第二十八話 映された参議院
十月一日、午前零時。
日本は、秋の入口に立っていた。
だが、その秋は、例年のような涼やかさではなかった。南海トラフ巨大地震の津波に洗われた沿岸部には、まだ瓦礫の山が残り、相模トラフ・首都直下地震で沈み込んだ湾岸部には、仮設道路と応急岸壁が並んでいる。富士山噴火で降り積もった灰は、ようやく空からは消えつつあったが、地上には残った。屋根、道路、校庭、排水溝、工場の敷地、港湾の資材置き場。白く乾いた灰は、風が吹くたびに舞い、復旧作業員のマスクを汚した。
南西諸島では、海上保安庁と海上自衛隊の警戒が続いていた。中国人民解放軍海軍は直接脅威海域から姿を消したが、誰も油断していない。巡視船の灯は夜の海に浮かび、航空自衛隊の監視機は一定の間隔で空を切った。米軍との情報共有も続いている。
そして、東京。
国会は、衆議院に続き、参議院を再開することになった。
九月三十日、災害復興支援臨時予算案は、衆議院で賛成圧倒的多数により通過した。反対したのは、日本民衆共産党、社会民主会、令明新生組だけだった。中道連盟は、かつて所属していた有島芳政の罪を背負いながらも、被災地支援を優先するとして賛成に回った。立憲民政党も、党所属議員四名が事件に関与した重い事実を認めたうえで、復興を止めることはできないとして賛成した。
しかし、予算はまだ成立していなかった。
参議院が残っている。
十月十二日の会期末までに、予算を成立させなければならない。被災自治体は待っていた。仮設住宅の発注、港湾復旧の本契約、医療機関への補助、学校再開支援、降灰処理費、避難所環境改善費、心のケア、外国人避難者支援、動物保護体制、自衛隊と海上保安庁、警察、消防の活動費補填。すべてが、予算成立を前提に動き出す準備をしていた。
それでも、参議院再開を前に、官邸危機管理センターの空気は晴れなかった。
衆議院で見た光景が、参議院でも繰り返される予感があったからだ。
☆☆☆ ☆☆☆
午前七時三十分。
官邸危機管理センター。
高嶺紗枝首相は、参議院再開前の報告を受けていた。
羽鳥真紀危機管理監が、資料をめくる。
「本日より参議院が議会再開。衆議院同様、全日程の議論がテレビとインターネットで中継されます。議場、委員会、理事会後の公式説明も原則公開対象となります」
橘義隆官房長官が続ける。
「参議院でも、令和〇年国会議員諜報テロ事件に関する質問が相次ぐ見込みです。特に日本民衆共産党、社会民主会、令明新生組、立憲民政党の一部議員が、政府による扇動、国会閉鎖、司法判断の速さ、通信治安維持命令をめぐって質問を準備しています」
片倉皐月財務大臣が、画面越しに疲れた声で言った。
『また予算の話が後回しになる可能性がありますね』
高嶺は、頷いた。
「でしょうね」
法務大臣が言った。
「司法で証明された内容については、衆議院と同じく、私から答弁します。中道連盟の有島芳政元議員が中国政府系勢力と共謀し、捏造動画を作成し、メディアに流すよう強要したこと。極左暴力集団や重原房江らと共謀し、国内暴動を扇動したこと。その共謀が中国人民解放軍海軍による射撃事案以前から続いていたこと。桐生玄二前代表、有島芳政元議員らへの判決が最高裁で確定したこと。これを繰り返し答弁します」
小森進一防衛大臣が、低く言った。
『繰り返すだけでも、現場の時間は削られます』
高嶺は答えた。
「それでも、答えなければなりません。国会で問われたことには答える。それが政府です。ただし、復興予算の審議を進めるよう、議長と各会派には強く要請してください」
秋庭遼介外務大臣が言った。
「海外からも注視されています。国会中継が全面公開される以上、日本の議会が復興予算をどう扱うか、同盟国も支援国も見ています」
高嶺は、少しだけ目を伏せた。
「見られることは、痛みを伴います。でも、今は必要です」
羽鳥が頷いた。
「はい」
高嶺は、参議院の予定表を見た。
十月一日から十月十二日。
会期末まで、時間は少ない。
被災地にとっては、すでに遅すぎるくらいだった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十時。
参議院本会議。
議長が開会を宣言した。
テレビとインターネット中継が始まる。衆議院の時よりも、さらに多くの人がアクセスしていた。被災地の避難所だけではない。自治体庁舎、病院、学校、建設会社、漁協、商工会、海外支援機関、在日外国人支援団体、そして一般家庭。多くの人が、参議院が何を話すのかを見ていた。
高嶺紗枝首相は政府席に座っていた。
片倉皐月財務大臣、法務大臣、復興担当大臣、小森進一防衛大臣、秋庭遼介外務大臣、橘義隆官房長官も出席している。
議題は、災害復興支援臨時予算案。
そのはずだった。
しかし、最初に質問に立った日本民衆共産党の議員は、予算の数字には触れなかった。
「総理。まず、令和〇年国会議員諜報テロ事件について伺います。政府は、この事件をもって反政府勢力、反戦勢力、政権批判勢力を一掃する政治的空気を作ったのではありませんか。桐生玄二前代表らへの判決は司法で確定したとされていますが、そもそも政府が世論を扇動したのではありませんか」
議場がざわめいた。
傍聴席だけでなく、画面の向こうの国民も、同じようにざわついた。
《またこれか》
《参議院も最初からスパイテロ事件?》
《復興予算の話をしてくれ》
《法務大臣、何回同じ答弁するんだろう》
高嶺が立つ前に、法務大臣が答弁に立った。
「司法で証明された内容について、法務大臣として答弁します。日本民衆共産党前代表、桐生玄二被告は、国会議員会館内の代表執務室において、中国製動画生成AIへのアクセス、中国政府系連絡先との通信、捏造動画の内容協議、反首相派メディアへの売り込み方針、極左暴力集団による圧力方針に関与した実行主犯として、死刑判決が確定しています」
法務大臣は、淡々と続けた。
「また、中道連盟の有島芳政元議員は、中国政府系関係者と共謀し、内閣総理大臣と米国大使による核密談を装った捏造動画の作成に関与し、これをメディアへ流すよう強要しました。さらに、有島元議員は極左暴力集団および刑期を終えて出所していた旧国際テロ組織元最高幹部、重原房江らと共謀し、国内での暴動行為を扇動したことが認定されています」
議場は静かになった。
「この共謀関係は、中国人民解放軍海軍による射撃事案以前から続いていたことも、通信記録、押収資料、被告人供述、米国提供資料により認定されています。司法は、これらを踏まえ、内乱罪および外患誘致罪の適用を認めました。政府による扇動があったとの事実は、判決において認定されていません」
日本民衆共産党の議員は、なお食い下がる。
「しかし、国民には疑念が残っています」
法務大臣は、静かに答えた。
「疑念を述べることは自由です。しかし、国会において、司法で認定された犯罪事実を無視し、具体的証拠なく政府扇動へ論点を置き換えることは、被災者、二十三名の殉職者の遺族、そして国民に対する責任ある議論とは言えません」
その答弁は、衆議院で聞いたものとほとんど同じだった。
国民も、それを感じていた。
《一字一句聞いた気がする》
《法務大臣の答弁テンプレ化してる》
《質問する側が同じこと聞くからだろ》
《予算案どこ行った》
☆☆☆ ☆☆☆
十月二日。
社会民主会の議員が質問に立った。
「政府は、国会閉鎖、通信治安維持命令、死刑判決を通じて、国民を恐怖で支配しようとしているのではありませんか。令和〇年国会議員諜報テロ事件を、政権強化に利用した疑いがあります」
法務大臣が、再び答弁した。
「国会施設の一時閉鎖は、議長への通告、議院運営委員会との協議、司法手続きによる証拠保全を伴って実施されました。政府が国会を恒久停止したものではありません。閉鎖の結果、国会議員会館内から中国製動画生成AIへのアクセス記録、中国政府系連絡先との通信、捏造動画作成の痕跡が保全され、司法判断につながりました」
社会民主会の議員は、死刑判決の速さを批判した。
「これほど短期間で死刑判決が確定したこと自体、政府の空気づくりがあったのではないですか」
法務大臣は答えた。
「裁判の速度について議論することは可能です。しかし、司法が認定した証拠は、通信情報、動画生成履歴、押収資料、被告人供述、米国提供資料により相互に裏付けられています。政府が判決を指示した事実はありません」
中継を見ていた国民の反応は、さらに厳しくなった。
《また政府扇動説》
《死刑制度の議論なら分かる。でも復興予算の審議でやること?》
《被災地は予算を待ってる》
《社会民主会、被災者見えてる?》
中には、議員の名前や事務所住所、家族構成、過去の住所などを晒す投稿も出始めた。
《こいつの事務所ここ》
《家族も同罪だろ》
《近所の人、抗議して》
警察庁サイバー部門は即座に動いた。
個人情報晒し、脅迫、業務妨害の疑いがある投稿について、削除要請と発信者特定を進めた。
その夜、最初の逮捕者が出た。
――――
ニュース速報
国会議員への個人情報晒し投稿
脅迫・業務妨害容疑で投稿者を逮捕
政府「批判と違法行為は別」
――――
高嶺は、短いコメントを出した。
『国会議員への批判は自由です。しかし、個人情報を晒し、家族を脅し、事務所や自宅へ押しかけるよう扇動する行為は違法です。政府に批判的な議員であっても、法によって守られます』
この発言は、賛否を呼んだ。
《当然。晒しはダメ》
《あいつらは国民を騙した側だろ》
《それでも家族晒しは違う》
《政府批判も野党批判も、違法行為はダメ》
国民の怒りは、今度は別の危険な形を取り始めていた。
☆☆☆ ☆☆☆
十月三日から十月五日。
参議院では、同じような質問が続いた。
令明新生組は、政府が事件を利用して情報空間を統制しようとしていると主張した。
立憲民政党の一部議員は、党所属だった小湊博章、蓮城美蘭、辻倉清花、杉瀬秀明が無期懲役判決を受けたことについて、党としての責任は認めつつも、政府による事件利用の検証が必要だと述べた。
法務大臣は、毎日のように同じ内容を答弁した。
司法で証明された内容。
桐生玄二は外患誘致実行主犯として死刑。
有島芳政は外患誘致共謀主犯として死刑。
佐原美都、雨宮蓮司、小湊博章、蓮城美蘭、辻倉清花、杉瀬秀明は内乱実行犯として死刑。
有島芳政は中国政府と共謀し、捏造動画を作成し、メディアに流すよう強要した。
有島芳政は極左暴力集団と重原房江らと共謀し、国内暴動を扇動した。
共謀は中国人民解放軍海軍の射撃事案以前から続いていた。
内乱罪と外患誘致罪の適用は、最高裁まで維持された。
政府による扇動は司法判断で認定されていない。
同じ答弁が、連日、テレビとインターネットで流れた。
国民の苛立ちは、日に日に大きくなった。
《また同じ質問》
《法務大臣の声が疲れてる》
《復興予算の話をしてくれ》
《参議院、衆議院よりひどい》
《議員報酬三割減額の議論は?》
《国債発行の規模は?》
《仮設住宅の着工は?》
《被災地置き去り》
罵倒も増えた。
投稿の中には、怒りに任せた侮辱、脅迫まがいの言葉、個人情報晒しが混じった。
警察は、連日、悪質なものを立件した。
十月五日までに、国会議員への個人情報晒しや脅迫に関する逮捕者は、二十名を超えた。
政府は、何度も呼びかけた。
――――
政府・警察庁共同注意喚起
国会議員への批判は自由
個人情報晒し・脅迫・家族攻撃は違法
怒りを犯罪に変えないでください
――――
それでも、怒りは簡単には収まらなかった。
国民は、国会議員諜報テロ事件で自分たちが騙されかけたと感じていた。
そして今、その事件をめぐる同じ質問が、復興予算審議を削っているように見えた。
その不満は、激しかった。
☆☆☆ ☆☆☆
十月六日、午後一時。
高知県の避難所。
井ノ口は、テレビを見ながら、ついにリモコンを置いた。
「もう消す」
森下三曹が、給水表を確認しながら顔を上げた。
「国会ですか」
「同じ話ばっかりや。法務大臣も気の毒や」
近くの高齢女性が頷いた。
「仮設住宅の話、まだ?」
「まだや」
井ノ口は、ため息をついた。
「国会議員の給料三割減らす話も、ちゃんと聞きたいのに」
別の避難者が言った。
「国債って、結局どのくらい出すんやろ」
「知らん。だって質問せんもん」
森下は、何も言えなかった。
被災地では、政治的な陰謀論よりも、明日の水、来月の住まい、冬までの学校、港の再開、病院の診療再開が重要だった。
井ノ口は、静かに言った。
「スパイテロ事件は大事や。忘れたらいかん。でも、忘れんことと、毎日同じ質問することは違うやろ」
森下は、頷いた。
「はい」
その言葉は、避難所の多くの人の気持ちを表していた。
☆☆☆ ☆☆☆
十月八日。
参議院の審議は、ついに世論の強い反発を受ける形となった。
この日も、日本民衆共産党、社会民主会、令明新生組、立憲民政党の議員から、政府扇動疑惑に関する質問が続いた。
法務大臣は、また答弁した。
「司法で証明された内容は、繰り返し申し上げている通りです」
その瞬間、SNSでは、同時多発的に反応が起きた。
《「繰り返し申し上げている通りです」が今年の国会流行語》
《法務大臣、もう録音でいい》
《質問する議員は被災地に行け》
《復興予算の質問をしない議員の報酬こそ減らせ》
《個人情報晒しはダメ。でも怒りは分かる》
《この時間で仮設住宅何戸分の議論ができたんだ》
笑い混じりの投稿もあった。
だが、その下には本物の怒りがあった。
午後には、また個人情報晒しが出た。
今度は、立憲民政党の議員の自宅周辺写真と、家族と思われる人物への中傷が投稿された。
警察は即座に発信者を特定し、翌朝までに逮捕した。
――――
ニュース速報
参議院議員への個人情報晒し
投稿者を逮捕
警察庁「政治的怒りは犯罪の免罪符にならない」
――――
高嶺は、官邸でその報告を聞き、静かに言った。
「野党議員であっても守る。これは徹底してください」
警察庁長官が答える。
「はい」
高嶺は続けた。
「国民の怒りは分かります。しかし、怒りで法を破れば、諜報テロ事件の犯人たちが望んだ分断に近づいてしまう」
羽鳥が頷いた。
「はい」
高嶺は、少し疲れた表情で、参議院中継の画面を見た。
「明日こそ、予算の話に入ってほしいですね」
誰も、軽く同意できなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
十月九日、午前十時。
ようやく、参議院で災害復興臨時予算案そのものへの質問が始まった。
最初に立ったのは、立憲民政党の別の議員だった。
彼は、冒頭でこう述べた。
「令和〇年国会議員諜報テロ事件の検証は必要です。しかし、被災地は待っています。本日は、復興予算の中身について質問します」
議場の空気が、少しだけ変わった。
中継を見ていた国民の反応も変わった。
《やっと予算》
《この議員はまとも》
《十月九日まで長かった》
《ここから頼む》
質問は、具体的だった。
仮設住宅の建設予定戸数。
冬を前にした避難所の暖房対策。
沿岸部の高台移転支援。
港湾復旧の優先順位。
富士山降灰処理の費用負担。
学校再開とオンライン教育支援。
被災医療機関への緊急補助。
自衛隊・警察・消防・海上保安庁の心のケア。
外国人避難者への多言語相談。
動物保護と避難所ペット同伴スペース。
復興国債の償還計画。
議員報酬三割減額の期間と使途。
片倉皐月財務大臣は、資料を見ながら答えた。
「復興国債については、単年度で完結するものではなく、複数年度にわたる発行を想定しています。ただし、使途を明確に限定し、復旧・復興・防災力強化に紐づけます。償還計画については、経済回復、税収、歳出改革と合わせて段階的に示します」
復興担当大臣が続いた。
「仮設住宅については、寒冷期前の入居を最優先に、被災自治体ごとに必要戸数を再確認しています。高台移転については、住民合意を急ぎつつも、拙速な移転先決定で地域を壊さないよう配慮します」
小森防衛大臣は、隊員ケアについて答えた。
「災害派遣、自衛隊、海上保安庁、警察、消防、自治体職員は、長期にわたり極限状態で任務に当たっています。救えなかった命への自責、暴動対応、虐待動画の証拠保全、遺族対応による心理的負荷があります。本予算案では、心のケアとローテーション維持に必要な費用を計上しています」
議場は、久しぶりに本来の機能を取り戻したようだった。
短時間ではあった。
それでも、実のある議論だった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時。
参議院予算委員会。
議員報酬三割減額案について、各党から質問が出た。
ある与党議員が問う。
「議員報酬三割減額は、国民感情に応える意味はあります。しかし、これを単なる象徴で終わらせないため、使途を明確にすべきではありませんか」
片倉財務大臣は答えた。
「減額分は、被災児童の学習支援、遺族支援、避難所環境改善、情報外傷を受けた子どもへの心理ケアに充当する案です。金額として復興全体を左右する規模ではありません。しかし、政治が自ら痛みを負う姿勢を示すことには意味があります」
中道連盟の議員が質問した。
「三割減額に期間の上限はありますか。恒久化すれば、政治家を志す人材の幅を狭める恐れもあります」
片倉は頷いた。
「期限付きです。復興臨時予算期間に合わせ、一定期間で見直します。政治家の報酬を感情的に削ればよいとは考えていません。今回は、国会議員諜報テロ事件によって国会への信頼が著しく損なわれたこと、そして未曾有の災害復興に政治が責任を示す必要があることを踏まえた特例です」
この答弁は、一定の評価を受けた。
《報酬減額の使途が子ども支援なら納得》
《期限付きは大事》
《感情だけで議員報酬削るのは危ないから説明があってよかった》
《ようやく国会らしい議論》
参議院の空気は、十月一日から八日までの停滞から、少しだけ変わり始めていた。
☆☆☆ ☆☆☆
十月十日から十月十一日。
会期末を前に、審議は一気に進んだ。
それまで費やされた時間を取り戻すように、各委員会は長時間審議となった。
港湾復旧。
鉄道再開。
中小企業支援。
農漁業再建。
医療機関再建。
学校の再開。
富士山降灰処理。
外国人避難者支援。
情報災害対策。
国会議員諜報テロ事件の再発防止。
議員会館ネットワークの監査。
国会施設の通信管理。
生成AI利用の規制。
報道機関への偽情報持ち込み対応。
SNSでの個人情報晒し対策。
議論すべきことは山ほどあった。
時間は足りなかった。
それでも、十月九日以降の参議院は、少なくとも予算に向き合った。
被災地の反応も、少し変わった。
高知の避難所で、井ノ口はテレビを見ながら言った。
「やればできるやないか」
森下が、少し笑った。
「ですね」
「最初からやってほしかったけどな」
「はい」
井ノ口は、腕を組んだ。
「でも、まあ、進むならえい」
その言葉には、疲れた人間の現実的な許しがあった。
☆☆☆ ☆☆☆
十月十二日、午前十時。
参議院本会議。
会期末。
災害復興支援臨時予算案の採決が行われた。
議場には、衆議院採決の日と同じような緊張があった。ただし、今回は、参議院での長い停滞を見ていた国民の視線がさらに厳しい。
採決前の討論。
与党は、早期執行を訴えた。
「被災地は、すでに待ち続けています。本予算案は、完全ではありません。しかし、動かさなければ、仮設住宅も、港湾復旧も、医療再建も、学校再開も遅れます」
立憲民政党は、課題を指摘しつつ賛成した。
「審議の初期において、事件検証に多くの時間を費やしたことについては、国会全体で反省が必要です。しかし、本予算案は被災地のために不可欠であり、賛成します」
中道連盟も賛成した。
「有島芳政元議員の犯罪によって本党への信頼は深く傷つきました。だからこそ、復興予算には責任を持って賛成します。今後、党として再発防止と説明責任を果たします」
日本民衆共産党、社会民主会、令明新生組は、最後まで反対した。
日本民衆共産党の議員は述べた。
「本予算案は、復興の名の下に治安維持、情報統制、防衛支出を拡大するものです。われわれは反対します」
社会民主会の議員は言った。
「災害支援には賛成ですが、国会議員諜報テロ事件を利用した政府権限拡大には反対です」
令明新生組の議員も続けた。
「高嶺政権への白紙委任となる予算案には賛成できません」
議場の空気は、冷たく、しかし静かだった。
議長が採決を宣言する。
「これより、災害復興支援臨時予算案について採決いたします」
賛成多数。
いや、圧倒的多数。
結果は、すぐに示された。
――――
参議院採決
災害復興支援臨時予算案
賛成圧倒的多数で可決・成立
議員報酬三割減額、復興国債発行を含む
反対は日本民衆共産党・社会民主会・令明新生組
――――
議場に、静かな拍手が起きた。
それは勝利の拍手ではなかった。
ようやく、という拍手だった。
高嶺紗枝は、深く一礼した。
片倉皐月は、手元の資料を閉じた。
復興担当大臣は、目を赤くしていた。
小森進一は、現場の部隊へ送る通達文をすでに考えていた。
秋庭遼介は、海外支援国への連絡を準備していた。
橘義隆は、即時執行のための官邸会議を招集した。
予算は、成立した。
☆☆☆ ☆☆☆
午後一時。
官邸危機管理センター。
予算成立直後、執行会議が開かれた。
高嶺は、冒頭で言った。
「成立しました。ここからが本番です。今日中に、被災自治体への第一弾配分を通知してください」
片倉財務大臣が、即座に答える。
「準備済みです。南海トラフ沿岸自治体、相模湾岸・東京湾岸自治体、富士山麓自治体、降灰被害自治体へ、第一弾の概算払いを開始します。仮設住宅、医療、避難所環境改善、港湾応急復旧、降灰処理を優先します」
復興担当大臣が続ける。
「仮設住宅については、すでに用地調整済みの自治体から即時発注に入ります。学校再開支援、医療機関仮設診療所、福祉避難所の拡充も並行します」
小森防衛大臣が言った。
『自衛隊の災害派遣ローテーションを見直します。即応予備自衛官、予備自衛官の任務整理も始めます。現場部隊の装備補修と隊員ケアへ予算を回します』
警察庁長官が言った。
「避難所警備、個人情報晒し対策、偽情報対応、外国人避難者保護、暴力集団残党監視を継続します」
秋庭外務大臣が報告する。
「米国、台湾、欧州各国、国際機関へ、予算成立と支援調整の次段階を通知します。台湾からの大規模支援金、米国の新トモダチ作戦、欧州各国の医療支援との接続を進めます」
高嶺は、一つ一つ頷いた。
「遅れた分、急ぎましょう。ただし、現場を潰さないように」
羽鳥が答える。
「はい」
高嶺は、続けた。
「議員報酬三割減額分は、被災児童支援、遺族支援、避難所環境改善、情報外傷ケアに振り分けてください。象徴で終わらせないように」
片倉が頷く。
「はい」
ようやく、数字が現場へ流れ始めた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時。
高知県内の避難所。
テレビで予算成立の速報を見た井ノ口は、しばらく黙っていた。
森下が尋ねる。
「通りました」
「そうやな」
「これで、少し動きます」
井ノ口は、目を細めた。
「少し、やな」
「はい」
「でも、少しでも動くならえい」
避難所の中では、拍手が起きた。
大きくはない。
疲れた手の、小さな拍手だった。
ある母親が言った。
「仮設住宅、早く」
高齢男性が言った。
「病院もお願いします」
漁師が言った。
「港を頼む」
森下は、その声を聞きながら、予算成立という言葉の重みを感じていた。
それは東京の議場で決まるものだった。
だが、意味はここにあった。
水の列。
毛布。
仮設トイレ。
泥のついた靴。
学校へ行けない子ども。
港を失った漁師。
灰を吸って咳をする高齢者。
その一つ一つへ、ようやく国の金が向かい始める。
☆☆☆ ☆☆☆
午後六時。
東京の避難所。
鹿児島出身の女性は、掲示板に新しい紙を貼った。
予算が通りました
でも、すぐ全部が直るわけではありません
困ったことは、記録して伝えましょう
待つだけでなく、声を届けましょう
東京の男性が、それを見て言った。
「また掲示板が増えましたね」
「もう壁が足りません」
「避難所の歴史ですから」
中国系の女性避難者が、近づいてきた。
「予算、外国人にも関係ありますか」
鹿児島出身の女性は頷いた。
「多言語相談と避難者支援が入っているそうです」
中国系の女性は、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった」
子どもが、紙を見ながら言った。
「よさんってなに?」
東京の男性が考え込む。
「みんなを助けるためのお金の使い道、かな」
子どもは首をかしげた。
「じゃあ、早く使えばよかったのに」
大人たちは、少しだけ黙った。
その通りだった。
けれど、国はそう簡単には動かない。
だからこそ、動き出した一歩を無駄にしてはいけなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
十月十二日、午後九時。
官邸危機管理センター。
会期末の夜。
災害復興支援臨時予算案は、参議院を通過し、成立した。すでに被災地への第一弾配分通知は出され、仮設住宅、港湾、医療、降灰処理、避難所環境改善に向けた事業が動き始めている。
高嶺紗枝は、午後九時の報告を受けていた。
羽鳥が言った。
「予算成立後、被災自治体への第一弾配分通知完了。複数自治体で即時発注準備に入りました」
片倉が続ける。
『復興国債の発行準備に入ります。市場への説明も始めます。議員報酬三割減額の執行手続きも進めます』
復興担当大臣が言った。
「仮設住宅、医療、港湾、降灰処理を優先します。自治体の事務負担を減らすため、申請手続きは簡素化します」
小森が言った。
『災害派遣のローテーション改善に入ります。隊員の休息を確保します』
秋庭が続ける。
『海外支援との接続も次段階へ進みます。米国、台湾、欧州各国へ、予算成立を通知済みです』
橘が言った。
「参議院審議の初期にスパイテロ事件への質問が集中したことへの国民の批判は強いです。一方で、十月九日以降の実質審議と予算成立は一定の評価を受けています」
高嶺は、深く息を吐いた。
「長かったですね」
羽鳥が答える。
「はい」
「でも、成立しました」
「はい」
高嶺は、六つの画面を見た。
南海。
相模。
富士山。
南西諸島。
通信空間。
国会。
すべての赤は、まだ消えない。
だが、予算という太い線が、ようやくそれらをつなぎ始めていた。
復旧は、祈りだけでは進まない。
現場の努力だけでも進まない。
金がいる。
制度がいる。
人がいる。
時間がいる。
そして、信頼がいる。
高嶺は、静かに言った。
「ここから、国は数字を現場に変えなければなりません」
片倉が画面越しに頷いた。
『予算書は紙です。現場へ届いて初めて支援になります』
「はい」
高嶺は、水を一口飲んだ。
十月十二日。
会期末。
国会は、傷ついたまま、何とか復興予算を成立させた。
日本民衆共産党、社会民主会、令明新生組は反対した。
だが、圧倒的多数は、被災地を前へ進めることを選んだ。
高嶺は、資料を閉じた。
「次の報告を」
羽鳥が答える。
「はい」
外では、秋の風が、わずかに残った灰を動かしていた。
避難所では、誰かが掲示板の前に立っていた。
港では、夜間作業の灯が点いていた。
富士山麓では、泥流警戒の巡回が続いていた。
南西の海では、巡視船が灯をともしていた。
国会は閉じた。
だが、復興は、ようやく始まったばかりだった。




