第二十四話 確定の日
九月六日、午後七時。
東京地方裁判所で下された判決は、日本全土を揺らしていた。
捏造動画事件。
中国政府系関係者との共謀。
中国製動画生成AIを用いた、内閣総理大臣と米国大使の核密談映像の作成。
災害対応中の国内世論と日米同盟の破壊を目的とした拡散。
国会議員会館を拠点とする通信。
極左暴力集団を用いた報道機関への圧力。
そして、南西諸島で海上保安官と自衛官二十三名が命を落とした直後に、その犠牲を政権打撃の燃料として利用したこと。
東京地裁は、被告人全員に対し、内乱罪および外患誘致罪を適用し、死刑を言い渡した。
憲政史上初――。
あまりにも重い言葉だった。
判決直後、全被告は即日控訴した。
その速報は、避難所、駐屯地、官邸、防衛省、海上保安庁、国会前、裁判所前、病院の待合室、除灰作業中の作業車の中、南海トラフ被災地の体育館、相模トラフ被災地の港湾事務所、富士山麓の避難所にまで届いた。
国民の反応は、単純ではなかった。
《当然だ。国を売った罪は重い》
《死刑は重すぎるのでは》
《でも証拠を見たら擁護できない》
《災害中に外国政府と組んで偽動画とか許せない》
《裁判が早すぎる。怖い》
《二十三人の死を利用したんだぞ》
《控訴審で慎重に見てほしい》
《あの政党たちは国民を騙した》
怒り。
恐怖。
安堵。
不信。
法への期待。
法への不安。
それらが同時に流れていた。
だが、一つだけ、はっきりしていた。
日本民衆共産党、社会民主会、令明新生組、中道改革連合の一部、立憲民政党の一部関係者への同情は、国民の間にはほとんど広がらなかった。
支持者でさえ、沈黙した。
なぜなら、多くの国民が、被害者は政府ではなく自分たちだと感じ始めていたからだった。
騙されかけたのは、国民だった。
裂かれかけたのは、被災地だった。
止まりかけたのは、災害対応だった。
傷つけられたのは、南西の海で死んだ二十三名の名誉だった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後七時四十分。
官邸危機管理センター。
高嶺紗枝首相は、判決後の国内反応と控訴手続きの報告を受けていた。
羽鳥真紀危機管理監が資料を読み上げる。
「全被告が即日控訴。東京高等裁判所は、事案の重大性、国際的影響、証拠保全状況、被告人多数の自供、災害対応への影響を踏まえ、明日九月七日に控訴審を開く方向で調整しています」
高嶺は目を伏せた。
「早すぎる、という批判が出ます」
法務大臣が答えた。
「すでに出ています。ただし、裁判所は、弁護人の意見陳述、証拠調べ、第一審記録の精査、米国提供資料の真正性確認を行うとしています。異例中の異例ですが、被告人らの多くが核心事実を認めている点も考慮されています」
片倉皐月財務大臣が画面越しに言った。
『市場と自治体は、政治・司法の長期混乱を恐れています。早く結論を出すことには意味がありますが、拙速に見えれば別の不信を生みます』
高嶺は頷いた。
「司法の判断に政府は口を出しません。ただし、政府コメントでは、控訴審があること、弁護権があること、政府は判決に介入しないことを繰り返してください」
橘義隆官房長官が答える。
「はい」
小森進一防衛大臣は、防衛省から低い声で言った。
『現場自衛官、海上保安庁職員の間では、判決を支持する声が強いです。ただ、死刑という言葉の重さに沈黙している者も多い』
高嶺は、静かに言った。
「そうでしょうね」
小森は続けた。
『二十三名のご遺族には、判決の速報を個別に伝えています。反応はさまざまです。厳罰を当然とする方、何も言えない方、裁判が早すぎるのではと心配する方もいます』
高嶺は、長く息を吐いた。
「ご遺族の言葉を、政治利用しないように」
『徹底します』
高嶺は、六つの画面を見た。
南海。
相模。
富士山。
南西諸島。
通信空間。
国会。
そのすべてに、別の重さが乗っていた。
「明日も、災害対応は続きます」
羽鳥が頷いた。
「はい」
「司法が動いても、被災地の水は止めない。避難所の薬も止めない。除灰も、港湾復旧も、南西警戒も止めない」
「はい」
高嶺は、自分に言い聞かせるように言った。
「国は、裁判だけで動いているのではありません」
☆☆☆ ☆☆☆
午後九時。
東京の避難所。
テレビでは、第一審判決をめぐる特別番組が流れていた。昼間まで国会と裁判所を見ていた人々は、もう疲れ切っていた。それでも、画面から目を離せない。
鹿児島出身の女性は、掲示板の前で立ち止まっていた。
うそは、あとから分かることがあります
分かるまで、広げない
怒りで押さない
顔の見える人を大切にする
東京の男性が隣に来た。
「死刑判決、出ましたね」
「はい」
「正直、重いと思いました」
女性は頷いた。
「私も、重いと思いました」
「でも、許せないとも思います」
「はい」
二人は、しばらく黙った。
東京の男性は言った。
「自分、あの偽動画を最初に見た時、少し信じかけました」
女性は、彼を見た。
「私もです」
「怖いですね」
「はい。自分の怒りに合うものは、信じたくなります」
男性は、掲示板を見た。
「怒りで押さない、ですか」
「はい」
「今回、一番難しいですね」
女性は、静かに答えた。
「たぶん、これからも難しいです」
外では、夜の風が灰を少し舞わせた。
避難所の中には、テレビの音と、誰かの咳と、子どもの寝息が混じっていた。
☆☆☆ ☆☆☆
九月七日、午前八時。
東京高等裁判所。
周辺は、前日以上に厳重な警備となっていた。
第一審から一夜明けて、異例の速度で控訴審が開かれる。通常では考えにくい速さだった。だが、裁判所は、国家安全保障上の影響、被告人多数の自供、証拠の保存状況、国会閉鎖の長期化による統治への影響を理由に、特別集中審理を認めた。
法曹界は揺れていた。
全国弁護士協会の一部幹部は、声明を出した。
《いかなる重大事件であっても、被告人の防御権は保障されなければならない。極刑が言い渡された事件で、拙速な控訴審が行われることには重大な懸念を表明する。》
一方で、別の法律家グループは、こう述べた。
《本件は、通常の政治犯罪ではなく、外国政府との共謀、国会施設を利用した認知戦、災害対応妨害、同盟破壊を目的とした国家安全保障事件である。迅速審理そのものを否定するのではなく、証拠と手続きの透明性を検証すべきである。》
法の世界も割れていた。
しかし、国民の多くは、法曹界の言葉よりも、自分たちが騙されかけた事実を重く見ていた。
裁判所前で、ある高齢者が取材に答えた。
「裁判が早いのは怖い。でも、あの人たちがやったことも怖い。どっちも怖い」
その言葉が、多くの国民の実感に近かった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十時。
東京高裁の控訴審が始まった。
前日に続き、テレビ中継が入った。映像は遅延付きで、機密情報と個人情報は処理された。
控訴審の焦点は、主に三つだった。
第一に、内乱罪および外患誘致罪の適用が妥当か。
第二に、死刑判決が量刑として相当か。
第三に、第一審の迅速な審理が防御権を侵害していないか。
弁護側は、強く主張した。
「被告人らは、武力蜂起を企図したわけではない」
「外国政府との接触はあったとしても、外患誘致罪の適用は過大である」
「捏造動画拡散は悪質だが、極刑をもって処すべきではない」
「裁判があまりにも早く、十分な弁護準備ができていない」
検察側は、第一審の証拠を再度示した。
中国政府系通信先とのチャット。
国会議員会館から中国製動画生成AIへのアクセス履歴。
桐生玄二代表執務室の通信痕跡。
有島芳政と中国側連絡担当者の会話。
「映像の真偽ではなく不信を残せ」という文面。
「国会弾圧線で押す」という方針。
極左暴力集団へのメディア圧力指示。
そして、被告人多数の自供。
検察官は述べた。
『本件は、武器を取った内乱ではない。しかし、外国政府と連動し、生成AIと通信網を用いて国家の統治機構を麻痺させ、同盟を破壊し、災害対応を妨害し、中国の軍事行動を利することを目的とした、現代型の内乱である。被告人らは、銃を持たなかったが、国会と情報空間を武器として用いた』
この言葉は、強い反響を呼んだ。
銃を持たない内乱。
情報空間を武器とする外患。
それは、新しい時代の恐ろしさを示していた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後一時。
控訴審の被告人質問。
有島芳政は、なお否認を続けた。
「私は、政府に批判的な立場から情報を集めていただけだ。中国政府と共謀などしていない」
裁判長は、静かに尋ねた。
「では、この通信について説明してください」
画面に、有島と中国政府系連絡先とのチャットが表示された。
>米国が会館アクセスを掴んだ。想定外だ。
>こちらの線がどこまで見えている。
>政府の謀略線で押す。
>国会弾圧、報道弾圧、米国情報操作。
>映像の真偽ではなく不信を残せ。
有島は、しばらく黙った。
「文脈が違う」
裁判長は続けた。
「どのような文脈ですか」
有島は、答えられなかった。
桐生玄二は、第一審と同じく多くを黙秘した。
しかし、秘書や党幹部の供述、執務室端末のログ、削除済みファイルの復元が、黙秘の隙間を埋めていた。
佐原美都は、控訴審でも涙を流した。
「私は、止めるべきでした」
雨宮蓮司は言った。
「戦争を止めるためと思った。しかし、やったことは国を壊すことでした」
小湊博章は、青白い顔で述べた。
「憲法を守ると言いながら、国民の判断材料を偽造した。弁解できません」
蓮城美蘭は、短く言った。
「中国側との接触を知っていました」
辻倉清花は、頭を下げた。
「怖くなっても、止めませんでした」
杉瀬秀明は、第一審よりも声が弱かった。
「報道を動かせば世論を動かせると思った」
控訴審は、第一審よりも短く、しかし重く進んだ。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時三十分。
東京高裁は、判決を言い渡した。
裁判長は、主文を読み上げた。
『本件控訴を、いずれも棄却する』
法廷は、また静まり返った。
第一審の判決は覆らなかった。
内乱罪および外患誘致罪の適用。
被告人全員への死刑判決。
東京高裁は、それを維持した。
判決理由で裁判長は述べた。
『本件は、単なる虚偽情報の流布ではない。被告人らは、外国政府系勢力と共謀し、国会議員会館を拠点として、中国製動画生成AIを用いた捏造映像を作成・拡散した。その目的は、日本政府の災害対応および安全保障対応を麻痺させ、日米同盟を破壊し、中国側の軍事的利益を助長することにあった』
さらに続けた。
『被告人らは、災害と戦闘死者の発生という国家的危機を利用し、国民世論を欺こうとした。国会議員として国民から負託を受けた立場にありながら、その立場と施設を利用して外国政府の認知戦に加担したことは、民主主義の基盤を内側から破壊するものである』
弁護側は即時上告の意思を示した。
被告人全員が、即日上告した。
――――
ニュース速報
捏造動画事件控訴審
東京高裁、全被告の控訴を棄却
第一審の死刑判決を維持
全被告が即日上告
――――
国民の反応は、再び大きく揺れた。
《控訴棄却》
《高裁も維持か》
《死刑確定へ進むのか》
《さすがに早すぎる》
《でも証拠が強すぎる》
《有島まだ否認してるのか》
《国会議員が外国政府と組んだ罪は重い》
《司法の歴史が変わった》
そして、同じ日の夕方、最高裁判所が異例の決定を出した。
☆☆☆ ☆☆☆
午後六時。
最高裁判所。
全被告からの上告は、同日中に受理審査へ回された。
弁護側は、量刑不当、法令解釈の誤り、防御権侵害、迅速審理への違憲性を主張した。
だが、最高裁は、提出された上告理由について、憲法違反または判例違反に当たる具体的理由は認められないとして、上告を棄却した。
――――
ニュース速報
最高裁
捏造動画事件の上告を棄却
内乱罪・外患誘致罪適用が確定
全被告の死刑判決が確定
憲政史上初
――――
九月七日、午後六時過ぎ。
日本憲政史上初めて、内乱罪および外患誘致罪の適用が確定した。
全被告の死刑判決が確定した。
この速報は、国中を沈黙させた。
歓声ではなかった。
単純な怒号でもなかった。
あまりにも重い結末に、言葉を失う人が多かった。
東京の避難所では、テレビの前で誰も話さなかった。
鹿児島出身の女性は、ゆっくり座り込んだ。
東京の男性が言った。
「確定……」
女性は頷いた。
「はい」
「早かったですね」
「早すぎるくらいに」
「でも、覆らなかった」
「はい」
二人は、しばらく黙った。
やがて女性は言った。
「嘘って、人を殺すんですね」
男性は、答えられなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後七時三十分。
官邸危機管理センター。
高嶺紗枝は、最高裁の上告棄却を報告で受けた。
羽鳥が言った。
「全被告の死刑判決が確定。内乱罪、外患誘致罪の適用も確定しました」
会議室は静まり返っていた。
高嶺は、すぐにはコメントしなかった。
法務大臣が言った。
「今後は、刑の確定後の手続きへ移ります。ただし、社会的影響が極めて大きいため、慎重な対応が必要です」
小森が低く言った。
『現場自衛官、海上保安庁職員からは、当然だという声が多いです。ただ、死刑確定の重さに沈黙する者もいます』
秋庭が続ける。
『米国は、司法判断として受け止めるとの立場です。中国政府は、政治的迫害だと強く反発しています。ただし、国際社会で中国の主張に同調する国は限られています』
片倉皐月が画面越しに言った。
『総理、国内の反発も出ます』
「分かっています」
『共産系、社会民主系、令明系、極左暴力集団、弁護士団体の一部、外国人活動家グループが抗議を呼びかけています』
「警察は」
警察庁長官が答える。
「合法的な抗議活動は保障します。ただし、暴力、威力業務妨害、外国政府との連動、暴動扇動には即応します」
高嶺は頷いた。
「抗議する権利は守ってください。どれほど政府に批判的でも、権利は権利です。ただし、暴力は止める」
「はい」
高嶺は、カメラの前に立った。
――――
内閣総理大臣コメント
最高裁上告棄却を受けて
司法判断を尊重
政府批判の自由は守る
暴力と外国工作は許さない
――――
『本日、最高裁判所は、捏造動画事件に関する上告を棄却し、東京地裁および東京高裁の判決が確定しました。政府として、司法の判断を尊重します』
高嶺は、慎重に言葉を選んだ。
『本件は、外国政府系勢力と結び、生成AIを用いて捏造映像を作成し、国会議員会館を拠点として日本の災害対応、安全保障、同盟関係、国会への信頼を破壊しようとした極めて重大な事件でした』
彼女は、少し間を置いた。
『同時に、政府は、この判決をもって正当な政府批判、報道の自由、弁護活動、平和を求める言論を萎縮させてはならないと考えています。政府を批判することは罪ではありません。戦争に反対することも罪ではありません。しかし、外国政府と共謀し、捏造映像を作り、暴力集団を使い、災害対応を妨害する行為は、言論ではありません』
その言葉は、はっきりしていた。
『今後、判決に抗議する集会や声明が出ることもあるでしょう。合法的な抗議は保障されます。しかし、暴力、脅迫、業務妨害、外国政府と連動した認知戦には、法に基づき厳正に対処します』
高嶺は、最後に言った。
『日本は、災害からの復旧と、国会への信頼回復を同時に進めなければなりません。分断ではなく、事実と法に基づき、前へ進みます』
会見は終わった。
☆☆☆ ☆☆☆
九月八日、午前九時。
反発は始まった。
日本民衆共産党の残存執行部は、判決を「歴史的政治弾圧」と呼ぶ声明を出した。
社会民主会、令明新生組の一部幹部も、同様に「政府による反戦勢力への弾圧」と批判した。
中道改革連合は、有島芳政を除名し、事件への関与を否定した上で、司法の拙速さへの懸念を示した。
立憲民政党は、四人の元所属議員の行為を「党の方針に反する重大な背信」としながら、死刑判決の重さについて慎重な検証が必要だと述べた。
全国弁護士協会の一部幹部は、緊急声明を出した。
《いかなる重大事件であっても、死刑判決がこれほど短期間で確定したことには重大な懸念がある。法治国家として、手続き保障の検証が必要である。》
その一方で、別の弁護士グループは、こう述べた。
《本件は、外国政府との共謀、国会施設を用いた認知戦、災害対応妨害を含む未曾有の事件であり、従来の政治事件の枠組みでは理解できない。判決の是非を論じるにしても、被害の重大性を軽視してはならない。》
極左暴力集団「革新マルクス戦線」「赤衛中核同盟」は、都内各所で抗議行動を呼びかけた。
《高嶺独裁を許すな》
《政治裁判粉砕》
《反戦勢力への死刑判決を許すな》
《国会閉鎖と死刑判決はファシズムだ》
これに、外国人活動家の一部も合流した。
ただし、その動きは広がらなかった。
外国人住民の多くは、距離を置いた。
中国系住民の支援団体も声明を出した。
《外国政府の認知戦に関与した者と、日本で生活する一般の外国人住民を混同してはならない。我々は、災害からの復旧と地域社会の安全を支持する。》
この声明は、多くの人に共有された。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十一時。
国民の反応は、抗議団体の想定とは違っていた。
日本民衆共産党、社会民主会、令明新生組、中道改革連合の一部、立憲民政党の一部関係者を擁護する声は、極めて限定的だった。
むしろ、怒りが噴き出した。
《自分たちを騙そうとしておいて被害者面するな》
《災害中に国民を分断した罪は忘れない》
《中国政府と組んだ時点で終わり》
《二十三名の死を利用したことが許せない》
《政府批判と売国行為を一緒にするな》
《反戦なら嘘をついていいのか》
《弁護士協会は手続き論だけでなく被害者にも触れてほしい》
《外国人全体を責めるな。関わった個人を裁け》
とくに、南海トラフ、相模トラフ、富士山噴火の被災者からの声は厳しかった。
《こっちは水も足りなかった。あの動画で支援が止まりかけたことを忘れない》
《避難所でみんな疑心暗鬼になった。政治遊びではない》
《鹿児島と東京を喧嘩させたのも同じ連中なのか調べてほしい》
《被災地を利用した罪を軽く見るな》
南西諸島からは、さらに重い声が上がった。
《二十三人は帰ってこない》
《海で撃たれた人たちの名前を忘れるな》
《その直後に核密談の偽動画を出した神経が許せない》
国民の怒りは、政権擁護というより、自分たちを陥れようとした者たちへの怒りだった。
そこには、党派を超えた感情があった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後二時。
東京、霞が関周辺。
抗議集会が始まった。
参加者は、主催者発表では数万人とされたが、警察発表では数千人規模だった。実際に現場に集まった人数は、過去の大規模デモに比べれば小さかった。
プラカードが掲げられる。
「政治裁判を許すな」
「死刑判決反対」
「国会閉鎖反対」
「高嶺政権打倒」
その中には、判決の速さや死刑制度に純粋に疑問を持つ市民もいた。
だが、前列で拡声器を握っていたのは、革新マルクス戦線や赤衛中核同盟の関係者だった。
彼らは、警察官へ挑発的な言葉を投げた。
「国家権力の犬!」
「弾圧をやめろ!」
「高嶺独裁粉砕!」
警察は、一定の距離を保っていた。
合法的な抗議は認める。
しかし、暴力や業務妨害には即応する。
その方針だった。
その周辺では、別の市民グループが静かな横断幕を掲げていた。
「裁判の検証は必要。でも捏造動画は許さない」
「政府批判の自由と外国工作の否定は両立する」
「外国人差別に反対。中国政府の認知戦にも反対」
その横断幕は、派手ではなかった。
だが、多くの通行人が足を止めて見た。
国民は、単純な二択を拒み始めていた。
☆☆☆ ☆☆☆
九月八日、午後六時。
官邸危機管理センター。
高嶺は、抗議行動と国民反応の報告を受けた。
警察庁長官が言った。
「抗議行動は複数箇所で発生。参加者は限定的。極左暴力集団関係者の一部が警察官への暴行未遂、道路占拠、報道車両妨害を試みましたが、重大な暴動には至っていません」
羽鳥が続ける。
「国民世論では、判決の速さへの懸念は一定数ありますが、被告人らや関係政党を支持する声は限定的です。むしろ、被災者、自衛隊・海保関係者、一般市民から、彼らへの怒りが強く出ています」
高嶺は頷いた。
「怒りを煽らないように」
橘が答えた。
「はい。政府発信では、関係政党全体や支持者全体を敵視しないよう徹底しています」
高嶺は言った。
「それが重要です。逮捕・有罪になった個人、関与した組織、外国政府との共謀。それと、過去にその党を支持した国民は別です」
片倉皐月が画面越しに言った。
『ただ、国民の怒りは相当強いです。党本部や支部への抗議も増えています』
「警察は保護もしてください。たとえ批判される側でも、暴力からは守る」
警察庁長官が頷いた。
「対応しています」
小森進一が言った。
『現場自衛官には、政治的発言を控えるよう再徹底しています。ただ、隊員の家族からは強い怒りが出ています』
高嶺は、静かに答えた。
「当然です」
会議室は沈黙した。
「当然ですが、国としては怒りを法の中に収めなければならない。そうでなければ、彼らが壊そうとしたものを、こちらの怒りで壊すことになります」
羽鳥が頷いた。
「はい」
高嶺は、資料を閉じた。
「明日、国会閉鎖解除への段取りを始めます。国会の信頼回復は、止めたままではできません」
橘が答えた。
「議長と協議します」
☆☆☆ ☆☆☆
九月九日、午前九時。
国会議事堂。
一時閉鎖されていた国会施設の一部で、再開準備が始まった。
証拠保全が終わった区域から、順次封鎖が解除される。議員会館の一部執務室はなお封鎖されたままだったが、災害対応、安全保障、補正予算、復旧財源に関わる議員連絡窓口は再稼働した。
議長は、各党代表を集めて言った。
「国会は、国民の信頼を失いかけています。いや、すでに深く傷ついています。再開するなら、まず国会自身が調査と再発防止を行わなければなりません」
与党側は、国会認知戦対策委員会の設置を提案した。
中道改革連合と立憲民政党の残る執行部も、関係者の除名と独自調査を進める方針を示した。
日本民衆共産党、社会民主会、令明新生組は、判決への抗議を続けながらも、党内の混乱で十分な対応ができなかった。
議長は、最後に言った。
「政府を監視することは国会の役割です。しかし、外国政府の認知戦に国会が利用されることは、絶対にあってはなりません」
その言葉に、反論する者はいなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後零時。
被災地では、裁判の話題は少しずつ日常へ吸収され始めていた。
高知の避難所で、井ノ口はテレビを消した。
「もうえい。水の時間や」
森下三曹は、少し笑った。
「はい」
「裁判も大事やけど、飯と水も大事や」
「その通りです」
井ノ口は、ふと真面目な顔になった。
「でもな、森下くん」
「はい」
「うちらは、あいつらに怒っちゅう。政府を好きとか嫌いとかじゃない。うちらを騙そうとしたことに怒っちゅう」
森下は、静かに頷いた。
「分かります」
「そこを間違えんでほしい」
「はい」
森下は、水の箱を持ち上げた。
彼は、この数週間で学んだ。
被災者の怒りは、政治家が思うより具体的だ。
水が遅れること。
薬が届かないこと。
避難所が荒れること。
偽情報で不安になること。
それを作った者への怒りは、思想よりも生活に根ざしている。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時。
東京の避難所。
鹿児島出身の女性と東京の男性は、掲示板の前で、古くなった紙を貼り替えていた。
不確かな映像を広げない
その紙は、もう端が丸まっていた。
女性は、新しい紙を貼った。
事実を待つことは、誰かを守ること
男性は、それを見て言った。
「今度は短いですね」
「長いと読まれないので」
「確かに」
子どもが近づいてきた。
「じじつって何?」
女性は少し考えた。
「本当にあったこと」
「じゃあ、うそは?」
「本当じゃないこと」
「でも、ほんとみたいなうそもあるよね」
男性が苦笑した。
「あるね」
女性は、子どもの目線に合わせてしゃがんだ。
「だから、すぐに決めないで、待つんだよ」
「待つの、まだ苦手」
「大人もまだ苦手」
子どもは、少し笑った。
避難所の中に、ほんの小さな笑い声が生まれた。
それは、裁判の速報よりも、国際声明よりも、小さな出来事だった。
だが、復旧とは、そういう小さな笑いを取り戻すことでもあった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後六時。
官邸。
高嶺紗枝は、九月九日夕方の記者会見に立った。
――――
政府夕方会見
国会機能の段階的再開へ
合法的抗議は保障
暴力・外国工作には厳正対処
被災地支援を継続
――――
『捏造動画事件に関する判決が確定し、国会施設の証拠保全も一部完了しました。政府は、議長および議院運営委員会と協議し、国会機能の段階的再開に協力します』
高嶺は続けた。
『判決への意見、死刑制度への意見、政府への批判、裁判手続きへの疑問は、民主主義社会において当然存在します。合法的な抗議活動は保障されます。一方で、暴力、脅迫、業務妨害、外国政府と連動した認知戦には、法に基づき厳正に対処します』
記者が問う。
「総理、関係政党への国民の怒りが強まっています。どう受け止めますか」
『怒りが出るのは当然です。国民は騙されかけ、被災地は混乱させられ、南西の海で亡くなった二十三名の犠牲が利用されました。しかし、怒りを政党支持者全体や特定の思想を持つ国民全体へ向けてはなりません。責任は、証拠に基づき、関与した個人と組織に問われるべきです』
「国会への信頼は戻りますか」
高嶺は少しだけ間を置いた。
『すぐには戻りません。信頼は、判決で戻るものではありません。記録を公開し、制度を見直し、国会自身が説明し、政府も権限の使い方を検証される。その積み重ねでしか戻りません』
彼女は、最後に言った。
『日本は、まだ複合災害からの復旧途上です。南海トラフ、相模トラフ、富士山噴火、南西諸島、情報空間、国会。すべての復旧を同時に進めなければなりません。政府は、怒りではなく、事実と法と支援で前に進みます』
会見が終わった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後九時。
九月九日の夜。
東京の空は、少しだけ澄んでいた。
火山灰はまだ残る。
道路の端にも、屋根にも、排水溝にも、避難所の入口にも。
南海トラフ被災地の避難所には、まだ多くの人がいる。
相模トラフ被災地の港には、まだ瓦礫が残る。
富士山麓には、まだ戻れない家がある。
南西諸島の海では、まだ監視が続く。
国会は、まだ完全には再開していない。
死刑判決は確定した。
だが、国の傷は塞がっていない。
官邸危機管理センターで、高嶺は午後九時の報告を受けていた。
羽鳥が言った。
「抗議行動は一部継続。ただし大規模化せず。極左暴力集団関係者数名を威力業務妨害などで逮捕。外国人活動家の一部については、在留資格違反と暴力扇動の疑いで捜査中。一般外国人住民への差別相談もあり、自治体と連携して対応しています」
高嶺は頷いた。
「外国人全体への攻撃を防いでください」
「はい」
小森が続ける。
『南西諸島、異常なし。自衛隊、海保とも警戒継続。災害派遣は通常ローテーションへ一部移行』
秋庭が言った。
『中国政府は判決を政治弾圧と批判していますが、国際社会の反応は限定的です。米国、欧州、台湾、豪州は、日本の司法判断を尊重すると表明しています』
片倉が言った。
『被災自治体への追加財政措置、明日から執行します。国会再開後、補正予算の審議が必要です』
高嶺は、静かに頷いた。
「国会を戻しましょう」
橘が答える。
「はい」
高嶺は、六つの画面を見た。
南海。
相模。
富士山。
南西諸島。
通信空間。
国会。
赤い表示は、少しだけ薄くなったものもある。
だが、消えたものはない。
彼女は言った。
「判決が出ても、復旧は終わりませんね」
羽鳥が答えた。
「はい」
「むしろ、ここからです」
「はい」
高嶺は、水を一口飲んだ。
唇の傷は消えていた。
だが、あの夜の痛みは、まだ体の奥に残っている。
「次の報告を」
羽鳥が、静かに答えた。
「はい」
九月九日、午後九時。
日本は、憲政史上初の判決を経て、さらに深い復旧へ入った。
国民は、関係政党への怒りを抱えたまま、しかし同時に、自分たちの社会がどこまで壊れかけたのかを見つめ始めていた。
嘘は裁かれた。
だが、嘘が生まれた土壌は残っている。
災害は続く。
復旧も続く。
怒りも、疑念も、悲しみも残る。
それでも、避難所では水が配られ、灰は少しずつ掃かれ、港では瓦礫がどけられ、南西の海では灯が見張り、国会では再開の準備が進んでいた。
国は、また一つ、壊れた場所を見つけた。
そして、そこを直すために、立ち止まらず歩き始めていた。




