私じゃなくても
週明けのオフィスは、いつも通り穏やかな空気が流れていた。
私と黒瀬の関係は、あの夜から少しずつ、けれど確実に変化していた。
とはいえ仕事は仕事と分けているから、職場ではそこまでは変わっていないんだけど、今が幸せだと感じることはたくさん増えた。
お昼休憩に入り、給湯室でお茶を淹れていると、総務部の杉田さんが「高梨さん」と声をかけてきた 。
「最近、黒瀬社長とはどう?順調?」
人当たりの良い彼女は、心配と好奇心が混じったような優しい目で尋ねてくる。
「ええ、まあ……」
私は少し照れながら、曖昧に頷いた。
色々あったんだけど、それを話さない方がスムーズに伝わるんだよね……。
その返事を聞き杉田さんは「良かった~」と嬉しそうに微笑んだ。
しかし、すぐにふっと表情を改め声を潜めた。
「でも、気を付けた方がいいわよ」
「え?」
「黒瀬社長のこと、本気で狙ってる子、社内にたくさんいるから。特に、最近入ってきた企画部の子たちなんて、すごい積極的だってウワサだし……」
その言葉は、浮かれていた私の心に小さな棘を刺した。
「そ、そうなんですね……」
「高梨さんがまだ彼女どまりなら、奪えばなんとかなるって息巻いてる子もいるみたいだから。本当に気を付けてね」
杉田さんの心からの忠告に、私は「ありがとうございます」と返すのが精一杯だった。
奪えば、なんとかなる……。
最近の子ってそんなにグイグイくるんだ……。
でもそうか。
黒瀬はすべてを持ってる。
甘いルックスに、地位そしてお金。
そんな彼を放っておく人なんていないだろう。
ちょっと甘く考えてたなぁ……。
その言葉が頭の中で重く反響する。
給湯室を出て、社長室へ戻る廊下を歩いていると、ちょうど数人の女性社員が黒瀬の周りに集まっているのが見えた。
「社長、この間のセミナー、すごく勉強になりました!」
「今度、私たち企画部とぜひランチミーティングをお願いします!」
一人が熱心に話しかければ、もう一人がすかさず続く。
その距離は不自然なほど近く、彼女たちの瞳はあからさまな好意に満ちていた。
「ああ、そうだね。なにか悩んでいることがあるのなら相談にのるよ」
黒瀬は、いつもの冷静な表情を崩さず丁寧に対応している。
けれど、そのスマートさが、逆に誰でも受け入れているかのように見えてしまう。
「キャー嬉しいです!」
さっきの杉田さんの言葉が、目の前の光景と重なる。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
分かってはいた。彼は多くの人に注目される立場だ。
でも、それを目の当たりにすると、言いようのない不安が胸をよぎる。
黒瀬がなにも私と一緒にいる必要がないと気づいてしまったら、私は捨てられるのかな……。
好きになってから捨てられたら辛いだろう。
それこそもう立ち直れないかもしれない。
私は足を止め、その光景から目を逸らすように、静かにその場を離れた。
その日の帰り道、私が帰ろうとすると「俺もあがる」と言って黒瀬と一緒に職場を出ることになった。
「なんか飯でもくってくか?」
並んで夜の街を歩くと、さっきのことを考えてしまう。
「あ、うん……そうだね!」
私は知らず知らずのうちに口数が少なくなっていた。
「どうした?なんか浮かない顔してるけど」
不意に、黒瀬が私の顔を覗き込むようにして尋ねた。
いつもと変わらない低い声。
けれど、そこには優しさが滲んでいる。
「……ううん、なんでもない」
そう言って首を振るけれど、私の曖昧な返事に彼は納得していないようだった。
足を止め、私の前に回り込むようにしてまっすぐに視線を合わせてくる。
「なんでもなくないだろ。なんかあったなら言えよ」
その真剣な瞳から逃げられなくて。
「う……えっと」
私は観念して、胸の内をぽつりぽつりと吐き出した。
「……黒瀬は、すごい人だなって。社長で、仕事もできて、みんなに注目されてて……全部持ってる。だから、黒瀬のことを手に入れたいって必死になる人が、たくさんいるんだって……今日、知ったの」
自分の声が、情けなく震えているのが分かった。
彼を疑っているわけじゃない。
でも、私なんかが彼の隣にいていいのだろうかという、拭いきれない不安がずっとある。
昔から持っているコンプレックスがずっと払拭できないんだよね……。
すると黒瀬はふっと微笑んだ。
「そんなことか」
「ちょっ……そんなことって」
失礼じゃない!?
私は悩んでるのに!
「そりゃいるだろうな。必死に俺と結婚したいってやつは……」
はぁ?!
普通そこは彼女の私を安心させるところなんじゃないの。
イライラしていると、黒瀬はさらに言う。
「でも忘れてんじゃねぇの?俺だって莉乃と付き合いたくて必死になったってこと」
「なっ……」
予期せぬ言葉に、思考が止まる。
さっきまでの苛立ちが一瞬でどこかへ消え去り、代わりに心臓が大きく音を立てた。
「他の奴らがどう思おうと関係ない。俺が欲しいのは昔からお前だけだ」
彼は一歩近づくと、私の頬にそっと手を添えた。
触れた指先が、熱い。
「だから、そんな不安そうな顔するな」
耳元で囁かれた優しい声と、頬をなでる指の感触に、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
さっきまで心を覆っていたモヤモヤとした不安が、彼の温かさに触れて静かに溶けていくのが分かった。
ずるいよ……黒瀬のやつ。
彼は私の手をそっと取ると、その指先に力を込める。
「俺はさ、莉乃が不安なら世間に公表したっていい。俺たちが付き合ってることも、婚約してることも。お前の不安を消すためなら、どんなことでも出来る」
まっすぐな言葉……。
私の不安の全部を打ち消してくれるような……。
彼の温かい手に包まれながら、私はゆっくりと首を横に振った。
胸の奥でつかえていた不安が、彼の言葉と共に、静かに溶けていくのが分かった。
「私はさ……昔からコンプレックスまみれの人間で……人付き合いも上手くないし、何事も人一倍努力しないとそれなりにならなかったの。だからいつもちょっとのことで不安になったり、自分でいいのかなってモヤモヤしたり……本当はけっこうめんどくさい人間だと、思う」
コンプレックスを埋めるために必死に生きてきた。
誰かのせいにもしたし、そんな自分から逃げるようなこともしてきた。
黒瀬みたいに全然出来た人間じゃない。
「それでも黒瀬の隣にいて……いいのかな?」
私が静かに声をもらすと、黒瀬はすぐに伝えた。
「当たり前だろ」
そしてまっすぐに私を見つめる。
「俺が好きなのは、昔からそういうお前だ。不器用で、真面目すぎるところがあって、でも優しくて……そういうところも、全部愛してる」
彼の言葉が、すとんと胸の奥に落ちてくる。
「くろ、せ……」
「めんどくさいなんて思ったこともない。悩む時があるなら吐き出してくれればいい。俺はその悩みを吹き飛ばしてやれる」
そう言って、彼は私の手をぎゅっと引き寄せた。
その眼差しは、どうしようもなく甘くて、温かい。
黒瀬が好き……。
大好きだ。
彼の優しさに包まれているだけで、満たされていく。
もう、この手を離したくない。
「ねぇ黒瀬……私、これから先も黒瀬と一緒にいたい……」
この人の隣が、私の居場所なんだと彼は教えてくれた。
最初は思っていた。
ゆっくりと距離を縮めていって、結婚までの準備をしていきたいと。
でも今は違う。
「私……黒瀬とけっこ……」
そう言いかけた瞬間、彼がそっと指を伸ばし私の唇に優しく触れた。
私の言葉は、その指先で遮られる。
「それは、俺から言わせてくれ」
彼の瞳は、今までに見たことがないほど真剣だった。
彼はゆっくりと私の前から離れ、その場にひざまずいた。
「え……黒瀬?」
なにが起こったのか分からず戸惑う私の目の前で、彼はスーツのポケットから小さな箱を取り出す。
パカっと音を立てて開かれたその箱の中には、ダイヤモンドの指輪が入っていた。
「俺と結婚してください」
シンプルな告白。
そのまっすぐな言葉に、周りの音が聞こえなくなる。
気づけば目から涙が零れていた。
「どうして……指輪、なんて持ってるのよ……」
すると黒瀬は、安心させるように微笑んだ。
「俺はもう覚悟を決めてたから。莉乃の覚悟が決まったら、すぐに結婚しようと思ってた。だから、いつお前に渡してもいいように、ずっと持ってたんだ」
私が不安に揺れていた間も、彼はとっくに私との未来を決めて、待っていてくれたんだ。
「黒瀬のバカ……そんなの、ズルすぎる」
「それで返事は?」
にやりと笑う黒瀬。
そんなの決まってるじゃない。
答えはひとつしかない。
「……はい。結婚してください」
涙で滲む視界の中、私は何度も頷いた。
彼は嬉しそうに微笑むと、そっと指輪を抜き取り私の左手の薬指に滑らせる。
「ぴったりだ……すごい」
「この指輪、お前に似合うと思ったんだ」
そう言って彼が立ち上がると、そのまま腕の中に強く抱きしめた。
彼の胸に顔をうずめると、いつもと同じ落ち着く匂いがする。
「やっと言えた……」
耳元で聞こえたのは、安堵の声だった。
ドクン、ドクン、と速くて鼓動が、黒瀬の胸から伝わってくる。
いつも自信に満ち溢れている彼が、私と同じように緊張していたのだと分かって、胸の奥が締め付けられる。
「大好きだよ」
「……俺もだ」
ぎゅっと背中に回された腕に力がこもる。
もう、この温もりを失うことなんて考えられない。
かつて私の人生をめちゃくちゃにした意地悪な男の子は、今、世界で一番私を愛してくれる、たった一人のひとになった──。




