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第三話 破断

 八月十四日、午前零時。


 列島の南側は、まだ眠りの中にあるように見えた。 八月十四日、午前零時。


 列島の南側は、まだ眠りの中にあるように見えた。


 宮崎県内の避難所では、日向灘地震から続く疲労が、人々の体を静かに沈めていた。体育館の床に敷かれたブルーシートの上で、子どもが母親の腕に顔を埋めて眠っている。高齢の男性は、枕元に置いた靴を何度も目で確認し、それから目を閉じた。


 高知、徳島、和歌山、三重、愛知、静岡。南海トラフ沿岸の宿泊施設では、避難経路を示す紙が廊下に貼られていた。海沿いの民宿では、玄関の鍵が内側からすぐ開けられるようにされ、懐中電灯が受付の机に並んでいた。消防団の詰所では、団員が靴を履いたまま仮眠していた。


 東京の官邸危機管理センターでは、夜間態勢の職員が大型画面を見つめていた。南海トラフ地震臨時情報、巨大地震注意は継続中。豊後水道の群発地震は、深夜に入ってから小康状態だった。


 小康状態。


 その言葉は、危機管理の現場では慰めにならない。


 T大学地震火山研究センターで、青見怜一(あおみれいいち)は、椅子に座ったまま目を閉じていた。眠っているわけではない。脳の一部だけを休ませ、耳と指先だけを観測装置につないだままにしているような姿だった。


 藤崎が、湯気の消えた紙コップを机に置いた。


「先生、少しでも横になってください」


 青見は目を開けた。


「横になると、起きるのに時間がかかる」


「もう三日ほとんど寝てません」


「地面は、こちらの睡眠時間を考慮してくれない」


 藤崎は何も言えず、モニターに目を向けた。豊後水道の震源分布は、夜に入ってから静かだった。日向灘の余震も減っている。通常なら、活動の減衰と見る。


 だが、青見はその静けさが嫌だった。


 揺れは、いつも騒がしく来るとは限らない。長い沈黙の後、突然、岩盤が耐えることをやめる。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前三時十二分。


 豊後水道で小さな地震が記録された。



 午前三時十二分

 震源地 豊後水道 暫定マグニチュード3・4 最大震度1



 青見は画面を見た。震度としては小さい。ニュース速報にもならない規模だった。


 しかし、位置が気になった。


 前日夜の活動より、わずかに南東。豊後水道沖の深い部分ではなく、南海トラフ側へ寄っている。


「藤崎、これ、再決定して」


「はい」


 藤崎は震源決定の再計算を始めた。数分後、結果が出る。


「大きくはずれていません」


 青見は、気象庁の緒方慎吾へ短いメッセージを送った。



   >豊後水道南東側、小イベント。要注視。



 すぐに返信が来た。



   >確認中。官邸当直にも共有。



 青見は椅子の背にもたれた。何かが起きている、と言うには弱い。何も起きていない、と言うには気味が悪い。


 地震学者の仕事は、この曖昧な領域に耐えることだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前四時二十分。


 高知県黒潮町の高台避難所では、二十数人が夜を明かしていた。自主避難だった。町が強制したわけではない。だが、前日までの呼びかけで、海に近い地区の高齢者と子どものいる家庭が、念のため高台に移っていた。


 消防団員の井ノ口は、詰所の外で空を見ていた。


 東の空はまだ暗い。海は見えない。ただ、風に潮の匂いが混じっている。


 仲間の団員が缶コーヒーを差し出した。


「何もなかったら、今日の昼にはみんな帰るやろうな」


「それでえい」


「笑われるぞ」


「笑われてえい。津波に追われるより、ずっとえい」


 井ノ口はそう言って、避難階段の方を見た。暗闇の中に、白い手すりが細く浮かんでいた。


 彼は、この階段を何度も上った。訓練で。点検で。台風の後で。だが、本当に使う日が来るかもしれないと思うと、段数も傾斜も、まるで別物に見えた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前四時五十八分。


 T大学の研究室で、青見はトイレへ立とうとしていた。その瞬間、モニターの端に、豊後水道沖で微小地震が三つ、ほぼ同時に表示された。


 彼は足を止めた。


「藤崎」


「はい」


「起きろ。いや、もう起きてるな」


 藤崎が画面を覗き込む。


「群発、戻りましたか」


「違う」


 青見は、声を低くした。


「これは、面で始まっている」



 午前五時一分。


 気象庁の内部共有回線が鳴った。青見の端末にも、臨時の解析データが流れ込む。


 南海、豊後水道沖。低周波の大きな揺らぎ。海底地震計の一部に、明瞭な長周期成分。


 青見は、画面に手を伸ばしかけ、その手を止めた。


 次の瞬間、関東の研究室にまだ揺れは届いていないのに、観測網だけが先に悲鳴を上げた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時三分。


 南海、豊後水道沖のプレート境界が、剥がれた。


 最初に強く揺れたのは、九州東部、四国西部、四国太平洋沿岸だった。大分、宮崎、愛媛、高知。まだ薄暗い家屋の中で、棚が一斉に倒れ、窓ガラスが砕け、眠っていた人々が布団ごと床を転がった。


 高知県黒潮町では、高台避難所そのものが大きく揺れた。床に座っていた住民が悲鳴を上げる。井ノ口は壁に手をつき、叫んだ。


「頭を守れ! 動くな! 揺れが収まったら外へ出る!」


 だが、揺れは収まらない。


 横揺れが長く続き、体育館の天井が軋む。窓が割れ、暗い床にガラス片が散った。


 同じ頃、宮崎県内で災害派遣中だった陸上自衛隊第八師団の部隊も、強烈な揺れに襲われていた。


 日南市の道路啓開現場で、成瀬一尉はアスファルトの上に膝をついた。地面が波打ち、道路脇の電柱が大きくしなった。


「全員、姿勢を低く! 重機から離れろ!」


 隊員たちは反射的に伏せた。背後で、まだ残っていたブロック塀が崩れた。粉じんが上がる。


 若い隊員が叫ぶ。


「一尉、これは余震ですか!」


 成瀬は、歯を食いしばった。


「違う……本震だ!」


 その言葉を口にした瞬間、彼自身の胸が冷えた。


 日向灘地震は前震だったのか。


 ならば、自分たちは、救助の途中で次の災害に巻き込まれたのではない。巨大災害の入口に立っていたのだ。



  ――――

  緊急地震速報

  高知県 震度7

  宮崎県 震度6強

  愛媛県 震度6強

  大分県 震度6強

  強い揺れに警戒

  ――――



 T大学の研究室にも、数十秒遅れて長周期の揺れが届いた。東京はまだ震度としては小さかったが、研究室の吊り下げ照明がゆっくりと揺れ始めた。


 青見は机に手をつき、画面を見続けた。


「南海が割れた」


 藤崎の顔から血の気が引いた。


「先生……」


「まだ終わらない」



 午前五時五分。


 東南海のプレート境界が破断を始めた。


 紀伊半島沖、熊野灘、遠州灘へ、破壊が走る。まるで、暗い海底に置かれた巨大な布が、端から裂けていくように。



  ――――

  緊急地震速報

  徳島県 震度7

  和歌山県 震度7

  三重県 震度7

  愛知県 震度6強

  強い揺れに警戒

  ――――



 大阪の高層ビルでは、長周期地震動がエレベーターを止めた。名古屋の住宅街では、屋根瓦が落ち、古い家屋の壁が崩れた。和歌山県すさみ町の民宿では、廊下に靴を履いていた宿泊客が一斉に飛び出そうとした。


「待って! 今は動かないで!」


 主人が叫んだ。


「揺れが収まったら、裏の坂へ! 荷物は捨てて!」


 午前五時十 分。


 東海のプレート境界が剥がれた。


 駿河湾から遠州灘にかけての海底が動き、静岡県、愛知県、神奈川県の沿岸部にさらに強い揺れが襲いかかった。



  ――――

  緊急地震速報

  静岡県 震度7

  愛知県 震度6強

  神奈川県 震度6弱

  東京都 震度5強

  強い揺れに警戒

  ――――



 高嶺紗枝(たかみねさえ)首相は、官邸危機管理センターへ向かう廊下で揺れに襲われた。秘書官が壁に手をつき、警護官が叫ぶ。


「総理、こちらへ!」


 高嶺は床に片膝をつきながらも、顔を上げた。


「危機管理センターは」


「機能しています!」


「なら行きます」


 揺れが続く中、高嶺は壁伝いに歩いた。天井の一部が軋み、照明が大きく揺れている。だが、彼女の足は止まらなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時十二分。


 気象庁は、巨大地震の第一報を出した。



 午前五時三分

 震源地 南海トラフ西部 暫定マグニチュード8・5 最大震度7



 しかし、すでに解析値は追いついていなかった。南海単独ではない。東南海、東海へ破壊が連鎖している。


 数分後、続報が出る。



 午前五時五分

 震源地 東南海沖 暫定マグニチュード8級 最大震度7



 さらに。



 午前五時十 分

 震源地 東海沖 暫定マグニチュード8級 最大震度7



 青見は、気象庁との共有回線で声を張った。


「統合評価を急いでください。これは総合でモーメントマグニチュード9・0級です。津波警報では足りない。大津波警報を最大範囲で」


 緒方の声が返った。


『もう準備しています。太平洋沿岸、伊豆諸島、瀬戸内の一部、東京湾、相模湾、全部出します』


「津波到達が早すぎる。高知、徳島、和歌山、静岡、南伊豆、御前崎、数分です」


『分かっています』


 緒方の声は震えていなかった。震える暇がなかった。



  ――――

  大津波警報

  高知県 徳島県 和歌山県

  三重県 愛知県 静岡県

  宮崎県 大分県 愛媛県

  ただちに高台へ避難

  ――――



 テレビの画面は、赤と紫で埋まった。


 だが、最も早い地域では、画面を見る時間などなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時十三分。


 徳島県海陽町。


 揺れが完全に収まる前に、町の防災無線が割れたような音で叫んだ。


『大津波警報。大津波警報。ただちに高台へ避難してください』


 宍喰港の近くに住む老夫婦は、玄関まで出たが、妻が転んだ。夫が引き起こそうとする。


「立てるか!」


「足が、足が痛い」


 そこへ、近所の高校生が駆け込んだ。


「おばちゃん、背負う!」


「無理や、あんた」


「無理でも行く!」


 少年は老婆を背負い、夫に叫んだ。


「おじちゃん、杖持って! 坂まで走る!」


 その背後で、海から低い音が聞こえ始めた。


 地鳴りではない。


 海鳴りだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時十五分。


 和歌山県すさみ町。


 民宿の主人は、宿泊客を裏の坂道へ誘導していた。


「走れ! 振り返るな! 海を見るな!」


 小学生の女の子が泣きながら言った。


「お母さん、バッグ」


「いらない!」


 母親は娘の手を握り、裸足に近い足で坂を上った。主人は最後尾で、足の遅い客の背中を押した。


 その時、強い余震が来た。



 午前五時十五分

 震源地 紀伊半島沖 暫定マグニチュード7・2 最大震度6弱



 坂道が揺れた。石垣の一部が崩れ、砂利が流れた。


 主人は叫んだ。


「しゃがむな! 止まるな! 上へ!」


 揺れている地面を走ることが、どれほど難しいか。足元が波のように動き、膝が笑い、視界がぶれる。それでも、人々は上へ向かった。


 津波は待たない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時十八分。


 高知県黒潮町。


 井ノ口は、高台避難所からさらに上の避難広場へ住民を移していた。体育館が損傷したためだった。年寄りを肩で支え、子どもを抱え、割れたガラスを避ける。


 その時、町の下から、誰かの叫び声が聞こえた。


「助けて!」


 井ノ口は振り返った。坂の下に、足を引きずる男性がいる。後ろから、黒い水の壁のようなものが、建物の間を押し寄せてきた。


 消防団の仲間が井ノ口の腕を掴んだ。


「行くな!」


「あそこに人がいる!」


「もう間に合わん!」


「でも!」


 井ノ口は一歩踏み出しかけた。だが、仲間が全力で抱き止めた。


「お前が死んだら、上の人間は誰が見る!」


 津波が、坂の下を呑んだ。


 男性の姿が、水しぶきと瓦礫の中に消えた。


 井ノ口の喉から、声にならない音が漏れた。


 彼は膝をつきそうになった。だが、背後で子どもが泣いていた。


 助けられなかった命が、目の前にある。


 そして、まだ助けなければならない命が、背後にある。


 井ノ口は、顔を歪めながら立ち上がった。


「点呼を取れ! けが人を集めろ! 下を見るな!」


 自分に言っているのか、仲間に言っているのか分からなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時二十分。


 宮崎県日南市。


 成瀬一尉の部隊は、津波避難のため内陸側へ退避していた。日向灘地震の災害派遣中に発生した本震。沿岸部で作業していた部隊は、事前の危険予測により高台へ移っていたが、すべての住民を移せたわけではない。


 無線が錯綜していた。


『こちら第二分隊、沿岸集落、住民数名がまだ残留の可能性』


『津波到達予想、残りわずか。進入は危険』


『要救助者の声あり。建物倒壊、位置不明』


 成瀬は、拳を握った。行きたい。だが、行けば部下を死なせる可能性が高い。


 若い三曹が叫んだ。


「一尉、行かせてください! まだ声がします!」


 成瀬は、その三曹の肩を掴んだ。


「駄目だ」


「でも、聞こえてます!」


「駄目だ!」


 三曹の目が赤くなった。


「見捨てるんですか!」


 成瀬は、一瞬、言葉を失った。


 見捨てる。


 その言葉は、胸の奥に刃のように刺さった。だが、成瀬は三曹の肩を離さなかった。


「俺が命令する。進入禁止だ」


「一尉!」


「お前を死なせない。お前が死ねば、次の一人を救えない」


 三曹は歯を食いしばり、涙をこぼした。


 その数十秒後、海側から轟音が来た。


 水と瓦礫が道路を横切り、車を持ち上げ、家屋の一部を流した。さっきまで人の声がした方向は、白い飛沫に覆われた。


 三曹は膝をついた。


「すみません……すみません……」


 成瀬は、彼の背中に手を置いた。


「謝るな。謝るのは、後でいい」


「でも」


「今は、生きている人間を探す」


 成瀬自身も、叫びたかった。だが、指揮官の声が崩れれば、部隊が崩れる。


 彼は、悔しさを喉の奥へ押し込み、無線を取った。


『こちら成瀬。津波第一波通過後、二次波警戒を継続。安全確認後、上方側から検索開始。全員、単独行動禁止。繰り返す、単独行動禁止』


 声だけは、震えさせなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時三十分。


 官邸危機管理センター。


 高嶺紗枝首相が入った時、すでに大型画面は赤で埋まっていた。各地の震度、津波警報、停電、通信障害、鉄道停止、高速道路通行止め、空港被害、港湾被害。情報は多すぎて、逆に全体像を隠していた。


 羽鳥危機管理監が報告した。


「南海、東南海、東海の連動破壊と見られます。気象庁は総合でモーメントマグニチュード9・0級と評価中。太平洋沿岸広域に大津波警報。すでに第一波到達地域があります」


「自衛隊」


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が防衛省から回線で応答した。


『第八師団は宮崎で活動中の部隊がそのまま人命救助へ移行。ただし沿岸部は津波で活動制限。第十四旅団は四国側へ展開準備。中部方面隊、第3師団、第十師団、海自呉、空自築城、小松に災害派遣準備を指示しています』


「法的根拠」


 羽鳥が答えた。


「大規模地震災害特別措置法に基づく内閣総理大臣からの要請を発出する段階です」


 高嶺は迷わなかった。


「出します」


 片倉皐月(かたくらさつき)財務大臣が、画面越しに言った。


『予備費、災害対応費、物資調達、全て即時処理に入ります。財務省は非常体制へ移行済みです』


 橘官房長官が口を開いた。


「総理会見を」


「まず、命令と要請が先です」


 高嶺は、画面の向こうの小森を見た。


「小森大臣。全国の部隊に伝えてください。これは国家規模の災害です。ただし、隊員の命を浪費してはならない。救助は長期戦です」


『承知しました』


 高嶺は、次に羽鳥を見た。


「警察、消防、海保、自治体、医療、すべての広域応援を最大化。内閣府は被害推定を待たず、プッシュ型支援。国交省は道路啓開と港湾使用可否。厚労省はDMAT、災害拠点病院。総務省は通信復旧と自治体応援」


「はい」


「そして、国民向けの言葉を出します。避難を、今すぐ」


 高嶺は演台へ向かう前に、一度だけ目を閉じた。


 この数日、来るかもしれない災害に備えてきた。


 だが、備えたからといって、災害が優しくなるわけではない。



  ――――

  内閣総理大臣声明

  南海トラフ巨大地震発生

  太平洋沿岸に大津波警報

  ただちに命を守る行動を

  ――――



 高嶺の声は、全国へ流れた。


『南海トラフ沿いで、極めて大きな地震が発生しました。太平洋沿岸の広い範囲に大津波警報が発表されています。沿岸部、川沿い、低い土地にいる方は、ただちに高台、頑丈な建物の上階へ避難してください。車にこだわらず、可能な限り高い場所へ移動してください。津波は一度で終わりません。戻らないでください』


 その声を、聞けた人もいた。


 停電で聞けなかった人もいた。


 聞く前に走っていた人もいた。


 そして、間に合わなかった人もいた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時。


 日本の太平洋側は、同時に複数の災害現場になっていた。


 高知県黒潮町では、海沿いの低地がすでに水に覆われていた。津波は建物を砕き、車を転がし、電柱を折り、瓦礫を泥水の中で回転させた。高台に避難した人々は、声を失って海を見ていた。


 徳島県海陽町では、消防団員と住民が高台で点呼を取っていた。


「田村さんの家族は!」


「息子さんは来てる! お母さんがまだ!」


「誰か見たか!」


「分からん!」


 強い余震が来た。


 午前六時二分

 震源地 南海沖 暫定マグニチュード7・4 最大震度6強


 高台の地面が大きく揺れ、人々が悲鳴を上げた。津波を避けて上がった場所で、今度は崖崩れを恐れなければならない。


 消防団員が叫んだ。


「崖から離れろ! 中央へ寄れ!」


 市民は互いの腕を掴み、子どもを抱き寄せ、腰を低くした。足元の地面が横へ流れるように動く。海からは、二度目の波の音が近づいていた。


 自然は、一つずつ襲ってくるわけではなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時二十分。


 和歌山県すさみ町の高台。


 民宿の主人は、宿泊客の人数を数えていた。


「一、二、三……」


 何度数えても、一人足りない。


「佐伯さんは?」


 母親が叫んだ。


「父が、父がトイレに行ってて」


 主人の顔が凍った。宿に戻る道は、すでに津波で切れている。下へ降りることはできない。


「俺が見に」


 若い男性客が言いかけた。


 主人は胸ぐらを掴んだ。


「行くな!」


「でも!」


「行ったら二人死ぬ!」


 男性客は言葉を失った。


 母親が泣き崩れた。


「お父さん……」


 主人は、母親の前に膝をついた。


「すみません。今は行けません。波が引いても、次が来ます。必ず、必ず捜します。でも今は、ここにいてください」


 自分の声がひどく冷たく聞こえた。


 だが、冷たく聞こえる言葉でしか、人を止められない時がある。


 主人は海を見なかった。見れば、自分の判断が折れる気がした。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時四十五分。


 防衛省中央指揮所。


 小森防衛大臣は、全国の部隊展開図を前に立っていた。統合幕僚長が次々に報告する。


「中部方面隊、災害派遣態勢へ移行。第3師団、第十師団、出動準備。第十四旅団、四国方面支援。海自呉基地、艦艇の被害確認と出港準備。航空自衛隊第八航空団、第六航空団、航空偵察および輸送準備。ただし滑走路、燃料、気象、津波警報により制限あり」


「即応予備自衛官は」


「招集準備に入ります。現職約五万八千人規模、即応予備約二万人規模を想定。予備自衛官は駐屯地警衛要員として約一万五千人規模を検討」


 小森は、深く息を吸った。


「これは、数字ではない。一人一人が家族を持つ隊員です。無理な投入はしない。ただし、救える命を逃さない」


 統幕長が頷いた。


「はい」


 小森は、防衛省公式発信の文面を確認した。



   《防衛省・自衛隊は、内閣総理大臣からの要請を受け、大規模地震災害への災害派遣を開始しました。現地では大津波警報が継続しています。沿岸部には絶対に戻らないでください。隊員は安全を確保しつつ、人命救助に全力を尽くします。》



 彼は、一文を追加した。



   《隊員の皆さん、救えない命に直面しても、自分を責める前に、次に救える命へ向かってください。国民は、皆さんの任務を信じています。》



 投稿後、現地でそれを読む余裕のある隊員は少なかった。


 だが、数時間後、その言葉に救われる隊員がいた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前七時十分。


 宮崎県日南市。


 成瀬一尉の部隊は、津波の第一波が押し寄せた後、高台側から被災地を見下ろしていた。低地は泥水と瓦礫で埋まっている。道路の形は消え、家屋の屋根が奇妙な角度で浮いていた。


 まだ、水が引ききっていない。


 若い三曹が、双眼鏡を握りしめていた。


「一尉、屋根の上に人影」


 成瀬が確認する。


 確かに、屋根の上に人がいる。手を振っている。周囲は水。次の波が来れば危ない。


「救助経路は」


「正面は無理です。北側の高台からロープ展張できるかもしれません」


「余震と二次波を見ながら行く。単独行動禁止。三名一組。命綱を取れ」


 三曹が頷いた。目は赤いが、動きは戻っている。


 成瀬は彼を見た。


「行けるか」


「行けます」


「無理なら下がれ」


「行けます。さっき救えなかった分まで、今度は救います」


 成瀬は、短く言った。


「違う」


 三曹が顔を上げる。


「さっき救えなかった命の代わりはない。今救う命は、今そこにいる命だ」


 三曹の唇が震えた。


「はい」


「行くぞ」


 彼らは瓦礫の斜面を下り始めた。


 足元は泥で滑り、割れた木材には釘が出ている。余震が来れば、背後の斜面が崩れるかもしれない。津波の第二波が来れば、退路を失う。


 それでも、屋根の上の人が手を振っている。


「今行きます! 動かないで!」


 成瀬の声に、屋根の上の女性が泣きながら頷いた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前七時四十二分。


 静岡県御前崎市。


 津波は、想定どおり早かった。海沿いの低地を襲い、港湾施設を破壊し、車両を内陸側へ押し込んだ。消防、警察、市職員は、沿岸からの退避を徹底していたが、すべての人を守ることはできなかった。


 市役所の災害対策本部では、通信が途切れ途切れだった。


『御前崎港、詳細不明。浸水広範囲』


『避難所、一部で負傷者多数』


『携帯回線、ほぼ不通』


『防災無線、一部停止』


 職員の一人が、机を叩きそうになり、拳を握り込んだ。


「情報が足りない……」


 上司が言った。


「足りない情報で決めるのが災害対応だ」


「でも、誤ったら」


「誤らないように全員で見る。止まるな」


 その時、また余震が来た。



 午前七時四十三分

 震源地 東海沖 暫定マグニチュード7・1 最大震度6弱



 庁舎が大きく揺れ、書類が床に落ちた。職員たちは机の下に身をかがめる。揺れが収まると、誰かが泣いていた。


 だが、電話が鳴った。


 泣いていた職員が、涙を拭いて受話器を取った。


「御前崎市災害対策本部です」


 声は震えていた。


 それでも、仕事に戻った。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時十五分。


 官邸。


 高嶺紗枝首相は、二度目の声明を出した。


『津波はすでに各地へ到達しています。繰り返します。津波は一度で終わりません。水が引いても、絶対に戻らないでください。沿岸部に家族がいる方は、電話がつながらなくても、避難している可能性があります。回線をふさがないため、災害用伝言サービス、自治体情報を活用してください』


 記者から質問が飛んだ。


「総理、被害の全容は把握できていますか」


『把握できていません。通信途絶、停電、津波、道路寸断により、全容把握には時間がかかります。しかし、把握を待たずに救助と支援を進めています』


「政府の巨大地震注意は、結果として十分だったとお考えですか」


 会見室に緊張が走った。


 高嶺は、記者を見た。


『今は評価の時間ではありません。救助の時間です。ただし、事前に避難して助かった方がいる一方で、避難できなかった方もいます。その現実から、政府は逃げません』


「死者が多数に上る可能性があります」


『その可能性を前提に対応しています。しかし、今この瞬間は、一人でも多く生きている方を救うために全力を挙げます』


 高嶺の声は冷静だった。


 だが、演台の下で握った手の指先は、白くなっていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時。


 高知県黒潮町。


 陸上自衛隊第十四旅団の先遣部隊が、高知県側へ展開し始めていた。しかし、道路は各所で寸断され、沿岸部への接近は津波警報で制限された。彼らは内陸側から、孤立集落の確認に向かった。


 若い陸曹、森下三曹は、車両の中で手袋を強く握っていた。彼は宮崎の日向灘地震支援には入っていなかった。だが、数日前から臨時情報対応で待機し、眠りは浅かった。


 車両の無線が鳴る。


『前方、道路亀裂。車両通行不可。徒歩進出に切り替え』


 部隊は車両を降りた。背嚢、救助資材、担架、無線機。夏の朝の空気はすでに重く、ヘルメットの内側に汗が溜まる。


 森下は、道端に落ちた子どもの靴を見つけた。片方だけだった。


 胸が詰まった。


 だが、班長が声をかけた。


「森下、見るなとは言わん。だが、止まるな」


「はい」


「感情を捨てるな。持ったまま動け」


 森下は頷いた。


 感情を捨てることなどできない。怖い。悔しい。助けたい。逃げたい。泣きたい。それらを全部抱えたまま、足を前へ出す。


 自衛官であるということは、恐怖を感じないことではない。


 恐怖の中で、次の一歩を出すことだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時四十分。


 宮崎県日南市。


 成瀬たちは、屋根の上に取り残された女性を救助していた。ロープを高台側の太い木に固定し、隊員が命綱をつけて瓦礫の上を進む。


「足元確認! 釘に注意!」


「右、流木動くぞ!」


「余震来ます!」


 地面が揺れた。



 午前九時四十一分

 震源地 日向灘 暫定マグニチュード6・3 最大震度5強



 隊員たちはその場で姿勢を低くした。水面に浮いた瓦礫がぶつかり合い、屋根の上の女性が悲鳴を上げる。


「大丈夫です! 動かないで!」


 三曹が叫んだ。


 彼は震えながらも、ロープを握っていた。朝、救えなかった声が、耳から離れない。波に消えた方向を、何度も見そうになる。


 だが、今は目の前の女性を見る。


「こちらへ! 手を伸ばしてください!」


「怖い!」


「怖くていいです! そのまま、こっちを見て!」


 女性が手を伸ばした。三曹が掴む。泥で滑り、手が一度外れかける。


「離しません!」


 三曹は叫んだ。


 それは女性への言葉だった。同時に、自分自身への命令だった。


 数分後、女性は高台側へ引き上げられた。泣きながら、何度も頭を下げる。


「ありがとう、ありがとう」


 三曹は、膝をついた。呼吸が荒い。成瀬が肩を叩く。


「よくやった」


 三曹は、泣きそうな顔で言った。


「一人、救えました」


「ああ」


「でも、朝の人は」


 成瀬は、彼の言葉を遮らなかった。


 三曹は歯を食いしばった。


「忘れちゃいけないですよね」


「忘れるな」


 成瀬は言った。


「だが、背負って潰れるな。背負って立て」


 三曹は、泥だらけの手で涙を拭いた。


「はい」


 遠くで、また海が唸った。


「第二波警戒! 全員、上げろ!」


 悔いる時間は、まだ与えられなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十時三十分。


 全国の被害情報は、断片的に官邸へ集まり始めた。


 高知県黒潮町、徳島県海陽町、和歌山県すさみ町、三重県鳥羽市、愛知県豊橋市、静岡県御前崎市、南伊豆町、下田市、新島村。各地で津波到達、沿岸部浸水、港湾壊滅的被害、家屋流失、道路寸断、孤立集落多数。


 大阪湾、瀬戸内、東京湾にも津波警報が出続けている。到達まで時間がある地域では、逆に避難の混乱が広がっていた。


 東京港、横浜港、川崎港、千葉港。港湾関係者は荷役を停止し、高台や頑丈な建物へ退避した。羽田空港では滑走路点検と津波対応が並行し、航空便は全国的に麻痺した。


 片倉皐月財務大臣は、財務省非常対策室で怒号のような報告を聞いていた。


「予備費の手続きは後で整えます。今は物資を出してください」


「財政規律上の整理が」


「人が死んでから規律を守っても意味がありません。記録は残す。責任は私が取ります」


 彼女の声は鋭かった。


 初の女性財務大臣として、就任以来、何度も数字の厳しさを語ってきた。だが、今、数字は命を動かすためにある。水、燃料、医薬品、ヘリ、船、重機、仮設トイレ、衛星通信。


 すべてに金が要る。


 ならば、金を出す。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十一時。


 SNSは、混乱と祈りと怒りで溢れていた。



   《高知の親と連絡がつかない。誰か黒潮町の避難所情報ください。》


   《海を見に行くな。本当に行くな。動画撮るな。》


   《津波が街を飲んでる。信じられない。》


   《政府は何をしていた。臨時情報出してたのにこの被害か。》


   《臨時情報で避難して助かった人もいる。今は救助情報を流して。》


   《自衛隊が来てくれた。屋根の上から助けてもらった。ありがとう。》


   《デマ注意。〇〇ダム決壊は公式発表なし。拡散しないで。》


   《令明新生組の議員が政府批判してるけど、今やることか。》


   《批判は必要。でも救助の邪魔になるデマはやめよう。》



 デマも増えた。


 存在しない火災。決壊していないダム。偽の避難所。偽の救助要請。古い津波映像。外国語の不審な投稿。


 官邸危機管理センターでは、SNSデマ対策班が警察庁、総務省、プラットフォーム各社と連絡を取り続けていた。


 橘官房長官が険しい顔で言った。


「偽救助要請は悪質です。本物の救助を遅らせる」


 羽鳥が頷いた。


「警察庁に優先対応を依頼しています。ただし、今は発信抑制より訂正の速度です」


 橘は会見用メモに書いた。



   >公式情報以外を拡散しない

   >救助要請は位置情報、人数、状況を明確に

   >虚偽投稿は人命に関わる



 災害は、地面と海だけが起こすものではなかった。


 情報もまた、人を殺し得る。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 正午。


 高知県の内陸側に設置された臨時指揮所で、森下の部隊は、孤立した集落へ徒歩で到達した。家屋の多くが損傷し、道路は崩れ、電線が垂れている。津波は直接届いていないが、強震による倒壊が多かった。


「誰かいますか! 自衛隊です!」


 返事があった。


「こっち! 下敷きになっちゅう!」


 隊員たちは、半壊した家屋へ駆け寄った。柱が傾き、余震が来れば崩れる危険がある。


 班長が判断した。


「進入は二名。支柱を入れろ。外から声かけ継続」


 森下が進入を志願した。


「自分が行きます」


「行けるか」


「行けます」


 彼は家屋の中へ入った。暗い。埃の匂い。木材の軋む音。奥に、高齢の女性が梁に足を挟まれていた。


「自衛隊です。聞こえますか」


「聞こえる……」


「今助けます。お名前言えますか」


「松尾……」


「松尾さん、目を閉じないで。僕の声を聞いてください」


 強い余震が来た。


 午後零時四分

 震源地 四国沖 暫定マグニチュード6・8 最大震度5強


 家屋が軋み、天井から土壁が落ちた。外から班長が叫ぶ。


『森下、退避!』


 森下は女性を見た。女性の目が、自分を見ている。


 退避すべきだ。規則としては、そうだ。二次倒壊の危険がある。自分が死ねば、救助者ではなく要救助者になる。


 だが、女性は小さく言った。


「置いていかんで……」


 森下は喉を鳴らした。


「置いていきません」


 彼は無線を握った。


『支柱追加をお願いします。足の固定を解除できれば搬出可能です。三十秒ください』


『十秒だ! 崩れるぞ!』


『十秒でやります!』


 森下は手を動かした。訓練で何度もやった手順。だが、訓練では家が泣くような音を立てない。訓練では、助けを求める人の手が、自分の袖を掴まない。


 十秒。


 固定が緩む。


「松尾さん、引きます。痛いです。でも出ます」


「はい……」


「せーの!」


 外の隊員と同時に引いた。女性の体が梁の下から抜ける。次の瞬間、奥の壁が崩れた。


 森下は女性を抱え、外へ転がり出た。


 班長が怒鳴った。


「馬鹿野郎!」


 森下は泥と埃まみれで答えた。


「すみません!」


 班長は、女性の脈を確認し、次に森下の胸倉を掴んだ。


「生きて戻ったから叱れる。次は判断を誤るな」


「はい」


 松尾という女性が、弱く手を上げた。


「ありがとう」


 森下は、頭を下げた。


 班長はそれを見て、小さく息を吐いた。


「次へ行くぞ」


 誰も英雄になってはいけない。


 だが、誰かの命を掴む一瞬に、人はどうしても踏み込んでしまう。


 その境界で、自衛官たちは戦っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後零時四十分。


 宮崎県日南市。


 成瀬一尉は、救助した女性を医療班へ引き渡した後、瓦礫の上に座り込んだ三曹の隣に立った。


「水を飲め」


 三曹は首を振った。


「飲め。命令だ」


 三曹は水を口に含んだ。手が震えていた。


「一尉、自分は、朝の判断をまだ納得できません」


「俺もだ」


 三曹が顔を上げた。


「一尉も、ですか」


「納得できるわけがない」


 成瀬は、津波に呑まれた低地を見た。


「あの時、行かせていたら、お前は死んでいたかもしれない。部隊も巻き込まれたかもしれない。だから命令は正しい。だが、正しい命令が、人の心を軽くするわけじゃない」


 三曹は黙っていた。


「悔いは残る。残していい。ただ、その悔いを理由に、次の判断を誤るな」


「はい」


「俺たちは神様じゃない。全部は救えない」


 三曹の目から、また涙が落ちた。


 成瀬は言葉を続けた。


「それでも、救える命を探す。這い上がるっていうのは、忘れることじゃない。折れたまま、立つことだ」


 三曹は、泥のついた拳を握った。


「立ちます」


「よし。次の検索に入る」


 遠くで、ヘリの音がした。


 空からの救助が始まろうとしていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時十分。


 海上自衛隊呉基地では、津波警報と港湾被害の確認に追われながら、出動可能な艦艇の準備が進められていた。岸壁の安全確認、燃料、医療資材、毛布、水、非常食。出港できる艦は限られる。だが、海からしか届かない地域が必ず出る。


 航空自衛隊築城基地、小松基地では、滑走路点検と航空機の被害確認が行われていた。輸送機、救難ヘリ、偵察機。津波、余震、燃料、気象、空域調整。すべてが制約だった。


 それでも、動けるものから動く。


 防衛省では、小森防衛大臣が米軍との連絡、各方面隊、統合運用、自治体要請の整理を続けていた。


「現場に命令を詰め込みすぎるな。優先順位を三つに絞る。人命救助、孤立確認、医療搬送」


 統幕の幹部が答える。


「了解」


「遺体収容は重要だ。しかし今は生存者優先です。現場が心を削られる。交代とメンタルケアの準備も同時に」


「発災当日からですか」


「発災当日だからです」


 小森は、画面に映る現場映像を見た。泥の中を走る隊員。瓦礫の上で叫ぶ消防隊員。手を合わせる住民。泣きながら担架を運ぶ若い自衛官。


 彼は、小さく呟いた。


「彼らを壊してはならない」


 それは、防衛大臣としての命令であり、人間としての祈りでもあった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時三十分。


 官邸には、各国からの支援申し出が入り始めていた。米国、台湾、欧州各国。だが、この時点ではまだ受け入れ調整に入る余裕は少なかった。国内の被害把握だけで、政府中枢は限界に近かった。


 高嶺紗枝は、三度目の関係閣僚会議で言った。


「海外支援は、受けます。ただし、受け入れ拠点を整理してからです。混乱した被災地へ無秩序に入れれば、救助の妨げになる」


 羽鳥が答えた。


「横田、岩国、佐世保、横須賀、座間、福岡、広島、小松を候補に調整します」


「台湾、欧州、米国、それぞれの支援内容を整理。医療、輸送、物資、救助犬、通信。必要なものから」


 橘官房長官が確認した。


「総理、午後二時に再度会見を」


「行います」


「被害数はまだ出せません」


「出せないと言います。分からないことを分かったように言う方が危険です」


 高嶺は、画面の中の赤い警報範囲を見た。


「ただし、国民には伝えます。これは始まりであり、まだ終わっていないと」


 その言葉は、会議室に重く落ちた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後二時。


 地震発生から九時間近くが過ぎていた。


 太平洋沿岸の多くの地域では、津波警報、大津波警報が継続していた。第一波、第二波、第三波。高さも到達時刻も場所によって異なり、引き波と押し波が港や湾の地形で複雑に増幅していた。


 被害の全容は、まだ誰にも見えていない。


 高知の高台で、井ノ口は、助けられなかった男性のいた坂の下を見ないようにしながら、避難者に水を配っていた。手は震えていたが、声は出た。


「一口ずつ飲んで。まだ下りたらいかん」


 徳島では、高校生が背負って逃げた老婆の隣で、膝に手をついて泣いていた。老婆はその背中を撫でた。


「ようやった。あんたが背負ってくれたけん、私はここにおる」


 和歌山では、民宿の主人が人数表を握りしめ、足りない一名の欄に印をつけられずにいた。


 静岡では、市職員が泣きながら電話を取り続けていた。


 宮崎では、成瀬一尉の部隊が、余震と津波の合間を縫って、次の屋根へ向かっていた。三曹は先頭ではない。だが、列の中にいた。泥だらけの顔で、前を見ていた。


 森下は、救助した女性を搬送した後、班長に叱られた言葉を胸に刻みながら、次の倒壊家屋へ走っていた。


 T大学では、青見怜一が、モーメントマグニチュード9・0という値を見つめていた。予測ではなく、現実として表示された数字だった。


 彼は、声に出さずに言った。


 間に合った人がいる。


 間に合わなかった人がいる。


 科学は、その差を少しでも縮めるためにある。


 官邸会見室で、高嶺紗枝首相は、演台に立った。顔には疲労があった。だが、目は伏せなかった。


『南海トラフ巨大地震の発生から、まもなく九時間となります。被害の全容は、まだ分かっていません。津波は今も繰り返し襲来しています。沿岸部の皆様は、絶対に戻らないでください。政府は、自衛隊、警察、消防、海上保安庁、自治体、医療機関とともに、人命救助に全力を挙げています』


 彼女は、短く息を吸った。


『今、現場では、救えた命と、救えなかった命の間で、多くの人が苦しみながら、それでも次の命へ向かっています。どうか、避難を続けてください。どうか、公式情報に従ってください。どうか、生き延びてください』


 その声は、停電した地域には届かなかったかもしれない。


 通信の途絶えた避難所には届かなかったかもしれない。


 だが、届いた場所では、人々が画面を見つめた。


 そして、泥の中で救助を続ける自衛官たちは、その言葉をまだ知らないまま、次の声を探していた。


「誰かいますか!」


「自衛隊です!」


「聞こえたら、音を出してください!」


 余震がまた、地面を揺らした。


 彼らは一度身を低くし、瓦礫の音を聞いた。


 揺れが収まる。


 立ち上がる。


 また叫ぶ。


「誰かいますか!」



 午後二時。


 南海トラフ巨大地震は、まだ終わっていなかった。


 救助も、まだ終わっていなかった。


 そして、誰もが知っていた。


 本当の長い戦いは、ここから始まるのだ。



 宮崎県内の避難所では、日向灘地震から続く疲労が、人々の体を静かに沈めていた。体育館の床に敷かれたブルーシートの上で、子どもが母親の腕に顔を埋めて眠っている。高齢の男性は、枕元に置いた靴を何度も目で確認し、それから目を閉じた。


 高知、徳島、和歌山、三重、愛知、静岡。南海トラフ沿岸の宿泊施設では、避難経路を示す紙が廊下に貼られていた。海沿いの民宿では、玄関の鍵が内側からすぐ開けられるようにされ、懐中電灯が受付の机に並んでいた。消防団の詰所では、団員が靴を履いたまま仮眠していた。


 東京の官邸危機管理センターでは、夜間態勢の職員が大型画面を見つめていた。南海トラフ地震臨時情報、巨大地震注意は継続中。豊後水道の群発地震は、深夜に入ってから小康状態だった。


 小康状態。


 その言葉は、危機管理の現場では慰めにならない。


 T大学地震火山研究センターで、青見怜一(あおみれいいち)は、椅子に座ったまま目を閉じていた。眠っているわけではない。脳の一部だけを休ませ、耳と指先だけを観測装置につないだままにしているような姿だった。


 藤崎が、湯気の消えた紙コップを机に置いた。


「先生、少しでも横になってください」


 青見は目を開けた。


「横になると、起きるのに時間がかかる」


「もう三日ほとんど寝てません」


「地面は、こちらの睡眠時間を考慮してくれない」


 藤崎は何も言えず、モニターに目を向けた。豊後水道の震源分布は、夜に入ってから静かだった。日向灘の余震も減っている。通常なら、活動の減衰と見る。


 だが、青見はその静けさが嫌だった。


 揺れは、いつも騒がしく来るとは限らない。長い沈黙の後、突然、岩盤が耐えることをやめる。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前三時十二分。


 豊後水道で小さな地震が記録された。



 午前三時十二分

 震源地 豊後水道 暫定マグニチュード3・4 最大震度1



 青見は画面を見た。震度としては小さい。ニュース速報にもならない規模だった。


 しかし、位置が気になった。


 前日夜の活動より、わずかに南東。豊後水道沖の深い部分ではなく、南海トラフ側へ寄っている。


「藤崎、これ、再決定して」


「はい」


 藤崎は震源決定の再計算を始めた。数分後、結果が出る。


「大きくはずれていません」


 青見は、気象庁の緒方慎吾へ短いメッセージを送った。



   >豊後水道南東側、小イベント。要注視。



 すぐに返信が来た。



   >確認中。官邸当直にも共有。



 青見は椅子の背にもたれた。何かが起きている、と言うには弱い。何も起きていない、と言うには気味が悪い。


 地震学者の仕事は、この曖昧な領域に耐えることだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前四時二十分。


 高知県黒潮町の高台避難所では、二十数人が夜を明かしていた。自主避難だった。町が強制したわけではない。だが、前日までの呼びかけで、海に近い地区の高齢者と子どものいる家庭が、念のため高台に移っていた。


 消防団員の井ノ口は、詰所の外で空を見ていた。


 東の空はまだ暗い。海は見えない。ただ、風に潮の匂いが混じっている。


 仲間の団員が缶コーヒーを差し出した。


「何もなかったら、今日の昼にはみんな帰るやろうな」


「それでえい」


「笑われるぞ」


「笑われてえい。津波に追われるより、ずっとえい」


 井ノ口はそう言って、避難階段の方を見た。暗闇の中に、白い手すりが細く浮かんでいた。


 彼は、この階段を何度も上った。訓練で。点検で。台風の後で。だが、本当に使う日が来るかもしれないと思うと、段数も傾斜も、まるで別物に見えた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前四時五十八分。


 T大学の研究室で、青見はトイレへ立とうとしていた。その瞬間、モニターの端に、豊後水道沖で微小地震が三つ、ほぼ同時に表示された。


 彼は足を止めた。


「藤崎」


「はい」


「起きろ。いや、もう起きてるな」


 藤崎が画面を覗き込む。


「群発、戻りましたか」


「違う」


 青見は、声を低くした。


「これは、面で始まっている」



 午前五時一分。


 気象庁の内部共有回線が鳴った。青見の端末にも、臨時の解析データが流れ込む。


 南海、豊後水道沖。低周波の大きな揺らぎ。海底地震計の一部に、明瞭な長周期成分。


 青見は、画面に手を伸ばしかけ、その手を止めた。


 次の瞬間、関東の研究室にまだ揺れは届いていないのに、観測網だけが先に悲鳴を上げた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時三分。


 南海、豊後水道沖のプレート境界が、剥がれた。


 最初に強く揺れたのは、九州東部、四国西部、四国太平洋沿岸だった。大分、宮崎、愛媛、高知。まだ薄暗い家屋の中で、棚が一斉に倒れ、窓ガラスが砕け、眠っていた人々が布団ごと床を転がった。


 高知県黒潮町では、高台避難所そのものが大きく揺れた。床に座っていた住民が悲鳴を上げる。井ノ口は壁に手をつき、叫んだ。


「頭を守れ! 動くな! 揺れが収まったら外へ出る!」


 だが、揺れは収まらない。


 横揺れが長く続き、体育館の天井が軋む。窓が割れ、暗い床にガラス片が散った。


 同じ頃、宮崎県内で災害派遣中だった陸上自衛隊第八師団の部隊も、強烈な揺れに襲われていた。


 日南市の道路啓開現場で、成瀬一尉はアスファルトの上に膝をついた。地面が波打ち、道路脇の電柱が大きくしなった。


「全員、姿勢を低く! 重機から離れろ!」


 隊員たちは反射的に伏せた。背後で、まだ残っていたブロック塀が崩れた。粉じんが上がる。


 若い隊員が叫ぶ。


「一尉、これは余震ですか!」


 成瀬は、歯を食いしばった。


「違う……本震だ!」


 その言葉を口にした瞬間、彼自身の胸が冷えた。


 日向灘地震は前震だったのか。


 ならば、自分たちは、救助の途中で次の災害に巻き込まれたのではない。巨大災害の入口に立っていたのだ。



  ――――

  緊急地震速報

  高知県 震度7

  宮崎県 震度6強

  愛媛県 震度6強

  大分県 震度6強

  強い揺れに警戒

  ――――



 T大学の研究室にも、数十秒遅れて長周期の揺れが届いた。東京はまだ震度としては小さかったが、研究室の吊り下げ照明がゆっくりと揺れ始めた。


 青見は机に手をつき、画面を見続けた。


「南海が割れた」


 藤崎の顔から血の気が引いた。


「先生……」


「まだ終わらない」



 午前五時五分。


 東南海のプレート境界が破断を始めた。


 紀伊半島沖、熊野灘、遠州灘へ、破壊が走る。まるで、暗い海底に置かれた巨大な布が、端から裂けていくように。



  ――――

  緊急地震速報

  徳島県 震度7

  和歌山県 震度7

  三重県 震度7

  愛知県 震度6強

  強い揺れに警戒

  ――――



 大阪の高層ビルでは、長周期地震動がエレベーターを止めた。名古屋の住宅街では、屋根瓦が落ち、古い家屋の壁が崩れた。和歌山県すさみ町の民宿では、廊下に靴を履いていた宿泊客が一斉に飛び出そうとした。


「待って! 今は動かないで!」


 主人が叫んだ。


「揺れが収まったら、裏の坂へ! 荷物は捨てて!」


 午前五時十 分。


 東海のプレート境界が剥がれた。


 駿河湾から遠州灘にかけての海底が動き、静岡県、愛知県、神奈川県の沿岸部にさらに強い揺れが襲いかかった。



  ――――

  緊急地震速報

  静岡県 震度7

  愛知県 震度6強

  神奈川県 震度6弱

  東京都 震度5強

  強い揺れに警戒

  ――――



 高嶺紗枝(たかみねさえ)首相は、官邸危機管理センターへ向かう廊下で揺れに襲われた。秘書官が壁に手をつき、警護官が叫ぶ。


「総理、こちらへ!」


 高嶺は床に片膝をつきながらも、顔を上げた。


「危機管理センターは」


「機能しています!」


「なら行きます」


 揺れが続く中、高嶺は壁伝いに歩いた。天井の一部が軋み、照明が大きく揺れている。だが、彼女の足は止まらなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時十二分。


 気象庁は、巨大地震の第一報を出した。



 午前五時三分

 震源地 南海トラフ西部 暫定マグニチュード8・5 最大震度7



 しかし、すでに解析値は追いついていなかった。南海単独ではない。東南海、東海へ破壊が連鎖している。


 数分後、続報が出る。



 午前五時五分

 震源地 東南海沖 暫定マグニチュード8級 最大震度7



 さらに。



 午前五時十 分

 震源地 東海沖 暫定マグニチュード8級 最大震度7



 青見は、気象庁との共有回線で声を張った。


「統合評価を急いでください。これは総合でモーメントマグニチュード9・0級です。津波警報では足りない。大津波警報を最大範囲で」


 緒方の声が返った。


『もう準備しています。太平洋沿岸、伊豆諸島、瀬戸内の一部、東京湾、相模湾、全部出します』


「津波到達が早すぎる。高知、徳島、和歌山、静岡、南伊豆、御前崎、数分です」


『分かっています』


 緒方の声は震えていなかった。震える暇がなかった。



  ――――

  大津波警報

  高知県 徳島県 和歌山県

  三重県 愛知県 静岡県

  宮崎県 大分県 愛媛県

  ただちに高台へ避難

  ――――



 テレビの画面は、赤と紫で埋まった。


 だが、最も早い地域では、画面を見る時間などなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時十三分。


 徳島県海陽町。


 揺れが完全に収まる前に、町の防災無線が割れたような音で叫んだ。


『大津波警報。大津波警報。ただちに高台へ避難してください』


 宍喰港の近くに住む老夫婦は、玄関まで出たが、妻が転んだ。夫が引き起こそうとする。


「立てるか!」


「足が、足が痛い」


 そこへ、近所の高校生が駆け込んだ。


「おばちゃん、背負う!」


「無理や、あんた」


「無理でも行く!」


 少年は老婆を背負い、夫に叫んだ。


「おじちゃん、杖持って! 坂まで走る!」


 その背後で、海から低い音が聞こえ始めた。


 地鳴りではない。


 海鳴りだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時十五分。


 和歌山県すさみ町。


 民宿の主人は、宿泊客を裏の坂道へ誘導していた。


「走れ! 振り返るな! 海を見るな!」


 小学生の女の子が泣きながら言った。


「お母さん、バッグ」


「いらない!」


 母親は娘の手を握り、裸足に近い足で坂を上った。主人は最後尾で、足の遅い客の背中を押した。


 その時、強い余震が来た。



 午前五時十五分

 震源地 紀伊半島沖 暫定マグニチュード7・2 最大震度6弱



 坂道が揺れた。石垣の一部が崩れ、砂利が流れた。


 主人は叫んだ。


「しゃがむな! 止まるな! 上へ!」


 揺れている地面を走ることが、どれほど難しいか。足元が波のように動き、膝が笑い、視界がぶれる。それでも、人々は上へ向かった。


 津波は待たない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時十八分。


 高知県黒潮町。


 井ノ口は、高台避難所からさらに上の避難広場へ住民を移していた。体育館が損傷したためだった。年寄りを肩で支え、子どもを抱え、割れたガラスを避ける。


 その時、町の下から、誰かの叫び声が聞こえた。


「助けて!」


 井ノ口は振り返った。坂の下に、足を引きずる男性がいる。後ろから、黒い水の壁のようなものが、建物の間を押し寄せてきた。


 消防団の仲間が井ノ口の腕を掴んだ。


「行くな!」


「あそこに人がいる!」


「もう間に合わん!」


「でも!」


 井ノ口は一歩踏み出しかけた。だが、仲間が全力で抱き止めた。


「お前が死んだら、上の人間は誰が見る!」


 津波が、坂の下を呑んだ。


 男性の姿が、水しぶきと瓦礫の中に消えた。


 井ノ口の喉から、声にならない音が漏れた。


 彼は膝をつきそうになった。だが、背後で子どもが泣いていた。


 助けられなかった命が、目の前にある。


 そして、まだ助けなければならない命が、背後にある。


 井ノ口は、顔を歪めながら立ち上がった。


「点呼を取れ! けが人を集めろ! 下を見るな!」


 自分に言っているのか、仲間に言っているのか分からなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時二十分。


 宮崎県日南市。


 成瀬一尉の部隊は、津波避難のため内陸側へ退避していた。日向灘地震の災害派遣中に発生した本震。沿岸部で作業していた部隊は、事前の危険予測により高台へ移っていたが、すべての住民を移せたわけではない。


 無線が錯綜していた。


『こちら第二分隊、沿岸集落、住民数名がまだ残留の可能性』


『津波到達予想、残りわずか。進入は危険』


『要救助者の声あり。建物倒壊、位置不明』


 成瀬は、拳を握った。行きたい。だが、行けば部下を死なせる可能性が高い。


 若い三曹が叫んだ。


「一尉、行かせてください! まだ声がします!」


 成瀬は、その三曹の肩を掴んだ。


「駄目だ」


「でも、聞こえてます!」


「駄目だ!」


 三曹の目が赤くなった。


「見捨てるんですか!」


 成瀬は、一瞬、言葉を失った。


 見捨てる。


 その言葉は、胸の奥に刃のように刺さった。だが、成瀬は三曹の肩を離さなかった。


「俺が命令する。進入禁止だ」


「一尉!」


「お前を死なせない。お前が死ねば、次の一人を救えない」


 三曹は歯を食いしばり、涙をこぼした。


 その数十秒後、海側から轟音が来た。


 水と瓦礫が道路を横切り、車を持ち上げ、家屋の一部を流した。さっきまで人の声がした方向は、白い飛沫に覆われた。


 三曹は膝をついた。


「すみません……すみません……」


 成瀬は、彼の背中に手を置いた。


「謝るな。謝るのは、後でいい」


「でも」


「今は、生きている人間を探す」


 成瀬自身も、叫びたかった。だが、指揮官の声が崩れれば、部隊が崩れる。


 彼は、悔しさを喉の奥へ押し込み、無線を取った。


『こちら成瀬。津波第一波通過後、二次波警戒を継続。安全確認後、上方側から検索開始。全員、単独行動禁止。繰り返す、単独行動禁止』


 声だけは、震えさせなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時三十分。


 官邸危機管理センター。


 高嶺紗枝首相が入った時、すでに大型画面は赤で埋まっていた。各地の震度、津波警報、停電、通信障害、鉄道停止、高速道路通行止め、空港被害、港湾被害。情報は多すぎて、逆に全体像を隠していた。


 羽鳥危機管理監が報告した。


「南海、東南海、東海の連動破壊と見られます。気象庁は総合でモーメントマグニチュード9・0級と評価中。太平洋沿岸広域に大津波警報。すでに第一波到達地域があります」


「自衛隊」


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が防衛省から回線で応答した。


『第八師団は宮崎で活動中の部隊がそのまま人命救助へ移行。ただし沿岸部は津波で活動制限。第十四旅団は四国側へ展開準備。中部方面隊、第3師団、第十師団、海自呉、空自築城、小松に災害派遣準備を指示しています』


「法的根拠」


 羽鳥が答えた。


「大規模地震災害特別措置法に基づく内閣総理大臣からの要請を発出する段階です」


 高嶺は迷わなかった。


「出します」


 片倉皐月(かたくらさつき)財務大臣が、画面越しに言った。


『予備費、災害対応費、物資調達、全て即時処理に入ります。財務省は非常体制へ移行済みです』


 橘官房長官が口を開いた。


「総理会見を」


「まず、命令と要請が先です」


 高嶺は、画面の向こうの小森を見た。


「小森大臣。全国の部隊に伝えてください。これは国家規模の災害です。ただし、隊員の命を浪費してはならない。救助は長期戦です」


『承知しました』


 高嶺は、次に羽鳥を見た。


「警察、消防、海保、自治体、医療、すべての広域応援を最大化。内閣府は被害推定を待たず、プッシュ型支援。国交省は道路啓開と港湾使用可否。厚労省はDMAT、災害拠点病院。総務省は通信復旧と自治体応援」


「はい」


「そして、国民向けの言葉を出します。避難を、今すぐ」


 高嶺は演台へ向かう前に、一度だけ目を閉じた。


 この数日、来るかもしれない災害に備えてきた。


 だが、備えたからといって、災害が優しくなるわけではない。



  ――――

  内閣総理大臣声明

  南海トラフ巨大地震発生

  太平洋沿岸に大津波警報

  ただちに命を守る行動を

  ――――



 高嶺の声は、全国へ流れた。


『南海トラフ沿いで、極めて大きな地震が発生しました。太平洋沿岸の広い範囲に大津波警報が発表されています。沿岸部、川沿い、低い土地にいる方は、ただちに高台、頑丈な建物の上階へ避難してください。車にこだわらず、可能な限り高い場所へ移動してください。津波は一度で終わりません。戻らないでください』


 その声を、聞けた人もいた。


 停電で聞けなかった人もいた。


 聞く前に走っていた人もいた。


 そして、間に合わなかった人もいた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時。


 日本の太平洋側は、同時に複数の災害現場になっていた。


 高知県黒潮町では、海沿いの低地がすでに水に覆われていた。津波は建物を砕き、車を転がし、電柱を折り、瓦礫を泥水の中で回転させた。高台に避難した人々は、声を失って海を見ていた。


 徳島県海陽町では、消防団員と住民が高台で点呼を取っていた。


「田村さんの家族は!」


「息子さんは来てる! お母さんがまだ!」


「誰か見たか!」


「分からん!」


 強い余震が来た。


 午前六時二分

 震源地 南海沖 暫定マグニチュード7・4 最大震度6強


 高台の地面が大きく揺れ、人々が悲鳴を上げた。津波を避けて上がった場所で、今度は崖崩れを恐れなければならない。


 消防団員が叫んだ。


「崖から離れろ! 中央へ寄れ!」


 市民は互いの腕を掴み、子どもを抱き寄せ、腰を低くした。足元の地面が横へ流れるように動く。海からは、二度目の波の音が近づいていた。


 自然は、一つずつ襲ってくるわけではなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時二十分。


 和歌山県すさみ町の高台。


 民宿の主人は、宿泊客の人数を数えていた。


「一、二、三……」


 何度数えても、一人足りない。


「佐伯さんは?」


 母親が叫んだ。


「父が、父がトイレに行ってて」


 主人の顔が凍った。宿に戻る道は、すでに津波で切れている。下へ降りることはできない。


「俺が見に」


 若い男性客が言いかけた。


 主人は胸ぐらを掴んだ。


「行くな!」


「でも!」


「行ったら二人死ぬ!」


 男性客は言葉を失った。


 母親が泣き崩れた。


「お父さん……」


 主人は、母親の前に膝をついた。


「すみません。今は行けません。波が引いても、次が来ます。必ず、必ず捜します。でも今は、ここにいてください」


 自分の声がひどく冷たく聞こえた。


 だが、冷たく聞こえる言葉でしか、人を止められない時がある。


 主人は海を見なかった。見れば、自分の判断が折れる気がした。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時四十五分。


 防衛省中央指揮所。


 小森防衛大臣は、全国の部隊展開図を前に立っていた。統合幕僚長が次々に報告する。


「中部方面隊、災害派遣態勢へ移行。第3師団、第十師団、出動準備。第十四旅団、四国方面支援。海自呉基地、艦艇の被害確認と出港準備。航空自衛隊第八航空団、第六航空団、航空偵察および輸送準備。ただし滑走路、燃料、気象、津波警報により制限あり」


「即応予備自衛官は」


「招集準備に入ります。現職約五万八千人規模、即応予備約二万人規模を想定。予備自衛官は駐屯地警衛要員として約一万五千人規模を検討」


 小森は、深く息を吸った。


「これは、数字ではない。一人一人が家族を持つ隊員です。無理な投入はしない。ただし、救える命を逃さない」


 統幕長が頷いた。


「はい」


 小森は、防衛省公式発信の文面を確認した。



   《防衛省・自衛隊は、内閣総理大臣からの要請を受け、大規模地震災害への災害派遣を開始しました。現地では大津波警報が継続しています。沿岸部には絶対に戻らないでください。隊員は安全を確保しつつ、人命救助に全力を尽くします。》



 彼は、一文を追加した。



   《隊員の皆さん、救えない命に直面しても、自分を責める前に、次に救える命へ向かってください。国民は、皆さんの任務を信じています。》



 投稿後、現地でそれを読む余裕のある隊員は少なかった。


 だが、数時間後、その言葉に救われる隊員がいた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前七時十分。


 宮崎県日南市。


 成瀬一尉の部隊は、津波の第一波が押し寄せた後、高台側から被災地を見下ろしていた。低地は泥水と瓦礫で埋まっている。道路の形は消え、家屋の屋根が奇妙な角度で浮いていた。


 まだ、水が引ききっていない。


 若い三曹が、双眼鏡を握りしめていた。


「一尉、屋根の上に人影」


 成瀬が確認する。


 確かに、屋根の上に人がいる。手を振っている。周囲は水。次の波が来れば危ない。


「救助経路は」


「正面は無理です。北側の高台からロープ展張できるかもしれません」


「余震と二次波を見ながら行く。単独行動禁止。三名一組。命綱を取れ」


 三曹が頷いた。目は赤いが、動きは戻っている。


 成瀬は彼を見た。


「行けるか」


「行けます」


「無理なら下がれ」


「行けます。さっき救えなかった分まで、今度は救います」


 成瀬は、短く言った。


「違う」


 三曹が顔を上げる。


「さっき救えなかった命の代わりはない。今救う命は、今そこにいる命だ」


 三曹の唇が震えた。


「はい」


「行くぞ」


 彼らは瓦礫の斜面を下り始めた。


 足元は泥で滑り、割れた木材には釘が出ている。余震が来れば、背後の斜面が崩れるかもしれない。津波の第二波が来れば、退路を失う。


 それでも、屋根の上の人が手を振っている。


「今行きます! 動かないで!」


 成瀬の声に、屋根の上の女性が泣きながら頷いた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前七時四十二分。


 静岡県御前崎市。


 津波は、想定どおり早かった。海沿いの低地を襲い、港湾施設を破壊し、車両を内陸側へ押し込んだ。消防、警察、市職員は、沿岸からの退避を徹底していたが、すべての人を守ることはできなかった。


 市役所の災害対策本部では、通信が途切れ途切れだった。


『御前崎港、詳細不明。浸水広範囲』


『避難所、一部で負傷者多数』


『携帯回線、ほぼ不通』


『防災無線、一部停止』


 職員の一人が、机を叩きそうになり、拳を握り込んだ。


「情報が足りない……」


 上司が言った。


「足りない情報で決めるのが災害対応だ」


「でも、誤ったら」


「誤らないように全員で見る。止まるな」


 その時、また余震が来た。



 午前七時四十三分

 震源地 東海沖 暫定マグニチュード7・1 最大震度6弱



 庁舎が大きく揺れ、書類が床に落ちた。職員たちは机の下に身をかがめる。揺れが収まると、誰かが泣いていた。


 だが、電話が鳴った。


 泣いていた職員が、涙を拭いて受話器を取った。


「御前崎市災害対策本部です」


 声は震えていた。


 それでも、仕事に戻った。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時十五分。


 官邸。


 高嶺紗枝首相は、二度目の声明を出した。


『津波はすでに各地へ到達しています。繰り返します。津波は一度で終わりません。水が引いても、絶対に戻らないでください。沿岸部に家族がいる方は、電話がつながらなくても、避難している可能性があります。回線をふさがないため、災害用伝言サービス、自治体情報を活用してください』


 記者から質問が飛んだ。


「総理、被害の全容は把握できていますか」


『把握できていません。通信途絶、停電、津波、道路寸断により、全容把握には時間がかかります。しかし、把握を待たずに救助と支援を進めています』


「政府の巨大地震注意は、結果として十分だったとお考えですか」


 会見室に緊張が走った。


 高嶺は、記者を見た。


『今は評価の時間ではありません。救助の時間です。ただし、事前に避難して助かった方がいる一方で、避難できなかった方もいます。その現実から、政府は逃げません』


「死者が多数に上る可能性があります」


『その可能性を前提に対応しています。しかし、今この瞬間は、一人でも多く生きている方を救うために全力を挙げます』


 高嶺の声は冷静だった。


 だが、演台の下で握った手の指先は、白くなっていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時。


 高知県黒潮町。


 陸上自衛隊第十四旅団の先遣部隊が、高知県側へ展開し始めていた。しかし、道路は各所で寸断され、沿岸部への接近は津波警報で制限された。彼らは内陸側から、孤立集落の確認に向かった。


 若い陸曹、森下は、車両の中で手袋を強く握っていた。彼は宮崎の日向灘地震支援には入っていなかった。だが、数日前から臨時情報対応で待機し、眠りは浅かった。


 車両の無線が鳴る。


『前方、道路亀裂。車両通行不可。徒歩進出に切り替え』


 部隊は車両を降りた。背嚢、救助資材、担架、無線機。夏の朝の空気はすでに重く、ヘルメットの内側に汗が溜まる。


 森下は、道端に落ちた子どもの靴を見つけた。片方だけだった。


 胸が詰まった。


 だが、班長が声をかけた。


「森下、見るなとは言わん。だが、止まるな」


「はい」


「感情を捨てるな。持ったまま動け」


 森下は頷いた。


 感情を捨てることなどできない。怖い。悔しい。助けたい。逃げたい。泣きたい。それらを全部抱えたまま、足を前へ出す。


 自衛官であるということは、恐怖を感じないことではない。


 恐怖の中で、次の一歩を出すことだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時四十分。


 宮崎県日南市。


 成瀬たちは、屋根の上に取り残された女性を救助していた。ロープを高台側の太い木に固定し、隊員が命綱をつけて瓦礫の上を進む。


「足元確認! 釘に注意!」


「右、流木動くぞ!」


「余震来ます!」


 地面が揺れた。



 午前九時四十一分

 震源地 日向灘 暫定マグニチュード6・3 最大震度5強



 隊員たちはその場で姿勢を低くした。水面に浮いた瓦礫がぶつかり合い、屋根の上の女性が悲鳴を上げる。


「大丈夫です! 動かないで!」


 三曹が叫んだ。


 彼は震えながらも、ロープを握っていた。朝、救えなかった声が、耳から離れない。波に消えた方向を、何度も見そうになる。


 だが、今は目の前の女性を見る。


「こちらへ! 手を伸ばしてください!」


「怖い!」


「怖くていいです! そのまま、こっちを見て!」


 女性が手を伸ばした。三曹が掴む。泥で滑り、手が一度外れかける。


「離しません!」


 三曹は叫んだ。


 それは女性への言葉だった。同時に、自分自身への命令だった。


 数分後、女性は高台側へ引き上げられた。泣きながら、何度も頭を下げる。


「ありがとう、ありがとう」


 三曹は、膝をついた。呼吸が荒い。成瀬が肩を叩く。


「よくやった」


 三曹は、泣きそうな顔で言った。


「一人、救えました」


「ああ」


「でも、朝の人は」


 成瀬は、彼の言葉を遮らなかった。


 三曹は歯を食いしばった。


「忘れちゃいけないですよね」


「忘れるな」


 成瀬は言った。


「だが、背負って潰れるな。背負って立て」


 三曹は、泥だらけの手で涙を拭いた。


「はい」


 遠くで、また海が唸った。


「第二波警戒! 全員、上げろ!」


 悔いる時間は、まだ与えられなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十時三十分。


 全国の被害情報は、断片的に官邸へ集まり始めた。


 高知県黒潮町、徳島県海陽町、和歌山県すさみ町、三重県鳥羽市、愛知県豊橋市、静岡県御前崎市、南伊豆町、下田市、新島村。各地で津波到達、沿岸部浸水、港湾壊滅的被害、家屋流失、道路寸断、孤立集落多数。


 大阪湾、瀬戸内、東京湾にも津波警報が出続けている。到達まで時間がある地域では、逆に避難の混乱が広がっていた。


 東京港、横浜港、川崎港、千葉港。港湾関係者は荷役を停止し、高台や頑丈な建物へ退避した。羽田空港では滑走路点検と津波対応が並行し、航空便は全国的に麻痺した。


 片倉皐月財務大臣は、財務省非常対策室で怒号のような報告を聞いていた。


「予備費の手続きは後で整えます。今は物資を出してください」


「財政規律上の整理が」


「人が死んでから規律を守っても意味がありません。記録は残す。責任は私が取ります」


 彼女の声は鋭かった。


 初の女性財務大臣として、就任以来、何度も数字の厳しさを語ってきた。だが、今、数字は命を動かすためにある。水、燃料、医薬品、ヘリ、船、重機、仮設トイレ、衛星通信。


 すべてに金が要る。


 ならば、金を出す。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十一時。


 SNSは、混乱と祈りと怒りで溢れていた。



   《高知の親と連絡がつかない。誰か黒潮町の避難所情報ください。》


   《海を見に行くな。本当に行くな。動画撮るな。》


   《津波が街を飲んでる。信じられない。》


   《政府は何をしていた。臨時情報出してたのにこの被害か。》


   《臨時情報で避難して助かった人もいる。今は救助情報を流して。》


   《自衛隊が来てくれた。屋根の上から助けてもらった。ありがとう。》


   《デマ注意。〇〇ダム決壊は公式発表なし。拡散しないで。》


   《令明新生組の議員が政府批判してるけど、今やることか。》


   《批判は必要。でも救助の邪魔になるデマはやめよう。》



 デマも増えた。


 存在しない火災。決壊していないダム。偽の避難所。偽の救助要請。古い津波映像。外国語の不審な投稿。


 官邸危機管理センターでは、SNSデマ対策班が警察庁、総務省、プラットフォーム各社と連絡を取り続けていた。


 橘官房長官が険しい顔で言った。


「偽救助要請は悪質です。本物の救助を遅らせる」


 羽鳥が頷いた。


「警察庁に優先対応を依頼しています。ただし、今は発信抑制より訂正の速度です」


 橘は会見用メモに書いた。



   >公式情報以外を拡散しない

   >救助要請は位置情報、人数、状況を明確に

   >虚偽投稿は人命に関わる



 災害は、地面と海だけが起こすものではなかった。


 情報もまた、人を殺し得る。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 正午。


 高知県の内陸側に設置された臨時指揮所で、森下陸曹の部隊は、孤立した集落へ徒歩で到達した。家屋の多くが損傷し、道路は崩れ、電線が垂れている。津波は直接届いていないが、強震による倒壊が多かった。


「誰かいますか! 自衛隊です!」


 返事があった。


「こっち! 下敷きになっちゅう!」


 隊員たちは、半壊した家屋へ駆け寄った。柱が傾き、余震が来れば崩れる危険がある。


 班長が判断した。


「進入は二名。支柱を入れろ。外から声かけ継続」


 森下が進入を志願した。


「自分が行きます」


「行けるか」


「行けます」


 彼は家屋の中へ入った。暗い。埃の匂い。木材の軋む音。奥に、高齢の女性が梁に足を挟まれていた。


「自衛隊です。聞こえますか」


「聞こえる……」


「今助けます。お名前言えますか」


「松尾……」


「松尾さん、目を閉じないで。僕の声を聞いてください」


 強い余震が来た。


 午後零時四分

 震源地 四国沖 暫定マグニチュード6・8 最大震度5強


 家屋が軋み、天井から土壁が落ちた。外から班長が叫ぶ。


『森下、退避!』


 森下は女性を見た。女性の目が、自分を見ている。


 退避すべきだ。規則としては、そうだ。二次倒壊の危険がある。自分が死ねば、救助者ではなく要救助者になる。


 だが、女性は小さく言った。


「置いていかんで……」


 森下は喉を鳴らした。


「置いていきません」


 彼は無線を握った。


『支柱追加をお願いします。足の固定を解除できれば搬出可能です。三十秒ください』


『十秒だ! 崩れるぞ!』


『十秒でやります!』


 森下は手を動かした。訓練で何度もやった手順。だが、訓練では家が泣くような音を立てない。訓練では、助けを求める人の手が、自分の袖を掴まない。


 十秒。


 固定が緩む。


「松尾さん、引きます。痛いです。でも出ます」


「はい……」


「せーの!」


 外の隊員と同時に引いた。女性の体が梁の下から抜ける。次の瞬間、奥の壁が崩れた。


 森下は女性を抱え、外へ転がり出た。


 班長が怒鳴った。


「馬鹿野郎!」


 森下は泥と埃まみれで答えた。


「すみません!」


 班長は、女性の脈を確認し、次に森下の胸倉を掴んだ。


「生きて戻ったから叱れる。次は判断を誤るな」


「はい」


 松尾という女性が、弱く手を上げた。


「ありがとう」


 森下は、頭を下げた。


 班長はそれを見て、小さく息を吐いた。


「次へ行くぞ」


 誰も英雄になってはいけない。


 だが、誰かの命を掴む一瞬に、人はどうしても踏み込んでしまう。


 その境界で、自衛官たちは戦っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後零時四十分。


 宮崎県日南市。


 成瀬一尉は、救助した女性を医療班へ引き渡した後、瓦礫の上に座り込んだ三曹の隣に立った。


「水を飲め」


 三曹は首を振った。


「飲め。命令だ」


 三曹は水を口に含んだ。手が震えていた。


「一尉、自分は、朝の判断をまだ納得できません」


「俺もだ」


 三曹が顔を上げた。


「一尉も、ですか」


「納得できるわけがない」


 成瀬は、津波に呑まれた低地を見た。


「あの時、行かせていたら、お前は死んでいたかもしれない。部隊も巻き込まれたかもしれない。だから命令は正しい。だが、正しい命令が、人の心を軽くするわけじゃない」


 三曹は黙っていた。


「悔いは残る。残していい。ただ、その悔いを理由に、次の判断を誤るな」


「はい」


「俺たちは神様じゃない。全部は救えない」


 三曹の目から、また涙が落ちた。


 成瀬は言葉を続けた。


「それでも、救える命を探す。這い上がるっていうのは、忘れることじゃない。折れたまま、立つことだ」


 三曹は、泥のついた拳を握った。


「立ちます」


「よし。次の検索に入る」


 遠くで、ヘリの音がした。


 空からの救助が始まろうとしていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時十分。


 海上自衛隊呉基地では、津波警報と港湾被害の確認に追われながら、出動可能な艦艇の準備が進められていた。岸壁の安全確認、燃料、医療資材、毛布、水、非常食。出港できる艦は限られる。だが、海からしか届かない地域が必ず出る。


 航空自衛隊築城基地、小松基地では、滑走路点検と航空機の被害確認が行われていた。輸送機、救難ヘリ、偵察機。津波、余震、燃料、気象、空域調整。すべてが制約だった。


 それでも、動けるものから動く。


 防衛省では、小森防衛大臣が米軍との連絡、各方面隊、統合運用、自治体要請の整理を続けていた。


「現場に命令を詰め込みすぎるな。優先順位を三つに絞る。人命救助、孤立確認、医療搬送」


 統幕の幹部が答える。


「了解」


「遺体収容は重要だ。しかし今は生存者優先です。現場が心を削られる。交代とメンタルケアの準備も同時に」


「発災当日からですか」


「発災当日だからです」


 小森は、画面に映る現場映像を見た。泥の中を走る隊員。瓦礫の上で叫ぶ消防隊員。手を合わせる住民。泣きながら担架を運ぶ若い自衛官。


 彼は、小さく呟いた。


「彼らを壊してはならない」


 それは、防衛大臣としての命令であり、人間としての祈りでもあった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時三十分。


 官邸には、各国からの支援申し出が入り始めていた。米国、台湾、欧州各国。だが、この時点ではまだ受け入れ調整に入る余裕は少なかった。国内の被害把握だけで、政府中枢は限界に近かった。


 高嶺紗枝は、三度目の関係閣僚会議で言った。


「海外支援は、受けます。ただし、受け入れ拠点を整理してからです。混乱した被災地へ無秩序に入れれば、救助の妨げになる」


 羽鳥が答えた。


「横田、岩国、佐世保、横須賀、座間、福岡、広島、小松を候補に調整します」


「台湾、欧州、米国、それぞれの支援内容を整理。医療、輸送、物資、救助犬、通信。必要なものから」


 橘官房長官が確認した。


「総理、午後二時に再度会見を」


「行います」


「被害数はまだ出せません」


「出せないと言います。分からないことを分かったように言う方が危険です」


 高嶺は、画面の中の赤い警報範囲を見た。


「ただし、国民には伝えます。これは始まりであり、まだ終わっていないと」


 その言葉は、会議室に重く落ちた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後二時。


 地震発生から九時間近くが過ぎていた。


 太平洋沿岸の多くの地域では、津波警報、大津波警報が継続していた。第一波、第二波、第三波。高さも到達時刻も場所によって異なり、引き波と押し波が港や湾の地形で複雑に増幅していた。


 被害の全容は、まだ誰にも見えていない。


 高知の高台で、井ノ口は、助けられなかった男性のいた坂の下を見ないようにしながら、避難者に水を配っていた。手は震えていたが、声は出た。


「一口ずつ飲んで。まだ下りたらいかん」


 徳島では、高校生が背負って逃げた老婆の隣で、膝に手をついて泣いていた。老婆はその背中を撫でた。


「ようやった。あんたが背負ってくれたけん、私はここにおる」


 和歌山では、民宿の主人が人数表を握りしめ、足りない一名の欄に印をつけられずにいた。


 静岡では、市職員が泣きながら電話を取り続けていた。


 宮崎では、成瀬一尉の部隊が、余震と津波の合間を縫って、次の屋根へ向かっていた。三曹は先頭ではない。だが、列の中にいた。泥だらけの顔で、前を見ていた。


 森下陸曹は、救助した女性を搬送した後、班長に叱られた言葉を胸に刻みながら、次の倒壊家屋へ走っていた。


 T大学では、青見怜一が、モーメントマグニチュード9・0という値を見つめていた。予測ではなく、現実として表示された数字だった。


 彼は、声に出さずに言った。


 間に合った人がいる。


 間に合わなかった人がいる。


 科学は、その差を少しでも縮めるためにある。


 官邸会見室で、高嶺紗枝首相は、演台に立った。顔には疲労があった。だが、目は伏せなかった。


『南海トラフ巨大地震の発生から、まもなく九時間となります。被害の全容は、まだ分かっていません。津波は今も繰り返し襲来しています。沿岸部の皆様は、絶対に戻らないでください。政府は、自衛隊、警察、消防、海上保安庁、自治体、医療機関とともに、人命救助に全力を挙げています』


 彼女は、短く息を吸った。


『今、現場では、救えた命と、救えなかった命の間で、多くの人が苦しみながら、それでも次の命へ向かっています。どうか、避難を続けてください。どうか、公式情報に従ってください。どうか、生き延びてください』


 その声は、停電した地域には届かなかったかもしれない。


 通信の途絶えた避難所には届かなかったかもしれない。


 だが、届いた場所では、人々が画面を見つめた。


 そして、泥の中で救助を続ける自衛官たちは、その言葉をまだ知らないまま、次の声を探していた。


「誰かいますか!」


「自衛隊です!」


「聞こえたら、音を出してください!」


 余震がまた、地面を揺らした。


 彼らは一度身を低くし、瓦礫の音を聞いた。


 揺れが収まる。


 立ち上がる。


 また叫ぶ。


「誰かいますか!」



 午後二時。


 南海トラフ巨大地震は、まだ終わっていなかった。


 救助も、まだ終わっていなかった。


 そして、誰もが知っていた。


 本当の長い戦いは、ここから始まるのだ。


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