結婚の発表
それから1カ月後──。
黒瀬は全社員が参加する朝礼の場で私を隣に立たせた。
そして、いつもの落ち着いた声でこう言った。
「私事で恐縮ですが、この場を借りてご報告させてください。先日、秘書の高梨莉乃さんと結婚しました」
一瞬の沈黙の後、会場は祝福と驚きの声に包まれた。
「おめでとうございます!」
「社長と高梨さんが結婚なんて……!」
驚きながらも鳴りやまない温かい拍手に、私はどうしていいか分からず、ただ顔を赤くしてうつむくことしかできなかった。
まさかこんなに早く籍を入れることになるとは……。
黒瀬はあのプロポーズの日からすぐに行動に移した。
最初に私の両親に挨拶に行ってくれて、それから悠真の両親にもう一度、今度は正式な結婚の報告として黒瀬の家にお邪魔することになった。
うちの両親には恋愛の話を一切話していなかったから、驚いていたけれど黒瀬の正体を聞いて不安になる人間なんておらず、とても喜んでいるみたいだった。
そして、その勢いのままあっという間に婚姻届の提出も済ませてしまった。
区役所の窓口の前に立って婚姻届を握りしめ緊張をする私。
『本当に、いいの?』
提出する直前になって、また不安をこぼしてしまったけど……。
『辞める選択があるのか?あーあー。俺はまた莉乃をオトすところから始めなきゃダメなのか』
からかうように言う黒瀬はすごく頼もしかった。
二人で一緒に窓口に書類を差し出す。婚姻届けの受理は簡単に行われた。
『おめでとうございます。本日付で婚姻届、受理いたしました』
今日から私は黒瀬莉乃になるんだ……。
本当に黒瀬はびっくりするくらいの行動力で、私はただ彼の大きな背中についていくだけだった。
朝礼が終わった後、社長室でふたりきりになると黒瀬は「これで余計な虫はつかないだろ」と言っていたずらっぽく笑った。
私を不安にさせないために全部してくれたんだよね、きっと。
「あの、黒瀬……ありがとう。不安にさせないようにしてくれて……」
私が告げると、黒瀬は言った。
「まぁ、それもあるけど……正直どちらかというと、お前の方に悪い虫が付く心配をしてるんだけど」
「えっ」
そんなこと絶対ない気が……。
「お前は俺の秘書として、これからも懇談会やレセプションにも同席することになるしな。そこで誰かに口説かれたらたまらん」
彼の独占欲を隠そうともしない強い眼差しに、心臓が大きく跳ねる。
そしてすーっと黒瀬の指が、私の左手薬指にはめられた指輪をなぞった。
「そのための印でもあるから」
「黒瀬のバカ……」
満足げに笑う彼に、顔を赤くすることしかできなかった。
「つーかさ」
「ん?」
彼がゆっくりとこちらを振り返る。
その目は、少しだけ不満げだった。
「俺はいつになったら、名前で呼ばれるんだ?」
「え……?」
「お前も、もう黒瀬になったんだぞ。それなのに俺を黒瀬って呼ぶのは、なんか変だろ」
そ、それはそうなんだけど……。
「ずっと黒瀬だったし、呼び慣れてるから……それに仕事中は、社長だし……」
そこは変わらない。
仕事中は、黒瀬社長になるのは仕方がない。
「ま、仕事はおいておいてもプライベートでも黒瀬って呼ばれるのは違うだろ」
「うっ……」
図星を突かれて言葉に詰まる。
「それともなんだ?また俺の下の名前を忘れたってか?」
まだそのことを根に持っていたのか……。
黒瀬は私が黒瀬の名前を知らなかったことをけっこう根に持っていた。
「忘れる、わけないじゃん」
もう彼は夫なんだから……。
何度も頭の中では呼んでいたんだ。
でも口に出して呼ぶことは出来なかった。
「ほら、言ってみ?」
彼が悪戯っぽく笑いながら、私の顔をのぞき込む。
その整った顔が近くて、心臓が大きく跳ねた。
私は観念して、赤くなる顔を隠すように俯きながら、蚊の鳴くような声で彼の名前を口にした。
「………悠真」
おそるおそる顔を上げると、目の前には満足そうに口の端を上げた彼がいた。
「よく覚えてたな」
「意地悪」
私が拗ねたようにそう呟くと、彼ふっと笑った。
これから黒瀬莉乃になる。
黒瀬さんと呼ばれてもまだまだ反応出来ないと思うけど、これからゆっくり新しい生活になれていけるといいなと思う──。




