失恋の日の朝
朝のアラームが鳴っても、私はすぐには起き上がれなかった。
重たいまぶたの裏に、圭介くんと美咲の笑い声が、繰り返し浮かんでは消えていく。
「行きたくない……」
だけど。
そんなこと言ってられないのが社会人だ。
メイクで腫れぼったい目元をごまかしながら、美咲と会うことがありませんようにと思いながらも私は出社した。
身体が重い……。
今日はめいいっぱい仕事をして、出来るだけ昨日のことを考えずに過ごそう。
そんな風に思って気合いを入れ直したのに……。
「おはよう、莉乃」
会いたくないと思えば思うほど会ってしまうのはなんなんだろう。
会社に着いた瞬間、私は美咲とエレベーターが一緒になってしまった。
出来るだけ彼女を見ないように、うつむく。
すると美咲は言った。
「昨日はごめんねぇ?」
「えっ」
「ビックリしたよね。でもね、圭介くんが選んだことだから許してあげてね!それと、いい縁作ってくれてありがとう。これからもさぁ、恋愛相談……莉乃にしてもいいかな?」
「な、なに言って……」
「だってほら、私だって莉乃の聞いてあげたでしょう?まぁでも今は愚痴とかないからノロケになっちゃうんだけどね?」
美咲は勝ち誇ったように笑うと、開いたエレベータから降りていった。
絶対にわざとだ。
恋愛相談だなんて、嫌がらせでしかない。
どうしてこんな子だって気づかなかったんだろう。
気づかずに紹介なんかして、ふたりは距離を縮めて……私のこと、笑っていたのかな。
私は、ぐっと唇を噛みしめた。
でも、もう圭介くんは戻ってこない。
泣かない。
今は仕事中だ。
仕事に集中する。
けれど。
この朝が、さらに衝撃的な出来事の始まりになるとは、まだ知る由もなかった。
午前九時。
出社して間もなく、私は社長室に呼ばれた。
「おはようございます」
ノックをして扉を開けると、仁科社長が、いつもの穏やかな表情で私を迎えた。
けれど、その目の奥には、どこか言いづらそうな迷いのような色が宿っていた。
……なんだろう。
なんか空気が変?
「高梨さん、少し話せるかな」
「はい」
私は胸の内に小さな緊張を覚えながら、社長の前のイスに腰を下ろした。
「突然だけど、今日をもって私は社長職を退任することになった」
「……え?」
その言葉が、まるで鼓膜をすり抜けたように頭の中に届かなかった。
「社長を……おやめになる?」
「そうだ。これからは会長という立場で会社を支えることになるよ」
仁科社長は、静かにうなずきながら話を続けた。
「新しい社長は、今日このあと、全社員に向けて紹介することになっている。彼の専属秘書としても、高梨さんに引き続き任せたいと思ってる」
思考が追いつかないまま、私はその場に固まった。
……今日?いきなり?
社長職の交代なんて、会社の根幹を揺るがす大きな出来事のはず。
それなのに、社員にはおろか、私にも前もって知らされていなかったなんて……。
仁科社長は申し訳なさそうに言った。
「急なことで驚かせてしまって申し訳ない。ただ、私としては彼なら安心して任せられると思っている。……それに、高梨さんなら、きっと彼のサポートもできると思う。これから彼を紹介するよ」
私は動揺を悟られないように背筋を正す。
しかし、心臓の鼓動だけはどんどん速くなっていた。
どうしてこうなってしまうんだろう。
今の社長とはいい相性を築いていた。
やりやすいし、仕事に対するモチベーションも上がってすごく好きだなと思っていたのに……。
社長によると、新社長は、KRSグループからやって来る若手の経営者。
名前は黒瀬悠真というらしい。
ウワサによると二十代の頃から、複数のベンチャー企業を成功させたという経歴を持つ人物なんだとか……。
(若手社長、か……)
年が近いとやりにくいな……。
仁科社長はもう50歳を超える人で、私よりも年齢が上なこともあり、落ち着いていて物腰柔らかいタイプの人だった。
仕事としてやりやすい人ではあったけど……今回は同じ歳。
クセがある人じゃないといいけど……。
どんなタイプなのか、早めに見極めておいたほうがよさそうだ。
気を引き締めよう。
そう思った時、社長室のドアがノックされた。
「黒崎です。失礼いたします」
ゆっくりと扉を開け、会釈をしながら中に入ってくる。
その瞬間、私は目を見開いた。
視界にうつったのは、黒髪で濃紺のスーツを軽やかに着こなし、シャープな輪郭にくっきりと整ったまるでモデルのような顔立ちの男。
背は高く、無駄な脂肪のない体つきで、歩くだけで周りがつい見てしまうような男。
この男に私は見覚えがあった。
「ウソ、でしょ……」
黒瀬、悠真……。
名前が同じだとは思っていたけど、まさかこの広い世界で合うなんて思いもしない。
彼は私の高校時代の同級生だった。
『おい、地味子』
『お前、俺のパシリな?』
そして――私が、もっとも関わりたくない相手だ。
「紹介が遅れたな。今日から大崎ホールディングスの代表取締役を務めることになった。黒瀬悠真くんだ。よろしく頼む」
「黒瀬悠真です」
彼はその整った顔でニッコリと笑った。
そして、堂々と手を差し出し握手を求めてくる。
その顔はなにも覚えていないような顔だった。
私のこと……覚えてない?
「これからよろしくお願いします」
「……社長秘書の高梨です。よろしくお願いします」
私も一歩前に出て、名前を名乗った。
彼の握手をとると、きゅっと手を握られる。
──ドクン。
『パン買って来いよ、分かってんだろ?』
その瞬間、昔のことが蘇ってきた。
私の平穏な高校生活をめちゃくちゃにした男、黒崎悠馬。
まさかそいつとこんなところで会うことになろうとは……。
「同じ歳だと聞きました。話も合いそうでほっとしています」
話も合いそうだ!?
合うわけじゃないじゃない。
私はあんたずーっと嫌いだったというのに。
腹が立つのが、コイツはすっかり私のことを忘れているということだ。
私に会っても顔色ひとつ変えず、初めましてって……。
ムカつく。
でもそうよね。
覚えているわけがないわよね。
私はクラスの中でも地味で目立たない存在だったし、そんなやつのことを、クラスで一番人気者だった黒瀬が覚えているわけがないんだ。
* * *
高校時代の私は、ひとことで言えば、地味で陰気な女の子だった。
眼鏡にポニーテール。制服も規則通りきちんと着こなして極力目立たないように生きる。
ルールは守るためにあるもの。
だからルールを破って規律を乱すタイプの人間は好きじゃなかった。
そんな性格もあってか、友達もおらず……教室では常に隅っこにいた。
友達がいないのは、そりゃまぁ……少しは寂しいけれど、私はひとりの時間が好きだ。
変わらない平穏で静かな学校生活は悪くなかった。
しかし、それが一変することになる。
それは突然雨が降ってきた放課後のこと。
校舎の窓を打つ雨音に、私は思わずため息をこぼした。
(あー……やっぱり降ってきたわね)
朝の天気予報を見て来なかった人たちは、今頃きっと困っているだろう。
今日は晴れのち雨だ。
私は、ちゃんと予報を見てきた。
知識は自分の味方になる。
それは私のおじいちゃんの口癖だった。
おじいちゃん、ありがとう。
下駄場でクツを履き替えて、私は傘入れから自分の傘を取る。
すると、そこにはひときわ目立つ背中があった。
それが黒瀬だった。
珍しく1人でいて、困ったように外を眺めている。
傘忘れたのか……。
まぁ、それは自己責任ってことで。
なんて言って外に出ようとした時、私のバッグに折りたたみ傘が入っていることに気がついた。
そうだ……なにかあった時のために入れていたんだった。
同じクラスだけど、話したことはないから話しかけるのには戸惑うけれど、せっかくふたつあるのに、誰にも貸さないで帰るのは気が引ける。
「これ、良かったら……」
そう言って私は大きい方の傘を差し出した。
ちょっとネコのガラが付いてるから派手だけど……でもこの大雨の中、ないよりはマシだろう。
彼が振り向いて、少しだけ目を丸くする。
「でも、お前は……」
「もう一つ持ってるから」
そう言って折り畳み傘を少し持ち上げてみせると、黒瀬くんは一瞬だけ黙って、それからぶっきら棒にお礼を告げた。
「……サンキュー」
意外とお礼とかちゃんと言うんだ。
クラスでは目立っていて、いいイメージはない。
頭はクラスで一番いいけれど、なんか偉そうで好きではなかった。
でも意外と勘違いだったのかも……。
なんて、なんでもないやり取りだったはずだった。
それなのに翌日、私はひどい目に遭うことになる。
「おい!」
いきなり机をどん、と乱暴に叩かれて、私はびくりと肩を跳ねた。
顔を上げると、そこには黒瀬くんがいて昨日貸した傘を手に持っている。
「これ、お前のせいでめっちゃイジられたんだけど?どうしてくれんの?こんなガラの傘貸しやがって……」
えっ?
てっきりお礼を言いに来たのかと思ったら、まさかの文句が飛び出してきた。
「しかも名前まで書きやがって……ヘンなもん押し付けて来んなよな!」
意味が分からない。
親切で傘を貸したのに、私はなんでこの人に怒られているのだろう。
嫌なら昨日断れば良かったのに。
ちゃっかり使ったクセに文句を言ってくるから腹が立った。
そして彼はふんっと鼻をならしながら言った。
「地味子のクセに生意気なんだよ」
理不尽ってこういう時に使う言葉なんだなぁ。
ぼーっとそんなことを考えていると、黒瀬くんはさらに言った。
『お前今日から俺のパシリな?そんなにお人よししたいなら、させてやるよ』
まじで意味が分からない。
なにがどうなったらそうなるのだろう。
私はたぶんこの人とは分かり合えない。
分かったのはそれだけだった。
それから宣言通り、黒瀬は私をパシリのように使った。
パンを買って来いと言ったり、宿題を見せろとか、カバンを持てとか言われて……。
逆らう方がめんどくさいと思った私は、おとなしく黒瀬に従うことにした。
でもそれがまずかったのかもしれない。
人気者の男子が地味女の私を構い出したと変なウワサが流れるようになった。
そうなると当然、女子はいい顔をしないわけで……。
『地味子の分際で生意気なのよ』
『黒瀬くんに選んでもらえると思ったわけ!?』
思うわけがない。
というか、選んでもらいたくもないのに。
こうして女子からの反感を買い、私の平和な学生生活は散っていった。
あれは……間違いなく、私の人生で最も苦い記憶だ。
そして今――。
その本人が、目の前に立っている。
なんて災難なんだろう。
どうして嫌なことはこんなに続くのだろう。
最悪だ。
会議が終わると、前社長がそっと声をかけてきた。
「黒瀬くん、キミのことを気に入ったみたいだよ。同じ歳っていうこともあるし、気が合いそうだって」
はぁ!?気が合いそう?よく言うよ。
あんなのとは一生分かり合える日は来ない。
最悪の再会に最悪の入れ替え。
気分はドン底なのに、誰も頼る人はいない。
「はぁ……」
私ってどうしてもいっつもこうなんだろうな。
大嫌いな相手との再会。
今日一日は最悪な気分で仕事をすることになった。




