裏切り
朝の駅前は、人と風と焦りの音でいっぱいだ。
都心のオフィス街へ向かう通勤ラッシュの波に混じって歩きながら、私は自然と姿勢を正す。
黒のスーツに細いヒール。
巻いたロングヘアはゆるく揺れて、耳元の控え目のピアスがわずかに光を反射した。
高梨莉乃二十七歳。
私は、大崎ホールディングスという大手総合商社の社長秘書をしている。
総合職として入社して五年目。
社内異動を経て秘書に抜擢され、三年前から社長専属として動いている。
「会議室は変更になりました。三階の第二会議室へお願いします」
仕事は会社の動きを把握し、予定を調整。
「その件、社長は進めて構わないとおっしゃっています」
誰よりも先に社長の意向を察知する。
「では、十時半でお取りしますね」
ミスは許されないし、気も抜けない。
けれど私は、この仕事に誇りを持っている。
実際、ここまでの道のりは、決して平坦ではなかった。
もともと、どちらかと言えば地味で目立たない性格の私は学生時代は、人前で話すのも苦手だったし、自分に自信なんてまるでなかった。
だからこそ、なにかを変えないと、自分を好きになれない気がして……私は、大学時代からひとつひとつ努力を積み上げてきた。
話し方、姿勢、表情の作り方。服のセンスやメイク、立ち居振る舞い。
それから、秘書検定にビジネスマナー、ビジネス英語。
地道に資格も取って、現場経験も重ねた。
こうしてようやく「社長秘書」という立場を確立していった。
社長秘書として認められるまでは、何度も心が折れそうになったけれど今、私はここに立っている。
それは自分の自信や誇りにもなった。
すると、スマホがぶぶっと震えた。
ディスプレイを見てみると、そこには【田島圭介】と表示されている。
【ごめん、今日も残業で会えなそう】
今日もダメ、か……。
私の彼氏、田島圭介くん。
彼とは大学時代、同じサークルで出会った。
飾らない性格で、場の空気を和ませるのがうまい人だった。
私が人見知りで輪に入れずにいたとき、自然に声をかけてくれたのも彼だ。
それから仲を縮めていって、大学時代の時彼からの告白で付き合うようになった。
気づけば付き合って、もう六年目になる。
社会人になってからはお互い忙しくなって最近は会えない日も続くけれど……。
【ううん、大丈夫だよ。頑張ってね】
【ありがとう。莉乃の隣に堂々と並べるように頑張らなきゃな】
お互いの成長のために頑張れていると思う。
圭介くんは飲料メーカーの営業職だから忙しいのも当然だよね。
【今度大きな仕事がひと段落ついたら映画でも見に行こう】
【うん!】
もう私も二十代も後半。
結婚についても少しずつ意識するようになった。
圭介くんと結婚したらきっと落ち着いた、安定した家庭が築けると思う。
私はいつ「結婚しよう」って言ってくれてもいいんだけどなぁ……なんて浮かれたりもする。
会社のエントランスを通り抜け、社内に入ると、どこからか声をかけられた。
「莉乃、おはよ」
振り返ると、村瀬美咲が片手を軽く上げて笑っていた。
「あ、おはよう」
彼女は私と同期で、今は経理部に所属している。
部署も仕事の内容もまったく違うけれど、入社当初の歓迎会で隣に座ったのをきっかけに、気が合うようになった数少ない存在だった。
華やかで、社内でも目を引く美咲は、明るくて愛嬌があって、同性の私から見ても素直に可愛いなと思える子だった。
「最近、圭介くんと会ってるの?」
「いや……最近はあんまり」
美咲は圭介くんのことを知っている。
それは、美咲に紹介してほしいと言われて一度紹介したことがあるからだ。
あの時は、圭介くんのことをいい彼氏だねって言ってくれて嬉しかったな。
「ダメだよ~ちゃんと会う時間をつくらないと。莉乃いなくてもいいやって思われちゃうぞ」
笑いながら、美咲はさらりとそんなことを言う。
いなくてもいいや……か。
大丈夫だよ。
優しい圭介くんに限ってそんなこと、思うことはないもん。
でも本当言うと、私はもう少し会いたいんだけどね。
「じゃ、頑張ってね~」
軽やかに去っていく美咲を見送りながら、私はエレベーターに乗り込んだ。
午前中は、社長のスケジュール管理と報告資料の精査でバタバタと時間が過ぎていった。
「この件、午後の会議までにまとめておいてもらえるかな」
「はい、かしこまりました」
秘書として働くようになって三年。社長とは呼吸も合い、業務もスムーズだった。
人柄も優しいし、こういう人の秘書になれてつくづく良かったなと思う。
仕事もプライベートも順調……に行ってると思う。
そんなとき、ふいに社長がこちらを振り返った。
「高梨さん」
「はい?」
「今後、会社の体制が少しずつ変わっていく。キミにも、これからいろいろ頼むことがあると思う」
「……体制が、変わる?」
どういう意味だろう?
今まで安定して社長と業務をこなしてきたはずだけど……。
誰か新しい社員でも入るのかな?
「詳しい話は、また追って伝えるよ」
「はい、分かりました」
私はよく分からないまま返事をして、再びパソコンに向き直った。
夜19時には仕事を終えた。
仕事を終えた帰り道。
オフィスを出た瞬間、冷たい夜風が頬をかすめた。
あーあ、このまままっすぐ一人の家に帰るのか。
ひとり家でご飯を食べて次の日を迎える。
なんか、さみしいな……。
前はよく圭介くんの家に行ってたのに……。
時計を見る。
圭介くんはまだ仕事してると思うけど、少しだけ……会いたい。
そうだ!なにか買って行こう。
美味しいお菓子を買って、ちょっと渡して帰るくらいなら迷惑にはならないだろう。
帰りに寄ったデパ地下で、圭介くんが好きなカヌレとコーヒーのセットを買うと、手提げ袋を手に彼のマンションへと向かった。
圭介くん、喜んでくれるかな?
疲れてそうだったらすぐに帰る予定だ。
駅から数分歩き、彼の部屋があるマンションのエントランスが見えてくる。
するとそのとき。
「……え?」
私は、そこで足を止めた。
ロングヘアにゆるいコート。
そして聞き慣れたヒールの音。
──まさか。
そこにいたのは、圭介くんと美咲であった。
「ちょっと、くすぐったいってば」
そう言いながら笑って、圭介くんの腕に甘えるようにもたれかかる美咲。
その腰に手を回して、顔を覗き込むようになにか囁く圭介くん。
どうしてふたりがここに……。
袋を持つ手が震えた。
まるで恋人同士みたいな距離感だった。
足元が崩れ落ちそうな感覚になり、呼吸ができない。
思わずその場に立ち尽くしてしまった私に、先に気づいたのは美咲だった。
「あ……」
美咲が目を見開いた瞬間、圭介くんも美咲の視線をたどるようにこっちを向いた。
私と視線がぶつかる。
圭介くんは、目を見開いた後、気まずそうに私に言い放った。
「なんだ、来るなら連絡してくれればいいのに……ダル」
「どういうこと……なんで美咲と圭介くんが一緒にいるの?」
私の必死な問い掛けに、圭介くんはめんどくさそうな顔をして言う。
「見ての通りだよ。もう分かるだろ?」
「なに言って……っ」
開き直ったように言う圭介くん。
もう分かるだろってなに?
全然分からないよ……。
「まあ、ちょうどいっか。いつか言おうと思ってたわけだし……」
そんなことをブツブツつぶやくと、圭介くんは言った。
「別れてくれない?俺……美咲のことが好きなんだ」
「……っ、なん、で……」
私が震える声でつぶやくと、美咲が一歩前に出てから言った。
「莉乃がさ、圭介くん紹介してくれた時あったでしょ?その時に……お互いにいいな~って思っちゃって……そしたら圭介くんが私のSNS見つけて連絡を教えてくれたの。そこから一気に距離が縮まって……」
彼女は気まずそうに顔をうつむかせるが、口もとはにやりと笑っていた。
あの時紹介した時から、ふたりの関係が出来ていた……?
あれは私の彼氏として紹介したのに……?
「そんなの……ひどいよ」
胸がごっそりと抉られた気がする。
かろうじて言葉を継ごうとする私に、彼はあっさりと言った。
「ひどいつーかさ、正直に言うけど、莉乃と一緒にいてもつまらないんだよね。真面目だし、仕事は出来るんだろうけど、もうだいぶ前から女として見れてなかった」
「圭介く……」
「だからもう別れてほしい」
美咲は、なにも言わずにただ隣で小さく笑っていた。
……なんで。
足が震えて動かない。
なにかか言いたいのに、なにも言葉にならなかった。
「……最低、だよ」
そう言うのが精一杯だった。
すると美咲は、こっちに駆け寄ってきて言った。
「ごめんね?莉乃……でもさ、圭介くんが選んだ相手が私だったってだけだから、友達としてはこれからも仲良くしてね?私、莉乃のこと親友だと思ってるからさ」
なにが親友?
こんな裏切り行為していて、これからも仲良くしてねって……どうしたらそんなことが言えるの……っ。
「……っ」
怒りも悲しみも、悔しさも、喉に詰まって声にできないまま、私は手提げ袋をぎゅっと握りしめた。
「俺の方からも頼むよ。美咲ちゃんとは変わらず仲良くね?」
気持ち悪い。
変わらず仲良く?
そんなこと出来るわけないのに。
なにがあったらそんなことを言えるの……っ。
ぽたり、と涙がおちる。
「じゃ、そういうことで」
圭介くんと美咲は私に背を向け、一緒にマンションの中へと入っていった。
無機質なドアが音もなく閉まると、ふたりの姿は完全に見えなくなる。
私は、ただその場に立ち尽くしたまま、涙を流すことしか出来なかった。
「……っ、ふ」
バカだな。
もうすぐ結婚かもなんて思っていたのは自分だけで、相手は浮気していたなんて。
しかも……私の親友と浮気をしていたなんて考えもしなかった。
ひどいよ、圭介くん……。
なんで、美咲なの……?
唯一、会社で心を許せると思っていた同期だった。
それなのにふたりに裏切られていたなんて……。
悔しくて、悲しくて、情けない。
「……っ、ふ」
いつもそうだ。
私は誰にも選ばれない。
役割として存在しているのは、イジメられることだけで……誰かを幸せにすることも、幸せになることも出来ないんだ──。




