立場逆転
黒瀬は私のことを覚えていた……。
その事実が、じわじわと胸の奥に染み込んでいく。
『地味子ちゃん』
にやりと意地悪に笑った黒瀬は昔のままだった。
いつもの業務に戻ろうとする私の耳に、彼の声が追いかけてくる。
「高梨さん、あの資料、三部コピーお願い」
「はい」
「それと、ここの確認も今日中に。全部やってね?」
……ん?
「ついでに、コーヒーもう一杯。今度は甘いやつで」
ついでに?
私の目をまっすぐ見て、口元だけでにやりと笑う黒瀬社長。
明らかに注文が増えてる。
しかもそれだけじゃない。
「高梨さん、そこのファイル取ってくれる?」
自分の近くにあるファイルを、わざわざ指差してそんなことを言ったり。
「ボールペン切れた。新しいの、三本くらい持ってきて」
「あとスリッパ……少し汚れてたから取り替えてくれる?それからデスクのUSBを……」
ああ、もう!
注文が多いし、それ、絶対自分でできるやつでしょう……!!
「あの……それくらいは自分で……」
「なにかな?社長に口答えでもするつもり?」
にっこりと笑顔を見せる黒瀬。
これは……私の完全な負けだ。
黒瀬はあの一件からここぞとばかりに私を使ってくる。
でも、バレてしまった手前、こちらも仕返しなんかすることが出来ず……。
社長に言われるがままに動く生活。
あっという間にこちらの立場が弱くなってしまった。
「はぁ……はぁ……」
やっと解放されたのは20時頃だった。
黒瀬はまるで仕返しとでもいうように1日こどごとく私を使ってきた。
クタクタになって、最後の書類を黒瀬社長の机に置いた。
「こ、こちらで全てになります……」
ふん、どうだ!
私だってもう3年も社長秘書をやってきたのよ。
大量に頼んで出来ないだろう?なんて言うのを楽しんでいたのかもしれないけど、全部やり遂げてやったわ。
見てみなさい!
「これ、全部やったのか?」
「当然です。社長から命令でしたので」
私はニコッと笑顔を作った。
なーんにも大変じゃありませんでしたよ、みたいな顔をする。
もう前の言うことばかり聞く私だと思わないでよね。
そんなことを思っていると、黒瀬は意外にも感心したような声をもらした。
「すごいな……さすが、仁科社長の秘書をしていただけある」
なっ……。
てっきりこれくらい出来て当然だとか言ってくると思ったのに。
なによ、突然褒めてきて……。
そして黒瀬はゆっくりと私に歩み寄ってきて、片手をポケットに入れたまま、口の端をわずかに上げた。
「よし、終わったらなら飯でも行くか」
「は、はぁ!?」
誰があんたなんかと……!?
けれど黒瀬社長はそんな私の動揺などお構いなしに、当たり前のようにネクタイをゆるめながら言った。
「普通に行くだろ。前社長が就任した時も挨拶として食事くらいいっただろ」
そういえば……。
そうだったかも。
秘書は社長と二人三脚でやっていくものだから、最初はご飯をごちそうになった気がする。
「なに?まさか誘われてるとでも思った?」
「……っ」
その一言で、ピタリと口をつぐむ。
「まさか」
私は引き攣った笑顔で笑った。
けっきょく私は黒瀬と食事に行くことになってしまった。
黒瀬社長は「よし」とだけ呟いて歩き出し、私は少しだけ間を空けてその背中を追う。
誰もいないビルのロビーに、革靴の音がコツリと響く。
なに、この状況……。
なにが楽しくて、昔大キライだったアイツとご飯に行かなきゃいけないのよ……。
はぁ……。
しかし、ちらりと見た黒瀬の横顔は、どこか満足げに見えてますます腹が立ってしまった。
案内されたのは、駅から少し離れた、落ち着いた雰囲気の和食の店だった。
外観は控えめなのに、中に入ると間接照明に照らされた木目のカウンターや、丁寧に敷かれた和紙のランチョンマットが目を引く。
黒瀬が名前を告げると、御用達なのか予約無しでもすぐに奥の個室へと通された。
ステキなお店……。
やっぱり社長をやってきただけあるな。
上質な畳に低めのテーブル。程よく仕切られた空間。
黒瀬との食事は嫌だけど、料理は本当に美味しそう……。
黒瀬は、メニューを一瞥したあと店員に手慣れた調子で注文を済ませ、こちらに顔を向けた。
「なにか飲むか?」
「いえ、今日は……」
「じゃあ、お茶にしとく?」
「お願いします」
柔らかく微笑むその顔が、昼間までの彼とは別人のように見えて、ちょっと変な気持ちになった。
「お待たせしました。ビールと、こちらがウーロン茶です」
タイミングよく、仲居さんが二人分の飲み物を運んできた。
薄いグラスにきらきらと泡が立つビールと、すっきりと冷えたウーロン茶。
「じゃ、軽く」
黒瀬社長がグラスを手に取る。
自然と私も自分のグラスに手を伸ばすと、彼が静かに目を細めた。
「……お疲れさま」
「……お疲れさまです」
こんな言葉もちゃんと言えるんだ。
飲み物を口に運ぶふりをして、そっと息を整える。
グラス越しにふと目が合うと、黒瀬社長はほんのわずかに笑っていた。
な、なによ。その顔……!
「明日も早いので、あまり長居はできませんから」
釘を刺すように言うと、黒瀬社長はくすっと笑った。
「お前って、ほんと変わらないな」
……は?
「どういう意味ですか!」
「昔から、そうだったろ。妙にまじめで、命令したってやらなきゃいいつーのになんか、全部やり遂げてどうだ?みたいな顔してさ」
前の私もそんなことしてたっけ?
やらなきゃいいって、あんなみたいな人に命令されてやらないって選択をする方がヒドイ目遭うじゃない。
そんなことを思っていると、料理が運ばれてきた。
品のいい器に盛られた、炊きたての土鍋ご飯と、香ばしい西京焼き。
ふんわりと漂う出汁の香りに、お腹がぐうっと鳴ってしまう。
「……っ」
恥ずかしくなって慌ててお腹を押さえる私に、黒瀬社長がふっと笑みを浮かべた。
「どうぞ?」
絶対、聞こえてた……。
気まずさをごまかすように、黙って箸を手に取る。
土鍋からよそわれたばかりの白いご飯を一口。
そして、ほんのり甘い香りをまとった西京焼きを口に運んだ瞬間……。
「……んん、美味しい」
思わず、本音がこぼれた。
焼き目の香ばしさと、味噌のまろやかさ、そして炊き立てご飯のふっくら感。
美味しすぎるでしょ。
「ここ、いいだろ?気に入ってるんだ」
黒瀬社長が、どこか嬉しそうに言う。
「よく見つけましたね。会社の近くにあったなんて知りませんでした」
「前の商談のときに、連れてきてもらってさ。飯がうまかったから、それからたまに来てる。まぁ、気に行ったんならたくさん食べれば?」
ご飯をよそってくれながら、そう言う黒瀬社長の口調は、思いのほか自然で。
……あれ? なんか、普通に優しい?
「すみません、ご飯よそるの私がやります!」
「いいよ。もう仕事は終わったからな」
もっと色々使いパシリされると思ってたから、案外普通?だし……なんかご飯分けたりとかしてくれるし……なんか黒瀬じゃないみたい。
「にしても驚きました。まさか黒瀬が私のこと覚えてたなんて」
「そりゃ……覚えてるだろ」
「クラスで一番人気者で、目立っていたあんたのことだからすっかり忘れているかと?」
私がそう言い放つと、黒瀬は顔を顰め、心外だというように言った。
「別に……そんなやわな記憶じゃねぇよ」
それからは仕事の話をほとんどして食事は終わった。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
外に出て丁寧に頭を下げると、黒瀬社長はこくんと頷く。
「気に入ってもらえてよかったよ。タクシー呼ぶか?」
「いえ……まだ電車の時間がありますので、電車で帰ります」
そう答えると、少し残念そうな顔で顔を上げた。
「ではさようなら」
そう言って振り返ろうとした、そのときだった。
「――あのさ」
静かな声が、背後から私を引き留める。
思わず動きを止めて振り向くと、黒瀬社長はなにかを言いたそうにじっとこちらを見つめていた。
「なんでしょうか」
「お、俺は……お前と再会できて良かったと思ってる、から」
「……は?」
思わず間抜けな声が出た。
なに、それ。
今の、どういう意味?
パシリとして使いやすいからってこと!?
思い返すと、ここ数日の仕打ちが頭をよぎる。
また存分に使ってやるってことじゃない。
胸の奥に、ふつふつとした感情がわいてくる。
ムカつく。
「……そうですか、私はちっとも嬉しいと思っていませんから」
そう言い放って私はふんと顔を逸らすと、私は歩き出した。
「あ、おい……!」
ちょっとは優しいかもって思ったのに、勘違いだった。
やっぱりイジメっこのイジメ体質っていうのは変わらないのね。
ムカつく。
やっぱり、黒瀬なんて嫌いだ。




