体調不良と昔のこと
翌日。
午後一番。
黒瀬社長が社外講演を終えて戻ってきたのは、午後三時すぎだった。
そのまま車に乗ってオフィスに帰る予定だ。
かなり詰め詰めのスケジュールで1日を過ごしていて、昼食もロクにとっていない状況。
帰ったら食事が出来るように色々買ってきたけど、食べる時間はあるだろうか。
「では車にのりましょうか」
声をかけると、黒瀬社長はゆっくりと首を回して、少しだるそうに私を見た。
スーツの襟元を緩めた彼の額には、細かい汗が浮かんでいる。
疲れてる?
私はタクシーの後部座席に座る黒瀬社長の様子を、助手席からそっとうかがった。
「今日はかなり暑かったですね」
「……ああ、講義室の冷房の利きがあまりよくなかったな」
黒瀬社長は、ネクタイをゆるく緩めながら、シートにもたれかかって目を閉じている。
額にはうっすらと汗。
開けたばかりのペットボトルの水が、手のひらの中でぐらぐらと揺れていた。
体調が悪いのだろう。
食事を抜くからそうなるんだ。
車がオフィスの前に到着すると、私はさりげなく先に降りてドアを開けた。
「社長、こちらです」
「……ありがとう」
その声には、いつものような張りがなかった。
足取りもやや重く、スーツの背中にはほんのりと汗が滲んでいる。
まずいな……熱中症気味になっているんじゃない?
私はエレベーターで一緒にフロアまで戻り、先回りして社長室のドアを開けた。
涼しい室内に足を踏み入れた黒瀬社長は、ふうと小さく息を吐き、ネクタイをさらにゆるめた。
「はぁ……暑かった……」
「社長、こちらをどうぞ」
私は社長室の冷蔵庫から、保冷剤入りのクールタオルを取り出す。
彼が椅子に座るのを確認してから、無意識のまま、私はその冷たい布を彼の首筋へと軽く当てた。
「っ……!」
思わず肩を跳ねさせた黒瀬社長に、私も一瞬、我に返る。
「あ……すみません。つい、クセで……」
「あ、ああ……」
こんな顔もするんだ……。
そんなことを思った時、彼はそっと私の手を取り、そのまま氷を首にあてた。
ちょっ……。
気持ち良さそうに目を細める黒瀬。
黒瀬の手が私に触れている。
「あ、あの……手」
「ああ、悪い」
彼はにやりと笑った。
わざとやったな!
体調悪いと思ったから色々してあげたのに!
「これも飲んでください」
それから、脱水にならないように私はそっと立ち上がり、冷えたポカリスエットのボトルを一本取り出す。
その横に常備してあるエネルギーゼリーと、個包装された小さな焼き菓子を添えてトレイに乗せた。
「脱水を防ぐためにも、水分と糖分、しっかり取ってくださいね」
「……ありがとう。本当に助かったよ」
黒瀬社長がポカリのキャップをひねりながら伝える。
「それが私の仕事ですから」
きっぱりとそう言いながら、私はトレイをそっとデスクに置いた。
それからしばらく経つと黒瀬の体調は無事回復していったようだった。
今は何事もなく仕事をこなしている。
静かな社長室に、キーボードを叩く音だけが響く。
すると、黒瀬は仕事がひと段落ついたのか社長室を出ていった。
そして数分で戻ってくると、なにかを私のデスクに置いた。
デスクの端に、冷たい雫を纏った缶コーヒーが一本。
えっ。
私は顔を上げ、彼を見る。
「お礼」
するとその疑問に答えるように小さくつぶやいた。
お礼って……別に仕事だからいいのに。
妙に律儀なんだから……。
「あり、がと」
そういえば昔からそうだったな……。
それは高校生の頃。
彼は私を「パシリ」と呼び、昼休みに呼び出しては自分の朝食を私に買わせるという悪行をしていた。
『パン買って来いよ、今日はカレーパンな?』
なんで私が……!
イライラしながらも逆らったらメンドクサイことになると思った私は、仕方なく黒瀬の言うことを聞いていた。
でも不思議なことにパンを買って戻ると決まって、買ってきたものの代金をきっちりと渡してきた。
普通こういうのってお金払わないでパシリに使うんじゃないの?
『ん、やる』
しかも売り切れ続出で手に入れるのが難しい人気のパンをゲットしてきた日には半分割って私に分けてくれたり……。
変なところ律儀で黒瀬の考えてることは、私には理解できなかった。
まぁ……今も全然理解できませんけど?
ちらりと視線を向けると、それに気づいたのか黒瀬はぶっきらぼうに言う。
「なんだよ」
「別に―」
まっ、黒瀬が来た時は一時はどうなるかと思ったけど……。
バタバタしてたお陰で圭介くんのことも忘れられたし、ある意味良かったのかな。
幸い美咲と会うこともなかったし……。
嫌なことをさらに大きな嫌なことでかきけしている感が否めないけど……。




