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婚約破棄されたので、お預けした全てを精算させていただきます  作者: 凪乃


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新しい帳簿

 婚約公表の日。


 朝から空は澄み渡っていた。辺境の秋の空は、王都のそれとは違う。高く、広く、どこまでも青い。雲一つない空の下、遠くの山脈が薄紫に霞んでいる。一年前にこの地に降り立った時は灰色の曇天だったことを、ふと思い出した。あの日の空とは、何もかもが違う。


 アルヴェスト領の中央広場に、四領の領民が集まった。広場の石畳は新しく敷き直され、周囲の建物には色とりどりの旗が掛けられている。フォルスト男爵、エーデルシュタイン子爵、リンデンベルク伯爵も壇上にいる。パルメシア自由都市からも商人ギルドの代表が来ている。一年前には考えられなかった顔ぶれだ。辺境の一領主の婚約公表に、四つの領地と自由都市の代表が揃うなど。数字が信頼を作り、信頼が人を集めた。帳簿に刻んだ一行一行が、今日この壇上の顔ぶれを作り上げたのだ。


 わたくしはクレイグの隣に立った。白いドレスの裾が、秋の風にかすかに揺れた。壇上から見下ろす広場は、人で埋め尽くされていた。鉱山の労働者たち、農地の小作人たち、交易路の商人たち——帳簿の数字の一行一行が、ここに立つ一人一人の生活と繋がっている。広場の端には露店が並び、焼き栗と林檎酒の甘い匂いが漂っていた。


「皆様にご報告があります」


 クレイグの声が広場に響いた。軍人の声は、よく通る。秋の澄んだ空気が、その力強い声を広場の隅々まで運んだ。


「わたしは、リゼル・ヴァルディエン殿と正式に婚約いたしました」


 一瞬の静寂。広場全体が息を止めたような間があった。風が旗をはためかせる音だけが聞こえた。そして——歓声。


「おめでとうございます!」

「リゼル様!」

「辺境伯閣下!」


 領民たちが拍手し、花を投げ、口々に祝福を叫んでいた。花弁が風に舞い、秋の陽光にきらきらと輝いた。どこかで子供の声が響き、「辺境伯様、おめでとう!」と叫んでいるのが聞こえた。一年前、この広場に人は集まらなかった。集まる理由がなかった。


 壇上のフォルスト男爵が一歩前に出た。白髪交じりの髭を撫で、感慨深げに頷いている。


「辺境の者として、こんなに嬉しいことはない。リゼル殿が来てくださってから、わしの領地の林業も息を吹き返した。帳簿を見直すだけでこんなに変わるとは——老いぼれには驚きの連続でしたわ」


 続いてエーデルシュタイン子爵。まだ若い、知的な目をした女性貴族だ。


「私の鋳造所がパルメシアとの取引を得られたのは、リゼル殿の交渉のおかげです。辺境経済圏構想は、最初は夢物語だと思いました。今は——数字が夢を現実に変えるのだと知っています」


 リンデンベルク伯爵は短く、軍人らしく。


「辺境伯。良い伴侶を得たな。わしの保証は不要だろうが——辺境の盟友として、祝福する」


 パルメシア商人ギルドの代表が最後に深く頭を下げた。


「自由都市は、アルヴェスト辺境伯領との経済提携が実り多いことを心より喜んでおります。リゼル殿との交渉は常に公正で、帳簿に基づいた信頼に満ちたものでした。末永いご繁栄をお祈り申し上げます」


 わたくしは広場を見渡した。


 一年前、この場所は荒れ地だった。帳簿を整え、経費を削り、交易路を開き、提携を結び——数字の一行一行が、この風景を作った。


 壇の下で、マリアが泣いていた。両手で口を覆い、肩を震わせている。一年前、この辺境に向かう馬車の中で不安そうに窓の外を見ていたマリア。「お嬢様、こんな辺境で大丈夫なのですか」と震える声で訊いた彼女が、今は喜びの涙を流している。あの日の荒涼とした風景と、今日の賑わいを、マリアもまた比べているのだろう。わたくしの目頭にも、かすかに熱いものが滲んだ。けれど帳簿をつける者は、感情で数字を滲ませてはいけない。だから微笑むだけにした。


「リゼル殿」


 クレイグがわたくしに目を向けた。


「何か、言いたいことはないか」


「では——」


 わたくしは一歩前に出た。帳簿を——新しい帳簿を手にしていた。白い表紙の、まだ半分が白紙の帳簿。革の匂いがまだ新しい。角はまだ鋭く、背表紙の金文字は輝いている。あの日、大広間で開いた使い込まれた帳簿とは、何もかもが違っていた。


「わたくしからも一言」


 広場が静かになった。何百もの目が、壇上のわたくしを見ている。


「一年前、わたくしは宮廷で帳簿を開きました。三年間の婚約期間中に提供したもの全てを精算するために」


 息を吸った。秋の空気は冷たく、澄んでいて、肺の奥まで染み渡った。


「あの帳簿は、今日で閉じました。全ての精算が完了したからです」


 帳簿を掲げた。陽の光が白い表紙を照らした。


「これは新しい帳簿です。この帳簿に書くのは、精算ではなく——建設です」


 領民たちが見ている。クレイグが隣で見ている。マリアが壇の下で泣いている。


「アルヴェスト領と辺境経済圏の次の一年を、この帳簿に記録します。鉱山の増産計画、新しい交易路の開拓、領民の生活改善——全てを、数字として」


 帳簿を胸に抱いた。革の硬い表紙が、胸に当たる感触が確かだった。この帳簿の重さは、ここにいる全ての人の未来の重さだ。


「帳簿は武器にもなりますし、盾にもなります。でも——一番大切な使い方は、未来を書くことです」


 拍手が起きた。大きな拍手。一年間で変わった領地の、変わった人々の拍手。波のように広がり、広場全体を包み込んだ。


 壇を降りた。クレイグが手を差し出した。わたくしはその手を取った。大きくて、温かくて、帳簿とは違う手触りの手。剣を握り続けた厚い掌が、わたくしの手を優しく包んだ。


「良い演説だった。さすがだ」


「演説ではありませんわ。決算報告です」


 クレイグが笑った。低く、穏やかに。その笑顔を見て、ああ、この人の隣でよかったと思った。


 広場では祝宴の準備が始まっている。楽団が音を合わせている。子供たちが走り回っている。焼き立てのパンと蜂蜜酒の匂いが風に乗って漂ってきた。かつて荒れ地だった広場が、今は祝福と活気に満ちている。秋の陽が西に傾き始め、広場を金色に染めていた。


 王都から、追加の情報が届いていた。


 聖女エリアーナは教会から聖女の称号を剥奪された。精算の過程で明らかになった資金の流れが、教会内部の調査を誘発したのだという。王太子殿下は宮廷での影響力を大きく失い、側近たちの離反が相次いでいるらしい。改革派の貴族たちが発言力を増している。宰相閣下が主導する財務改革が始まり、全ての宮廷支出に帳簿の提出が義務づけられたと聞いた。精算騒動で露呈した宮廷の腐敗に、国王自身が改革の必要性を認めたという。あの大広間で開いた帳簿の波紋が、一年経った今もなお広がり続けている。


 わたくしが始めたことではない。帳簿が——数字が、真実を語っただけだ。嘘は帳簿に残らない。けれど真実は、何年経っても消えない。あの大広間で開いた帳簿の波紋が、一年経った今もなお広がり続けている。


「リゼル」


 クレイグがわたくしの名前を呼んだ。敬称なしで。その声は、三年間聞いた誰の声とも違う響きを持っていた。


「次の一年も——頼む」


「ええ。次の一年も。その次も」


 わたくしは微笑んだ。三年間の婚約期間中、一度もこんなふうに笑えなかった。


 新しい帳簿の最初のページを開いた。


 日付を書いた。今日の日付。ペン先が羊皮紙に触れる感触が、指先に伝わる。インク壺から汲んだ藍色のインクが、まだ滲みやすい新しい紙の上に、はっきりとした線を引いていく。


 その下に——


『アルヴェスト辺境伯領 次年度計画 第一項。経済特区の正式運用開始——』


 ペンが走る。インクが羊皮紙に染みていく。一行目の文字は、あの日大広間で読み上げた精算の文字とは違う。終わりを記す文字ではなく、始まりを刻む文字だ。


 続けて書いた。


『第二項。北部交易路の拡張——冬季閉鎖期間の短縮に向けた道路整備。第三項。鉱山第二坑道の採掘開始——』


 ペンが止まった。ふと、指先が温かいことに気づいた。クレイグの体温が、まだ手のひらに残っている。


 広場の歓声が、窓の外から聞こえてくる。楽団の演奏が始まり、明るい旋律が秋の空に昇っていく。この領地に楽団が来るのも、一年前には考えられなかったことだ。


 帳簿は終わらない。数字を紡ぐ限り。


 わたくしの物語も——まだ、たくさんの白いページがある。

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