる大規模支援作戦の準備が伝えられた。横須賀、座間、岩国、佐世保、横田、三沢を基盤とする救助、物資輸送、医療支援。台湾からは、巨額の緊急支援金と救援隊派遣の申し出。欧州各国からも、医療、輸送、艦艇、通信支援の提案が入っていた。

 だが、受け入れは簡単ではなかった。

 港が壊れている。空港は点検中。道路は寸断。被災地に入る経路が限られる。支援はありがたい。しかし、無秩序に入れば詰まる。

 高嶺は、外務、防衛、国交、厚労、内閣府の担当者へ言った。


「支援申し出には感謝を返してください。ただし、受け入れ拠点と任務を明確化するまで、現地へ直接入れない。医療、空輸、通信、浄水、重機、この順で整理」


 羽鳥が補足した。


「明朝までに受け入れ計画の第一案を出します」


「お願いします」


 高嶺は、画面の中の被災地を見た。

 国内だけで背負うには、災害が大きすぎる。

 だが、海外支援を受け入れるにも、国家としての判断力が必要だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時四十分。


 高知県黒潮町の避難所。


 森下は、巡回中に井ノ口が一人で座っているのを見つけた。井ノ口の前には、未開封の水が置かれている。


「飲まないんですか」


 井ノ口は、顔を上げなかった。


「飲めん」


「気分が悪いですか」


「違う。水の音がする」


 森下は、日南の三曹の話を思い出した。自分の部隊にも、同じような隊員が出ていると聞いていた。


「津波の音ですか」


 井ノ口は、ようやく顔を上げた。


「あの人が、まだ下におる気がする。俺が水を飲んだら、あの人を置いて、自分だけ助かったみたいや」


 森下は、隣に座った。


「僕も、飯が食べられませんでした」


「自衛隊さんが?」


「はい」


「訓練しちゅうろうに」


「訓練してても、無理な時はあります」


 井ノ口は黙った。

 森下は、自分の水を開けた。


「一緒に、一口だけ飲みませんか」


「俺は」


「僕も飲みます。任務として」


 井ノ口が苦笑した。


「消防団にも任務ってあるか」


「あります。避難者を見る任務です」


 しばらくして、井ノ口はペットボトルを手に取った。

 蓋を開ける音がした。

 二人は同時に一口飲んだ。

 井ノ口の喉が動いた瞬間、彼の顔が歪んだ。


「うまい、と思ってしもうた」


 森下は言った。


「それでいいと思います」


「えいわけない」


「でも、生きていないと、明日の点呼は取れません」


 井ノ口は、両手で顔を覆った。

 声を殺して泣いた。

 森下は、何も言わずにただ彼のそばに座っていた。


 泣くことも、夜の「任務」の一部だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時二十分。


 静岡県南伊豆町では、津波で孤立した高台集落から、衛星電話で救助要請が入った。要搬送者二名。心疾患の高齢者、妊婦一名。道路寸断。夜間ヘリは強風と余震、着陸地点不明で難航。


 官邸、防衛省、県災害対策本部、消防、海保、空自が同時に調整した。

 防衛省のオペレーターが確認する。


『着陸可能地点は』


『小学校グラウンド。ただし照明なし。瓦礫散乱の可能性』


『地上誘導員は』


『地元消防団二名。発煙筒あり。無線不安定』


 小森大臣が判断を求められた。


「機長判断を尊重。危険が高すぎる場合は無理に降ろさない。ただし、ホイスト可能なら検討」


 現場の救難ヘリから通信が入る。


『こちら救難機。現地上空へ向かう。視界不良なら一度離脱する』


 高嶺は官邸でその通信を聞いていた。

 誰かを救うために、誰かを危険へ送る。

 その判断の重さは、地図上では見えない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十五日、午前零時。


 発災から十九時間近くが過ぎた。


 被災地の夜は、黒かった。都市の停電は、星を増やしたが、それを美しいと思える人はいなかった。暗闇の下で、余震が地面を揺らし、津波が港をかき回し、瓦礫の中から時折、声か音が聞こえた。


 宮崎県日南市で、成瀬一尉は短い休息を取るため、車両の横に座っていた。ヘルメットを脱ぐと、髪が汗で張り付いていた。

 副官が携行食を渡す。


「食べてください」


 成瀬は受け取った。


 開ける。

 匂いがする。

 途端に、朝の声が戻った。


 助けて――。


 若い三曹の「見捨てるんですか」という叫び。


 津波の轟音。


 成瀬は袋を握りしめたまま、動けなくなった。

 そんな成瀬の意変に副官が気づいた。


「一尉」


「――食えない」


「水は」


「水も、今は無理だ」


 副官は、無理に渡さなかった。


「では、一緒に座ります」


「お前は食え」


「ここで食べます」


 副官は隣で袋を開け、一口食べた。

 成瀬はその音を聞いていた。普段なら気にもならない咀嚼音が、妙に遠く聞こえる。


「俺は、部下に水を飲めと言った」


「はい」


「自分が飲めない」


「今は、そういう時です」


「指揮官失格だな」


「違います」


 副官は、即答した。


「一尉が人間だというだけです」


 成瀬は、顔を伏せた。

 数秒後、彼はペットボトルを手に取った。蓋を開ける。口にはつけられない。


 副官が言った。


「口を湿らせるだけでいいです」


 成瀬は、水を唇に触れさせた。

 飲み込めなかった。

 だが、唇は濡れた。


「今日は、これでいいか」


「はい。次は一口です」


 成瀬は、小さく笑った。


「厳しいな」


「部下ですから」


 遠くで無線が鳴った。


『倒壊家屋、反応あり。救助班、応援要請』


 成瀬は立ち上がろうとしたが、それを副官が制した。


「一尉、別の班が行きます」


「俺が」


「行かせません。五分だけ座ってください」


 成瀬は副官を睨みかけたが、その目に本気を見て、座り直した。


 五分――。


 その五分が、今は戦いだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前零時三十五分。


 熊野灘で再び強い余震が発生した。



 午前零時三十五分

 震源地 熊野灘 暫定マグニチュード6・7 最大震度5強



 夜の避難所で、悲鳴が連鎖した。

 高知の高台、和歌山の山腹、三重の体育館、静岡の小学校、宮崎の避難所。人々は、揺れが来るたびに最初の本震へ引き戻された。

 ある避難所では、高齢の男性が突然立ち上がり、出口へ走ろうとした。


「津波が来る! 逃げんと!」


 職員が止める。


「ここは高台です! 大丈夫です!」


「来るんじゃ! 音がする!」


 男性の耳には、本当に海鳴りが聞こえていた。実際には遠くの発電機の音だった。だが、脳はそれを津波として処理していた。

 看護師が近づき、低い声で言った。


「ここは高台です。足元を見てください。床があります。水は来ていません」


 男性は荒く息をした。


「水は」


「来ていません。今、私の声を聞いてください」


 看護師は、男性の手を握った。


「吸って。吐いて。もう一度」


 避難者だけでなく、救助者も、市民も、心が揺れ続けていた。

 余震は地面だけを揺らすのではない。


 記憶を揺らす。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前一時十分。


 官邸危機管理センター。


 高嶺紗枝は壁面の時計を見た。午前一時を過ぎても情報の流れは衰えない。むしろ夜になって、確認不能地域が増え、未確定情報が膨らんでいた。


 羽鳥が報告する。


「津波警報継続。沿岸部の夜間捜索は限定。内陸倒壊家屋、避難所医療、孤立確認が中心です。自衛隊、消防、警察、自治体職員の疲労が顕著です」


 高嶺は静かに頷いた。


「交代計画をさらに前倒ししてください」


「人員は投入していますが、移動路が限られます」


「それでもです。救助者の疲労は、明日の救助力を奪います」


 橘官房長官が、深夜会見の可否を尋ねた。


「総理、午前二時に短く発信しますか」


「はい。夜間の避難継続、津波警戒、救助者の休息、デマ防止。短く」


 片倉財務大臣から回線が入った。


『物資調達の第一波、出せるものは出しました。水、食料、簡易トイレ、毛布、衛星通信、発電機、燃料。問題は輸送です』


「道路啓開は」


「国交省と自衛隊で進めていますが、余震で再崩落があります」


 高嶺は、目を閉じた。


 災害対応は、常に足りないものの中で決める。


 時間が足りない。

 人が足りない。

 道が足りない。

 情報が足りない。

 水が足りない。

 眠りが足りない。


 それでも、決める。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前一時三十分。


 宮崎県日南市。


 若い三曹は、救護テントの中で横になっていた。眠れない。目を閉じると、波が来る。助けてという声が来る。目を開けると、テントの天井が揺れているように見える。


 衛生隊員が隣に座った。


「眠れないか」


「はい」


「今は眠れなくてもいい。横になっているだけで体は少し休む」


「自分、戻れますか」


「戻るかどうかは、今決めない」


「戻りたいです」


「戻りたい気持ちは聞いた。だが、体と頭が戻れるかは別だ」


 三曹は、拳を握った。


「自分だけ休んでいるのが、耐えられません」


 衛生隊員は言った。


「それは罪悪感だ。罪悪感は、時々、責任感の顔をしてくる」


 三曹は顔を向けた。


「責任感じゃないんですか」


「責任感なら、回復して戻る。罪悪感なら、壊れるまで行こうとする」


 三曹は、何も言えなくなった。

 衛生隊員は、毛布をかけ直した。


「お前は今日、人を救った。それは消えない。救えなかった命も消えない。どちらも持ったまま、明日を迎えるしかない」


 三曹は、涙を流した。


「明日が来るのが怖いです」


「怖いままでいい。怖くない人間を、俺は現場に戻したくない」


 外で、誰かが叫んだ。


「救助班、出ます!」


 三曹は起き上がろうとした。

 衛生隊員が肩を押さえた。


「今の任務は、横になることだ」


 三曹は、歯を食いしばりながら、もう一度横になった。

 それは、瓦礫へ向かうより難しい命令だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前一時五十分。


 高知県黒潮町の避難所。


 森下は、短い仮眠を命じられた。壁にもたれ、目を閉じる。だが、すぐに目を開けた。

 暗闇の中で、波の音がする気がした。


 本当は、風だった。


 彼は自分の手を見た。泥が爪の間に入り込んでいる。洗っても落ちない気がした。

 班長が横から言った。


「眠れんか」


「はい」


「目を閉じるだけでいい」


「閉じると、靴が見えます」


 班長は何も言わなかった。


 森下は続けた。


「片方だけの、子どもの靴です。持ち主が助かっているかもしれないのに、勝手に悪い方へ考えてしまいます」


「それが普通だ」


「普通ですか」


「ああ。普通の人間が、普通じゃない現場にいる。だから反応が出る」


 森下は、息を吐いた。


「自分は、もっと強いと思っていました」


「強いってのは、何も感じないことじゃない」


「はい」


「感じても、戻ってくることだ」


 班長は、携帯用ライトを消した。


「十 分でいい。目を閉じろ」


 森下は目を閉じた。

 波の音がした。

 だが、隣に班長の気配があった。


 一人ではない。


 それだけで、暗闇は少しだけ薄くなった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前二時。


 発災から二十一時間近く。


 列島の南側は、まだ非常の中にあった。

 津波警報は多くの地域で継続し、沿岸部への帰還は禁じられていた。道路啓開は夜通し進められ、孤立集落の確認は途切れ途切れの通信と人力に頼っていた。救助要請は積み上がり、応答不能地域は地図上で黒い穴のように広がっていた。


 宮崎では、成瀬一尉が五分の休息を終え、再び立ち上がった。食事はまだ十分に取れていない。水も唇を湿らせただけだった。それでも、副官の目を見て言った。


「次の現場へ行く。ただし、交代表どおりだ。休息を飛ばすな」


「了解」


 高知では、森下が十分だけ目を閉じた後、再び避難所の巡回に戻った。携行食は半分しか食べられなかった。それでも、半分食べた。

 黒潮町の井ノ口は、水を二口飲んだ。泣きながら飲んだ。飲んだ後、避難者名簿の確認を再開した。

 日南の若い三曹は、救護テントで眠れないまま横になっていた。戻りたい気持ちと、戻れない体の間で苦しんでいた。だが、ペットボトルの水をもう一口飲んだ。


 官邸では、高嶺紗枝首相が深夜の短い声明を出した。


『夜が続いています。津波警報が続く地域では、絶対に沿岸部へ戻らないでください。避難所では、周囲の方と声をかけ合ってください。救助に当たる皆さんは、どうか休息と水分を取ってください。今は、長い戦いの中にあります。生き延びるために、支え合ってください』


 その声が届いた地域も、届かなかった地域もあった。


 だが、どこかで誰かが、水を一口飲んだ。


 どこかで誰かが、毛布を分けた。


 どこかで誰かが、泣きながら任務へ戻った。


 そして、どこかで誰かが、瓦礫の下から小さく音を鳴らした。


 自衛官が、ライトを向ける。


「聞こえた」


 別の隊員が息を止める。


 もう一度、音。


 金属を叩く、かすかな音。


「生存者あり!」


 疲労で足は重い。心は傷ついている。喉は乾き、胃は食べ物を拒み、耳には津波の音が残っている。

 それでも、彼らは立ち上がった。


「今行きます!」



 午前二時。


 南海トラフ巨大地震の夜は、まだ明けない。


 だが、暗闇の中で、救助の声だけは消えていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ