20.出発前夜
薄暗い室内。ああもうやっぱダメだ、と起き上がった。
「眠れない」
昼間寝てしまったからだろうか。それとも考えごとがつきないからだろうか。明日は七時半に食堂で朝食、その後チェックアウトしてすぐ出発だというから、寝た方がいいに決まっているのに。
横の寝台を見ると、ティアが丸くなっている。寝息はないので起きているのかいないのかの判別はつかない。
何度も確認した荷物をもう一度確認する。月明かりのおかげで十分明るい。ぎゅうぎゅうに詰められたスクールバッグの中には替えの服と日用品の入ったポーチと、手帳と家の鍵と、今日揃えた荷物と。
鞄に手を突っ込んでがさごそとしていると、固い感触が指先に触れた。引っ張り出してみるとスマホだった。時間を確認すると、零時を少し回った頃だった。
「…………ん?」
私は目を瞬かせた。
(違和感?)
何かがおかしい、気がする。だがそれが何なのか、どうしても思い出せない。
「疲れてるのかな……」
きっとそうだ。私は画面を閉じ、スマホを枕の横に放った。アラームはもうかけない。絶対にだ。
外の空気を吸おうとカーテンを開けた。生暖かい夜だった。暦の上では、今は私の世界と同じ春なのだという。顔を出すと、誰かの気配を感じて私は上を見上げた。
「ヒノじゃん」
「ラザ」
屋根の縁に腰掛け、ラザが星を見上げていた。……何で屋根の上なんだろう。昨日の夜も空から降ってきたし。高い所が好きなんだろうか。
「どうしたんだ?」
「眠れなくって」
「俺も。上、来るか?」
何となく頷いてしまった。窓を全開にし、上半身を出す。伸ばした手をラザが引っ張るのと同時に窓枠を蹴る。
空中に飛んだ私の体を軽々とラザが受け止める。やっぱり、見かけからは不釣り合いなくらい力がある、気がする。
お礼を言って隣に座る。宿屋は三階建てで大して高いわけでもないが、それでも見晴らしは良かった。眠りにつく街と、遠くの山々とが満月の光に照らされている。
空はもっとすごかった。私は歓声をあげる。満月だというのに今まで見たどの夜空より星が多い。そういえば、自動車や工業があまり発達していなさそうな世界だから、大気汚染とは無縁なのかもしれない。
「綺麗だね。星がこんなにいっぱい」
「森とか山の中だともっとすげぇぞ」
銀色の満月は空高く、私たちを見下ろしていた。どの世界にも月はあるのだと、当たり前のことを今更ながら実感する。
「セダさんの髪の色みたい」
思わず口をついた言葉にラザが顔を向ける。その瞳が、満月に負けないくらい輝いていた。
「だろ? キラキラしててキレイだよな!」
セダさんについて話すときのラザは少し嬉しそうだ。私はちょっと笑ってしまう。
「私ね、最初はセダさんが怖くて正直苦手かなって思ったんだけど、というか今も少し怖いんだけど……ラザの言った通りだった。セダさん、面倒見がいい人だね」
旅に出ると決めた私に呆れていたものの、結局旅支度を手伝ってくれる。そう言うとラザも遠くを見るような、過ぎ去った日を懐かしむような目で頷いた。
「うん……何だかんだで、いつだって手を差し伸べてくれるんだ」
ラザがきゅっと拳を握ったことに気づいた。開いては躊躇うように閉じた口が、やがて言葉を紡ぐ。
「ヒノ、……俺、やっぱり残った方がいいと思う」
私は何も言わない。ラザの言葉を黙って聞いている。
「『塔』ってのが何なのか、どこにあるのか、俺は知らない。でも、何となく嫌な予感がするんだ」
「……」
「ヒノが連れてかれたときさ、セダに『何もする気がないなら同情なんかするな』って言われて……ちょっと反省した。俺、ヒノに何にもできない」
「そんなことない。ラザは私を助けてくれたじゃない」
「でもいつも助けてやれるわけじゃないだろ。できる限り守るけど、いつも最優先でってわけにはいかない」
ラザが満月を見上げた。夜空に一つ浮かぶそれは、何を前にしても揺るがずに佇んでいる、誰かの背中を思い起こさせた。
ラザの表情を見て、私は彼の「最優先」が何となくわかった気がした。横顔がこちらを向く。
「だからさ、兄貴の名前とか特徴とか教えてくれたら、俺が探してやる。もし見つけられたら、ヒノが待ってるから会いにいってやれってきっと伝える」
「ラザ……」
「俺、ヒノが怪我したり……死ぬところ、見たくない」
それほど過酷な道のりだということなのだろう。ラザは優しい。心の底から私のことを心配しているからこそ告げたのだろう。
私は目を伏せた。眼下の街には、昨夜の喧騒が嘘のように、ぽつりぽつりと静かな灯りが灯っている。暗闇に浮かぶ光は、まるで夜空の写し絵のようだ。あの灯りのどこかに、花束を売っていた少女や、屋台の青年がいるのだろうか。
強い街だ。──強い人々だ。彼女の国だからだろうか。
私は噛み締めていた唇を緩めた。返答は決まっていた。
「ありがとうね、ラザ。心配してもらえて、ちょっと嬉しい。私はこの世界でひとりぼっちじゃないんだって思える」
「じゃあ」
「でも、私、もう嫌なんだ」
ラザを見つめ、私は仄かな笑みを浮かべた。
「お兄ちゃんがいなくなった日のこと、話してもいい?」
ラザが頷いた。淡い光を放つ星々の下で私は記憶を辿る。
「私は六歳のときに両親が死んで、それ以来お兄ちゃんとふたりで暮らしてたの。大変じゃないって言ったら嘘になるけど、私は幸せだった。お兄ちゃんが優しくて、私のことを大切にしてくれたから。私、お兄ちゃんが大好きだったの」
ふたりきりの家族だったから、誰よりお互いが大切だった。
「でもね、ある日ちょっとした言い争いが大喧嘩になっちゃって。あんな喧嘩したの初めてかもってくらいの大喧嘩で……私、つまらない意地を張って、謝ってくるまでもう口利かないって宣言したの。次の日、お兄ちゃんが家を出るときも無視しちゃったし……九年間一緒に暮らして、『いってらっしゃい』をあの日だけ言わなかった」
何故あの日だったのかと、今でも思う。
「その日の夜、いくら待っても帰ってこなくてね。用意した夕飯も冷めていくばっかりで……おかえりって、それからごめんねって、用意した言葉をいつまでも言えなくって」
いつまで経っても帰らない人を、ひとりぼっちの部屋で待ち続けた。遅くなる時は必ずくれた連絡さえなかった。一睡もせず、空しく回転するだけの時計を眺めて、秒針の音と時折通り過ぎる車の音だけを数えて。いつの間にか夜は明けていて、カーテンから射し込む朝日を茫然と見ていた。
「……いってらっしゃいって言わなかったから帰ってこないのかなって」
兄は帰ってこなかった。幾夜を待ち続けても、帰ってこなかった。何度、独りきりで夜を明かしたろう。
夜風が頬を撫でる。月は変わらぬ姿で私たちを照らしている。この月は、私が元いた世界も照らしているのだろうか。どこかで兄も、同じ月を見上げているのだろうか。
「もう、待つだけは嫌なんだ。ひとりきりの夜は、嫌い」
隣に座る少年が、しばらくしてぽつりと言った。
「俺も……ひとりっきりで暗い場所にいるのは嫌だな。置いてかれるのも嫌だし、呼べる名前がないのも嫌だ」
「私は、誰かを呼んでも何も返ってこない部屋が嫌かな。狭い部屋なのに、妙に広く感じるの」
顔を見合わせ私たちは笑った。
「似てるな、俺たち」
ラザについて、そうたくさんのことを知っているわけではない。だが、少しだけ聞かせてもらったことがある。両親は私と同じで多分いないこと。セダさんに拾われたこと。
大切な人がいる。ひとりは嫌だ。だから、その人のそばにいたいと思う。──同じ感情を、私たちは抱えている。
「私、どうしても会いたいの。もう待つのは嫌なの。手がかりがあるなら、それに縋りたい。もしかしたら、この世界のどこかにお兄ちゃんがいるかもしれない。ラザたちに迷惑かけてるってわかってる、でも私、諦めきれなくて」
「ヒノ」
「私、死なないよ。逃げて逃げて、どんな手使っても生き延びてみせる。──だから、ごめん」
「わかった、わかったからさ」
ラザが頭を掻いた。赤毛は月光の下で、銀色にも見えた。
「もう止めない。ヒノのこと応援する。だからさ、謝んなよ。迷惑とか、そんなの気にすんな」
謝んのもう禁止な。そう告げたラザに、私は謝る代わりに頷いた。
「うん。……ありがとう」




