第二十七話 再開された議場
九月二十一日、午前零時。
日付が変わった瞬間、東京の夜は、わずかに冷えた。
富士山噴火による降灰は、もう空から降り続けるものではなくなっていた。だが、道路の端、歩道橋の階段、駅前の植え込み、避難所の入口、校庭、病院の屋上、港湾施設の隙間には、白い粉がまだ残っている。風が吹くたびに、灰は小さく舞い上がり、人々にあの噴火の夜を思い出させた。
南海トラフ巨大地震の被災地では、仮設住宅の建設準備が進んでいた。宮崎、高知、徳島、和歌山、三重、愛知、静岡。津波に洗われた沿岸部では、壊れた町の輪郭を測量する作業員たちが、泥と瓦礫の中に立っている。
相模トラフ・首都直下地震の被災地では、横浜港、川崎港、東京湾岸、千葉湾岸の復旧が続いていた。羽田空港周辺では、津波と液状化による被害の応急復旧が進んでいたが、完全復旧にはほど遠い。富士山麓では、泥流警戒と火山灰対策が続き、帰宅できない住民が避難所で眠っている。
南西諸島では、巡視船の灯がまだ海を見張っていた。
中国人民解放軍海軍の艦艇は、沖縄本島および先島諸島の直接脅威海域から去った。だが、海の向こう側に緊張が消えたわけではない。海上保安庁も、自衛隊も、米軍も、警戒を緩めていなかった。
そして国会。
国会は、ついに再開されることになった。
最初に再開されるのは、衆議院だった。
令和〇年国会議員諜報テロ事件――。
その名で呼ばれるようになった一連の事件は、国会議員会館から中国製動画生成AIへのアクセスがあり、国会議員と外国政府系勢力が共謀し、内閣総理大臣と米国大使の核密談捏造動画を作成し、メディアへ流し、極左暴力集団と連携して国内暴動まで誘発した事件として、すでに司法判断が確定していた。
日本民衆共産党代表、桐生玄二。
中道連盟、有島芳政。
社会民主会代表、佐原美都。
令明新生組代表、雨宮蓮司。
立憲民政党の小湊博章、蓮城美蘭、辻倉清花、杉瀬秀明。
司法は、それぞれの関与を認定し、全員死刑として裁いた。
それでも、国会には残された者たちがいた。
残された党があった。
残された疑念があった。
政府への怒り。
野党への怒り。
司法の速さへの不安。
被災地支援への焦り。
そして、国会そのものへの不信。
そのすべてを抱えたまま、衆議院は再開されようとしていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午前八時。
国会議事堂の周辺には、早朝から報道陣が集まっていた。
この日から、議会再開後の国会審議は、すべてテレビとインターネットで中継されることになった。衆議院議長の判断と、与野党協議の結果だった。
国会が国民の目から隠れていると思われれば、信頼は戻らない。
ならば、すべて見せる。
その決定には、当然反発もあった。
議員の発言が切り取られる。
国会が劇場化する。
委員会審議まで常時中継すれば、落ち着いた議論ができない。
そうした懸念はあった。
だが、国会議員諜報テロ事件の後で、非公開や密室という言葉は、もはや国民の前で耐えられなかった。
議事堂の中では、衛視と警察の警戒が続いていた。議員会館の一部はまだ封鎖され、証拠保全や検証作業が残っている。再開されたのは、国会機能のすべてではなく、まず衆議院本会議と災害復興関連の審議だった。
衆議院議長は、開会前に各党へ言った。
「本日から、衆議院は段階的に議会機能を再開します。国民は、国会を見ています。災害復興を進めるため、そして国会の信頼を取り戻すため、各議員には節度ある質疑を求めます」
節度――。
その言葉が、どこまで通用するのか。
誰も確信を持てなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十時。
衆議院本会議。
テレビとインターネット中継が一斉に始まった。
議長が開会を宣言する。
議場には、かつての熱気とは異なる重さがあった。逮捕され、有罪が確定した議員たちの席は空いている。党の看板は残っていても、その席に座る者は以前より少ない。政党によっては、議員の顔つきそのものが変わっていた。
高嶺紗枝首相は、政府席に座っていた。
隣には、橘義隆官房長官。
少し離れて、小森進一防衛大臣、秋庭遼介外務大臣、片倉皐月財務大臣、法務大臣、復興担当大臣が並ぶ。
最初に提出されたのは、災害復興に関する復興支援臨時予算案だった。
南海トラフ巨大地震。
相模トラフ・首都直下地震。
富士山噴火。
降灰被害。
南西諸島安全保障危機に伴う防衛・海上保安庁支援。
避難所警備と心理ケア。
情報災害対策。
外国人避難者支援。
動物保護支援。
港湾、道路、鉄道、空港、病院、学校、水道、通信、仮設住宅。
すべてを含む、極めて大規模な臨時予算案である。
片倉皐月財務大臣が、予算案の趣旨説明に立った。
「本臨時予算案は、未曾有の複合災害に対し、被災者の生活再建、インフラ復旧、医療・福祉支援、教育再開、産業復興、自治体財政支援、防災力強化を一体として行うものです。また、国会議員諜報テロ事件および避難所周辺暴動を受け、情報空間の安全、避難所警備、心理的被害への支援、外国人住民への相談体制、動物保護体制も含みます」
彼女は、資料をめくった。
「財源として、多額の復興国債の発行を含みます。また、政治の責任を示すため、国会議員報酬を当面一律三割減額し、その財源を被災者支援、遺族支援、避難所環境改善に充てる案を盛り込んでいます」
議場がざわめいた。
国会議員報酬、一律三割減額。
災害復興国債。
いずれも、簡単な議論ではない。
被災地は金を必要としている。
だが、国債発行は将来負担を生む。
議員報酬削減は国民感情には合うが、政治の質や議員活動への影響もある。
その議論が、本来ならこの日から始まるはずだった。
だが、質疑は、別の方向へ流れていった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十一時。
最初に質問に立ったのは、中道連盟の議員だった。
中道連盟は、有島芳政を除名し、党として事件への関与を否定していた。しかし、有島が党所属であった事実は重い。党内には、政府追及で存在感を取り戻したい空気もあった。
議員は、厳しい表情で質問を始めた。
「まず、令和〇年国会議員諜報テロ事件について伺います。司法では、有島芳政元議員が中国政府と共謀し、捏造動画を作成し、これをメディアに流すよう強要したと認定されました。しかし、この一連の事件の初期段階において、政府側が世論を誘導し、結果的に反政府勢力を追い込むような扇動を行ったのではないかという疑念があります。政府は、事件を政治的に利用したのではありませんか」
議場がざわめいた。
被災地支援臨時予算案の審議。
そのはずだった。
しかし、最初の質問は復興予算ではなく、諜報テロ事件だった。
高嶺首相が答弁に立とうとした時、法務大臣が先に立った。
「司法で証明された内容について、法務大臣として答弁します」
議場が静まる。
法務大臣は、淡々と述べた。
「司法で認定された事実は、以下の通りです。中道連盟所属であった有島芳政元議員は、中国政府系関係者と共謀し、内閣総理大臣と米国大使による核密談を装った捏造動画の作成に関与しました。また、その動画を反首相派メディアへ流すよう強要し、真相確認を行おうとした報道機関に対し、極左暴力集団を通じた圧力を加える計画に関与しました。さらに、有島元議員は、極左暴力集団および刑期を終えて出所していた旧国際テロ組織元最高幹部、重原房江らと共謀し、国内での暴動行為を扇動したことが認定されています」
法務大臣は、続けた。
「この共謀関係は、中国人民解放軍海軍による射撃事案より前から継続していたことも、通信記録、押収資料、供述、米国提供資料により認定されています。そのため、裁判所は、外患誘致罪および内乱罪を適用し、全員に対して死刑判決を下しました。最高裁においても、その判断は維持されました」
それぞれの罪は以下の通り。
桐生玄二前本民衆共産党代表 外患誘致罪 死刑
有島芳政前中道連盟議員 外患誘致罪 死刑
佐原美都元社会民主会代表 内乱罪 死刑
雨宮蓮司元令明新生組代表 内乱罪 死刑
小湊博章元立憲民政党議員 内乱罪 死刑
蓮城美蘭元立憲民政党議員 内乱罪 死刑
辻倉清花元立憲民政党議員 内乱罪 死刑
杉瀬秀明元立憲民政党議員 内乱罪 死刑
しかし、中道連盟の議員が食い下がる。
「政府による扇動がなかったとは言い切れるのですか」
法務大臣は、表情を変えずに答えた。
「少なくとも、司法で認定された事実の中に、政府が事件を扇動したという事実は存在しません。政府の対応に関する検証は必要ですが、司法が認定した犯罪事実を、根拠なく政府扇動へ置き換えることは、判決内容を歪めるものです」
議場に、静かな緊張が走った。
☆☆☆ ☆☆☆
午後一時。
続いて、日本民衆共産党の議員が質問に立った。
党代表、桐生玄二は外患誘致罪で死刑判決が確定していた。党は代表代行体制に移っていたが、国民からの視線は極めて冷たい。
それでも、議員は声を張った。
「政府は、桐生玄二前代表をはじめとする関係者を、内乱罪、外患誘致罪という極めて重い罪で裁きました。しかし、この判決は、政府に批判的な勢力を排除するための政治的裁判ではなかったのか。政府は、災害と中国危機を利用して、反戦勢力を潰したのではありませんか」
与党席から、強いざわめきが起きた。
議長が木槌を鳴らす。
「静粛に」
法務大臣が再び答弁に立った。
「繰り返します。司法で認定された内容は、政府批判や反戦言論ではありません。桐生玄二前代表は、日本民衆共産党代表執務室において、中国製動画生成AIへのアクセス、中国政府系連絡先との通信、捏造動画の内容協議、メディアへの売り込み方針、極左暴力集団による圧力方針に関与したと認定されています」
法務大臣は、一つ一つ読み上げる。
「桐生玄二前代表は外患誘致実行主犯として死刑。中道連盟の有島芳政元議員は外患誘致共謀主犯として死刑。社会民主会の佐原美都前代表、令明新生組の雨宮蓮司前代表、立憲民政党の小湊博章、蓮城美蘭、辻倉清花、杉瀬秀明各元議員は、内乱実行犯として死刑。この判断は、第一審、控訴審、最高裁で維持されています」
日本民衆共産党の議員が叫ぶ。
「だが、国民には政府による情報操作の疑念が残っている!」
法務大臣は、静かに答えた。
「疑念を述べることは自由です。しかし、国会の場で、司法判断を覆すに足る具体的証拠を示さずに、政府扇動であるかのように述べるなら、それは被害者、被災者、海上保安官と自衛官二十三名の遺族、そして国民に対する責任ある発言とは言えません」
議場が静まり返った。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時。
社会民主会と令明新生組も、同様の質問を重ねた。
社会民主会の議員は、死刑制度と裁判の速さを問題にした。
「国民の怒りが高まる中、司法が世論に押されて死刑判決を出したのではないか。政府は、その空気を作ったのではないか」
法務大臣は答えた。
「裁判所は、通信情報、動画生成履歴、国会議員会館からのアクセス、被告人の供述、中国政府系連絡先との会話記録、極左暴力集団への指示文など、複数の証拠に基づいて判断しています。死刑制度の是非を議論することは可能ですが、本件の犯罪事実を曖昧にすることはできません」
令明新生組の議員は、政府による国会閉鎖を問題にした。
「国会閉鎖こそ、政府が国会を制圧した証拠ではないか。あの閉鎖がなければ、別の真相が明らかになっていた可能性がある」
今度は橘官房長官が答弁に立った。
「国会施設の一時閉鎖は、議長への通告、議院運営委員会との協議、司法手続きによる証拠保全を伴って実施されたものです。政府が単独で国会を恒久停止したものではありません。閉鎖の目的は、国会議員会館内に残る証拠の保全であり、その結果、司法で認定された通信記録や端末記録が保全されました」
議場の中で、与党側だけでなく、野党の一部からも冷ややかな視線が向けられていた。
復興予算の審議である。
被災地は、待っている。
それなのに、質問は、諜報テロ事件の政府扇動説に集中していた。
☆☆☆ ☆☆☆
九月二十二日から九月二十六日。
衆議院の審議は、ほぼ同じ構図で続いた。
テレビとインターネット中継は、すべてを映した。
中道連盟、日本民衆共産党、社会民主会、令明新生組は、政府による扇動、国会閉鎖の妥当性、死刑判決の迅速さ、報道機関への圧力、通信治安維持命令の範囲について質問を続けた。
法務大臣は、そのたびに司法で証明された事実を答えた。
有島芳政が中国政府と共謀したこと。
捏造動画を作成したこと。
メディアに流すよう強要したこと。
極左暴力集団と重原房江らと共謀し、国内暴動を扇動したこと。
その共謀が中国人民解放軍海軍の射撃事案より前から続いていたこと。
桐生玄二が外患誘致実行主犯として死刑判決を受けたこと。
有島芳政が外患誘致共謀主犯として死刑判決を受けたこと。
佐原美都、雨宮蓮司、小湊博章、蓮城美蘭、辻倉清花、杉瀬秀明が内乱実行犯として死刑判決を受けたこと。
それが、第一審、控訴審、最高裁で確定したこと。
法務大臣の答弁は、冷たく聞こえるほど一貫していた。
国民は、それを画面越しに見た。
そして、次第に苛立ちを募らせた。
《復興予算の話をしてくれ》
《被災地は待っている》
《司法で確定した話を何度も蒸し返すな》
《中道連盟は有島の件をまず謝罪しきるべき》
《日本民衆共産党は桐生の件をどう総括するのか》
《社会民主会と令明新生組は何を守りたいのか》
《政府批判は必要。でも復興予算を止めるな》
《テレビ中継、逆効果になってる政党がある》
衆議院の全面中継は、国会の信頼を取り戻すために始まった。
だが、それは同時に、各党の姿勢を容赦なく国民へ見せつける装置にもなった。
☆☆☆ ☆☆☆
九月二十四日、午後二時。
南海トラフ被災地、高知県内の避難所。
テレビでは、衆議院審議が流れていた。
井ノ口は、画面を見ながら眉をひそめた。
「また同じ話や」
森下三曹は、給水記録をつけながら答えた。
「予算審議ですね」
「予算の話をしよらん」
井ノ口は、少し怒った声で言った。
「こっちは仮設住宅がいつできるか知りたいがや。水道がいつ戻るか、学校がいつ再開するか、港がどうなるか、それを聞いてほしいがや」
森下は何も言えなかった。
テレビでは、日本民衆共産党の議員が、政府による扇動疑惑を追及していた。
井ノ口は、リモコンで音量を下げた。
「裁判は裁判で終わったがやろ。納得いかんなら法律の話をすればえい。でも、復興予算の審議でずっとこれか」
近くの高齢女性が頷いた。
「議員さんの給料を三割減らすって話は、どうなったの」
別の男性が言った。
「国債をどれだけ出すかも聞きたい」
井ノ口は、画面を見ながら呟いた。
「国会も避難所に一回来たらえい」
森下は、その言葉を胸に刻んだ。
☆☆☆ ☆☆☆
九月二十七日。
ようやく、災害復興臨時予算そのものに関する本格的な質問が始まった。
この日まで、衆議院の議論は、ほとんど令和〇年国会議員諜報テロ事件と政府対応への質問に費やされていた。
復興担当大臣は、冒頭で深く頭を下げた。
「被災者の皆様をお待たせしていることを、政府として重く受け止めています。本日は、臨時予算案の中身について、できる限り具体的に説明いたします」
ようやく議場に、予算の数字が戻ってきた。
仮設住宅建設費。
沿岸部高台移転支援。
漁港・港湾復旧。
道路・鉄道・空港復旧。
医療機関再建。
学校再開支援。
被災自治体への交付金。
中小企業再建支援。
農林水産業支援。
富士山降灰処理費。
泥流対策。
避難所環境改善。
災害関連死防止。
自衛隊・海上保安庁・警察・消防の活動費補填。
米国、台湾、欧州各国との支援調整費。
情報災害対策費。
外国人避難者支援。
動物保護と避難所ペット対策。
そして、議員報酬一律三割減額分の充当先。
片倉皐月財務大臣は、国債発行について説明した。
「本予算案には、多額の復興国債発行が含まれます。将来世代への負担を伴うことは事実です。しかし、今ここで復旧を遅らせれば、産業基盤、教育、医療、地域社会が崩れ、将来世代にはさらに大きな負担が残ります。国債は、未来からの借金であると同時に、未来を失わないための投資でもあります」
この答弁は、広く共有された。
与党議員からも、野党の一部からも、具体的な質問が出始めた。
仮設住宅の地域差。
港湾復旧の優先順位。
地方自治体の事務負担。
子どもの学習支援。
被災した医療従事者への支援。
自衛隊・警察・消防の心理ケア。
災害関連死の予防。
外国人避難者への多言語対応。
動物保護施設の不足。
ようやく、国会は国会らしい議論を取り戻し始めた。
☆☆☆ ☆☆☆
九月二十八日、午後四時。
東京の避難所。
鹿児島出身の女性と東京の男性は、スマートフォンで国会中継の切り抜きを見ていた。
「やっと予算の話になりましたね」
男性が言った。
女性は頷いた。
「仮設住宅と灰の処理の話、もっと早く聞きたかったです」
「議員報酬三割減額はどう思います?」
「気持ちは分かります。でも、減らしただけで終わらないでほしいです」
「国債は?」
「借金は怖いです。でも、今何もしない方が怖いです」
男性は頷いた。
「同じです」
掲示板には、まだ紙が残っている。
忘れない
でも、憎み続けるだけにしない
女性は、その紙を見て言った。
「国会も、そうなればいいですね」
「忘れない。でも、そこで止まらない」
「はい」
外では、灰を掃く音がしていた。
☆☆☆ ☆☆☆
九月三十日、午前十時。
衆議院本会議。
災害復興支援臨時予算案の採決の日が来た。
テレビとインターネット中継は、朝から高い視聴数を記録していた。被災地の避難所でも、多くの人が画面を見ていた。自治体職員も、復興担当者も、建設業者も、医療機関も、学校関係者も、漁業者も、農業者も、中小企業経営者も、この採決を待っていた。
採決前、最後の討論が行われた。
与党は、迅速な成立を訴えた。
「この予算案は、完全ではありません。しかし、今、被災地に必要な第一歩です。足りない部分は補正し、実行段階で修正していく。まず、動かすことが必要です」
中道連盟の一部議員は、事件追及への反省をにじませながら賛成討論を行った。
「本党所属であった有島芳政元議員の重大犯罪について、国民に深くお詫び申し上げます。同時に、被災地支援を止めることは許されません。本予算案には課題がありますが、復興を前に進めるため賛成します」
立憲民政党も賛成に回った。
「予算規模、国債発行、議員報酬減額には検証すべき点があります。しかし、被災地支援は待てません。参議院でさらに精査することを前提に、衆議院では賛成します」
社会民主会、日本民衆共産党、令明新生組は反対討論を行った。
日本民衆共産党の議員は言った。
「本予算案は、災害復興を名目に、治安維持、情報統制、防衛費補填を含む危険な予算です。国会議員諜報テロ事件を利用し、政府権限を拡大するものとして反対します」
社会民主会の議員は、死刑判決と国会閉鎖を批判した。
「政府は災害復興の名で、国家権力を強化しようとしています。被災者支援は必要ですが、この予算案には賛成できません」
令明新生組の議員も、政府批判を続けた。
「高嶺政権に白紙委任する予算案です。復興支援の名を借りた統制国家化に反対します」
議場の空気は冷たかった。
彼らの主張が届いているかどうかは、テレビの向こうの反応が示していた。
《反対理由がまたそれか》
《復興予算を人質にするな》
《治安維持費も必要だろ。避難所襲われたんだから》
《防衛費補填も必要。南西で二十三人亡くなった》
《反対するなら代案を出して》
《被災地は待ってる》
国民は、すでに疲れていた。
議論は必要だ。
だが、復興を止める議論には、厳しい目が向けられていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後二時。
採決。
議長が宣言する。
「これより、災害復興支援臨時予算案について採決いたします」
議場が静まる。
各議員が立ち上がる。
賛成。
反対。
中継画面には、議員たちの姿が映し出されていた。
数分後、結果が出た。
――――
衆議院採決
災害復興支援臨時予算案
賛成圧倒的多数で可決
反対は日本民衆共産党・社会民主会・令明新生組
参議院へ送付
――――
議場に、深い息が広がった。
拍手は起きた。
だが、歓声ではなかった。
ようやく通った。
その安堵だった。
高嶺紗枝首相は、立ち上がり、深く一礼した。
片倉皐月財務大臣は、目を閉じて一度だけ息を吐いた。
復興担当大臣は、資料を握りしめた。
小森進一防衛大臣は、被災地の自衛隊員たちの顔を思い浮かべていた。
秋庭外務大臣は、海外支援調整の次の段階を考えていた。
橘官房長官は、すぐに参議院対応のメモを取り始めた。
衆議院は通過した。
だが、予算はまだ成立していない。
参議院がある。
執行がある。
現場がある。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時。
高知の避難所。
テレビの速報を見た井ノ口は、静かに言った。
「通ったか」
森下が頷いた。
「衆議院は通りました」
「まだ終わりやないがやろ」
「はい。参議院があります」
井ノ口は、水の入った紙コップを見つめた。
「それでも、一歩やな」
「はい」
避難所の中で、小さな拍手が起きた。
大きな歓声ではなかった。
人々は疲れていた。
だが、予算案が前に進んだことは、確かに希望だった。
ある母親が言った。
「仮設住宅、早くお願いします」
別の高齢者が言った。
「病院も」
漁師が言った。
「港もや」
森下は、その声を聞きながら、国会の採決が遠い場所の出来事ではないことを改めて感じていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後五時。
官邸危機管理センター。
高嶺は、衆議院通過後の会見に立った。
――――
内閣総理大臣会見
災害復興支援臨時予算案
衆議院を通過
参議院での速やかな審議を要請
被災地支援を加速
――――
『本日、災害復興支援臨時予算案が、衆議院において賛成圧倒的多数で可決されました。ご審議いただいた各会派に感謝申し上げます。反対の立場を取られた会派の意見についても、参議院審議および予算執行の中で、必要な検証を行います』
高嶺は、続けた。
『本予算案には、仮設住宅、医療、教育、港湾、道路、鉄道、空港、水道、通信、産業再建、降灰処理、泥流対策、避難所環境改善、災害関連死防止、情報災害対策、避難所警備、外国人避難者支援、動物保護支援が含まれています。また、国会議員報酬の一律三割減額を含め、政治が自ら責任を示す内容も盛り込んでいます』
記者が問う。
「審議では、復興予算よりも国会議員諜報テロ事件に関する質問が多く出ました。どう受け止めますか」
高嶺は、少しだけ間を置いた。
『事件の検証は必要です。国会で問われるべき問題です。しかし、被災地は待っています。九月二十七日まで、本格的な復興予算の質問が限られていたことについては、国会全体で重く受け止める必要があると思います』
「政府による扇動があったのではないかという質問も相次ぎました」
『政府は、司法で証明された事実に基づき答弁しました。司法が認定したのは、有島芳政元議員、桐生玄二前代表らが中国政府系勢力と共謀し、捏造動画を作成・拡散し、極左暴力集団や旧国際テロ組織元最高幹部と連携して暴動を扇動したという事実です。政府扇動を裏付ける事実は、司法判断の中にはありません』
高嶺は、声を落とした。
『政府への疑問は、今後も受けます。しかし、復興を止めることはできません』
会見が終わる。
☆☆☆ ☆☆☆
九月三十日、午後九時。
東京の夜は、少しだけ秋の気配を含んでいた。
まだ灰は残っている。
まだ避難所は残っている。
まだ仮設住宅は足りない。
まだ港は完全には戻っていない。
まだ南西の海は見張られている。
まだ国会への信頼は戻っていない。
それでも、災害復興支援臨時予算案は、衆議院を通過した。
官邸危機管理センターで、高嶺紗枝は午後九時の報告を受けていた。
羽鳥が言った。
「臨時予算案、衆議院通過。参議院へ送付。被災自治体からは、早期成立を求める声が相次いでいます」
片倉皐月が言った。
『参議院対応に移ります。国債発行と議員報酬減額は、さらに議論になるでしょう』
小森進一が続ける。
『自衛隊災害派遣は継続。予算通過を受け、部隊ローテーションと装備補修の見通しを立てやすくなります』
秋庭が言った。
『海外支援との調整も次段階へ入ります。米国、台湾、欧州各国から、予算通過を歓迎する連絡が来ています』
橘が言った。
「国会中継によって、国民は各党の姿勢をかなり明確に見ました。これは今後の政治地図に影響します」
高嶺は、静かに頷いた。
「国民が見ていることは、良いことです」
羽鳥が問う。
「痛みも伴います」
「はい」
高嶺は、机の上に置かれた予算案の分厚い資料を見た。
数字の束。
だが、その数字の先には、人がいる。
仮設住宅を待つ家族。
港を待つ漁師。
学校再開を待つ子ども。
病院再建を待つ患者。
灰の処理を待つ自治体。
外国人避難者の相談窓口を待つ人。
災害派遣から戻れない自衛官。
南西の海で亡くなった二十三名の遺族。
動物虐待動画を見てしまった子ども。
国会に裏切られたと感じた国民。
高嶺は、静かに言った。
「ようやく、復興の入口に立てましたね」
片倉が画面越しに答えた。
『入口です。ここからの方が長いです』
「分かっています」
高嶺は、六つの画面を見た。
南海。
相模。
富士山。
南西諸島。
通信空間。
国会。
赤は、少しずつ薄れている。
だが、完全に消えたものはない。
彼女は、水を一口飲んだ。
「次の報告を」
羽鳥が答えた。
「はい」
九月三十日。
衆議院は、復興支援臨時予算案を通過させた。
国会は、傷ついたまま再び動き始めた。
被災地は、まだ待っている。
日本は、まだ復旧の途中だった。
だが、長く続いた混乱の中で、ようやく一つ、前へ進むための予算が、議場を通った。
それは勝利ではなかった。
ただ、瓦礫の中で一枚目の板を敷いたような、小さく、しかし確かな一歩だった。




