第二十六話 諜報テロの名
九月十四日、午前三時。
東京の夜は、静かではなかった。
富士山噴火の降灰は、ようやく目に見えて薄くなっていた。だが、白い粉はまだ道路の端に残り、車のタイヤが踏むたびに鈍く舞った。相模湾岸では、地震と津波の爪痕が港湾施設に残り、南海トラフ沿岸では、避難所の灯がまだ消えない。高知、宮崎、和歌山、徳島、三重、愛知、静岡。人々は、日付の感覚を失いかけながら、仮設の寝床で朝を待っていた。
九月九日夜から全国各地で発生した暴動事件は、ようやく大規模な沈静化に向かっていた。
だが、その後始末は、まだ始まったばかりだった。
避難所周辺での暴力。
物資配布所の妨害。
給水車への落書き。
献花台の破壊未遂。
被災者への脅迫。
動物虐待動画の投稿。
外国政府系連絡先との通信。
極左暴力集団による組織的動員。
旧国際テロ組織「東亜赤軍連盟」の元最高幹部、重原房江の関与。
そして、中国政府系工作との共謀。
それらは、もはや個別の騒乱ではなかった。
九月十四日から、全国各地での暴動事件に関する裁判が、東京地方裁判所を中心に、複数の地方裁判所、特別集中審理部で始まることになっていた。
司法は、また異例の速度で動いていた。
国会議員による捏造動画事件、いわゆる核密談捏造事件で、内乱罪と外患誘致罪が憲政史上初めて確定した直後である。その余震が残る中、今度は、判決に反発した極左暴力集団と外国工作関係者による、避難所周辺暴動事件が裁かれようとしていた。
国は、災害からの復旧を進めながら、同時に、自らの内部に生じた暴力と裏切りを裁くことになった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前三時三十分。
官邸危機管理センター。
高嶺紗枝首相は、裁判開始前の最終報告を受けていた。
羽鳥真紀危機管理監が、資料を読み上げる。
「本日午前より、九月九日夜から九月十二日未明にかけて全国各地で発生した避難所周辺暴動、物資配布妨害、脅迫、動物虐待動画投稿、外国工作連動事案に関する初回公判が始まります。逮捕者総数は千五百名超。起訴対象者は、首謀者、実行犯、資金仲介者、投稿担当、暴力扇動担当、外国政府系連絡先との通信担当に分けて整理されています」
法務大臣が続けた。
「被告のうち、帰化者五百三十九名については、今回の捜査過程で、帰化申請時の重大な虚偽、外国政府系組織との継続的関係の秘匿、または取得後の国家転覆目的の活動参加が確認されています。加えて、その家族についても、単なる家族関係のみではなく、虚偽申請、身分偽装、資金移動、通信機器管理、逃亡支援などの個別関与が認定された者について、帰化取り消しおよび国外退去処分が決定されます」
高嶺は、すぐに確認した。
「家族というだけではありませんね」
法務大臣は頷いた。
「はい。家族関係のみを理由に処分するものではありません。処分対象は、個別に関与、虚偽、または不正取得が確認された者に限ります。ただし、人数が多いため、世論上は『家族ごと国外追放』と受け止められる可能性があります」
片倉皐月財務大臣が画面越しに言った。
『そこを誤ると、外国人住民全体への攻撃になります』
高嶺は頷いた。
「政府発表では、必ず言ってください。国籍、出自、家族関係ではなく、個別行為と不正取得に基づく処分だと」
警察庁長官が報告する。
「極左暴力集団『革新マルクス戦線』『赤衛中核同盟』については、内乱罪および外患誘致罪の適用を視野に、検察が求刑を準備しています。首謀者については死刑、その他主要実行犯については仮釈放なしの無期懲役を求刑する方針です」
部屋の空気がさらに重くなった。
死刑。
無期懲役。
また、その言葉だった。
小森進一防衛大臣が、低い声で言った。
『避難所を襲った。給水を妨害した。子どもに見せるような動画を流した。しかも、中国政府系連絡先とつながっていた。現場の怒りは強いです』
高嶺は、画面に映る被災地地図を見た。
「怒りは当然です。しかし、判決は怒りで出すものではありません。証拠と法で出すものです」
法務大臣が静かに答えた。
「その原則は徹底します」
高嶺は、椅子の背に身体を預けなかった。
疲労は溜まっている。
だが、倒れている暇はない。
「裁判が始まれば、また国民感情が動きます。極左暴力集団や外国工作関係者は、判決を利用してさらに煽るでしょう。避難所警備、外国人住民保護、子どもへの情報外傷ケアを継続してください」
羽鳥が答えた。
「はい」
高嶺は、最後に言った。
「今回も、法を急がせすぎてはいけません。しかし、放置してもいけません。国は、遅すぎても壊れます。速すぎても壊れます」
誰も言葉を挟まなかった。
その細い線の上を、また日本は歩くことになる。
☆☆☆ ☆☆☆
午前八時。
東京地方裁判所。
裁判所前には、すでに多くの報道陣が集まっていた。警備は厳重だった。暴動事件の関係者、極左暴力集団の支持者、判決に抗議する市民団体、被災者支援団体、外国人住民支援団体、そして一般の傍聴希望者が、それぞれ別の場所に誘導されている。
裁判所の入口近くには、被災地から来た人々の姿もあった。
南海トラフ被災地の避難所で、物資配布を妨害された高齢者。
相模トラフ被災地で、給水拠点を荒らされた自治体職員。
東京の避難所で、動物虐待動画を見て泣いた子どもの親。
富士山麓で、避難所前の暴力に巻き込まれた消防団員。
彼らは、声を張り上げてはいなかった。
ただ、見届けに来ていた。
ある女性が、記者に聞かれて答えた。
「私は死刑を見に来たわけではありません。私たちが何をされたのか、裁判所がちゃんと見てくれるかを見に来ました」
その言葉は、朝のニュースで繰り返し流された。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十時。
第一回公判が始まった。
被告席には、複数の事件群ごとに分けられた被告人たちが座っていた。全員を一つの法廷に収めることはできないため、主犯格と代表的実行犯を中心に、映像中継で別法廷と接続する形式が取られた。
検察側冒頭陳述。
主任検事は、低く、明瞭な声で述べた。
『本件は、判決への抗議活動を装った暴力事件ではない。被告人らは、中国政府系連絡先と共謀し、九月九日夜から全国の避難所、物資配布所、給水拠点、献花台周辺で同時多発的に暴力行為、威力業務妨害、脅迫、動物虐待動画投稿を行い、災害対応中の日本社会を再び分断・混乱させようとしたものである』
法廷は静まり返っていた。
『被告人らは、国会議員諜報テロ事件の判決確定を契機として、国民の怒りを政府へ向け直すこと、外国人退去処分を誘発して排外主義批判へ転換すること、避難所周辺で国家の無力を演出すること、被災者に恐怖を与え災害対応を麻痺させることを目的としていた』
検察は、証拠を示した。
通信ログ。
暗号資産の流れ。
中国政府系連絡先とのチャット。
避難所リスト。
配布所の位置情報。
動物虐待動画の投稿指示。
極左暴力集団の内部連絡。
外国籍活動家への送金記録。
旧国際テロ組織「東亜赤軍連盟」の元最高幹部、重原房江の端末から復元された指示文。
>判決確定後、国民の怒りを政府へ向け直す
>避難所周辺で国家の無力を演出
>動物映像は恐怖喚起に有効
>外国人処分を誘発し、排外主義批判へ転換
>高嶺政権を国際的に孤立させる
法廷内に、抑えきれないざわめきが広がった。
裁判長が注意する。
「静粛に」
検察官は、続けた。
『被告人らにとって、被災者は救う対象ではなく、恐怖を与える対象であった。動物は保護すべき命ではなく、動画によって心理的打撃を与えるための道具であった。外国人住民は守るべき隣人ではなく、排外主義批判へ誘導するための駒であった。これらの行為は、いかなる政治的信条によっても正当化されない』
その言葉は、重く法廷へ落ちた。
☆☆☆ ☆☆☆
正午。
帰化取り消しと国外退去に関する行政処分の説明が行われた。
法務省側の証人は、淡々と述べた。
『帰化者五百三十九名について、帰化申請時に外国政府系組織との継続的関係を秘匿していた事実、身分・経歴の重大な虚偽、または帰化後に外国政府の指示を受けて日本国の安全を害する活動に従事した事実が確認されました。加えて、その家族についても、単なる血縁や婚姻関係を理由とするのではなく、不正取得、虚偽申請、資金移動、逃亡支援、通信機器管理など個別の関与が認定された者に限り、帰化取り消しおよび国外退去処分の対象としています』
弁護側は反論した。
「家族への処分は過大であり、集団的処罰に近い」
「帰化取り消しは極めて重大であり、個別審査が十分だったのか検証が必要である」
「外国政府との関係の認定が広すぎる」
裁判長は、行政処分の適法性について別途争う余地があることを確認しつつ、今回の刑事裁判では、暴動事件への関与、共謀、資金移動、虚偽申請の証拠関係を中心に審理すると整理した。
法廷の外では、速報が流れた。
――――
ニュース速報
暴動事件公判
帰化者五百三十九名と関係家族に帰化取り消し・国外退去処分
政府「国籍や家族関係でなく個別関与に基づく」
――――
SNSでは、激しい反応が起きた。
《当然だ》
《家族まで? 慎重に見ないと危ない》
《個別関与があるなら仕方ない》
《外国人全体を攻撃するな》
《帰化制度の信頼が壊れる》
《被災地を襲った時点で許せない》
《不正帰化なら取り消しは当然》
高嶺官邸は、すぐに多言語で説明を出した。
処分は国籍や民族ではなく、個別の違法行為、不正取得、外国政府との共謀に基づく。
一般の外国人住民、帰化者、留学生、労働者、避難者への差別や攻撃は許されない。
相談窓口を設置する。
自治体と連携し、避難所内の安全を守る。
それでも、不安は広がった。
特に外国人避難者の中には、肩身を狭くする者がいた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時。
東京の避難所。
中国系の女性避難者は、掲示板の前で立ち止まっていた。
そこには、鹿児島出身の女性が新しく貼った紙があった。
ここにいる人を、国籍で責めない
悪いことをした人が悪い
困っている人は、ここにいていい
中国系の女性は、その紙を見て、目を潤ませた。
「ありがとう」
鹿児島出身の女性は、首を横に振った。
「私も、前に東京の人と喧嘩になりかけました。国とか地域とかで見始めると、すぐ間違えます」
東京の男性も頷いた。
「ここでは、困ってるかどうかで見ましょう」
そばにいた子どもが言った。
「ここでは、なかよくする」
大人たちは少しだけ笑った。
その紙は、まだ掲示板に貼られていた。
短い言葉だった。
だが、複雑な法律や国際情勢よりも、避難所では強い力を持っていた。
☆☆☆ ☆☆☆
九月十五日、午前九時。
翌日。
極左暴力集団の主犯格に対する判決公判が始まった。
革新マルクス戦線。
赤衛中核同盟。
その指導部と実行部隊。
避難所襲撃の指示役。
動物虐待動画の撮影・投稿担当。
外国籍活動家との連絡係。
中国政府系通信先とつながっていた資金担当。
そして、旧国際テロ組織「東亜赤軍連盟」の元最高幹部、重原房江。
この日の法廷は、前日以上に重かった。
重原房江は、車椅子ではなく、自力で被告席へ歩いた。
老いてはいた。
だが、背筋は伸びていた。
彼女は、裁判長を見ることなく、正面の壁を見ていた。
検察官は、重原の関与を読み上げた。
『被告人重原房江は、かつて国際テロ組織東亜赤軍連盟の最高幹部として活動し、長期の服役を終えて出所した後も、極左暴力集団の残存ネットワークと接触を続けた。本件では、中国政府系連絡先と共謀し、判決確定後の国内混乱を最大化するため、避難所周辺での暴力、被災者への脅迫、動物虐待動画投稿、外国人退去処分を誘発するための挑発行為を指示した』
重原は、微動だにしなかった。
検察官は続けた。
『被告人は、革命には犠牲がつきものだ、との趣旨の発言をしている。しかし、その犠牲として選ばれたのは、災害で家を失った被災者、給水を待つ高齢者、避難所で眠る子ども、保護されるべき動物であった』
法廷内の空気が冷たくなった。
重原の弁護人は、彼女の高齢、過去の刑期終了、思想信条の自由、直接的実行行為への関与の薄さを主張した。
だが、検察側は、通信ログと指示文を示した。
>国家の弱点は避難所に出る
>弱者を守れない政府を演出する
>恐怖映像は短く、無加工で流す
>外国人処分を誘発させ、国際批判へつなげる
>中国側は外交面で利用可能
裁判長は、重原に尋ねた。
「被災者を狙った認識はありますか」
重原は、初めて口を開いた。
「国家を支える者は、すべて国家の一部です」
傍聴席がざわめいた。
「子どももですか」
裁判長が重ねて尋ねた。
重原は答えた。
「国家の中にいる以上、無関係ではありません」
その瞬間、法廷内の空気は完全に変わった。
弁護人が慌てて止めようとした。
だが、言葉はすでに出ていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後一時。
判決。
極左暴力集団の指導部には、内乱罪および外患誘致罪が適用された。
首謀者には求刑通り死刑。
主要実行犯、資金担当、暴力指示役、動画投稿指示役には、仮釈放なしの無期懲役。
その他の実行犯にも、長期刑が言い渡された。
そして、重原房江には、中国政府との共謀、暴力行為の扇動、避難所周辺攻撃の計画、動物虐待動画による恐怖拡散指示、外国人処分誘発を狙った社会混乱工作により外患誘致罪が適用された。
判決は、求刑通り死刑だった。
裁判長は、理由を述べた。
『被告人重原房江は、過去に国際テロ組織の最高幹部として活動し、刑期終了後も暴力革命思想に基づくネットワークへ関与した。本件においては、中国政府系連絡先と連動し、災害下にある日本社会の最も脆弱な場所、すなわち避難所、給水拠点、物資配布所を標的とした。これは、思想表現でも抗議活動でもなく、外国勢力を利するための暴力的攪乱である』
重原は、顔色を変えなかった。
有罪判決を受けた極左暴力集団の被告人たちは、即日控訴した。
重原も、即日控訴した。
――――
ニュース速報
避難所周辺暴動事件
極左暴力集団に内乱罪・外患誘致罪適用
首謀者に死刑、主要実行犯に無期懲役
旧国際テロ組織元最高幹部にも死刑判決
全員即日控訴
――――
日本中が、また重い沈黙に包まれた。
怒りはあった。
だが、それ以上に、疲労があった。
この国は、あまりにも多くの判決と、あまりにも多くの死刑という言葉を短期間に聞きすぎていた。
☆☆☆ ☆☆☆
九月十六日から九月二十日。
控訴審と上告審は、次々に進んだ。
すべてが同じ速度ではなかった。
事件群ごとに、被告人ごとに、証拠の量と供述の有無が異なった。控訴審で一部量刑が見直される可能性があると見られた事案もあった。
しかし、中心的な事件では、第一審は覆らなかった。
中国政府系連絡先との通信。
資金移動。
避難所リスト。
動物虐待動画投稿指示。
外国籍活動家への送金。
極左暴力集団内部の作戦文書。
重原房江の端末から復元された指示文。
それらは、あまりにも明確だった。
九月十七日、革新マルクス戦線の首謀者三名について、東京高裁は第一審を維持した。
同日、全員が上告。
九月十八日、最高裁は上告を棄却。
死刑判決が確定した。
九月十八日、赤衛中核同盟の資金担当と動画投稿指示役について、無期懲役判決が確定した。
九月十九日、外国籍活動家グループの一部について、刑事判決と退去強制処分が確定した。
九月二十日、重原房江について、控訴審は第一審を維持。
弁護側は即日上告した。
同日夜、最高裁は上告を棄却した。
重原房江の死刑判決は確定した。
――――
ニュース速報
重原房江被告
最高裁が上告棄却
外患誘致罪による死刑判決が確定
避難所周辺暴動事件、主要裁判が終結
――――
この数日間で、死刑判決、無期懲役、国外退去、帰化取り消しという言葉が、繰り返し報じられた。
国民の間には、二つの感情が広がっていた。
一つは、当然だという怒り。
もう一つは、ここまで重い司法判断が続くことへの不安。
だが、極左暴力集団や、彼らとつながる一部外国人活動家への支持は、広がらなかった。
共産系、社会民主系、令明系、中道連盟、立憲民政党の一部残存勢力が、判決を批判しても、国民の反応は冷たかった。
《手続き論は大事。でも被災者を襲った事実を無視するな》
《死刑制度への議論と、今回の犯罪の擁護は別》
《国会議員諜報テロ事件から何も学んでない》
《外国人全体を守りたいなら、外国工作に関わった人間を擁護するな》
《避難所を襲った時点で終わり》
《動物虐待動画を戦術にしたやつを擁護できるわけがない》
国民の怒りは、政権支持というより、生活と尊厳を踏みにじられたことへの怒りだった。
被災者は、政治の駒ではなかった。
水を待つ人々は、革命の舞台装置ではなかった。
避難所の子どもは、国家を揺さぶる心理戦の標的ではなかった。
その当たり前が、判決を支える世論の底にあった。
☆☆☆ ☆☆☆
九月二十日、午後八時。
官邸危機管理センター。
主要裁判の判決確定を受け、高嶺紗枝は関係閣僚会議を開いた。
羽鳥が報告する。
「避難所周辺暴動事件、主要首謀者の裁判は九月二十日までに最高裁までの手続きが終結。第一審は覆らず、死刑または仮釈放なしの無期懲役が確定しました。帰化取り消しおよび国外退去処分も、主要対象について順次確定しています」
法務大臣が続ける。
「行政処分への不服申立てが一部あります。刑事事件と行政事件は分けて対応します。処分対象者の中には、家族関係を理由に処分されたと主張する者もいますが、政府としては個別関与と不正取得に基づく処分であることを示していきます」
高嶺は頷いた。
「そこは、丁寧に。国民の怒りが強い時ほど、手続きは丁寧に」
警察庁長官が言った。
「全国の避難所周辺暴動は沈静化。極左暴力集団の拠点捜索と関係者逮捕により、組織的動員能力は大きく低下しています。ただし、国外サイトや暗号化通信での残存活動は確認されています」
小森防衛大臣が続ける。
『自衛隊と海保への脅迫投稿は減少しました。現場では、災害派遣任務を通常ローテーションに戻しつつあります。ただ、精神的疲労は限界に近い部隊があります』
片倉皐月が言った。
『復旧財政に、心のケア、避難所警備、情報リテラシー支援、動物保護支援、外国人避難者支援、国会信頼回復費用を組み込みます。もはや道路と港だけ直せばいい段階ではありません』
高嶺は、静かに答えた。
「はい」
秋庭外務大臣が資料を出した。
「国際的には、今回の一連の事件を指す名称が必要になっています。米国側、欧州側の報告書では、すでに『日本国会諜報テロ事件』に相当する表現が使われ始めています。国内でも、後に正式な検証報告で名称が定まる見込みです」
橘が言った。
「報道では、『令和〇年国会議員諜報テロ事件』という呼称が広がり始めています」
高嶺は、その言葉を繰り返した。
「令和〇年国会議員諜報テロ事件」
会議室が静かになった。
名前がつく。
それは、出来事が歴史になるということだった。
地震、津波、噴火、南西諸島危機、捏造動画、国会閉鎖、内乱罪、外患誘致罪、避難所暴動。
すべてが、ひとつの長い災厄の中へ組み込まれていく。
高嶺は言った。
「名前がついたら、終わったように見えます。でも、終わっていません」
羽鳥が頷いた。
「はい」
「名前は、忘れないためにつけるものです。片づけるためではありません」
その言葉は、議事録に残された。
☆☆☆ ☆☆☆
九月二十日、午後十時。
東京の避難所。
鹿児島出身の女性は、掲示板の前に立っていた。
裁判のニュースは、もう避難所の人々を驚かせなくなっていた。驚く力が、少しずつ削られていたのかもしれない。
東京の男性が、紙コップの水を持ってきた。
「飲みます?」
「ありがとうございます」
女性は受け取った。
掲示板には、たくさんの紙が貼られている。
火山灰は水で流さない
不確かな映像を広げない
わからない時は、わからないまま待つ
事実を待つことは、誰かを守ること
ここでは なかよくする
こわい動画を見たら、ひとりで抱えない
悪いことをした人が悪い
困っている人は、ここにいていい
男性は、掲示板を見て言った。
「これ、避難所の歴史ですね」
女性は頷いた。
「最初は灰のことだけだったのに」
「今は、嘘とか、国籍とか、怖い動画とか」
「災害って、いろんなものを連れてきますね」
「はい」
しばらく沈黙した後、男性が言った。
「『令和〇年国会議員諜報テロ事件』って、ニュースで言ってました」
「名前がついたんですね」
「はい」
「名前がつくと、遠くなりますね」
男性は少し考えた。
「でも、自分たちは覚えてますよ」
女性は、掲示板を見た。
「そうですね」
彼女は、最後に小さな紙を一枚貼った。
忘れない
でも、憎み続けるだけにしない
男性は、それを見て静かに頷いた。
☆☆☆ ☆☆☆
九月二十一日、午前零時。
日付が変わった。
九月十四日から始まった暴動事件の裁判は、主要部分で終結した。
帰化者五百三十九名と、その家族のうち個別関与または不正取得が認定された者への帰化取り消し・国外退去処分。
極左暴力集団への内乱罪および外患誘致罪の適用。
首謀者への死刑判決。
主要実行犯への仮釈放なしの無期懲役。
旧国際テロ組織「東亜赤軍連盟」元最高幹部、重原房江への外患誘致罪による死刑判決。
即日控訴。
高裁維持。
最高裁棄却。
九月二十日までに、主要な死刑および無期懲役判決は確定した。
後に、この一連の事件は、正式な検証報告書の中で、こう名付けられることになる。
令和〇年国会議員諜報テロ事件――。
ただし、その名前に含まれるのは、国会議員による捏造動画事件だけではなかった。
中国政府系工作。
国会議員会館からの生成AIアクセス。
核密談捏造動画。
国会閉鎖。
内乱罪・外患誘致罪判決。
避難所周辺暴動。
動物虐待動画による恐怖拡散。
極左暴力集団の動員。
外国籍工作関係者の退去処分。
帰化取り消し。
旧国際テロ組織元最高幹部の関与。
そして、被災地の水と、避難所の子どもと、灰の積もった掲示板。
それらすべてが、この名前の中に閉じ込められていく。
官邸危機管理センターでは、高嶺紗枝が午前零時の報告を受けていた。
羽鳥が言った。
「主要裁判は終結。残る個別事件、行政不服申立て、国外退去手続き、被害者支援、避難所警備、情報外傷ケアは継続します」
小森が続ける。
『自衛隊災害派遣は、段階的に通常ローテーションへ移行。ただし南海、相模、富士山麓では支援継続。南西諸島は警戒監視継続』
秋庭が言った。
『国際的には、日本の司法判断への支持と懸念が混在しています。中国政府は引き続き政治弾圧と非難していますが、同調国は限定的です』
片倉が言った。
『復旧財政は、第二段階へ移ります。仮設住宅、港湾、医療、教育、除灰、心のケア、情報空間対策、外国人住民支援。全部まとめて進めます』
高嶺は、ゆっくり頷いた。
「お願いします」
彼女は、六つの画面を見た。
南海。
相模。
富士山。
南西諸島。
通信空間。
国会。
赤は、まだ消えていない。
だが、ある場所では赤が橙に変わり、ある場所では黄色に近づいていた。
完全な安全ではない。
しかし、最悪の連鎖は、少しずつ止まり始めていた。
高嶺は、静かに言った。
「裁判が終わっても、復旧は終わりません」
羽鳥が答えた。
「はい」
「判決が出ても、傷は消えません」
「はい」
「でも、名前がついた。記録が残る。なら、次は直す番です」
橘が頷いた。
「国会の信頼も、被災地も、情報空間も」
「はい」
高嶺は、水を一口飲んだ。
唇の傷は、もう跡も見えない。
だが、あの鉄の味は、まだ記憶の奥にある。
午前零時。
九月二十一日が始まった。
日本は、判決の夜を越えた。
だが、朝はまだ遠い。
それでも、避難所では誰かが毛布を畳み、給水所ではタンクが満たされ、港では瓦礫が運ばれ、富士山麓では泥流警戒の見回りが続き、南西の海では巡視船が灯をともしていた。
そして、東京のある避難所の掲示板には、小さな紙が貼られていた。
忘れない
でも、憎み続けるだけにしない
国は、その言葉の意味を、これから長い時間をかけて学ばなければならなかった。




