過去の告白
あれから……。
美咲は静かに会社を退職した。
誰にも声をかけることなく、荷物を持って決して振り返ることなく立ち去っていった。
友達だと思っていた。
同じ時に事務として配属されて、内気な私にも気さくに声をかけてくれた子。
あのことがなかったら、今も美咲とは友達でいられんだと思うと少しだけ切なくなった。
そして……。
圭介くんはというと、まるで示し合わせたかのように、私の前に現れることもなくなった。
ウワサによると、黒瀬社長が彼の会社へ正式に報告をしてくれたらしい。
彼にも処分が下ったのだろう。
駅での待ち伏せも、突然の電話もすっかりなくなった。
嵐のような日々がウソだったかのように、私の日常には静けさが戻ってきていた。
けれど、それを手配してくれた黒瀬はというと、後処理や溜まっていた業務の対応に追われ、息つく暇もないほど忙しい毎日を過ごしていた。
「黒瀬社長、他になにかやっておくことはありますか?」
「いや、高梨はあがってもらって構わない」
こんなに忙しそうなのに……。
黒瀬は自分の仕事を遅くまで付き合わせることに罪悪感があるのか、いつも私は先に帰るように言った。
でもこういう時こそ仕事しなくちゃ秘書としても意味がない。
「いいえ、手伝います。家に帰っても特に用事もないですし」
私がムキになって言うと、眉間にしわを寄せながら働いていた黒瀬がふっと笑った。
「……それなら頼む」
良かった……。
いつもの黒瀬だ。
この日、山のような決裁書類を片付け、ようやく一息ついた時だった。
PCの画面を見つめたまま、黒瀬がぽつりと呟いた。
「行きたい場所があるんだけど……今日、どうだ?」
行きたい場所?
突然の言葉に、私はタイピングしかけていた指を止める。
「お前を連れて行きたいところがある」
どこだろう……。
「構いませんが……」
今から?
もう残業してかなり遅いけれど……。
まぁ明日は土曜日で会社も休みだから全然いいんだけど。
こうして久しぶりに私と黒瀬はプライベートとしての時間を過ごすことになった。
「ここだ」
黒瀬が連れてきてくれたのは、駅から少し外れた小さなBARだった。
看板は古びていて、ビルの階段をひとつ上がると木製の扉が現れる。
「ここ、知り合いがやってるんだ。高校の同級生」
「えっ、じゃあ私も知ってる……?」
「どうだろな、クラスは俺たちと一緒じゃなかったから」
私たちの高校はちょっと特殊で、高校3年間同じクラス制だった。
だからこそ、この黒瀬に目を付けられてからというもの、一度も解放されずに地獄のような高校生活を過ごすことになった。
せめてクラス替えさえあれば、あの時少しは解放されていたかもしれないのに……。
黒瀬が無言でドアを押すと、鈍い鈴の音が鳴った。
中は落ち着いた空間になっていた。
間接照明の下、木目のカウンターと壁一面のボトルが静かに並んでいる。
客はまばらで、常連らしき男性がふたり、奥のテーブルで小声で話していた。
カウンターの向こうから、マスターが顔を上げる。
「いらっしゃい」
黒瀬が一歩入ると、カウンターの内側にいたマスターが少し目を見開いた。
「……おお、悠真。久しぶり」
「1カ月前に来ただろ」
「そうだったかな?」
黒瀬とその人は楽しそうに会話をしている。
そのままふたりの視線が交差して……ふと、マスターの視線が黒瀬の肩越しに動いた。
私に気づいたらしい。
「……お、珍しいな。お客さんもいるのか……そちらは?」
すると黒瀬が淡々と口を開く。
「コイツ覚えてねぇ?高梨莉乃」
マスターは一瞬だけ考えるような顔をしてから、目を見開いた。
「……マジ!?あの高梨!?」
私はぺこっと頭を下げた。
知ってくれてるんだ。
誰だっけ?この人……。
面影があるような気はするけれど、もう何年も前だ。
ハッキリと名前が出てこない。
「とりあえず、座ってよ」
穏やかに笑って、グラスを拭いていた布を畳む。
マスターはカウンターに案内してくれた。
おしぼりを渡されると、黒瀬は私にたずねる。
「こいつ、清水啓人。覚えてね?」
「あ、えっと……サッカーしてた?」
「お、そうそう!話したことはないから分からないよな」
清水くんは柔らかく笑ってくれた。
黒瀬はメニューに目も通さずカウンターに軽く手を置いた。
「ウイスキー、ロックで……それと適当につまみ」
「OK!」
「高梨さんはどうする?」
「あっ、えっと……」
すると黒瀬が代わりに言った。
「コイツには飲みやすいものを」
「了解!」
慣れた手つきで、棚からボトルを選ぶ。
バカラのグラスに琥珀色の液体が注がれ、カラリと氷が転がる音がした。
「はい、どうぞ」
私のテーブルにグラスが置かれる。
淡いピンクがかったリキュールが、静かにゆれていた。
「あんまり強くないやつにしたから安心してね」
「ありがとう」
そう言いながら、私は指先で冷たいグラスの縁をなぞった。
「それで?どういう経緯で高梨さんとここに?」
黒瀬はグラスを手にしたまま、一度も私と目を合わせず、ゆっくりとウイスキーを口に運んだ。
「今、同じ会社で働いてる」
「マジ!?」
「そう……んで、俺の秘書」
「秘書!?そんな再会ある?」
私もビックリしたよ……。
黒瀬はグラスを口元に運び、黙ったまま琥珀色の酒を喉に流し込む。
「それでこうして飲みに?そんなに仲良くなったと……?」
清水くんの問い掛けに黒瀬は、素っ気なく答えた。
「色々あんだよ」
黒瀬は私たちのことを説明する気はないようだ。
「……まあいいや。オレ、余計なこと聞かない主義だしな」
それから一通り雑談をしていると、黒瀬のスマホがテーブルの上で震えた。
「……悪い。仕事の連絡だ。ちょっと、出てくる」
短くそう言うと、黒瀬は画面を見つめたまま立ち上がり、扉の外へ向かって歩いていった。
「あっ、ちょっと……」
なんなのよ。
いきなり自分の知り合いのBARに連れてきて……。
その背中が扉の向こうに消えた瞬間、カウンターにいた清水くんが、ふぅっと息を吐いた。
「……やれやれ。で?」
「……え?」
「久しぶりに再会してみて、どうだった?」
その問いに、私は思わずグラスを持ち直した。
ニヤニヤと笑う清水くん。
「どうって言われても……」
考えてみる。
黒瀬と久しぶりの再会は……。
「最悪だった」
即答すると、清水くんは「だよなぁ」と頷きながらも、口元をゆるめたままだった。
「あんなことしてたらそうなるよなぁ」
「清水くん、知ってるの?」
「知ってるよ。黒瀬とはずっと仲が良かったからさ。あいつはめちゃくちゃ不器用な男なんだよ」
そんな風には見えないけど……。
「まっ、好きだからこそイジメちゃうってやつだよなぁ~」
「……好き?なにが」
「なにがって知らないのか?あいつ……昔、高梨のこと好きだったんだぞ」
「……は?」
思わず、グラスを持つ手が止まる。
黒瀬が私のことを好き?
そんなわけがない。
だって普通、好きな人をパシリにするなんて絶対にしないし。
あんな仕打ちをしてきたのに、好きでした~!なんてどう考えてもありえないでしょ。
「なにか清水くんが勘違いしてるんじゃないの……?」
「違うよ。なんかいじってたみたいだけどさ、好きが故ってやつだったんだよな」
「ちょっと待って、誰の話……」
「いやだから悠真のことだよ。あの頃から、お前のことだけはよく見てたよ」
絶対おかしい。
それ絶対私じゃないでしょ……。
「でもそんな相手とまた仕事で再会出来るなんて人生わからんよな~」
清水くんは照明の影に笑みをにじませたまま、再びボトルを拭き始めた。
「あ、このこと言ったこと内緒な?」
そう言いながら、清水くんはウィンクをひとつする。
内緒なって言われても……。
ほどなくして黒瀬が戻ってくる。
「なんか変なことしゃべったりしてないだろうな」
「別に~」
清水くんは陽気にそう言った。
それから2時間ほど話をしながら食事をすると、今日はお開きになった。
お会計を済ませて、外に出た私たち。
清水くんはとてもいい人で「また気軽に来てな」と言ってくれた。
黒瀬との帰り道。
タクシーが来るまでの間、外で待つ。
「今日は悪かったな。最近お前と話せてなかったから……誘えたらと思ってたんだけど、知り合いがいるところだとやっぱり話しにくかったよな」
「私は……別に。久しぶりに知ってる人と話せて気分転換になったし」
「なら良かった」
それだけ言うと、黒瀬は黙ってしまった。
夜風が私たちの間をすり抜ける。
沈黙がなんだか今日は気になってしまって……今日清水くんに聞いた言葉が頭の中から消えない。
『なにがって知らないのか?あいつ……昔、高梨のこと好きだったんだぞ』
そんなわけない。
そんなわけないと分かっているのに、どうしても心がざわざわする。
お酒の勢いもあったんだろう。
もういいや。
聞いちゃえばいい。
そんな勢いで私は黒瀬に尋ねた。
どうせ「そんなわけないだろう」って笑い飛ばすだろうし……。
「ねぇ、黒瀬」
「なに」
「黒瀬って高校時代私のこと好きだったの?」
そうたずねた瞬間。
「な、なんで……お前……っ」
耳まで赤く染めて、黒瀬は目をそらしたまま言葉を詰まらせた。
えっ……。
あの黒瀬が、取り乱してる。
声はわずかに裏返っていて、まるで予期せぬ急所を突かれたような反応だった。
私は思わず、口を開いたまま固まる。
……はぁ!?ちょっと待って、なにその反応。
やめてよ、まるで本当だと言ってるみたいじゃん……。
自分の心臓が跳ねているのがわかった。
さっきまで普通に呼吸していたのに、急に息の仕方がわからなくなる。
黒瀬は押し殺すように言った。
「清水、か?あいつが言ったんだな?」
私はゆっくり頷いた。
すると、黒瀬は小さく舌打ちして天井を見上げた。
「……あいつ、余計なことを」
「……し、清水くんの悪ノリでしょ。そういうの男子は本当好きなんだから」
私はごまかすようにそう伝えた。
だってそうじゃないと、こっちまで恥ずかしくなってしまうから。
違うって笑い飛ばしてよ。
じゃないとなんか……変な雰囲気になるでしょう。
けれど、黒瀬は黙ったまま、私の顔をじっと見ていた。
「……悪ノリなんかじゃない」
ぽつりと落とされたその声は、思った以上に真剣で、低くて、まっすぐだった。
「俺は……お前のことが、好きだった」
思わず息を呑む。
心臓が耳のすぐそばで鳴っているかのようにドキドキとうるさい。
ちがう、ダメ。
勘違いしたらダメ……。
「……何言って」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。
「へ、変なこと言わないで!だったらパシリにするなんておかしいし、私は高校生の頃、あんたのことが大キライだった!」
混乱した頭で、必死に彼の言葉を否定する材料を探す。
そうだ、あんな酷い仕打ちをしておいて、「好きだった」なんておかしすぎる。
「……知ってるよ。嫌われてたことは……でも、ああするしか出来なかったんだ」
彼はどこか苦しそうに、後悔を滲ませた声で言った。
何を言ってるの……。
彼の言葉の意味が、理解できない。
「清水の冗談に決まってるだろ」って笑い飛ばしてくれたらよかったのに……。
「俺、この前お前に言ったよな。“お前でいい”……って。でも本当は、そんなこと言いたかったんじゃない。俺は……お前がいい。高梨のことが好きなんだ」
目の前の男が、まるで知らない人のように見える。
あの傲慢で、意地悪だった黒瀬はどこにもいない。
ただ、不器用な言葉で必死に想いを伝えようとする一人の男性がそこにいた。
「なに、それ……」
「昔も、それから今だってずっと……お前のことが好きだ」
黒瀬はまっすぐに私を見つめた。
こんなのおかしい。
だって、相手はあの黒瀬だ。高校時代、私のことをパシリにし、毎日意地悪ばかりしてきた大嫌いだった男。
それなのに……どうして、こんなにも心臓がうるさいんだろう。
胸のこの高鳴りは、一体なんなのだろう。
こんなの、私じゃないみたいだ。
その不快感から逃れたくて、私は黒瀬にハッキリと告げた。
「言ったでしょ、黒瀬のことは大嫌いだって」
そうすればこの不快感から逃れられると思ったの。
でも……。
「そうだよな……」
黒瀬は傷ついた顔をした。
「分かった。忘れてくれ……嫌な思いさせてごめんな」
彼はそう言って背中を向けた。
「あっ、ちょ……」
もっと黒瀬も「なんだよって」言い返してくるだと思ってた。
いい気になるな、冗談で言っただけだって言ってまたケンカみたいになってキレイに終わると思っていたのに……。
なんでそんな顔をするの──。




