黒瀬の優しさ
それからタクシーは目的地を変えて、黒瀬の家にやってきた。
「なんか頼みたいのあったら、ここから自由に頼んでいいから」
彼は家に着くなり、私にスマホを渡してくれた。
「あの……せめてデリバリーのお金くらいは払わせてほしいんだけど……」
さっきのタクシー代だって黒瀬は払わせてくれなかった。
今日黒瀬の家にやってきたのは、私のわがままなのに。
「そんなの気にしなくていいから」
「でも……」
「いいから。とりあえず腹満たそうぜ。そっちの方が安心するだろ」
いつも私のことばっかり……。
なんだか申し訳ない気持ちになった。
着替えたりしているうちにデリバリーが届いた。
洋食屋のグラタンとミネストローネだ。
リビングのイスに座り、フタを広げると、部屋の中に香ばしいチーズの香りが漂う。
「……おいしそう!いただきます」
フォークを手に取り、少し冷めかけたグラタンをひと口運ぶ。
とろけるチーズが優しくて、思っていたよりもずっと沁みた。
「美味しい……っ」
なんかほっとする。
「やっと元気になったな」
黒瀬は仕事モードとは違う柔らかい表情で笑った。
「どうして……今日は助けてくれたの?」
私が退勤した時、黒瀬はまだ仕事をしていたはずだ。
「お前が退勤した後、嫌な予感がしたんだよ。あんなことがあった後だったし……駅周りにいないことを確認しようと思ってな」
それで駅まで来てくれたんだ……。
「……ありがとうございます。今日の美咲のことも色々助けられてばかりで……」
「助けるのは当然だろ」
黒瀬に言われ、私の胸がチリっと痛んだ。
そりゃ、そうか……。
会社の秘書だものね。
秘書がいなくなったら困るのは黒瀬だし……。
私は無理やり笑顔を作って言った。
「会社の社員のこと、こんな風に守ってくれる社長がいたらきっとみんな安心すると思います」
黒瀬はしばらく沈黙したあとでぽつりと言った。
「勘違いすんなよ。こんなこと全員にはしないから」
「えっ」
すると彼はひと息ついて、こちらを見た。
「お前は特別だから。誰かに傷つけられるのは見てられない」
「特別……って」
言いかけて、はっとした。
そうだ。
今は偽装婚約者の関係。
だから彼は守ってくれるのだろう。
「ありがとう」
今だけだ……。
「別に……」
そこに特別な意味を持ってはいけない。
彼にいい相手が出来たら私はすぐに捨てられるのだから。
それから食事を終えて、ソファに座って休んでいた。
もうそろそろ帰らないとだよね……。
黒瀬だって疲れているし、明日も仕事がある。
いつまでも甘えてお邪魔するわけにはいかない……。
「あの、黒瀬。もうそろそろ私……」
すると、黒瀬がふいに口を開いた。
「……明日はここから出勤すれば」
「え?」
顔を向けると、彼はスマホの画面を見たままそんなことを言う。
「朝一で社内打ち合わせもあるし、俺らは今婚約者の関係なんだから別に変なことでもないだろ」
「でも……さすがに、それは……」
ただでさえ迷惑かけているのに、泊めてもらうなんて……。
そう渋る私に、黒瀬はちらりと視線を向けた。
「……怖いんだろ?」
「…………」
「一応仮にも彼氏なんだから、こういう時は甘えれば?部屋、もうひとつ用意があるし」
そのまま、私はそっと頷いていた。
「あり、がとう……」
良かった……。
まだちょっと怖かったら、ここは甘えよう……。
それから私はお風呂を借りることになった。
熱いシャワーを浴びながら、少しずつ体の強張りがほどけていくのを感じた。
優しかったな……。
『こんなこと、全員にはしないから』
『お前は特別だから』
……あんなふうに言われて、なにも感じないわけがない。
黒瀬のことが好きな女性ならときめいてしまうような言葉だ。
でも私たちはそういう関係ではない。
今はお互いウィンウィンの契約関係にすぎないんだから。
そんなことを考えながら、洗面所のドアを開ける。
バスタオルを身体にくるりと巻きつけて、黒瀬の用意してくれた服に手を伸ばそうとしたその瞬間――。
なんの前ぶれもなく電気が消えた。
「……っ!」
え……うそ……?
全然見えないんだけど……。
そして、外から大きな雷の音が聞こえてきた。
「きゃっ!」
もしかして……雷……?
ど、どうしよう……なにも見えない。
そのとき、黒瀬の足音が聞こえてくる。
「高梨、大丈夫か?」
「う、うん……」
「停電ぽいな。今、全部電気が落ちてる」
「そ、そうなんですね……」
バクバクと心臓が嫌な音を立てる。
昔から、雷は苦手だった。
真っ暗な中、大きな音だけ鳴っていて自分だけそこに取り残されたような気持ちになるんだ。
「ここにいるから」
黒瀬が洗面所のドアの前で優しく伝える。
しかしその瞬間、続けざまに空を裂くような轟音が鳴った。
「きゃあああっ!む、無理……カミナリ無理……」
呼吸が乱れる。
パニックになりながらそう告げると。
「高梨!」
黒瀬は洗面所のドアを開き、私の手をとった。
「大丈夫だから。すぐに終わる」
落ち着かせるように、なだめるように伝える黒瀬。
彼の声を聞くといつもほっとして力が抜けていく。
彼の腕の力強さと、耳元で聞こえる落ち着いた声に、雷への恐怖が少しずつ薄れていった。
その時、パッと色が戻った。なんの前触れもなく、洗面所の明かりが復活する。
「戻ったみたいだな」
黒瀬がほっとしたように言う。
その瞬間、私は自分の姿を思い出した。
バスタオル一枚を巻いただけの自分の体。そして、その体を腕の中に閉じ込めている黒瀬の、驚きに見開かれた目。
近すぎる彼の顔。
「きゃっ!」
我に返った私は、悲鳴を上げて咄嗟に彼を突き放した。
「お、お前……っ、着替えてなかったのかよ」
しどろもどろになりながら、タオルがはだけないように必死で押さえる。
黒瀬もまた、バッと顔を背け、気まずそうに首筋を掻いた。
彼の耳が真っ赤に染まっているのが、照明の下でくっきりと見える。
「だって着替える前に停電になっちゃったから……」
「……早く着替えろ。風邪ひく」
それだけ言うと、黒瀬は足早に洗面所から出ていってしまった。
「もう……っ、なにしてんのよ。私……」
一人残された洗面所で、私はその場にへたり込みそうになるのを必死でこらえた。
心臓は今にも破裂しそうで、顔が燃えるように熱い。
雷の音なんて、もうどこかに消え去っていた。
先ほどまで彼に包まれていた腕や肩に、まだ黒瀬の体温が残っているような気がして、私はぎゅっと自分の体を抱きしめる。
「黒瀬のバカ……」
なぜかドキドキと鳴る心臓を止めることは出来なかった。
それから着替えを終えて髪を乾かすと黒瀬は寝室に案内してくれた。
「ここ自由に使ってくれていいから。必要なものがあればまた言ってくれ」
シンプルで清潔な部屋。
そして私にはもったいないくらいの上等なベッドが置かれている。
すごいな……。
普段は誰も使ってないだろうに、余ってる部屋があるなんて。
「……今日はありがとう。なにからなにまで……」
お礼を言う私に、黒瀬は静かに首を振った。
「気にすんな。それより今日はもう休め」
「おやすみ」と短く告げて、彼は部屋を出て行こうと背中を向けた。
その広い背中を見つめていると、申し訳なさで胸がいっぱいになる。優しくされればされるほど、偽りの婚約者である自分が、彼の本当の幸せを邪魔しているような気がしてならなかった。
思わず、彼の背中に声をかける。
「あの、黒瀬……!」
「なに?」
足を止めた彼に、私は意を決して言った。
「なんか……未来の黒瀬のお嫁さんに申し訳ないなって。黒瀬にいい人が出来たら遠慮なく言ってね!すぐにこの婚約は破断にするから。正直、黒瀬にはしてもらってばっかりで、私にはこんなことくらいしか出来ないけど……」
それが、今の私にできる唯一の誠意だった。
都合よく私を使ってくれて構わない。
そう思ったけれど、振り返った黒瀬の顔は寂しげであった。
彼はしばらく黙って私を見つめた後、ふっと息を吐いて静かに口を開いた。
「……その未来のお嫁さんってやつが、お前になる可能性はないわけ?」
「え……?」
予期せぬ言葉に、思考が止まる。
まっすぐな瞳が、暗い部屋の中で静かに私を射抜いている。
「なに言って……」
私の反応をどう受け取ったのか、彼はひとつ息を吸い静かに言葉を続けた。
「俺は新しい相手を探すつもりなんてない。婚約者は……お前でいいって思ってる」
……お前でいい?
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥でカチンとなにかがハマる音がした。
さっきまで鳴り響いていた心臓の音がすっと冷えていく。
なるほど、そういう意味ね。
「……相変わらずね。やっぱり黒瀬は黒瀬だ」
「はぁ?」
怪訝な顔をする彼に向き直り、私は布団を掴みながら言い放った。
「いーい?“お前でいい”なんて言われて、結婚したいと思う女性がいるわけないでしょ。私は黒瀬なんてお断り!絶対に嫌」
畳みかけるようにそう言って、ベッドに潜り込むと、彼に背を向けて布団を頭まで勢いよく被った。
「じゃあ、おやすみ」
「おい、待て。そういう意味で言ったんじゃ……」
背後で黒瀬の焦ったような声が聞こえたけれど、私は返事をしなかった。
だって虚しかったから………。
しばらくの沈黙の後、ため息がひとつ聞こえやがて静かにドアが閉まる音がした。
私は布団の中でぎゅっと目を閉じる。
……ドキドキしたのが間違いだった。
あの黒瀬が、私のことをそんな風に見ているわけがない。
そうだ、何も変わっていない。
黒瀬はずっと昔から、私のことを自分の都合よく動かせるコマにしか思ってないんだ。
一瞬でも期待した自分がバカみたい。
翌朝。
私たちはタクシーの中にいた。
朝は、黒瀬が入れてくれたコーヒーを飲みながらも、最低限の挨拶を交わすだけで、会話はなかなか続かない。
昨夜の出来事を引きずったまま、私たちは会社に向かっていた。
会社のエントランスでタクシーを降り、並んでロビーを歩いていると、出社してきた社員たちの好奇の視線が突き刺さった。
「社長と高梨さん、おはようございます!お二人で出勤なんて、ラブラブですね!」
「朝からアツアツだなぁ!」
お世辞とからかいが混じった声に、私はどう反応していいか分からず固まってしまう。
「は、はは……」
なんて曖昧にかわしながらも、黒瀬は特に気にすることなく笑顔を振りまいて社長室に向かった。
社長室へ向かう廊下を歩きながら、彼はふと低い声で私に告げた。
「今日、村瀬の件の処分を発表するつもりだ」
その言葉に私の心臓がどきりと跳ねる。
ついに、美咲への処分が下される。
「安心してくれていい。お前を不安にはさせない」
そんなカッコイイことを言うけれど、私たちはあくまで利害関係に過ぎない。
私は「はい」とだけ返事をした。




