迫りくる影
この日、会社につくなり私は美咲に手を引かれた。
「ちょっと来なさいよ!」
美咲は私を給湯室に連れてくると、ただならぬ雰囲気で言った。
「あんたのせいよ!お前なんかいなければ……!」
彼女の顔は、昨日の夜から一睡もしていないかのようにやつれており、目の下にはうっすらとクマができていた。
「美咲?どうしたの?」
急に呼ばれて意味が分からない。
ぜいぜいと肩で呼吸しながら私を睨みつける美咲。
「あんたのせいで、圭介くんに婚約破棄されたじゃない!」
「えっ」
婚約破棄……?
婚約パーティまで開いたふたりが……。
「どうして……」
「どうして?よくそんな白々しいこと言えるわね。あんたがそそのかしたんでしょ?」
「違う!そんなことしてない!」
私の必死の否定に、美咲は嘲笑を浮かべた。
「私を不幸に落とし込むためにやったんだわ!それで仕返ししたつもり!?」
「違うってば!」
私は耐えられずに叫んだ。
なんでこんなことになってるの……!?
「圭介くんに言われたのよ……莉乃はご飯を作ってくれたし、家事も色々やってくれたのに、お前はなにもしないって……お前と一緒にいても幸せにはなれないから別れて欲しいって言われたの」
私は呆然と立ち尽くすしかなかった。
意味が分からない。
なんで圭介くんは突然そんなことを言い出したんだろう。
「全部、あんたのせいよ!あんたが悪い!男をそそのかすビッチ女!」
次の瞬間、美咲の手が勢いよく振り上げられた。
「……っ」
ぱしん、と乾いた音が給湯室に響く。
頬に鋭い衝撃が走り、思わず後ずさりした。
「美、咲……」
美咲は涙を流しながら私を睨みつけた。
「圭介くんを返して……返しなさいよ」
手を強く捕まれ揺さぶられる。
その時。
「これは暴力だぞ」
低い、それでいて冷たい声が、給湯室のドアの向こうから響いた。美咲の手が、びくりと止まる。 振り返ると、そこに立っていたのは黒瀬社長だった。
彼は腕を組み、鋭い視線で美咲を射抜いている。
「しゃ、社長……」
美咲の顔から血の気が引いていく。
「社員同士の争いに首を突っ込むつもりはないが、暴力沙汰となると話は別だ。この件は人事部にも報告させてもらう」
「ち、違うんです!莉乃が……この女は色んな男をたぶらかすビッチ女です!社長も目を覚ましてください!」
美咲の言葉に黒瀬はぴくりとも動じなかった。
ただ、その目は氷のように冷たく、静かに美咲を見つめている。
「キミが最初に彼女の幸せを奪ったんだろう?それを崩されたらだだをこねる。まるで子どものようだな」
「なっ、ぁ……」
美咲はなにか言おうと唇を震わせるが、言葉が出てこないのだろう。
意味のない言葉を繰り返した。
「処分はこちらで決める。覚悟しておくように」
黒瀬が言い放つと、美咲はボロボロと涙を流しながら、手を伸ばした。
「しゃ、社長……っ。お願いです……処分だけは……」
しかし、黒瀬は意にも介さず私の手を引くと社長室まで連れてきた。
重厚なドアが閉まると、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静けさが広がる。
少しほっとした。
促されるままソファに腰を下ろすと、黒瀬はすぐに冷凍庫から保冷剤を取り出し、タオルで包んで戻ってきた。
「腫れてるじゃないか」
冷たいタオルが肌に触れる。
私は唇をかみ、俯いた。
「すまなかったな。もっと早くかけつけられたら怪我をしないで済んだのに」
「いえ……社長が悪いわけじゃありません」
「なぜこうなったんだ?」
「……私もよくは分かりません。でも美咲が圭介くんに婚約破棄されたって怒ってて……」
そこまで言った瞬間、黒瀬の手がぴたりと止まった。
視線が鋭くなり、保冷剤を押さえる指にわずかに力がこもる。
「……なるほど、だからあの男はお前に付き纏ってるのか」
どうしてこんなことになったんだろう。
私は圭介くんに裏切られていたはずで……圭介くんは美咲を選んだ。
それなのに、私の方が良かったなんて言われたって……信じられない。
「厄介なことになりそうだが、村瀬の件はこっちに任せて欲しい。厳しく対処するつもりだ」
「はい……」
黒瀬の言葉に私は安堵の息を漏らした。
正直、黒瀬がいなかったらパニックになってた。
なにかある度に必ず駆けつけてくれる彼に安心している自分がいる。
「大丈夫だ、必ずお前のことは守るから」
「あり、がとう……」
それから、いつも通り業務は進んだ。
前までは黒瀬の秘書にならないといけないなんて!と思っていたけれど、今はやりやすかったりもする。
『この件、早めに動いた方がいいかと』
『ああ、そのつもりだ』
彼は私の気づくことの何倍も早く気づいてすでに理解している。
説明を重ねる必要もない。
黒瀬は人が1言うことの10を理解して行動してくれるタイプだからなにを伝える時もスムーズだった。
「ふぅ……終わった」
そして仕事終わりの帰り道。
駅前のコンビニに寄ってから帰ろう。
なんて思っていたら、ふいに足が止まった。
なんでいるの……。
「莉乃!」
彼は私を見つけるなり小走りに近づいてきた。
人ごみに紛れて立っていたのは、圭介くんだった。
この前も会社の前まで来ていた圭介くん。
今は会社の警備を黒瀬が強化してくれていたから、会社の前には来れなかったのだろう。
どうして駅で……しかも私の名前を呼ぶの?
その声だけで、鳥肌が立った。
無視して通り過ぎようとするけれど、強引に腕をつかまれる。
「待ってよ。話を……ちゃんと、話をさせて」
「やめて。放して!美咲はどうしたの?」
腕を振り払おうとしても、圭介くんの手はびくともしない。
「やっぱり俺、莉乃じゃなきゃダメなんだ。……あんな女に流されたのが間違いだった。気づいたんだよ。お前の大切さに」
息が詰まりそうだった。
気持ち悪い。
私を裏切って突き放したクセに、今度は私がいいって気づいた?
バカにしてるのもほどがある。
「あいつ……全然ご飯作ってくれないんだ。高い店に行って俺に払わせるばっかりで全然なにもしてくれないし、こんなやつと結婚するんだと思ったら……嫌になって……俺、莉乃とよりを戻したい。莉乃も俺のこと……本当はまだ好きなんだろう?」
ゾクリと背筋が冷たくなる。
好きなわけ……ないじゃない。
どうしたらそんな思考になるの……っ。
「やめて、放して!ただご飯を作って欲しいお手伝いさんが欲しいだけでしょ?」
「そうじゃないって莉乃。やり直そう、な?莉乃のこと一生愛し続けるって誓うからさぁ」
気持ち悪い。
私が欲しいのは圭介くんからの愛じゃない。
彼に失望して絶望した。
もう前のようにより戻すなんて出来ないんだよ……。
「放して」
私は冷静に伝えた。
「私たちは終わったの」
「どうして……どうしてそんなこと言うんだよ。大学の時からずっと一途に莉乃のこと愛し続けてきただろう?」
圭介くんは、笑っているのに、目が笑っていなかった。
手に込められた力が、どんどん強くなっていく。
「い、痛い……」
必死に体をひねって逃げようとするけど、手を離してくれない。
怖い。
「莉乃……俺、ほんとにお前じゃなきゃダメなんだって」
「やめて……来ないでっ」
足がすくむ。
喉の奥が詰まって、呼吸さえ浅くなった。
そんなときだった。
「その手、離せって言ってるんだ」
背後から聞こえた低く、凍るような声。
振り返るまでもなく、誰かが私の肩をすっと引き寄せた。
その腕の中に包まれた瞬間、安堵が戻ってくる。
誰だかはすぐに分かった。
黒瀬だ。
「キミ、まだ付き纏いを続けるつもりか?」
「お、お前は……」
「僕の彼女に手を出さないでもらいたい」
圭介くんの顔色が見る間に変わる。
「ふ、ふざけんな……っ、莉乃は元々俺のものだ!ちょっと選択を間違えただけで……」
「相手の尊厳を踏み躙っておいて、選択を間違えただけ?ずいぶん自分に優しい表現をするんだな」
黒瀬の言葉に圭介くんはかっと顔を赤くして言った。
「う、うるさい!だいたいお前らが付き合ってるなんて、絶対にウソだ!」
圭介くんは必死にそう伝える。
「そうやって現実から目を逸らすのは勝手だが……こっちまで巻き込まないでもらいたい。彼女が傷つくのは一番嫌なのでね」
「いいから莉乃をこっちに渡せ!」
圭介くんは私の手を掴みあげた。
「い、痛い……やめて!」
すると、黒瀬が一歩前に出て、圭介くんの腕をとった。
「相手に執拗に接触し、待ち伏せ。あげくの果てに手首を掴んで暴力行為。警察に通報すれば十分に動く案件だ」
「な……っ、なに言って……それは大げさすぎるだろ?」
「大げさかどうか決めるのは、俺でもお前でもない。法だ」
一歩。
黒瀬がさらに近づく。
「もちろん、警察だけじゃない。キミの勤めている会社に報告書を提出しよう。まともな会社なら電話…内部処分も避けられないだろうな」
「っ……」
圭介の喉がひくりと鳴る。
「……ちょ、ちょっと待ってくれ。俺はただ話がしたくて莉乃を待っていただけで……」
「話すことなんかない。莉乃に手を出すな」
圭介の目が揺れる。
「そ、そんな……」
黒瀬は怒鳴ることも、声を荒げることもなく淡々と伝えた。
そして口を開け、あわあわとしている圭介くんに遠慮なく言い放つ。
「裏切ったのはキミだろう?ここまでの魅力的な女にいつまでも相手が出来ないと思ったか?簡単に戻れるとでも思ったか……?だったらバカにしすぎだ。お前は人の彼氏を取る女と一緒になっていればいい」
そして、最後に言った。
「この場で手を引けば見逃す。だが、次があれば俺が正式に動く。社会的に終わる覚悟があるなら、どうぞ続けてくれ」
圭介くんの顔から血の気が引いていく。
「……っ……」
なにかを言いかけたが、結局ひと言も発せず、圭介くんはその場を逃げ出した。
「大丈夫だったか……?」
黒瀬の声は、少しだけ低くゆっくりと落ちてきた。
「はい……」
いつも困った時、かけつけてくれるのは黒瀬だった。
後ろから包みこまれた時、黒瀬だと気づいてほっとしている自分がいた。
「大丈夫です」
そう答えた自分の声が、思ったよりかすれていて驚く。
平気だと思っていた。
相手は圭介くんだし、前付き合っていた相手だ。
だから少しくらい怖い思いをしたところで……。
しかし、……指先が、わずかに震えていた。
気づかれたくない。
そう思って、手を後ろに隠そうとした、その瞬間。
黒瀬の手が、そっと私の手に重なった。
「手……震えてる」
その一言に、喉の奥がきゅっと締めつけられる。
黒瀬は見逃してはくれなかった。
「怖かったよな」
低く、穏やかな声。
どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。
不思議だ……。
「……平気だと思ってたんですけどね」
唇が震えたまま、やっとの思いで言葉を吐き出す。
でも、黒瀬は庇うように言ってくれた。
「怖いに決まってるだろ。あんな風に付き纏われたら」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
たった一言で、ずっと張っていた気持ちがほどけてしまいそうだった。
「まだいるかもしれないし、タクシーで帰るか」
そう言って、黒瀬はタクシーを拾った。
タクシーにのりこむと、車内には静寂が流れた。
私の家の住所をタクシーの運転手さんに告げて走りだす。
誰も話さないのに、不思議と気まずさはなかった。
それからしばらく走らせると、見慣れた景色が見えてきた。
「あと5分くらいで着きます」
目的地の建物が近づくにつれて、胸の奥がざわついてくる。
自分の家なのに、帰るのが怖いと思ってしまった。
圭介くんは私の家を知っている。
万が一、圭介くんが諦めていなくて……家まで来ていたら?
そんな考えが頭をよぎる。
すると家の前にタクシーが止まった。
「お客さま、到着しました」
「……あ、ありがとうございます」
私は口を開きかけて、でもドアに手をかけるのをためらった。
いないよ。いるわけない。
黒瀬さんが追い払ってくれたじゃないか。
でも、そのまま一人で部屋に入ることを考えると足がすくんだ。
「……あの」
咄嗟に口をついて出た言葉は、全然関係ないふりをした提案だった。
「……ご飯でも、作りましょうか?」
黒瀬は一瞬だけ目を瞬かせて、私の顔を見た。
私の中のなにかに気づいたのか、それとも全部見透かされていたのか……彼の顔に、ふっと柔らかな笑みが浮かぶ。
「……作らなくていいよ。今日は疲れてるだろう?」
そう言って、彼は再び運転手さんに声をかけた。
「すみません。目的地変更で」
「黒瀬……」
「俺の家で、なにか頼もう」
タクシーは再び走り出す。
分かってくれたんだな……。
私が怖いと思ったこと……。
黒瀬はこうやって、いつも気づいてくれるんだ。




