精算の最終決着 — 旧関係を完全に断つ
聖女の審問から一か月。精算の最後の手続きが完了した。
秋が深まり、執務室の窓から見える木々が赤く色づいている。朝のインクは冷たく、ペンを持つ指先がかじかむ季節になった。
王家からの正式な文書が届いた。
厚い羊皮紙に、王家の金の紋章が型押しされている。深紅の蝋で封印された封書。開いた瞬間、宮廷のインク——あの独特の藍色が目に入った。かつてわたくしが毎日目にしていた色だ。
『精算合意書に基づく全条件の履行完了を確認する。
一、北東部未開拓領三か所のヴァルディエン公爵家への移転登記:完了
二、政務支援義務免除の勅令:発布済
三、アルヴェスト辺境伯領内経済特区二か所の設立許可:交付済
以上をもって、ヴァルディエン公爵家と王家の間の一切の債権債務関係を終了とする。
国王陛下御璽』
わたくしは文書を読み、帳簿の最後のページを開いた。ペンにインクを含ませ、一呼吸置いてから書き始めた。
「精算完了。全二十項目。金貨七十一万二千枚相当。合意履行確認済」
最後の一画を書き終え、ペンを置いた。インクがゆっくりと羊皮紙に染み込んでいく。その乾いていく数秒間を、わたくしは黙って見つめた。三年分の記録の、最後の一滴。
帳簿を閉じた。
この帳簿は——三年間の婚約期間の記録であり、精算交渉の武器であり、わたくしの権利の証明書だった。表紙に染みついたインクの匂い。何度も開閉した背表紙の軋み。全てが三年間の夜の記憶だ。
今、その役目を終えた。
「お嬢様」
マリアが紅茶を持ってきた。
「精算が——本当に終わったのですね」
「ええ」
三年間という時間が、この一言に収束した。
紅茶に口をつけた。良い香り。辺境で手に入る茶葉は、王都のものより素朴だけれど、味は悪くない。むしろ、この素朴さの方がわたくしには合っている。宮廷の香り高い紅茶より、この一杯の方が——正直で、温かい。
「マリア。この帳簿を、書庫にしまってください」
「書庫に?」
「もう開くことはありませんから。記録として保管するだけです」
わたくしの声は平静だったが、帳簿を手放す瞬間、指先に名残惜しさが宿った。三年間、毎晩触れていた革の感触。このインクの匂いを知らない夜は、もう来ないのだと思うと——不思議な静けさが胸に広がった。
マリアが帳簿を受け取った。使い込まれた革装の表紙。角が丸くなり、背表紙に皺が入っている。三年間、毎晩つけていた帳簿。マリアの目が少し潤んだ。彼女はこの三年間、わたくしがこの帳簿を書く夜をずっと傍で見守ってきた。インクを用意し、蝋燭の灯を絶やさず、時にはわたくしの肩に黙って毛布をかけてくれた。この帳簿は、わたくしだけの記録ではない。
「大切にお預かりします」
マリアの声がわずかに震えていた。
「ありがとう」
午後、辺境伯——クレイグが執務室に来た。扉を開けた時、秋の風がわたくしの頬を撫でた。
「全て終わったと聞いた」
「ええ。精算完了です」
わたくしの声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「どんな気分だ?」
少し考えた。
「すっきりしていますわ。重い帳簿を一冊、書棚に戻した気分です」
嘘ではない。けれど、すっきりの中に、ほんの少しの寂しさが混じっている。三年間、毎晩開いていた帳簿がもうない夜を想像すると——不思議な空白を感じた。
クレイグが微笑んだ。
「では——新しい帳簿の話をしよう」
「新しい帳簿?」
「婚約公表の段取りだ」
クレイグが書類を出した。四領の代表への通知文、王都の貴族院への届出、パルメシア自由都市への外交通知。準備の良さに、わたくしは少し驚いた。
「ずいぶん手回しが良いですわね」
「精算が終わるのを——待っていた」
その一言に、わたくしの指先が小さく震えた。待っていた。この人は、わたくしの旧い帳簿が閉じるのを、ずっと待っていてくれたのだ。
「婚礼の日取りは来月の満月を提案する。衣装の手配と館の改装、四領への招待状の発送——」
「結婚も——帳簿で管理するのか?」
「当然ですわ。婚姻は契約です。そして契約は——」
「帳簿で管理する」
二人で同時に言った。声が重なったことに、わたくしたちは互いの目を見て、少しだけ驚いた。
笑い声が、執務室に響いた。
窓の外からは、領民たちの活気ある声が聞こえてくる。鍛冶場の鉄を打つ音、荷馬車の車輪の音、子供たちの笑い声。全て、帳簿の数字が作り出した音だ。
旧い帳簿が閉じ、新しい帳簿が開く。
わたくしの人生は——帳簿と共にある。そして今、その帳簿の隣に——もう一人、共に歩く人がいる。




