黒瀬の家と優しさ
黒瀬は、なにも聞かなかった。
私がどうして雨の中で倒れていたのか、なぜ濡れて震えていたのか。
問いただすこともなく、ただ傘を差し出して歩き出した。
そして気がつけば、たどり着いたのは都心の高層タワーマンションだった。
「ここって……」
「俺の家だ」
黒瀬の家!?
エントランスはホテルのように洗練されていて、ふかふかの絨毯が敷かれたロビーに、静かな音楽が流れている。
私のような一般人が足を踏み入れていい空間とは思えなかった。
エレベーターは専用キーで起動され、高層階へと登っていく。
どうして黒瀬の家に……。
なにも考えず、ここまで来てしまった。
「あの、やっぱり私帰ります」
そう告げると、彼は言う。
「そんなに濡れてどうやって帰るんだよ。服……乾かしていけよ」
たしかに、こんなに濡れていたら店に入るのも失礼になる。だから連れてきてくれたのか。
部屋に入ると、まるで雑誌の中のような世界が広がっていた。
天井まで届く大きな窓からは、雨に煙る夜景が広がり、シンプルながらも上質な家具が整然と並ぶ。
無駄のない、整った部屋。
すごい……。
さすが社長となる器の人は住んでいる世界も違う。
「先……風呂、入れば」
「でも……」
私がためらうと、黒瀬は苛立ったように言った。
「あのなぁ、俺は風邪引かれる方が困るわけ。お前は俺の秘書だろ」
秘書に倒れられると困るってわけか……。
「じゃあ、ありがたく」
私はお風呂を借りることにした。
促されて案内されたバスルームは、まるでホテルのスイートルームのように広かった。
柔らかなバスタオルが積まれており、部屋着も黒瀬が適当なものを持たせてくれた。
彼の私服なのか、ずいぶんと大きいサイズだ。
毎日このお風呂に入ってるのか……。
すごいな。
湯気の立つ浴槽の中で、シャワーを浴びると私はようやくひと息ついた。
……なにやってるんだろ、私。
あんなに道中で泣いて、なにも考えずよりにもよって、黒瀬の家にまで来てしまうなんて。
思考がまとまらないまま、ぼんやりと天井を見上げた。
それからバスルームを出ると、足元からふわっと温かい空気に包まれた。
フローリングの床はほんのり温かく、濡れた髪が肌に触れるたびに、現実に戻ってくる感覚がした。
バスタオルで髪を押さえつつ、黒瀬から借りた服を着ることにしたのだけど、白いシャツはサイズは明らかに大きくて、膝まで届く丈。
袖は手の甲をすっぽり隠し、まるでワンピースみたいになっていた。
ズボンは当然ウエストが合わないから、ずり落ちてしまう。
Tシャツだけでもいけるか……。
そんなことを思いながらリビングに向かってみると、黒瀬が声をかけてきた。
「あったまったか?」
「うん……ありがと」
すると黒瀬はまじまじと私のことを見た。
「な、なによ」
「……いいじゃん、その足」
「……はぁ?」
私はぴしっと固まった。
「仕方ないでしょ!ズボン合わなかったんだから!」
「まぁ……地味子でも目の保養にはなるわけだ」
ウザいんですけど!
ついてきたのが間違いだった。
「ていうか……」
「……な、に?」
さっきからじっとこっちを見てくるもんだから、居心地悪いんですけど!
目が合うと、彼はすっと私の頬に向かって手を伸ばす。
指先が、私の頬のあたりをかすめそうになった時、彼は言った。
「それ……すっぴん?」
「……そ、そりゃそうでしょ!お風呂あがったばっかりなんだから!あんまり見ないでよね」
女性のすっぴんをまじまじ見るってどんな神経してんのよ。
顔から一気に熱がのぼるのが、自分でもわかった。
「お前……昔から変わらないんだな」
なによ!
「いつまでもあか抜けないって言いたいわけ?」
「いや、前からかわいい」
「……っ!!」
──ドキン。
はぁ……!?
ウソだ。
黒瀬が私のことを可愛いなんて思ったことがあるわけない。
からかってきて……ムカつく。
「まぁ、ソファでも座れば。まだ洗濯時間かかるしな」
まったく、どこまで人を振り回すのか。
でも……。
……あれ。
さっきまで、圭介くんのことで世界は終わったような気がしていたのに。
今はちょっとだけ圭介くんのこと、忘れられたかも。
「はい。これ」
ソファのテーブルに、あたたかい湯気の立つカップが置かれる。
「ハーブティ。よければ飲めば」
「……あ、ありがとう」
手を伸ばしてカップを受け取ると、指先にじんわりと熱が広がった。
香りは柔らかくて、ほっとする。
さっきまで心に覆いかぶさっていた重たいものが、少しだけ和らいでいく気がした。
すると、黒瀬が私の隣に腰を下ろした。
「……それで?なにがあったわけ?」
黒瀬は視線をマグカップに落としながら尋ねる。
そりゃ聞かれるよね……。
あんなところで泣いてるなんて普通じゃないもん。
どうしよう……。
なんて説明をしたらいいんだろう。
戸惑っていると、黒瀬が小さく息を吐く。
「まぁ別に、言いたくないならいいけど」
無理に聞き出そうとはせず、包み込んでくれるような黒瀬の声にほっとする。
言っても、いいのかな。
これから長い付き合いになるんだし……。
「……6年付き合っていた彼氏に浮気されてたの」
黒瀬は驚いた顔をした後、こくこくと頷きながら話を聞いてくれた。
「大学のときから、ずっと付き合ってた人だった。そろそろ結婚かな?なんて浮かれていたのに……気づいたら、浮気されてて……」
苦笑いすら浮かばない。
本当に自分はバカだ。
「今日は残った荷物を取りにいってたの。捨ててもよかったんだけど……彼が社会人になった時にプレゼントしてくれたネックレスは取っておきたくて……自分に自信がつくようにって買ってもらったネックレスだったから……でも、それも今の彼女にあげてたんだけどね」
言葉にした瞬間、胸の奥がひどく軋んだ。
こんなこと話しても、周りは浮気した人からもらったネックレスを大事にしたがるのはおかしいって思うだろうな。
自分が変なことをしている自覚はある。
それを圭介くんに気持ち悪いと思われても仕方のないことだ。
「私も悪いんだけどね。そりゃ……別れた相手に自分のプレゼントしたものは持っててもらいたくないよね」
私が深く息を吐くと黒瀬は言った。
「勇気づけに持ってたんだろ。どんな相手にもらったものでも大事にしたいのは分かる」
「え……?」
私は驚いて彼を見つめる。
「なに驚いてんだよ」
「だって、黒瀬ならくだらねぇって言い捨てそうだなと思って……」
「お前は俺のことなんだと思ってんの」
「非道?」
「お前……っ、ふざけんなよ?」
心外だとでもいいたげな黒瀬の顔に思わず吹き出してしまう。
非道はいいすぎたか。
仮にも今は社長だしね……。
すると、黒瀬は急に立ち上がってどこかへ行ってしまった。
なに……もしかしてもう飽きた?
まぁ……人の不幸話なんて聞いても面白くないしな。
そんなことを考えながらハーブティーに口を付けると、彼は手になにかを持って戻ってきた。
それは、シンプルなシルバーのネックレスだった。
「これ、やるよ」
「え……?」
「これ、俺が初めて自分で稼いだ金で買った大事なもんだ。俺もこれで頑張るぞって願掛けにしてやってきたから……お前にも貸してやる」
「い、いいよ……なんか高そうだし……」
「そんな高くねぇよ。それにあんな浮気男からもらったものよりは、マシだろう?」
そう言って彼は少しだけ照れたように顔を背けた。
「たしかにマシではあるかも……」
「おい」
彼は私の手をそっと取ると、ネックレスを手のひらに乗せた。
これが今日からお守りの代わり……。
「変わりたいとか、自分の殻から抜け出したいとかそうやって思えるのはいいことだよ。頑張れよ」
意外だった……こんな言葉が返ってくるなんて思わなかったな。
「……ありがとう、黒瀬」
私がぽつりとつぶやくと、黒瀬は嬉しそうに笑った。
「……私さ、昔からずっとあんたのこと嫌いだった。高校のとき、パシリのされたしひどい目に遭ったし……もう二度と会いたくないって思ってた」
黒瀬はわずかに眉をひそめた。その目が、少しだけ悲しそうに見えたのは気のせいだろうか。
「けど……久しぶりの再会はそんなに悪くないかも」
私はそう言って笑った。
まだまだ黒瀬のことは嫌いだし、絶対許さないって気持ちはあるけれど……今日私の心を救ってくれたのは、紛れもなく黒瀬だから……。
すると、黒瀬は気まずそうな顔をして告げた。
「俺が高校時代お前のこと……パシリにしたことを後悔してるって言ったら……お前は」
そこまで言った時、ピーピーッ、と電子音が静かな部屋に響いた。
「……洗濯、終わったみたいだな」
そう言って黒瀬が立ち上がる。
私はハッと我に返るように身を起こした。
時間の感覚が曖昧になっていたけれど、もうとっくに夜も深い。
あたたかい部屋と、落ち着いた空気に甘えて、気づけば長居してしまっていた。
「……ありがとう。そろそろ帰るね」
立ち上がって、借りたシャツの袖をそっと直す。
そして着替え終わると、黒瀬はスマホを取り出して短く言った。
「タクシー呼んだ。たぶんすぐ来ると思う」
「……ありがとう、ごめんね。色々迷惑かけて」
「別に。まだ雨もまだ止んでないしな。外まで行くぞ」
玄関で靴を履きながら、外に出る。
エレベーターで下へ降りると、ちょうどタクシーがマンションの前に止まっていた。
さっき、黒瀬はなんて言おうとしてたんだろう。
後悔してるって言ったら?
それは後悔しててもらいたいけど……。
あの時の黒瀬の表情がなんとも言えない表情で少し気になってしまった。
まぁいいか。
「じゃあまた明日。業務はしっかりやるから安心して」
この間の反省も込みでそう言いながら私は車のドアに手をかけた。
そのとき。
「……高梨」
背後から名前を呼ばれた。
振り返ると、黒瀬がゆっくりと手を伸ばし、私の手をそっと取る。
「な、なに?」
そして、静かに、けれどはっきりとこう言った。
「お前は俺のこと嫌いかもしれないけど、俺は……お前のこと、嫌いじゃなかった」
目が合った。
雨に濡れたフロントガラスの向こうで、タクシーのメーターが点滅している。
心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
なに言ってるの……。
「意味分からないし……」
かすれた声でそう言って、私はそのままタクシーに乗り込む。
車はいつの間には走り出してしまった。
『俺はお前の嫌いじゃなかった』
どういう意味よ……。
わざわざそんなこと言わなくていいのに。




