第一話 前震
八月五日。宮崎市の空は、朝から湿り気を含んでいた。雲は薄く、青は見える。それでも海から吹く風には、台風前のような重さがあった。
青見怜一は、T大学地震火山研究センターの自室で、昨日から続く日向灘南部の微小地震活動を眺めていた。画面には、観測点ごとの波形、全球測位衛星システムの変位、海底地震計の信号、気象庁と防災科研から共有された暫定値が並んでいる。
夏季休暇中のキャンパスは静かだった。学生の多くは帰省し、研究室に残っているのは院生が二人だけだった。廊下の空調音が、サーバーラックの低い唸りと重なる。
「先生、日向灘の低周波イベント、昨日の夜から少し増えてませんか」
院生の一人、藤崎がコーヒーを片手に画面を覗き込んだ。
青見は、眼鏡の位置を直した。
「増えている。ただ、これだけで大地震が来るとは言えない」
「南海トラフですか」
「言えない。だが、無視はできない」
青見は、言葉を区切った。地震学者にとって最も危うい言葉は「来る」でも「来ない」でもない。「分かる」と言い切ることだった。
日向灘は、南海トラフ想定震源域の西端にあたる。過去にも大きな地震を繰り返してきた。フィリピン海プレートが沈み込み、陸側プレートがひずみを蓄える。日向灘の破壊が、ただの日向灘で終わるのか。それとも、南海、東南海、東海へと連鎖する引き金になるのか。それは、観測が発達した今でも、断言できる領域ではなかった。
窓の外では、蝉が鳴いていた。
青見は、机の端に置いた紙の資料に目を落とした。二〇二四年八月八日の日向灘地震。そのとき、初めて南海トラフ地震臨時情報、巨大地震注意が出された。あれから数年。行政の訓練は増えた。自治体のタイムラインも更新された。だが、人の記憶は薄れる。備蓄は減る。避難経路の確認は後回しになる。
そして、今年もお盆が近づいていた。
☆☆☆ ☆☆☆
同じ日の午後、東京・永田町。
官邸の執務室で、高嶺紗枝首相は、内閣危機管理監の羽鳥真紀から短い説明を受けていた。
「日向灘周辺で、微小地震活動と低周波イベントがやや増えています。気象庁としては、ただちに臨時情報に結びつくものではないとの見解です」
「青見先生は」
「同じです。警戒は必要。ただし、予測と受け取られる表現は避けるべきだと」
高嶺は、小さく頷いた。机上には、翌日の経済対策の資料、防衛省からの報告、地方創生に関する政策ペーパーが積まれていた。だが、災害の報告が入ると、紙の重さは急に変わる。
「お盆前です。帰省、旅行、海水浴、港湾物流、全部重なります」
「はい」
「だからこそ、言葉は慎重に。だが、備えの呼びかけは前倒しで」
羽鳥は、手帳に書き込んだ。
「防災担当大臣、国交省、消防庁、警察庁、海上保安庁、防衛省に、明朝までに確認を出します」
「防衛省は小森さんに直接。現場に余計な緊張を与えないように。ただし、初動確認だけは怠らないでください」
高嶺は、少しだけ窓の外を見た。東京の夕方は、白く霞んでいた。災害は、政治日程を待たない。政権批判も、世論調査も、国会対策も、ひとたび地面が動けば、すべて後景に退く。だが、その後景に退いたはずのものが、災害の最中に再び前へ出てくることを、高嶺はよく知っていた。
☆☆☆ ☆☆☆
八月六日、午前七時二十分。
宮崎市内の通勤道路は、まだ夏休みらしく、普段より少しだけ車が少なかった。小中高校は休みに入り、大学生も帰省やアルバイトに散っている。だが、会社員、公務員、物流、医療、介護、観光業は通常どおり動いていた。
宮崎港では、フェリーの荷役作業が進んでいた。日南海岸では、朝の海を撮る観光客がいた。青島の土産物店では、開店準備のシャッター音が響いた。
その頃、T大学では、青見が再び波形を見ていた。
午前中に入ってから、日向灘の深部低周波微動が、わずかに東へ移動しているように見えた。偶然かもしれない。観測ノイズかもしれない。だが、複数の観測網で似た傾向が出ていた。
青見は、気象庁の緒方慎吾に電話を入れた。
「青見です。日向灘南部、昨日より浅部側の応答が少し強い」
『こちらでも見ています。ただ、判断にはまだ弱い』
「同意します。だが、委員には共有しておいた方がいい」
『昼前に非公式で投げます。官邸にも、注意喚起レベルで上げます』
「予測ではなく、備えの確認として」
『ええ。そこは絶対に外しません』
電話を切った青見は、椅子の背に体を預けた。
彼は地震を恐れているのではない。恐れているのは、人間が不確実性を都合よく解釈することだった。危ないと言えば、予知だと騒ぐ。安全だと言えば、保証だと誤解する。科学者は、その間の狭い橋を渡らなければならない。
☆☆☆ ☆☆☆
午後二時二十八分。
最初の揺れは、宮崎市内の多くの人にとって、縦に突き上げる一撃として感じられた。
県庁の記者クラブでは、棚のファイルが跳ねた。日南市の民家では、台所の食器棚が音を立てて開いた。串間市の港では、係留ロープがぎしりと鳴り、岸壁にいた作業員が反射的にしゃがみ込んだ。
数秒後、横揺れが来た。長く、重く、床全体が海の上に浮いたように揺れた。
宮崎市中心部の交差点で、信号機が大きく揺れた。車が次々に停まった。バスの運転士が乗客に声を張った。
「頭を守ってください! 停車します!」
T大学の研究室では、青見のスマートフォンが震え、同時に研究室内の端末が警報音を鳴らした。
――――
緊急地震速報
宮崎県 震度6強
強い揺れに警戒
――――
青見は机の下に身を沈め、片手で端末の落下を押さえた。棚の本が何冊も床に落ち、ホワイトボードの磁石が跳ねた。
長い。
青見は、息を止めるように数えた。
一、二、三、四、五。
まだ続く。
これは、内陸の直下型ではない。海溝型の、広い面が動いている揺れだ。
やがて揺れが弱まり、天井の照明だけが遅れて揺れ続けた。研究室の院生が顔を上げた。
「先生……」
「怪我は」
「大丈夫です」
「余震に備えろ。出口を確保。火は使うな」
青見は、すぐに端末へ向かった。画面の自動解析が更新されていく。震源は日向灘。深さは浅すぎない。だが、規模が大きい。
震源域の西端だけではない。南北にかなり広い。
暫定値が出た瞬間、青見は喉の奥が乾くのを感じた。
午後二時二十八分
震源地 日向灘 暫定マグニチュード7・5 最大震度6強
研究室のテレビが自動で切り替わった。画面には、赤い帯が走った。
――――
ニュース速報
日向灘で強い地震
宮崎県で震度6強
沿岸部は津波に注意
――――
キャスターの声が震えていた。
『宮崎県で震度6強を観測する強い地震がありました。気象庁は宮崎県、鹿児島県東部、大分県豊後水道沿岸、高知県、愛媛県宇和海沿岸に津波注意報を発表しています。沿岸部や川沿いにいる方は、ただちに海岸から離れてください』
青見は、椅子に座らず、立ったままキーボードを叩いた。震源メカニズムの自動解は逆断層型を示している。プレート境界型である可能性が高い。
「藤崎、委員会共有フォルダを開け。津波観測、GNSS、ひずみ計、全部時系列で並べろ」
「はい」
青見のスマートフォンが鳴った。緒方だった。
『青見先生、臨時会合の準備に入ります』
「当然です。これは南海トラフ想定震源域の西端にかかっている」
『官邸にも上げました。まず調査中を出します』
「評価は慎重に。だが、巨大地震注意の可能性は高い」
『分かっています』
電話越しに、気象庁の会議室が騒然としている気配が伝わった。
青見は窓の外を見た。東京の空は何も変わっていない。だが、日本列島の南側で、巨大な岩盤が一枚、音もなくずれた。
☆☆☆ ☆☆☆
宮崎県庁では、災害対策本部の設置が宣言された。天井の一部が落ち、廊下には書類とガラス片が散っていた。職員たちはヘルメットを被り、発電機の確認、通信回線の確保、市町村との連絡に追われていた。
川野修三知事は、防災服の襟を正し、電話を取った。
「防衛省につないでください」
秘書が頷き、数十秒後、回線がつながった。
「宮崎県知事の川野です。県内で震度6強を観測。沿岸部に津波注意報。道路寸断、家屋倒壊、土砂災害の恐れがあります。自衛隊法第八十三条に基づき、災害派遣を要請します」
『承りました。防衛大臣に上げます。第八師団を基幹に初動を開始します』
知事は電話を切ると、県幹部に向き直った。
「日南、串間、宮崎市南部、都城、三股、高原の被害確認を急げ。海岸部には絶対に戻らせるな。消防、警察、海保と連携。避難所の開設状況を十五分ごとに」
職員の一人が叫んだ。
「日南市、一部でブロック塀倒壊。けが人複数!」
「串間市、港湾部で液状化らしき報告!」
「宮崎市、エレベーター閉じ込め多数!」
県庁の大型画面には、赤と黄色の震度分布が表示されていた。日向灘に面した宮崎県南部が、濃い色で塗りつぶされている。
☆☆☆ ☆☆☆
東京・防衛省。
小森進一防衛大臣は、執務室を出ると同時に、統合幕僚監部からの報告を受けた。
「宮崎県知事から災害派遣要請。第八師団、初動対処に移行。第十四旅団は四国側の警戒と応援準備。航空偵察、海上からの被害確認も調整中です」
「隊員の安全確認は」
「各駐屯地、確認中。大きな被害報告は現時点でありません」
「現地に入る部隊には、津波注意報下の沿岸活動制限を徹底。命を救うために隊員の命を失わせるな」
「了解」
小森は、自分のスマートフォンを手に取った。防衛省公式アカウントで発信する文面が秘書官から示された。
「硬い。もっと現場に届く言葉にしてください」
秘書官が目を上げた。
「大臣ご自身で」
「書きます」
小森は短く打った。
《防衛省・自衛隊は、宮崎県知事からの災害派遣要請を受け、ただちに初動対応を開始しました。沿岸部では津波に注意し、避難指示・自治体情報に従ってください。現場の皆さん、まずは命を守る行動を。隊員の皆さん、安全を確保し、一人でも多く救うため冷静に任務を遂行してください。》
投稿は、数分で広がった。
《自衛隊もう動いてる。ありがたい。》
《大臣の投稿が早い。現場の人に届いてほしい。》
《政府の宣伝だろ。まだ被害も分からないのにアピールだけ早い。》
《こういう時に政権批判するな。避難情報を流せ。》
《宮崎の海沿いです。津波怖い。高台に来ました。みんな海を見に行かないで。》
SNSは、早く、軽く、そして残酷だった。正しい情報も、怒りも、嘘も、祈りも、同じ速度で流れていく。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時十分。
官邸危機管理センターに、高嶺首相が入った。防災服に着替えたばかりの首相の表情は硬いが、声は落ち着いていた。
「人的被害は」
羽鳥危機管理監が答えた。
「現時点で重傷者複数。死者情報は確認中です。宮崎県南部を中心に家屋倒壊、道路損傷、土砂崩れの通報。津波は宮崎県沿岸で最大一・五メートル程度を想定。港湾部は立入禁止措置が必要です」
「電力、水道、通信」
「一部停電。携帯回線は輻輳。固定回線も地域によって不安定です」
「自衛隊」
小森防衛大臣が画面越しに応答した。
『宮崎県知事要請に基づき、第八師団が出動。第十四旅団は応援準備。航空偵察は天候と津波注意報の状況を見て開始します。海自は沿岸被害確認の準備に入っています』
「警察、消防、海保と重複しないよう調整を」
『統幕で一元化します』
高嶺は頷き、次に気象庁の緒方を見た。
「南海トラフ臨時情報は」
『気象庁として、南海トラフ地震臨時情報、調査中を発表します。その後、評価検討会を開催し、発生した現象と南海トラフ巨大地震との関連性を評価します』
「巨大地震注意の可能性は」
『現時点では評価中です。ただし、震源域、規模、発震機構を踏まえれば、その可能性は十分あります』
会議室の空気が、さらに重くなった。
片倉皐月財務大臣が口を開いた。
「予備費の即時使用は可能です。被災自治体へのプッシュ型支援も、規模を見ながら準備します。ただ、南海トラフ臨時情報が出た場合、全国の港湾、鉄道、道路、宿泊施設、物流に影響が出ます。経済影響の試算は早めに必要です」
高嶺は、片倉の方を見た。
「命が先です。経済は、そのために支える」
「承知しています」
「ただし、買い占めと流言は止める必要があります」
官房長官の橘が資料をめくった。
「会見で、備蓄確認、家具固定、避難場所確認、海岸部への接近禁止を呼びかけます。鉄道、航空、高速道路各社には、混乱を避ける表現で情報発信を依頼します」
「臨時情報が出れば、お盆移動にも影響します」
「はい。そこを野党と一部メディアが突いてくる可能性があります」
高嶺は、わずかに眉を動かした。
「政局にするなら、する人が責任を負えばいい。私たちは人命を守る」
誰も反論しなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時四十分。
東都テレビの報道フロアでは、久我亜紀が原稿を受け取っていた。政治部の彼女は、本来なら夕方の番組で高嶺内閣の経済政策を批判的に解説する予定だった。だが、日向灘の地震で番組構成は一変した。
編集デスクが叫んだ。
「政府会見、官房長官がまもなく入る。気象庁も後で会見。宮崎支局、映像は」
「日南の映像が入ります。道路に亀裂。商店街でガラス破損」
「津波の映像は使うな。海岸に近づけるなというテロップを常時」
久我は、手元のメモに目を落とした。番組プロデューサーからの指示が書かれている。
>政府の初動の遅れがなかったか確認
>南海トラフ臨時情報の発表基準を厳しく聞く
>お盆移動への影響、国民生活への混乱を質問
>高嶺首相の危機管理能力に焦点
久我は、ペンを止めた。
初動の遅れ。発表基準。混乱。危機管理能力。
どれも聞くべきことではある。だが、今この瞬間、宮崎では余震の中で救助を待つ人がいる。港で津波を見に行こうとする人を止めている消防団員がいる。電話がつながらず、家族の安否を探している人がいる。
久我は、原稿の一部を線で消した。
☆☆☆ ☆☆☆
午後四時五分。
気象庁は、南海トラフ地震臨時情報、調査中を発表した。
テレビ、ラジオ、ニュースアプリ、駅の電光掲示板、自治体の防災無線が、一斉に同じ言葉を流した。
――――
南海トラフ地震臨時情報
調査中
日向灘の地震との関連を評価
今後の情報に注意
――――
駅のホームで、スマートフォンを見た人々が足を止めた。
「南海トラフって、これ来るの?」
「お盆帰省、やめた方がいいのかな」
「調査中って何? 危ないの? 大丈夫なの?」
「二〇二四年にも出たやつだよね」
「でも今回は震度6強だって」
大阪駅、新大阪駅、名古屋駅、東京駅、博多駅。人の流れは、目に見えて遅くなった。新幹線の改札前では、駅員に質問が集中した。航空会社の予約サイトにはアクセスが殺到した。
《南海トラフ臨時情報って何? 明日から帰省なんだけど。》
《調査中だからまだ避難しろって意味じゃない。落ち着いて公式見よう。》
《政府が隠してる。これは本震の前兆。今すぐ西日本から逃げろ。》
《デマを流すな。避難が必要な地域とそうでない地域がある。》
《宮崎の友達と連絡つかない。お願いだから回線を安否確認以外で使いすぎないで。》
青見は、研究室でSNSの流れを見て、深く息を吐いた。
「デマの速度が、観測データの処理速度を超えている」
藤崎が言った。
「先生、テレビ出演の依頼が三件来ています」
「断るな。一本だけ受ける。ただし、生放送で、予知ではないことを最初に言わせてもらう」
「どこにしますか」
「一番視聴者が多いところだ」
「東都テレビです」
青見は、少しだけ嫌そうな顔をした。
「久我さんの番組か」
「はい」
「なら、出る。彼女は質問が鋭いが、科学の言葉を切り取るタイプではない」
藤崎は頷き、連絡を入れた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後五時二十分。
官房長官の橘義隆が、官邸会見室に入った。記者席は満席だった。テレビカメラが並び、シャッター音が重なった。
『まず、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。政府は、午後二時二十八分の日向灘を震源とする地震を受け、官邸危機管理センターにおいて情報収集体制を強化し、宮崎県からの要請に基づく自衛隊の災害派遣を含め、関係機関が一体となって対応に当たっています』
橘は、用意された紙から目を上げた。
『沿岸部の皆様は、津波注意報が解除されるまで海岸や河口付近に近づかないでください。また、揺れの強かった地域では、倒壊した建物、崖、ブロック塀、電柱、切れた電線に近づかないでください』
質問が飛んだ。
「南海トラフ巨大地震が発生する可能性が高まったという認識ですか」
『気象庁が評価中です。政府としては、科学的評価に基づき、必要な情報を速やかにお知らせします』
「お盆の帰省は中止すべきですか」
『現時点で全国一律に移動中止を求めるものではありません。ただし、沿岸部に滞在予定の方、高齢者や障害のある方、乳幼児と移動される方は、避難場所、避難経路、連絡手段を確認してください』
「政府の初動が遅れたのでは」
会見室にざわめきが走った。橘は、記者を見た。
『発災直後から官邸危機管理センターで情報収集を開始し、宮崎県知事からの要請に基づき自衛隊が出動しています。現場では今も救助活動と被害確認が続いています。政府としては、遅れがないよう全力を尽くしています』
別の記者が続けた。
「高嶺総理は、なぜ自ら会見しないのですか」
『総理は現在、関係閣僚会議において対応を指揮しています。必要な段階で、総理自ら国民の皆様に説明します』
久我亜紀は、テレビ局の控室でその会見を見ていた。プロデューサーが不満げに言った。
「逃げた感じで行けるな」
久我は、画面から目を離さずに答えた。
「今は逃げたかどうかより、何を決めているかです」
「亜紀さん、今日どうしたの」
「宮崎に人がいるんです」
それだけ言って、久我はスタジオへ向かった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後六時三十分。
日向灘沿岸では、津波の第一波が観測されていた。予測された高さより極端に大きいものではなかったが、一・五メートル級の波は、港湾部では十分に危険だった。
油津港では、岸壁の一部にひびが入り、浮桟橋が歪んでいた。漁船のロープが切れかけ、消防団員が怒鳴った。
「戻るな! 船は後だ! 命が先だ!」
「でも、船が流されたら生活が」
「生きてから考えろ!」
宮崎市内の避難所には、汗だくの住民が集まり始めていた。体育館の床にはブルーシートが敷かれ、段ボールベッドが倉庫から運び出された。夏の避難所は、暑さとの戦いでもあった。高齢者の脱水、乳幼児の体調、持病の薬、車椅子の動線、ペットの受け入れ。災害は、揺れが収まってから、別の形で人を追い詰める。
陸上自衛隊第八師団の先遣隊が、宮崎県庁に入った。成瀬一尉は、防災服の県職員と短く敬礼を交わした。
「第八師団連絡幹部、成瀬です。人命救助、道路啓開、給水支援、避難所支援の優先順位を確認します」
県職員が地図を広げた。
「日南市と串間市の沿岸、都城方面の土砂崩れ、宮崎市内の閉じ込め多数です。道路は国道の一部が通行止め。港湾は津波注意報解除まで活動制限」
「航空偵察は」
「県警ヘリが準備中ですが、余震と天候確認中です」
成瀬は、無線を握った。
『こちら宮崎県庁連絡班。日南・串間沿岸は津波注意報継続により沿岸接近不可。内陸側からの救助路確認を優先。都城方面の土砂災害情報を追加確認願います』
『了解。第八師団主力、道路啓開部隊を調整中。医療支援隊、待機完了』
成瀬は、壁の時計を見た。午後六時四十二分。発災から四時間余り。だが、災害対応では、最初の一日はまだ序章でしかない。
☆☆☆ ☆☆☆
午後七時十五分。
気象庁は、南海トラフ沿いの地震に関する評価検討会の臨時会合を終えた。官邸には、直ちに連絡が入った。
青見もオンラインで参加していた。顔の見える委員たちは、皆、疲れた表情をしていた。だが、結論は避けられなかった。
緒方が、ゆっくりと言った。
『今回の日向灘の地震は、南海トラフ地震の想定震源域の西端付近で発生した、プレート境界型と考えられる規模の大きな地震です。評価検討会としては、南海トラフ沿いで大規模地震の発生可能性が、平常時と比べて相対的に高まったと評価します』
青見は、目を閉じた。
相対的に高まった。
その言葉は、危険を示すが、発生時刻を示すものではない。避難を促すが、全員に逃げろという意味ではない。科学の言葉としては正確でも、社会の耳には曖昧に聞こえる。
そして、その曖昧さこそが、臨時情報の難しさだった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後七時三十分。
テレビ画面に、再び赤い帯が走った。
――――
南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)
平常時より発生可能性高まる
日頃からの備えを再確認
――――
全国の空気が変わった。
大阪の家庭では、母親が押し入れから非常用リュックを出した。名古屋の会社員は、出張を取りやめるか上司に相談した。高知の漁師は、船をどうするか仲間と電話で話した。和歌山の旅館では、宿泊客に避難経路を説明する紙を配り直した。静岡の海沿いの町では、防災無線が繰り返し鳴った。
東京では、多くの人が「自分には関係ない」と思いかけ、スマートフォンの画面に表示される「南海トラフ」の文字に、少しだけ指を止めた。
《二度目の南海トラフ臨時情報。これは本当にまずいのでは。》
《巨大地震注意は、すぐ地震が来るという意味ではない。だけど備えは必要。》
《政府はもっと強く避難を命令しろ。》
《命令したらしたで強権って言うくせに。》
《高嶺政権の危機管理ショーが始まった。》
《災害を政局にするな。宮崎の情報を流して。》
《水、売り切れ。米もない。買い占めやめようよ。》
《沿岸部の祖父母に電話した。避難場所を確認できた。皆も今やって。》
情報は祈りになり、情報は凶器にもなった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後八時。
東都テレビのスタジオに、青見怜一が中継で出演した。画面の向こうで久我亜紀が姿勢を正していた。
『T大学の青見怜一教授です。青見先生、今回の「南海トラフ巨大地震臨時情報(巨大地震注意)」という情報、視聴者はどう受け止めればよいのでしょうか』
青見は、まず一呼吸置いた。
『最初に申し上げます。これは、何月何日何時に南海トラフ巨大地震が起きるという予知ではありません』
「では、安心してよいということですか」
『それも違います。今回の日向灘の地震は、南海トラフ想定震源域の西端付近で発生した大きな地震です。これによって、南海トラフ沿いの大規模地震の可能性が、普段より相対的に高まったと評価された。つまり、過度に恐れるのではなく、しかし普段より一段上げて備えるべき段階です』
「具体的には」
『沿岸部では避難場所と避難経路の確認。高齢者、障害のある方、乳幼児がいる家庭では、移動にかかる時間の確認。家具の固定。水、食料、薬、充電器、携帯トイレの確認。旅行中の方は、宿泊先で避難場所を必ず確認してください』
「お盆の帰省はやめるべきでしょうか」
『一律にやめるべきとは言えません。ただし、海沿い、津波浸水想定区域、避難に時間がかかる地域へ行く場合は、予定を見直すことも選択肢です。大切なのは、移動するかしないかを、感情ではなく情報で決めることです』
久我は、台本にない質問をした。
「先生、二〇二四年にも巨大地震注意が出ました。その時に大地震は起きませんでした。今回も、結果的に起きない可能性があります。そうなると、また空振りだったと言われるのではありませんか」
青見は、静かに答えた。
『空振りという言葉は、防災には向きません。避難して何も起きなかった。それは失敗ではなく、命が守られた一日です。ただし、社会生活や経済への影響があることも事実です。だからこそ、政府もメディアも専門家も、正確な言葉を使わなければなりません』
スタジオが一瞬、静かになった。
久我は深く頷いた。
「正確な言葉、ですね」
『はい。怖がらせすぎても、安心させすぎても、人は危険に近づきます』
放送後、SNSには青見の言葉が切り抜かれて拡散された。
《避難して何も起きなかった。それは失敗ではなく命が守られた一日。これ大事。》
《青見教授、分かりやすい。》
《結局、専門家も分からないってことだろ。》
《分からないことを分からないと言える専門家の方が信用できる。》
《東都テレビ、今日はまともだった。》
久我は、スタジオの照明が落ちた後も、青見の言葉をメモに書き残していた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後九時十分。
官邸では、関係閣僚会議が続いていた。
羽鳥危機管理監が報告した。
「宮崎県内の被害は、日南市、串間市、宮崎市南部、都城市周辺で確認が進んでいます。死者は確認中。重軽傷者多数。家屋倒壊、道路損傷、土砂災害、停電、断水。津波による大規模浸水は現時点で限定的ですが、港湾部の施設被害があります」
小森防衛大臣が続けた。
「第八師団は人命救助と道路啓開を開始。第十四旅団は高知、愛媛、徳島の自治体と連絡体制を強化。南海トラフ臨時情報を受け、中部方面隊にも情報収集態勢を指示しています。ただし、現時点では大規模地震災害特別措置法による広域派遣段階ではありません」
高嶺首相が確認した。
「法的根拠を明確に。日向灘地震は宮崎県知事要請に基づく自衛隊法第八十三条。南海トラフへの備えは、各自治体の防災対応と政府の注意喚起。まだ、発災していない地域に過剰な命令を出す段階ではない」
「はい」
片倉財務大臣が資料を差し出した。
「予備費からの初動支援、避難所物資、給水、仮設トイレ、医療支援、道路啓開に必要な額を積み上げています。お盆前で物流が逼迫します。買い占め抑制と、被災地優先配送の協力要請が必要です」
国土交通大臣が頷いた。
「高速道路、鉄道、港湾、空港に確認を出しています。南海トラフ臨時情報で西日本の観光地にキャンセルが出始めていますが、現時点では交通機関を止める判断ではありません」
橘官房長官が、別の資料を読み上げた。
「野党各党から声明が出ています。中道改革連盟は、政府の情報発信が不十分として、国会での閉会中審査を要求。立憲市民党は、巨大地震注意の発表前に官邸が何を把握していたか説明を求めています。民権民主党は、政府への協力を表明しつつ、帰省シーズンへの経済損失対策が遅いと批判。日本民衆共産党、社会民主会、れいわ新生組は、危機を利用した自衛隊展開の拡大に反対する声明です」
会議室の一角で、小森の表情が少し強張った。
「現地では隊員が瓦礫の下の人を助けています。自衛隊展開の拡大という表現は、現場を見ていない」
高嶺は、静かに言った。
「感情的に返さないでください。現場を守るために、政府は冷静であるべきです」
「承知しています」
高嶺は、全員を見渡した。
「明朝、私が会見します。国民に、巨大地震注意の意味、日向灘の被災地支援、お盆前の備え、デマへの注意を直接伝えます」
羽鳥が確認した。
「会見は午前ですか」
「午前七時半。通勤前、移動前に届く時間に」
橘が頷いた。
「準備します」
その時、危機管理センターの大型画面に、余震情報が入った。
午後九時二十六分
震源地 日向灘 暫定マグニチュード5・6 最大震度4
会議室の誰も、声を上げなかった。だが、全員が同じことを考えた。
まだ終わっていない。
☆☆☆ ☆☆☆
八月七日、午前零時。
宮崎県内の避難所では、眠れない夜が続いていた。体育館の照明は半分落とされていたが、余震のたびに誰かが起き上がった。泣く子ども。咳き込む高齢者。スマートフォンを握ったまま家族の返信を待つ若者。
日南市の避難所で、女性が隣の老夫婦に水を渡した。
「どうぞ。うちはまだありますから」
「すみませんねえ」
「いえ、こういう時ですから」
その近くで、中学生の男子がスマートフォンを見ながら言った。
「またデマだ。ダムが決壊したって」
避難所の職員がすぐに近づいた。
「どこの情報」
「知らない人の投稿です」
「公式に出てない。拡散しないで。心配なら私たちに見せて」
少年は頷き、投稿を閉じた。
外では、自衛隊車両のライトが、暗い校庭をゆっくり横切っていった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前二時十五分。
官邸危機管理センターでは、夜勤態勢に入った職員たちが、眠気を押し殺して情報を更新していた。高嶺首相は一度執務室に戻ったが、仮眠は取らなかった。
羽鳥が、新しい報告を持って入った。
「総理、宮崎県内の避難者数が増えています。熱中症リスクが高い避難所があります。空調設備が不足している体育館が複数」
「スポットクーラー、発電機、飲料水、氷。プッシュ型で」
「手配中です」
「医療は」
「DMATが展開。自衛隊医官も準備。道路状況の悪い地域があります」
「道路啓開を優先。孤立集落は」
「数か所、可能性あり。夜明け後にヘリ確認」
高嶺は、机の上の地図を見た。宮崎、日南、串間、都城。線でつながる道路の一部に赤い印が付いている。
「お盆前で、全国の自治体職員も休暇予定に入っているはずです」
「はい。総務省から、各自治体に危機管理要員の確保を依頼済みです」
「臨時情報が出た以上、南海トラフ沿岸の自治体は通常体制では足りません。けれど、過剰な避難指示で現場を壊してもいけない」
羽鳥は頷いた。
「難しい判断です」
「災害対応は、いつも難しい判断です」
高嶺はそう言って、目を閉じた。
☆☆☆ ☆☆☆
午前六時四十分。
夜が明けると、被害の輪郭が見え始めた。
宮崎県南部の山沿いでは、土砂崩れが道路を塞いでいた。古い木造家屋の倒壊、屋根瓦の落下、ブロック塀の倒壊、店舗のガラス破損。港湾部では、岸壁の沈下、液状化、倉庫の荷崩れが確認された。
陸上自衛隊の部隊は、消防、警察と連携して、倒壊家屋の検索に入った。隊員は瓦礫を一つずつ外し、声をかけ続けた。
「中に誰かいますか! 声を出せますか!」
返事はない。
成瀬一尉は、現場からの報告を県庁で受け取った。
『こちら日南検索隊。倒壊家屋一棟、内部に要救助者一名の可能性。消防と共同で進入中』
「了解。二次倒壊に注意。余震警戒」
『了解』
別の無線が入った。
『串間港周辺、岸壁亀裂。大型車両進入不可。港湾機能は一部停止』
「写真と位置情報を上げてください。海保と共有します」
成瀬は、メモを取りながら、官邸連絡用の報告を作成した。
日向灘地震そのものは、広域壊滅ではない。だが、これは単独災害では終わらない可能性がある。南海トラフ巨大地震注意が出た以上、全国の南海トラフ沿岸が、半歩だけ非常時へ踏み込んでいる。
☆☆☆ ☆☆☆
午前七時三十分。
高嶺首相は、官邸会見室の演台に立った。背後に国旗。隣に橘官房長官。少し離れて、防災担当大臣、気象庁の緒方、小森防衛大臣が並んだ。
『昨日午後二時二十八分、日向灘を震源とするマグニチュード7・5の地震が発生し、宮崎県で最大震度6強を観測しました。被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。政府は、宮崎県からの要請に基づき、自衛隊の災害派遣を開始し、警察、消防、海上保安庁、自治体、医療機関と連携して、人命救助、被害確認、避難所支援に全力を挙げています』
高嶺は、原稿から目を上げた。
『また、気象庁は「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を発表しました。これは、ただちに巨大地震が発生するという予知ではありません。一方で、平常時と比べ、南海トラフ沿いで大規模地震の発生可能性が相対的に高まったことを示す情報です』
会見室のカメラが、わずかに寄った。
『国民の皆様にお願いです。まず、被災地では自治体、警察、消防、自衛隊の指示に従い、危険な場所へ戻らないでください。南海トラフ沿岸地域にお住まいの方、帰省や旅行を予定されている方は、避難場所、避難経路、家族との連絡方法を確認してください。水、食料、薬、携帯トイレ、充電手段を確認してください。海岸や河口付近では、津波に備え、すぐ避難できる態勢を取ってください』
高嶺の声は、低く、はっきりしていた。
『不確かな情報、根拠のない予言、被災地を混乱させる投稿を拡散しないでください。災害時のデマは、人の命を危険にさらします。政府は、正確な情報を速やかに発信します』
質問が始まった。
「総理、お盆の帰省を自粛するよう求めますか」
『全国一律の自粛は求めません。ただし、沿岸部、津波浸水想定区域、避難に時間を要する地域へ移動される方は、予定変更も含めて慎重に判断してください。宿泊施設、交通機関、自治体の情報を確認してください』
「政府の呼びかけが弱いのでは」
『不必要な混乱を避けながら、必要な備えを最大限促すことが重要です。強い言葉だけが人命を守るわけではありません。正しい行動につながる言葉を選びます』
「野党から、政府の危機対応が遅いとの批判があります」
『批判は受け止めます。しかし、今この瞬間、被災地では救助と支援が続いています。政府は、政局ではなく人命を最優先に対応します』
高嶺は、最後に短く言った。
『どうか、備えてください。恐れすぎず、侮らず、命を守る行動を取ってください』
会見は全国に流れた。
《高嶺首相の会見、かなり明確だった。》
《帰省中止じゃないのか。自己責任にする気か。》
《いや、一律中止なんて無理だろ。沿岸部は避難経路確認。これが現実的。》
《デマを流すなって言ってるそばから、巨大地震が今夜来るって投稿が回ってる。》
《宮崎の避難所に水を送る方法、公式だけ見よう。》
《防衛大臣が隊員に向けて発信してるの、士気上がると思う。》
《政権擁護が気持ち悪い。災害利用するな。》
《批判も必要だけど、今は避難情報を邪魔しないで。》
日本列島は、目に見えない緊張の糸で結ばれていった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前九時。
自由保守党本部では、役員会が開かれていた。高嶺首相は官邸対応のため出席せず、党幹部が集まった。
反高嶺総裁派の榊航平は、腕を組んで発言した。
「政府対応を支えるのは当然です。しかし、巨大地震注意の発表で国民生活に影響が出ている。党として、総理に説明責任をさらに求めるべきです」
別の議員が眉をひそめた。
「今、党内政局を始める時か」
「政局ではありません。危機管理の透明性です」
「その言い方が政局だと言っている」
会議室の空気が悪くなった。
榊は、涼しい顔で続けた。
「高嶺総理は強い言葉を好む。しかし、今回のような不確実な災害では、国民の不安に寄り添う姿勢が必要です。党としても、別の発信が必要ではありませんか」
幹事長が、低い声で言った。
「榊さん。被災地では今、家の下から人を助け出している。総理を支えるかどうかではなく、政府を機能させるかどうかだ」
榊は黙った。だが、その表情は納得していなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十時二十分。
中道改革連盟は、記者会見を開いた。代表の白石絵里は、淡い色のスーツで演台に立った。
『政府の初動対応については、一定の努力を認めます。しかし、南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が発表された以上、国民生活への影響は甚大です。政府は、帰省、旅行、企業活動、学校行事、医療・介護現場への影響について、より具体的な方針を示すべきです』
記者が質問した。
「政府は全国一律の自粛を求めていません。中道改革連盟としては求めますか」
『私たちは、地域ごとのきめ細かな判断が必要だと考えます。ただし、政府が責任を曖昧にして、国民に判断を丸投げすることは許されません』
民権民主党の国枝真人も、別会見で語った。
『我々は政府の災害対応には協力します。しかし、経済損失への補償、交通・観光業への支援、避難弱者への対応が見えません。高嶺総理は強い言葉ではなく、具体策を示すべきです』
立憲市民党、公明平和党、社会民主会、日本民衆共産党、令明新生組も、それぞれ声明を出した。
災害対応への協力。政府の説明不足。自衛隊展開への警戒。被災者支援の拡充。お盆移動への補償。
言葉は違っても、すべてが政府に向かっていた。
☆☆☆ ☆☆☆
正午。
宮崎県内では、余震が続いていた。
午後零時七分
震源地 日向灘 暫定マグニチュード4・9 最大震度3
避難所では昼食の配布が始まった。自衛隊の給水車の前には、ポリタンクを持った住民が列を作った。隊員は一人一人に声をかけた。
「暑いので、少しずつ飲んでください」
「ありがとうございます」
「体調悪い方はいませんか」
高齢の男性が、隊員に頭を下げた。
「すまんなあ。若い人にこんなことさせて」
隊員は、少し笑った。
「これが任務です。遠慮しないでください」
その様子を撮影した地元紙の記者は、記事にするか迷った。美談に見える。だが、美談だけでは足りない。避難所の暑さ、トイレ不足、薬の不足、障害者用スペースの不足も書かなければならない。
災害報道は、感謝だけでも、批判だけでも、人を救えない。
☆☆☆ ☆☆☆
午後二時二十八分。
発災から丸一日。
青見怜一は、T大学の会議室で、内閣府のオンライン会議に参加していた。各自治体、気象庁、国土地理院、防災科研、海上保安庁、産総研から観測値が集められていた。
国土地理院の担当者が説明した。
『宮崎県南部を中心に、地震に伴う地殻変動が確認されています。日向灘側で東南東方向への変位が見られます』
海上保安庁の担当者が続けた。
『海底地殻変動観測については、まだ速報段階ですが、震源域周辺で有意な変化が疑われます』
防災科研の研究者が波形を示した。
『余震活動は減衰傾向にありますが、震源域の北東側に活動が広がる傾向が一部見えます。ただし、現時点で南海側へ連鎖的破壊が進行していると判断できるデータではありません』
青見が発言した。
「言い方に注意が必要です。北東側への活動拡大は注視すべきですが、これだけで次の巨大地震を示すものではありません。ただ、南海トラフ沿岸自治体には、避難困難者の事前確認をさらに進めてもらうべきです」
内閣府の担当者が頷いた。
『政府呼びかけの文面に反映します』
会議後、青見は席を立たずに画面を見つめていた。南海トラフ全域の図が表示されている。日向灘、豊後水道沖、四国沖、紀伊水道、熊野灘、遠州灘、駿河湾。
巨大な断層帯が、静かに横たわっている。
そこには、人間の都合などない。お盆も、政権も、株価も、観光予約も、選挙も、すべて地質時間の前では薄い紙のようなものだった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後四時。
防衛省では、小森防衛大臣が現地部隊とのテレビ会議に臨んでいた。画面には、第八師団の現地指揮所、第十四旅団、防衛省統幕、官邸連絡室が並んだ。
『こちら第八師団。日南市内の倒壊家屋検索で要救助者二名を救出。うち一名重傷、医療機関へ搬送。串間港周辺は岸壁被害により大型車両進入困難。道路啓開は国交省、県建設業協会と連携中』
小森は身を乗り出した。
「隊員の熱中症は」
『軽症数名。休息ローテーションを組んでいます』
「無理をさせるな。救助は長期戦になる。隊員が倒れたら救える命が減る」
『了解』
第十四旅団から報告が入った。
『四国側自治体との連絡体制を強化。高知、徳島、愛媛の沿岸自治体では、巨大地震注意を受け、避難所確認と要支援者名簿の再確認を実施中。現時点で災害派遣要請はありません』
「引き続き待機。自治体の不安を煽らず、必要なら即応できる態勢を」
『了解』
小森は、会議を終える前に、画面の向こうの隊員たちへ言った。
「皆さん、現場での活動に感謝します。国民は皆さんの姿を見ています。ただし、英雄になろうとしないでください。任務は、命を救い、自分たちも無事に戻ることです」
画面の向こうで、何人かの隊員がわずかに表情を緩めた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後六時十五分。
東京のスーパーでは、水と携帯トイレの棚が空になり始めていた。大阪、名古屋、高知、和歌山、静岡でも似た光景が広がった。
小さな子を連れた母親が、空の棚を見つめていた。
「昨日買っておけばよかった」
隣にいた年配の女性が、自分のカートからペットボトルを二本取り出した。
「これ、どうぞ。うちは家に少しあるから」
「そんな、いいんですか」
「こういう時は、分けた方が安心でしょう」
同じ頃、SNSでは買い占めの写真が拡散され、怒りが怒りを呼んでいた。
《水を十箱買ってる人がいた。恥ずかしくないの?》
《家族が多いかもしれないだろ。勝手に晒すな。》
《転売目的のアカウント発見。通報した。》
《政府は備蓄を配れ。》
《備蓄は被災地優先。まず宮崎だよ。》
《巨大地震注意で経済が止まる。高嶺政権は責任取れ。》
《地震を政権のせいにするのは無理がある。対応は監視するけど。》
水瀬透のネット番組は、そうした投稿を拾いながら、専門家、流通関係者、自治体職員をつないだ。怒りを煽るだけなら簡単だった。だが、水瀬は画面に大きく表示した。
《買い占めより、確認。拡散より、公式。批判より、避難経路。》
それでも、視聴者数は伸びた。災害時、人は正しい情報と同じくらい、自分の不安に名前をつけてくれる言葉を求める。
☆☆☆ ☆☆☆
午後八時四十分。
官邸では、二度目の大きな判断が迫られていた。
羽鳥危機管理監が報告した。
「南海トラフ沿岸自治体から、避難困難者の事前避難を政府として強く出してほしいとの要望が複数あります。一方、観光地からは、過度な呼びかけでキャンセルが急増しているとの声もあります」
片倉財務大臣が資料を見た。
「観光業、交通、宿泊への影響は大きいです。ただ、ここで経済を理由に呼びかけを弱めれば、後で取り返しがつきません」
国土交通大臣が言った。
「避難困難者に絞った呼びかけが現実的です。全員避難ではなく、高齢者、障害者、乳幼児、津波到達が早い地域の住民に、事前の移動を促す」
小森防衛大臣が加えた。
「自衛隊としては、現時点で全国展開を前面に出すべきではありません。自治体が主体、防衛省は支援準備。そこを崩すと、現場が混乱します」
高嶺は、青見をオンラインで呼んでいた。
「青見先生、科学的にはどうですか」
『巨大地震注意の段階で、全域一律の避難を求める根拠はありません。ただし、津波到達が極めて早い地域、避難に時間を要する方については、事前の備え、場合によっては安全な場所への移動を検討する価値があります』
「避難を検討、という表現ですか」
『はい。命令ではなく、地域と個人の条件に応じた判断です。ただし、海沿いで夜を過ごす旅行者には、避難経路を確認させるべきです。特に土地勘のない人は危険です』
高嶺は頷いた。
「分かりました。政府呼びかけを更新します。避難困難者、沿岸部の旅行者、宿泊施設、交通機関に重点を置く。各自治体には、要支援者への個別連絡を依頼」
橘官房長官が書き留めた。
「今夜中に出します」
高嶺は、全員に向けて言った。
「私たちは、空振りを恐れすぎてはいけない。しかし、社会を壊す呼びかけもしてはいけない。線を見誤らないでください」
会議室の全員が、その線がどこにあるのか、完全には分からなかった。
だからこそ、判断するしかなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後十時三十分。
宮崎県庁の災害対策本部では、成瀬一尉が椅子に座ったまま、数分だけ目を閉じていた。すぐに無線が鳴った。
『こちら日南検索隊。倒壊家屋の検索完了。要救助者なし。周辺住民の避難誘導を消防へ引き継ぎます』
「了解。隊員を休ませてください。次の任務まで給水と食事を」
『了解』
県職員が、成瀬の前に紙コップの水を置いた。
「自衛隊さんも飲んでください」
「ありがとうございます」
「私たち、助かってます」
成瀬は一瞬、返す言葉に迷った。
「こちらこそ、情報が早いので動けます」
県職員は疲れた顔で笑った。
「じゃあ、お互いさまですね」
「はい」
その時、余震が来た。床が小さく横に揺れ、蛍光灯が震えた。二人は黙って机の脚を押さえた。
午後十時三十七分
震源地 日向灘 暫定マグニチュード4・7 最大震度3
揺れが収まると、成瀬は水を飲んだ。温くなっていたが、喉にはありがたかった。
☆☆☆ ☆☆☆
八月八日、午前零時。
日本列島は眠っていなかった。
宮崎では、余震と暑さの中で避難所の夜が続いていた。高知、徳島、和歌山、三重、愛知、静岡では、沿岸自治体の職員が地図を広げ、避難所の鍵を確認し、要支援者名簿を見直していた。大阪や名古屋の駅では、翌日の移動を迷う人々が、予約変更の画面を見つめていた。
東京の官邸では、高嶺首相が危機管理センターの大型画面を見上げていた。そこには、宮崎県の被害状況、南海トラフ臨時情報、交通機関の運行状況、SNS上の主要デマ、各自治体の対応、そして南海トラフ沿岸の地図が並んでいた。
青見怜一は、T大学の研究室で仮眠用の毛布を肩にかけ、波形を見続けていた。藤崎は机に突っ伏して眠っている。サーバーラックの音だけが、夜の研究室に響いていた。
青見は、画面の中の南海トラフを見た。
日向灘の地震は、社会に警告を与えた。だが、警告が届いたかどうかは、まだ分からない。
八月八日午前零時。
お盆まで、あと数日。
列島の南に横たわる巨大な境界面は、何も語らない。ただ、深い海の底で、次の沈黙を続けていた。




