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第二話 猶予

 八月八日、午前一時。


 宮崎県内の夜は、眠りを拒んでいた。体育館の床に敷かれたブルーシートの上で、避難者たちは横になっていたが、誰も深く眠ってはいなかった。余震のたびに、誰かが上体を起こす。ペットボトルの水が揺れる。天井から吊られた照明が、わずかに軋む。


 日向灘で発生したマグニチュード7・5、最大震度6強の地震から一日半。大きな津波被害こそ避けられたものの、宮崎県南部では家屋倒壊、道路損傷、港湾施設の被害、土砂災害、断水、停電が続いていた。


 そして、何より人々を重く押さえつけていたのは、南海トラフ地震臨時情報、巨大地震注意という言葉だった。


 避難所の隅で、老女が小さく呟いた。


「注意って言われても、何を待てばいいとかね」


 隣にいた娘が、母の背にタオルをかけた。


「待つんじゃないよ。逃げる準備をしておくんだって」


「でも、逃げるって、どこまで」


 娘は答えられなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 同じ時刻、東京のT大学地震火山研究センターでは、青見怜一(あおみれいいち)が再び椅子に座り直していた。研究室の蛍光灯は半分だけ落としてある。机の上には冷めたコーヒー、床には昨日落ちた本がまだ数冊転がっていた。


 大型モニターには、日向灘から豊後水道(ぶんごすいどう)、四国沖にかけての震源分布が表示されている。余震は、単純に日向灘の中だけで収まってはいなかった。小さな点が、北東側にじわじわと増えている。


 青見は、それを見ながら、眠気ではなく別の重さを感じていた。


 日向灘の地震が、南海トラフ想定震源域の西端で終わるのか。豊後水道沖へ応力を渡すのか。さらに南海、東南海、東海へと、巨大な割れ残りを呼び起こすのか。


 答えはまだない。


 だが、沈黙はすでに変質していた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前三時四分。


 最初の揺れは、大分県佐伯市で小さく感じられた。眠りの浅い人が、布団の中で目を開ける程度の揺れだった。


 数分後、気象庁の自動震源決定システムに、豊後水道を震源とする小さな地震が記録された。



 午前三時四分

 震源地 豊後水道 暫定マグニチュード3・6 最大震度2



 青見の画面にも、それは表示された。


 彼は椅子から身を起こした。


「豊後水道――」


 その二十分後、再び揺れた。



 午前三時二十四分

 震源地 豊後水道 暫定マグニチュード4・1 最大震度3



 さらに、午前三時四十七分。



 午前三時四十七分

 震源地 豊後水道 暫定マグニチュード3・8 最大震度2



 研究室の隣で仮眠を取っていた藤崎が、毛布を肩にかけたまま戻ってきた。


「先生、豊後水道ですか」


「始まったかもしれない」


「日向灘の余震域の延長ですか」


「それならまだいい」


 青見は、画面を指した。


「問題は、これがプレート境界面の応力調整として、北東へ移っているように見えることだ」


「南海側へ、ですか」


「そう見える。見えるだけかもしれない。だが、見えてしまった以上、無視はできない」


 青見は気象庁の緒方慎吾へ電話を入れた。呼び出し音は一度で切れた。


『こちらでも見ています』


「群発化する可能性があります」


『午前四時に評価班を再招集します。官邸にも上げます』


「巨大地震注意の解除判断は遠のいた、と考えた方がいい」


『同じ見解です』


 電話越しの緒方の声には、疲労が滲んでいた。だが、その下にある緊張は、昨日より鋭かった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前四時十分。


 官邸危機管理センターに、羽鳥真紀(はとりまき)危機管理監が入った。仮眠室から呼び戻されたばかりの顔だったが、目は完全に覚めていた。


「豊後水道で群発傾向です」


 当直の内閣官房職員が、画面を切り替えた。


「午前三時以降、マグニチュード3台から4台の地震が連続しています。大きな被害情報はありませんが、大分、愛媛、高知の一部で揺れを感じています」


「気象庁は」


「評価班を再招集。青見委員も連絡済みです」


 羽鳥は数秒だけ画面を見つめ、すぐに指示を出した。


「総理に上げます。防衛省、国交省、消防庁、警察庁、海保にも共有。四国、九州東岸、豊後水道沿岸の自治体には、夜明け後の防災体制強化を促してください」


「総理を起こしますか」


「起こします」


 羽鳥は言い切った。


「これは、眠っていい情報ではありません」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前四時三十分。


 高嶺紗枝(たかみねさえ)首相は、防災服の上着を羽織りながら、執務室から危機管理センターへ向かった。歩きながら、羽鳥の説明を聞く。


「日向灘地震後、豊後水道で群発地震が始まっています。現時点では最大震度3、被害なし。ただし、震源分布が北東側へ広がる可能性があります」


「南海側への連鎖を示すものですか」


「評価中です。青見教授は、断定できないが無視できない、との見解です」


「臨時情報の扱いは」


「巨大地震注意は継続。追加解説情報を出す方向で気象庁が準備しています」


 高嶺は歩調を緩めなかった。


「自治体には」


「大分、愛媛、高知、徳島、和歌山、三重、愛知、静岡の沿岸自治体に再確認を促します」


「観光地と宿泊施設にも伝えてください。夜明け後、海岸で朝日を見る客が出ます。絶対に海沿いへ誘導しないように」


「はい」


 危機管理センターに入ると、壁面の大型画面に震源分布が映っていた。赤い点が日向灘に密集し、そこから豊後水道側へ細い尾を引くように伸びている。


 高嶺は、その点の列をしばらく見た。


「地面が、こちらの都合を見てくれることはないですね」


 誰も返事をしなかった。


 首相は、静かに続けた。


「だから、人間の側が先に動くしかない」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時。


 豊後水道沿岸の町は、不穏な朝を迎えた。


 大分県佐伯市の港では、漁師たちが船を見に来ていた。地震そのものによる被害はほとんどなかったが、日向灘の地震と巨大地震注意の後で、誰も海を普段どおりには見られなかった。


「今朝は出るのやめとくか」


「でも、ずっと休むわけにもいかん」


「南海トラフ注意って、いつまで続くんか」


「気象庁が一週間って言いよったろ」


「一週間も海に出んかったら、食っていけんぞ」


 会話は、港の湿った空気に溶けた。


 愛媛県愛南町では、防災無線が流れた。


『こちらは防災愛南です。南海トラフ地震臨時情報、巨大地震注意が発表されています。沿岸部にお住まいの方は、避難場所と避難経路を確認してください。高齢者や避難に時間のかかる方は、早めの避難についてご家族と相談してください』


 高知県黒潮町では、役場職員が夜明け前から避難所の鍵を確認していた。町の人々は、訓練で何度も聞いてきた。大きな揺れの後、津波はすぐ来る。猶予は少ない。考えるより早く、高台へ走れ。


 だが、巨大地震注意の段階では、走るべきか、待つべきか、判断が難しかった。


 保育園の園長が、役場へ電話した。


「今日は開けるべきでしょうか」


 職員は、数秒黙った。


「町として休園を一律に求めてはいません。ただ、保護者には避難経路と迎えの方法を確認してください。揺れたら、迷わず高台です」


「分かりました」


 電話を切った園長は、園庭の向こうに見える海を見た。


 美しい海だった。


 美しいからこそ、恐ろしかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時三十分。


 気象庁は、南海トラフ地震関連解説情報を発表した。



  ――――

  南海トラフ地震関連解説情報

  豊後水道で地震活動が増加

  巨大地震注意は継続

  今後の情報に注意

  ――――



 テレビ各局は一斉に速報を流した。ネットニュースは、見出しを競った。



   《豊後水道で群発地震 南海トラフとの関連は》

   《巨大地震注意継続 お盆の帰省に影響拡大》

   《政府、沿岸自治体に備え強化要請》

   《専門家「予知ではないが備えを」》



 SNSでは、再び不安が噴き上がった。



   《豊後水道まで揺れ始めた。これ本当に連動するやつでは。》


   《怖すぎる。帰省やめる。》


   《帰省やめられない人もいる。煽らないで。》


   《政府は危険を隠してる。もう避難命令を出すべき。》


   《避難命令ってどこに? 日本全部? 落ち着こう。》


   《海沿いの宿をキャンセルした。宿には申し訳ないけど子どもがいるから。》


   《観光業を殺す気か。高嶺政権は補償しろ。》


   《補償は必要。でも命が先。》



 青見は、気象庁の記者説明に同席し、短くコメントを求められた。


『豊後水道の地震活動増加は注視すべき現象です。ただし、これだけをもって南海トラフ巨大地震が必ず発生すると言うことはできません。重要なのは、起きるか起きないかを賭けることではなく、起きても命を守れる状態にすることです』


 その言葉は、再び切り抜かれて広がった。


 だが、広がる言葉は、いつも正確に届くとは限らない。



   『T大学教授、南海トラフが起きると認める』

   『専門家が本震示唆』

   『青見教授「起きても命を守れる状態に」』



 見出しは、言葉の一部だけを持ち去っていく。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月九日、午前五時五十分。


 宮崎の空は、薄く白んでいた。日向灘の余震は少しずつ減っていたが、豊後水道の小さな揺れは断続的に続いていた。


 官邸では、早朝の関係閣僚会議が開かれた。


 羽鳥が報告した。


「豊後水道の群発地震は、夜間も継続。最大は暫定マグニチュード4・4、最大震度3。被害報告はありません。南海トラフ巨大地震注意は継続。沿岸自治体では、避難所確認、要支援者名簿確認、福祉避難所の開設準備が進んでいます」


 小森防衛大臣が続けた。


「第八師団は宮崎県内の人命救助から生活支援へ移行しつつあります。給水、入浴支援、道路啓開、物資輸送。第十四旅団は四国側の連絡態勢を維持。中部方面隊にも情報収集態勢を継続させています」


 片倉皐月(かたくらさつき)財務大臣は、資料を置いた。


「観光、交通、宿泊のキャンセルが急増しています。特に高知、和歌山、三重、静岡の沿岸宿泊施設。経済支援の枠組みを準備しなければ、自治体が政府に反発します」


 高嶺は頷いた。


「命を守る備えを促した結果として生じる損失には、政府も責任を持つべきです。予備費で対応できる部分と、補正が必要な部分を分けてください」


 片倉は即答した。


「本日中に案を出します」


 橘官房長官が、政治情勢を報告した。


「中道改革連盟が、閉会中審査を正式要求。民権民主党は協力姿勢を維持しつつ、補償の遅れを批判。立憲市民党、公明平和党、社会民主会、日本民衆共産党、れいわ新生組は、政府が危機を利用して自衛隊展開を常態化させているとの声明を出しています」


 小森が静かに言った。


「宮崎で給水している隊員に、その言葉を聞かせたくはありませんね」


 高嶺は、小森を見た。


「聞かせなくていい。必要なのは、現場が迷わない指示です」


「承知しました」


 高嶺は全員に向けて言った。


「今日から週末に入ります。お盆移動が本格化します。政府は、移動を一律に止めない。しかし、沿岸部での行動を変えてもらう。宿泊施設には避難誘導を義務ではなく強く要請する。鉄道、航空、高速道路には、混乱時の払い戻しと変更対応を求める。自治体には、要支援者への個別確認を徹底してもらう」


 羽鳥が頷いた。


「文面を整えます」


「言葉を誤らないでください。今の日本は、半分だけ非常時に入っています」


 半分だけ非常時。


 それは、誰にとっても扱いにくい状態だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月九日、午後二時。


 東京駅は、普段のお盆前よりも奇妙な混雑に包まれていた。帰省する人、予定を取りやめる人、切符を変更する人、窓口に並ぶ人、スマートフォンでニュースを見る人。構内放送は繰り返し、南海トラフ地震臨時情報への注意を呼びかけていた。


『南海トラフ地震臨時情報、巨大地震注意が発表されています。ご旅行先、帰省先の自治体情報をご確認ください。沿岸部へ向かわれるお客様は、避難場所、避難経路をご確認ください』


 新幹線の改札前で、若い父親が妻に言った。


「やっぱり、高知に帰るのやめようか」


「お義母さん、一人なんでしょ」


「だから迎えに行きたい。でも、子どもを連れて行くのが怖い」


 ベビーカーの中で眠る子どもは、何も知らない。


 妻は、画面に表示された宿泊先の地図を見せた。


「駅の近くにホテル取れたよ。海から離れてる。まずお義母(かあ)さんをそこに移そう」


「そうだな」


 人々は、それぞれの小さな判断を積み重ねていた。政府の方針、専門家の解説、自治体の呼びかけ、家族の事情、仕事の都合、恐怖、責任、後悔。それらを抱えたまま、列島の移動は止まらず、しかし確実に鈍っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十日、午前零時二十二分。


 豊後水道で、やや強い揺れがあった。


 午前零時二十二分

 震源地 豊後水道 暫定マグニチュード5・1 最大震度4


 愛媛県南予、大分県南部、高知県西部で震度4。津波の心配はないと発表されたが、深夜の揺れは人々の不安を再び引き上げた。


 高知県黒潮町の民宿では、宿泊客が廊下へ出てきた。


「今の、南海トラフですか」


 女将は、防災マニュアルを片手に答えた。


「津波の心配はないと出ています。ただ、靴を履いて、荷物はまとめておいてください。避難場所は裏の坂を上がった小学校です」


「ここ、泊まっていて大丈夫なんでしょうか」


 女将は、一瞬だけ言葉に詰まった。


「絶対大丈夫とは、言えません。でも、揺れたら私が先に走ります。皆さんは、その後をついて来てください」


 宿泊客の一人が苦笑した。


「女将さんが先に逃げるんですか」


「はい。私が逃げないと、皆さんも逃げませんから」


 その言葉で、廊下にいた数人が少しだけ笑った。恐怖を消すには足りないが、体を動かすには十分だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十日、午前九時。


 東都テレビの討論番組では、政治家たちが向かい合っていた。


 中道改革連盟の白石絵里(しらいりえり)は、政府の情報発信を批判した。


「政府は、巨大地震注意という重い情報を出しながら、国民に判断を委ねています。避難すべきなのか、移動を控えるべきなのか、もっと明確にすべきです」


 大阪維新会の若手議員が反論した。


「一律に止めれば、医療、介護、物流、帰省支援まで止まります。地域ごとの判断が必要です。政府はその線を示しています」


 民権民主党の国枝真人(くにえだまさと)は、穏やかな口調で割って入った。


「私は政府対応に協力する立場です。ただ、補償が遅い。宿泊施設、交通、観光、漁業、農業、すべて影響を受けている。高嶺総理は、備えろと言うなら、備えた人の損失も支えるべきです」


 社会民主会の議員は、自衛隊の展開を問題視した。


「災害対応を名目に、自衛隊の存在感を拡大することには慎重であるべきです」


 スタジオの空気が一瞬、硬くなった。


 久我亜紀(くがあき)は司会席で、発言者を見た。


「宮崎県では、県知事の要請に基づいて自衛隊が災害派遣されています。現地では給水、道路啓開、救助支援が行われています。それでも、存在感の拡大という表現が適切だとお考えですか」


 議員は少し言葉を探した。


「もちろん、現場の隊員の努力を否定するものではありません。ただ、政治がそれを利用してはならないという意味です」


 久我は頷いたが、次の質問を重ねた。


「政治利用への警戒と、現場支援への敬意。その二つをどう両立させるのか。今、被災地の視聴者も見ています」


 スタジオは、静かになった。


 番組後、SNSは荒れた。



   《久我さん、今日は踏み込んだ。》


   《自衛隊批判に聞こえた。今それ言う?》


   《政治利用を警戒するのは大事。でも現場への言葉が足りない。》


   《高嶺政権の支持者が災害を利用して野党叩きしてる。》


   《野党も政権批判ばかりじゃなくて避難情報を出して。》



 画面の中の言葉は、被災地の汗とは別の温度で燃えていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十日、午後四時三十分。


 宮崎県内では、自衛隊の入浴支援が始まっていた。仮設の風呂の前には、避難者が静かに並んでいた。数日ぶりに湯に浸かれるというだけで、表情が少し変わる。


 小森防衛大臣は、現地視察に入った。視察には批判もあった。大臣が来れば、現場の手が取られる。だが、小森は最小限の随行で、長い演説を避けた。


 避難所で、彼は隊員たちに短く言った。


「皆さんの働きは、必ず国に届いています。無理をしすぎないでください」


 若い隊員が敬礼した。


「ありがとうございます」


 避難者の男性が、小森に声をかけた。


「大臣さん、自衛隊の人ら、ようやってくれちょる。ちゃんと休ませてやってください」


 小森は、深く頭を下げた。


「必ずそうします」


 その場面は報道された。支持する声もあれば、パフォーマンスだという批判もあった。



   《小森大臣、現場で頭下げてた。》


   《カメラ連れて行ってる時点で政治ショー。》


   《どっちでもいい。避難所に物資が届くなら。》


   《隊員を休ませて、という被災者の言葉が重い。》



 高嶺首相は官邸でその映像を見ていた。


 彼女は、隣にいた羽鳥へ言った。


「小森さんは、現場の言葉を聞ける。そこは強い」


「はい」


「だからこそ、彼を政局の矢面に立たせすぎないように」


 羽鳥は頷いた。


「総理も、すでに十分矢面です」


 高嶺は、わずかに笑った。


「総理大臣は、そのためにいます」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十一日、午前六時。


 豊後水道の群発地震は、完全には収まっていなかった。マグニチュード3台の地震が断続的に発生し、時折、四国西部や九州東部を小さく揺らした。


 青見は、内閣府の臨時評価会合で資料を示した。


「現時点で、日向灘地震後の応力変化に伴う活動と見るのが自然です。ただし、豊後水道から南海側へ連続的に震源が移動しているように見える時間帯があり、これは注意を要します」


 内閣府の担当者が尋ねた。


「巨大地震警戒への引き上げは」


「基準には達していません。半割れと評価できる現象ではない。だが、注意の重みは増しています」


 緒方気象庁地震火山部長が補足した。


「臨時情報としては、巨大地震注意を継続し、解説情報で豊後水道の活動を説明するのが妥当です」


 青見は、資料の最後に一枚の地図を出した。南海トラフ沿岸の津波到達予想時間を示したものだった。


「問題は、仮に本震が発生した場合、津波到達が極めて早い地域があることです。日頃の備えという表現だけでは、土地勘のない帰省客や旅行者には届かない。宿泊施設、観光施設、海水浴場、道の駅、サービスエリア、フェリーターミナルで、具体的な避難先を示す必要があります」


 高嶺はオンライン画面の向こうで頷いた。


『政府広報を更新します。観光客向けの表現を増やしてください』


 青見は続けた。


「もう一つ。臨時情報が長引けば、人は慣れます。最初の二日間は怖がる。三日目から予定を優先し始める。四日目には、何も起きないじゃないかと言い始める」


 会議室の空気が重くなった。


「だから、情報発信は同じ文言の繰り返しでは足りません。毎日、行動に結びつく具体策を変えて出すべきです」


 高嶺は、短く答えた。


『分かりました。慣れとの戦いですね』


「はい。地震より先に、人の警戒心が減衰します」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十一日、午後一時。


 お盆休みに入る企業が増えた。高速道路の下り線は、例年より少ないとはいえ渋滞した。サービスエリアでは、家族連れがニュースを見ながら昼食を取っていた。


 東名、新東名、名神、山陽、九州道。日本列島の血管のような道路網を、人と物が動いていく。


 静岡県内のサービスエリアでは、巨大なモニターに防災情報が映されていた。



   『南海トラフ地震臨時情報 巨大地震注意』

   『海沿いへ向かう方は避難場所を確認』

   『強い揺れを感じたら、ただちに高台へ』

   『津波は繰り返し襲来します』



 だが、その前を通り過ぎる人の足は早かった。


「見たって怖くなるだけだし」


「まあ、何かあったらスマホが鳴るでしょ」


「宿キャンセル料かかるしな」


 青見が言った「慣れ」は、すでに始まっていた。


 同じ頃、高知県の海沿いの道の駅では、地元消防団員が観光客に声をかけていた。


「海の方へ降りるなら、避難階段の場所だけ見ておいてください」


「今、津波来てるわけじゃないですよね」


「来てから見る時間がないんです」


 観光客は、少し不満そうに頷いた。


 消防団員は、背中に汗を滲ませながら、同じ言葉を何十回も繰り返した。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十二日、午前二時十六分。


 豊後水道で再び揺れた。



 午前二時十六分

 震源地 豊後水道 暫定マグニチュード4・8 最大震度4



 高知、愛媛、大分の一部で震度4。津波の心配なし。


 しかし、この揺れは、臨時情報への慣れを一時的に引き戻した。


 深夜のSNSには、恐怖が戻った。



   《また豊後水道。眠れない。》


   《ずっと揺れてる気がする。》


   《巨大地震注意、解除どころじゃないのでは。》


   《避難所に行くべき? でも仕事がある。》


   《高知の海沿いです。車に荷物積みました。》


   《政府は何してる。》


   《政府も自治体も情報出してる。まず公式見よう。》



 官邸危機管理センターでは、夜勤の職員が追加情報を整理した。羽鳥は再び呼び出され、高嶺にも報告が上がった。


 高嶺は電話口で短く言った。


『評価は』


「現時点では巨大地震注意継続です。引き上げ基準には達していません」


『自治体への連絡は』


「済ませています」


『避難困難者への個別確認を、もう一段進めてください。明日、各知事とオンラインで話します』


「承知しました」


 電話を切った高嶺は、窓の外を見た。東京の夜は静かだった。南の海の揺れなど、何も感じさせない。


 だが、静かな場所にいる者ほど、想像力を持たなければならない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十二日、午前十時。


 全国知事会とのオンライン会議が開かれた。画面には、南海トラフ沿岸の知事たちが並んだ。宮崎県の川野知事は、目の下に濃い影を作っていた。


 高嶺首相が冒頭で述べた。


「日向灘地震への対応、そして南海トラフ巨大地震注意への備えにご尽力いただき、感謝します。政府は、自治体の判断を最大限支えます。今日は、現場で足りないものを率直に伺います」


 高知県知事が言った。


『避難困難者への個別連絡を進めていますが、人手が足りません。福祉施設の移送計画を再確認していますが、移送先も限られます』


 和歌山県知事が続けた。


『沿岸部の宿泊客への説明に苦慮しています。宿泊施設ごとに避難誘導の質に差がある。国として統一した掲示物、動画、外国語案内が必要です』


 静岡県知事は、厳しい表情で言った。


『観光業、漁業、港湾物流への影響が深刻です。備えを強めるほど損失が出る。国の財政支援を明確にしてほしい』


 片倉財務大臣が応じた。


『初動支援については予備費で対応します。キャンセル、休業、避難支援に伴う自治体負担についても、制度設計を急いでいます』


 川野宮崎県知事は、疲れた声で言った。


『宮崎は、今も日向灘地震の被害対応中です。そこに南海トラフの備えも重なっています。職員が限界に近い。応援職員の派遣をお願いします』


 高嶺は即答した。


「総務省から応援調整を出します。宮崎県には、被災自治体支援として別枠で人員を送ります」


 会議の最後、青見が専門家として発言を求められた。


『一つだけお願いします。巨大地震注意が出ている間、何も起きない日が続くほど、住民の警戒は下がります。自治体の皆さんは、同じ注意喚起ではなく、今日は家具固定、明日は避難経路、次は家族連絡、というように、行動を具体化してください。人は、何をすればいいか分かると、不安で固まらずに動けます』


 高嶺は、画面越しに青見を見た。


「政府広報も同じ方針で行きます」


 その日の午後、政府広報は大きく変わった。



   『今日確認すること』

   『寝る場所の近くに靴を置く』

   『スマートフォンを満充電にする』

   『家族の集合場所を決める』

   『沿岸部の宿泊先では避難経路を歩いて確認する』



 抽象的な「備え」ではなく、今日やる行動へ。


 その変更は、小さかったが、重要だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十二日、午後七時。


 自由保守党内では、再び不穏な動きがあった。


 榊航平(さかきこうへい)を中心とする反高嶺総裁派が、記者団に対して匿名で不満を漏らし始めていた。



   >巨大地震注意が続く中、官邸主導が強すぎる

   >党側に情報が下りてこない

   >高嶺総理は危機を使って求心力を高めている

   >お盆経済への影響を軽視している



 その夜、政治ニュースサイトに記事が出た。



   『自由保守党内に不満 高嶺官邸の災害対応「独走」批判も』



 記事は瞬く間に拡散された。



   《今それやる?》


   《党内政局きた。》


   《高嶺嫌いだけど、今は災害対応優先だろ。》


   《独走チェックは必要。危機の時ほど権力監視。》


   《宮崎の避難所見てから言え。》



 官邸で記事を読んだ橘官房長官は、深いため息をついた。


「総理、党内からも出始めました」


 高嶺は、資料に目を落としたまま答えた。


「放っておいてください」


「よろしいのですか」


「地震は、党内事情に配慮してくれません」


「しかし、発信を放置すると、野党とメディアが乗ります」


 高嶺は顔を上げた。


「反論はしません。ただ、情報共有の場は作る。与野党を問わず、災害対応の説明を行います。政局化したい人には、政局化する自由があります。こちらは、説明する責任を果たす」


 橘は頷いた。


「明朝、各党説明会を設定します」


「お願いします」


 高嶺は、再び地図に目を落とした。


 政治は人間が作る。地震は人間を待たない。


 その二つが同時に動くとき、国家の神経は試される。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十三日、午前八時。


 各党への政府説明会が開かれた。


 出席したのは、自由保守党、大阪維新会、中道改革連盟、民権民主党、立憲市民党、公明平和党、社会民主会、日本民衆共産党、れいわ新生組の代表者たちだった。


 羽鳥危機管理監が、日向灘地震の被害、豊後水道の群発地震、南海トラフ巨大地震注意の継続状況、自治体支援、自衛隊災害派遣、交通・物流・観光への影響を淡々と説明した。


 小森防衛大臣は、自衛隊の活動を説明した。


「宮崎県では、県知事要請に基づく自衛隊法第八十三条による災害派遣を継続しています。任務は人命救助、給水、入浴、道路啓開、物資輸送、医療支援です。南海トラフ沿岸地域については、現時点で大規模地震発生前の災害派遣ではなく、情報収集と即応準備です」


 社会民主会の議員が質問した。


「即応準備という名の下に、自衛隊の活動範囲が広がっているのではありませんか」


 小森は、穏やかに答えた。


「災害が起きてから部隊を確認していては間に合いません。ただし、法的根拠のない展開は行いません。自治体の要請、法律、政府判断に基づきます」


 日本民衆共産党の議員が続けた。


「危機を理由に、国民の不安を煽っているのではありませんか」


 青見が、専門家席から発言した。


「不安を煽るためではありません。不安を行動に変えるためです。南海トラフ巨大地震は、発生すれば津波到達までの時間が極めて短い地域があります。事前に避難経路を確認していなければ、揺れてからでは間に合わない人が出ます」


 中道改革連盟の白石が尋ねた。


「青見先生、巨大地震が起きる可能性は高いのですか」


 青見は、静かに答えた。


「平常時より相対的に高い。しかし、いつ起きるか、必ず起きるかは言えません」


「それでは政治は判断できません」


「違います。政治は、不確実だからこそ判断するのです」


 会議室が静まり返った。


 高嶺首相は、青見の言葉を受けて口を開いた。


「政府はリスクに基づいて動いています。批判は受けます。監視も必要です。ただし、国民の命を守る行動だけは、与野党で妨げないでいただきたい」


 民権民主党の国枝が、ゆっくり頷いた。


「政府の補償案が出るなら、我々は協議に応じます。ただし、内容は厳しく見ます」


「当然です」


 高嶺は答えた。


「厳しく見てください。その代わり、避難行動を妨げる発信は控えていただきたい」


 白石は、視線を落としたままメモを取っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十三日、午後一時。


 列島は、盆入りの直前にあった。


 寺では迎え火の準備が進み、スーパーには供花と線香が並び、駅には帰省客が戻ってきた。臨時情報への恐怖は消えていない。だが、人は日常へ戻ろうとする。たとえ足元が揺れていても、墓参りに行き、家族に会い、盆棚を整える。


 高知県黒潮町では、海沿いの集落で、住民が自主的に高台の避難所へ荷物を運び始めていた。


「今夜だけでも上で寝るか」


「何もなかったら笑われるぞ」


「笑われて済むならえい」


 その言葉に、周囲の数人が頷いた。




 和歌山県すさみ町では、民宿の主人が宿泊客に避難路を歩かせた。


「面倒かもしれませんが、一回だけ一緒に歩いてください」


「何分くらいですか」


「坂の上まで五分。津波は、場所によってはそれより早く来ると思ってください」


 静岡県御前崎市では、港の関係者が船の係留を確認していた。漁師の一人が海を見ながら言った。


「海が静かすぎる」


 隣の男が答えた。


「静かな海ほど、信用ならん日がある」




 三重県鳥羽市では、観光船の一部が運休した。愛知県豊橋市では、企業が従業員に家族の避難場所確認を促した。大阪湾沿岸では、津波到達まで時間があるとはいえ、港湾物流の担当者が非常時の荷役停止手順を再確認していた。


 日本の南側全体が、少しずつ身構えていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十三日、午後四時四十分。


 T大学の研究室で、藤崎が声を上げた。


「先生、豊後水道の活動、少し減ってきています」


 青見は画面を見た。確かに、午前中に比べると回数は減っている。マグニチュードも小さい。


 だが、青見は安心しなかった。


「減ったから安全、ではない」


「はい」


「むしろ、減った時に人が緩む」


 青見は、南海トラフ全域の固着モデルを表示した。豊後水道沖、四国沖、紀伊半島沖、遠州灘、駿河湾。それぞれの領域に、過去の地震、ひずみ蓄積、津波堆積物、地殻変動のデータが重なっている。


「藤崎、仮に南海側が先に剥がれた場合の地震動分布、もう一度出して」


「南海から東南海、東海へ連鎖するケースですか」


「そうだ」


 画面に、最悪想定のシミュレーションが表示された。豊後水道沖で始まった破壊が、四国沖を走り、紀伊半島沖、熊野灘、遠州灘、駿河湾へと進む。数分の差で、列島の揺れが変わる。


 藤崎は、唾を飲み込んだ。


「こんなの、本当に起きるんでしょうか」


 青見は、しばらく黙っていた。


「起きるかどうかは分からない。だが、起きた痕跡は過去にある。地質は、起き得ることだけを記録する」


「怖いですね」


「怖いと思えるなら、まだ正しく見ている」


 青見は、机の上のスマートフォンを見た。官邸からの着信はない。気象庁からの緊急連絡もない。世界は、まだ踏みとどまっている。


 だが、彼の胸の奥には、説明しにくい違和感が残っていた。


 大地が静かになるとき、それは終息ではなく、次の破壊の前の沈黙であることがある。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後七時三十分。


 官邸では、お盆前最後の夜間対策会議が開かれていた。


 羽鳥が報告した。


「豊後水道の群発地震は、本日午後以降やや減少。ただし、活動は継続。巨大地震注意は解除せず継続です。自治体の事前避難、要支援者確認、宿泊施設への避難経路掲示は進んでいます」


 片倉財務大臣が続けた。


「予備費による第一弾支援を決定できます。宮崎県への被災者支援、避難所環境改善、応援職員派遣費、沿岸自治体の臨時防災対応費、観光・宿泊キャンセル対応の準備費です」


 高嶺は頷いた。


「決定してください。発表は今夜」


 橘官房長官が、広報案を読み上げた。


「今夜の呼びかけは、就寝前の備えに絞ります。枕元に靴、眼鏡、薬、スマートフォン、懐中電灯。家族の居場所確認。沿岸部滞在者は、避難経路をもう一度確認」


「良いです」


 小森防衛大臣が、現地状況を報告した。


「第八師団は宮崎県内支援を継続。即応予備自衛官への事前連絡は、制度上可能な範囲で準備に入っています。予備自衛官の駐屯地警衛については、今後の大規模派遣が必要となった場合の検討です」


 高嶺が確認した。


「まだ招集ではないですね」


「はい。準備です。法的手続きなしに動かしません」


「そこは明確にしてください」


「承知しました」


 会議の終盤、青見がオンラインで呼ばれた。


「青見先生、今夜の評価は」


『巨大地震注意の継続が妥当です。豊後水道の活動低下をもって安全とは言えません。むしろ、お盆前夜で人の移動と宿泊が増える今夜は、行動確認の最後の機会と考えるべきです』


 高嶺は、ゆっくり頷いた。


「最後の機会、ですか」


『少なくとも、そういうつもりで呼びかける価値はあります』


 会議室に沈黙が落ちた。


 最後の機会。


 その言葉には、予知ではない、しかし覚悟を促す重さがあった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時五十五分。


 政府は、就寝前の備えを呼びかける緊急広報を出した。



  ――――

  政府からのお願い

  就寝前に備えを確認

  靴・薬・照明・充電

  沿岸部では避難経路確認

  ――――



 高嶺首相は、自ら短い動画メッセージを出した。


『南海トラフ地震臨時情報、巨大地震注意が継続しています。今夜、寝る前に、靴、眼鏡、薬、懐中電灯、スマートフォンの充電を確認してください。沿岸部にいる方は、避難場所と避難経路をもう一度確認してください。これは不安を煽るためではありません。いざという時に、迷わず命を守るためです』


 小森防衛大臣も、防衛省の発信で続けた。



   《自衛隊は、宮崎県での災害派遣を継続し、関係機関と連携して必要な備えを進めています。国民の皆さんは、今夜、枕元の安全を確認してください。隊員の皆さん、長期対応を見据え、休める時に必ず休んでください。》



 SNSの反応は、相変わらず割れた。



   《今夜の呼びかけ、怖い。でも靴置いた。》


   《政府がここまで言うの、逆に何か掴んでるのでは。》


   《予知ではないって何回言えば分かるんだ。》


   《高嶺首相の動画、落ち着いてて良かった。》


   《またパフォーマンス。》


   《批判は明日でいい。今日は靴置こう。》


   《高知の宿です。避難路歩いてきた。真っ暗だと迷うと思った。確認してよかった。》


   《宮崎の避難所から。みんな疲れてる。どうか何も起きないで。》



 青見は、その投稿を見て、静かに画面を閉じた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時。


 列島の沿岸部では、夜の支度が始まっていた。


 高知県黒潮町の高台避難所では、数十人が自主的に集まっていた。毛布、飲料水、薬、携帯ラジオ。子どもたちは不安そうに大人の顔を見上げ、大人たちはできるだけ普通の声で話した。


「何もなかったら、朝帰ろう」


「そうやね。何もないのが一番えい」


 和歌山県すさみ町の民宿では、宿泊客が靴を枕元に置いていた。主人は、廊下の非常灯を確認し、玄関の鍵を内側から開けやすい状態にした。


 静岡県御前崎市では、消防団員が最後の巡回をしていた。


「海岸に人影なし」


『了解。巡回終了後、詰所待機』


「了解」


 愛知県豊橋市では、家族が避難場所を確認し、母親が子どものリュックに菓子と水を入れた。


「遠足みたい」


「そうだね。でも、勝手に開けないでね」


 子どもは頷いた。


 大阪湾沿岸のマンションでは、住民がエレベーターではなく階段の位置を確認した。東京では、多くの人が南海トラフを遠い災害と思いながらも、枕元に靴を置いた。


 そして、宮崎の避難所では、日向灘地震から続く疲労の中で、避難者が再び眠ろうとしていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時。


 T大学の研究室。


 青見怜一は、椅子から立ち上がり、窓際へ歩いた。東京の夜景が遠くに見えた。光は多く、街は動いている。コンビニの明かり、走る車、ビルの窓、遠くの鉄道。


 藤崎が声をかけた。


「先生、少し寝てください」


「君こそ寝なさい」


「僕はさっき寝ました」


「二十分だろう」


「先生は寝てません」


 青見は苦笑した。


「地震学者は、地震を止められない。できるのは、止められないものを前に、人が死なないように言葉を尽くすことだけだ」


「それでも、先生の言葉で避難経路を確認した人はいます」


「そうだといい」


 藤崎は、少し迷ってから言った。


「先生は、来ると思っていますか」


 青見は、すぐには答えなかった。


 研究室のモニターには、豊後水道の震源分布が映っている。点は、午後以降少なくなっていた。だが、その沈黙は、青見には慰めにならなかった。


「思っている、とは言わない」


「はい」


「だが、来ても驚かない状態には、なっている」


 藤崎の顔が強張った。


 青見は続けた。


「それが、今言える最大限だ」


 その時、画面の端に小さな更新が入った。


 午後十一時十二分

 震源地 豊後水道 暫定マグニチュード3・2 最大震度1


 小さな地震だった。


 誰も騒がない規模だった。


 だが、青見はその点を見つめた。


 日本列島の南側で、何かがまだ、終わらずに続いている。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時三十分。


 官邸危機管理センターでは、夜間態勢への引き継ぎが行われていた。


 羽鳥危機管理監は、当直責任者に確認した。


「気象庁、内閣府、防衛省、国交省、消防庁、警察庁、海保、全回線維持。南海トラフ沿岸自治体の緊急連絡先、再確認済みですね」


「はい」


「豊後水道の活動に変化があれば、即時に上げてください。震度が小さくても、震源分布に変化があれば報告」


「了解しました」


 高嶺首相は、危機管理センターの奥で地図を見ていた。片倉財務大臣はすでに財務省へ戻り、補正と予備費の資料を詰めている。小森防衛大臣は防衛省で、部隊の休息ローテーションと即応態勢を確認している。橘官房長官は、明朝の会見資料を抱えたまま、記者対応の想定問答を読み込んでいた。


 高嶺は、羽鳥に言った。


「今夜、何も起きなければ、明日はまた緩みますね」


「はい」


「緩ませない言葉と、煽らない言葉。両方必要です」


「難しいです」


「だから、やる価値があります」


 首相は、画面の南海トラフを見た。


 日向灘。豊後水道。四国沖。紀伊半島沖。熊野灘。遠州灘。駿河湾。


 すべてが、一本の見えない線でつながっていた。


 八月十三日、午後十一時三十分。


 列島は、まだ破局を知らない。


 人々は、靴を枕元に置き、スマートフォンを充電し、家族の寝息を聞きながら、どうか何も起きないでほしいと願っていた。


 海は暗く、静かだった。


 そして、その静けさの下で、巨大な境界面は、最後の沈黙を深めていた。


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