地獄のランチ
昼休憩の時間。
今日、社長は資料チェックが続いていてオフィスにこもりきりだ。
午後からは打ち合わせが入っているから、今のうちに休憩をしてしまおう。
黒瀬に声をかけて私は社長室を出た。
私がコンビニでお昼を買おうと思った時、営業部の須藤さんが声をかけてきた。
「ねぇねぇ、高梨さん。今日久しぶりにランチでも行かない?会社の近くに新しくできたイタリアンに行ってみたくて……」
須藤さんから誘われたことに嬉しくなり、私も返事をする。
「ぜひ……」
秘書は私ひとりだから会社の同じ部署の人もいなくてちょっと寂しかったんだよね。
なんて思っていると、須藤さんが大きな声で言う。
「美咲ちゃん、高梨さんもOKだって~」
えっ。
「あ、あの……ランチって」
「そう。今日は美咲ちゃんが計画してくれたの。高梨さんも誘ってみようかって言ってて……」
「あっ、そうなんですね」
なんだか嫌な予感がする。
でも行くと言ってしまった手前、断ることが出来なかった。
美咲が言ったって……わざと須藤さんに声をかけるように言ったってこと?
不安に思いながらも、女性社員数人でランチに行くことになった。
オフィスを出てほどなくして、近くのイタリアンレストランに到着する。
店内は、木の温もりを感じる内装に、カトラリーの置き方ひとつも洒落ていて女性向けに作られた雰囲気が漂っていた。
久しぶりかも。
こういうところでご飯食べるのは……。
「ランチコースがおすすめらしいよ。パスタとデザート、選べるって!」
メニューを広げながら、みんながあれこれ相談し合う。
「私はトマトとモッツァレラのやつにしようかな~」
「じゃあ、私は明太クリームにしよ!」
一通り注文を終えると、少し落ち着いた空気がテーブルに流れた。
美咲も今、なにかしようとしているわけじゃないし……このままご飯食べてやり過ごせば問題ないか。
そう思っていると。美咲が、満を持したようにスマホを取り出した。
「ねぇ、見て見て。昨日、彼と行ったレストランの写真♡」
スマホの画面には、夜景をバックに撮られた美咲と圭介くんのツーショットが映っていた。
「えー美咲彼氏いたなら言ってよ~!すっごいオシャレ!彼氏さん、イケメンじゃん!」
「どこで出会ったの?」
高梨さんたちがたずねると、美咲は誇らしげに答えた。
「友達の紹介!」
サラッと言ったその言葉に、私は一瞬だけ手を止めた。
美咲に紹介したわけじゃない。
彼氏を連れてきてって言われたから、紹介しただけなのに……。
「今、本当毎日幸せなんだよね~!毎日彼の家行って半同棲みたいになってるし」
「いいなぁ~」
笑っている美咲の顔が、どうしようもなく遠く感じた。
私はなにも言わず、ただ静かにグラスの水を口に含んだ。
「莉乃は?彼氏いるの?」
何気ないふりをして、美咲が問いかける。
まわりの視線が、一斉に私に向いた。
えっ。
喉がつまったような感覚に、思わずグラスを置く。
どうしてそんなこと聞けるの……。
自分がとったクセに……。
「たしかに、高梨さんの恋愛聞きたいかも~!」
事情を知らない須藤さんたちが盛り上がる。
「……い、いや……特に、なにもないよ。仕事が忙しくて」
「そっかぁ……社長秘書だもんね。恋愛してる時間はないか」
笑い声がテーブルの上で弾ける中、私はただテーブルの上をボーッと見つめていた。
「それでね、この間は……」
自分の感情だけが、まるで別の場所に取り残されたように冷たかった。
美咲は楽しそうだな。
きっと圭介くんも私なんかと一緒にいるよりも、美咲といる方が楽しいんだろうな……。
ランチを終え、店を出てオフィスに戻る道。賑やかだった同僚たちはそれぞれの部署に戻るため、少しずつ散り散りになり、気づけば私と美咲の二人きりになっていた。
「ねぇ、莉乃」
美咲が、私の隣にピタリと寄り添うように歩きながらささやきかける。
「ふふ、幸せ、奪っちゃってごめんね♡」
美咲は、私の反応を確かめるように、楽しそうに笑った。
「……っ」
悔しい。
その言葉に、私はなにも言い返せなかった。ただ、唇を噛みしめることしかできない。
なんて惨めなんだろう。
美咲は、勝ち誇ったように笑うと、私を置いて先に歩き出した。
行かなきゃよかったな……。
忘れていた苦しみが傷をえぐるように思い出されたランチになった。
定時を少し過ぎた頃、デスクの上に置いたスマートフォンが震えた。
通知に表示された名前を見て、思わず心臓がひとつ跳ねる。
【圭介くん】
……なんだろう。
あんまり見たくないな……。
でも大事なことだったら……。
迷った末に、画面を開いた。
【今日、時間ある?莉乃の荷物、まとめたから取りに来てくれない?】
そうだよね。
もう半同棲してるって言ってたもんね……。
正直もう会いたくない。
全部捨ててくれて構わない。
そう思ったけれど、指が止まる。
……ネックレス。
付き合って三年目の記念日に、圭介くんが選んでくれた細いゴールドのネックレスがあった。
まだ自分に自信のなかった私が勇気が出るようにってくれたお守りのようなものだった。
あのネックレスだけは、どうしても手放したくなかった。
【今夜、取りに行きます】
そう返してスマホをバッグにしまう。
「お先に失礼します」
「ああ」
私は黒瀬に挨拶を済ませてオフィスを出た。
外に出ると空気は、昼よりも冷たくて澄んでいた。
信号待ちのたびに、ため息がこぼれそうになる。
すぐにいって、取りに帰ったら戻ればいい。
そう言い聞かせながら、電車を乗り継ぎ、彼の住むマンションに向かった。
来慣れたはずの道なのに、今は一歩ごとに胸が締めつけられるようだ。
マンションに着き、インターホンを押す。
「……あ、来た?」
インターホン越しに聞こえたのは、変わらない彼の声だった。
まるでなにも、なかったみたい……。
そりゃそうだよね。
相手はもう次に進んでいるのだから。
マンションのエントランス前に立っていると、ほどなくして自動ドアが開いた。
「おまたせ」
圭介くんが、手提げ袋を片手に歩いてくる。
まるでコンビニ帰りのような気軽さで、なんの感情も込められていないその表情が、逆に胸に刺さった。
「これ、全部。たぶん忘れ物ないと思うけど」
「……ありがとう」
袋を受け取ると、中には私の服やスキンケアグッズだけじゃなく、明らかに私がプレゼントしたものが、雑に放り込まれていた。
「……これ」
私が誕生日に選んだシャツ。
思わず口をついて出た言葉に、圭介くんはわずかに眉を寄せたあと、あっさりと言い放った。
「いや、美咲に悪いだろう?そんなに着てないし、いらないから返すよ」
「そ……そう」
泣かないって決めていた。
荷物をもらって帰るだけだって。
でも、心臓がえぐられる。
自分と関わっていた時間の全てを拒否されているみたいでだった。
「……あの、圭介くんがくれたネックレスは?お守りだってくれたやつ……」
「あー……」
圭介の目が、一瞬だけ泳いだ。
「それ、私にとっては勇気が出せる大事なものだったの。未練とかじゃないからまだ持っておきたいの」
「……あー、うん」
曖昧な返事をしたそのときだった。
背後からヒールの音が聞こえた。
「圭介っ……!ただいま」
現れたのは、美咲だった。
ゆるく巻かれた髪に、明るいベージュのコート。
仕事を終えて帰ってきたのだろう。
「会いたかった~♡」
美咲は私がいる前にも関わらず、圭介くんに抱きついた。
その時、その首元に見覚えのある繊細なゴールドのネックレスを見つける。
……まさか。
見間違いじゃない。
それは間違いなく、私が探していたあのネックレスだった。
「あ……莉乃。ゴミ引き取りに来たのね」
「……返して」
それだけは、どうしても言わずにはいられなかった。
「はぁ?」
「それ……私の、ネックレス。返してよ!」
美咲は、わずかに目を見開いたあと、口元に小さな笑みを浮かべた。
「なに言ってんの。圭介がもういらないからって私にくれたんだけど?」
「……でも、それは、私のもの……だから」
声が震えた。
感情を抑えようとすればするほど、胸の奥が焼けるように熱くなる。
「お願いだから返して!」
私は追いすがるようにその手をつかんだ。
「いい加減にしてよ!」
バッ、と振り払われた瞬間、鋭い爪が頬をかすめた。
「っ……!」
ヒリつく感覚。
頬に手を当てると、指先にうっすらと赤いものがにじんだ。
「気持ち悪いのよ。まだ未練があるってわけ?」
「そうじゃなくて……」
圭介くんは私を見下ろしながら言う。
「あのさあ、別れた相手に持たれるのも気持ち悪いから遠慮してくれないか?」
「なに言って……」
頭の中が、真っ白になる。
すると美咲は勝ち誇った顔をして笑った。
私の目の前を、美咲と圭介くんが通り過ぎていく。
手には、握りしめたままの手提げ袋。
頬には、滲んだ血と、涙。
声が出なかった。
マンションを離れたあと、私はなにも考えられなかった。
まるで、足だけが勝手に動いているみたいに力を無くす。
持っていた手提げ袋が重くて、手の感覚がなくなっていく。
なんで……。
どうして……こんな目に遭うのだろう。
そんなにひどいことをした?
裁かれなきゃいけないことをなにかしただろうか。
まっとうに生きてきたつもりだ。
うつむいた視界の端で、水たまりに雲が映る。
ぽつり。
冷たい雫が頬に当たったかと思うと、次の瞬間には本格的な雨が降り出した。
当然傘なんて、持っていなくて……。
ああ、もうどうでもいいや。
私はとにかく足を動かした。
雨は容赦なく髪を濡らし、服に染み込み、体温を奪っていく。
そして――。
「きゃっ!」
滑った足元を支えきれず、私はそのまま地面に倒れ込んだ。
手のひらと膝を打ちつけた痛みに顔をしかめる。
ははっ……。
全部がうまくいかない。
もう、なにもかもどうでもよくなった。
ぽつ、ぽつ、と雨粒が顔に落ちる。
「……うっ、……うぅ……っ」
声にならない嗚咽がこぼれた。
好き、だったのになぁ……。
結婚したら、私が料理を作って、ちょっと抜けてる彼をカバーしつつ楽しい家庭を築いていけると思っていた。
バカだなぁ……本当に。
浮気されてるとも知らずに……。
すると、突然、打ち付けていた雨が止んだ。
えっ。
上を見上げると、そこには見慣れた顔があった。
「……高梨?」
視界の中に差し込んできたのは、黒瀬の姿だった。
「こんなところで、なにしてんだよ」
彼の声は、いつもよりずっと静かで、低くて、優しかった。
「風邪引くだろ……」
いや、優しいわけがない。
傷ついた心がきっと幻想でも見せているんだろう。
ぼたぼたと、傘のふちから雨粒が落ちていく。
「立てるか?一旦雨宿りできるところ行くぞ」
変なの。
ここに黒瀬がいるのもおかしいし、優しいと思ってしまっているところも変だ。
あーあ。
変なことばっかり起きるこの世界。
全てを放棄できたらいいのに……っ。




