黒瀬の婚約者
エレベーターのドアが開いた瞬間、視線がいくつかこちらに向いた。
「おはようございます」と軽く会釈をしてフロアに足を踏み入れたとたん、すぐ近くにいた人から声がかかった。
「高梨さん!」
呼び止めたのは、総務部の杉田さん。
いつもお菓子の差し入れをしてくれる、人当たりのいい年上の女性だ。
「聞きましたよ。社長とお付き合いされてるって……!」
彼女の後ろにいたメンバーたちも、目を丸くしてうなずいていた。
「美咲さんの婚約パーティー、部署内からは私たち参加してなかったけど……話がまわってきて。驚きました。でも、なんか納得というか」
「うんうん、落ち着いた雰囲気が合ってるというか……すごく素敵だと思います」
次々に言葉を重ねられて、私は思わず立ち止まった。
「そんな……ありがとうございます」
こうなるとは思ってはいたけれど、もうここまで広まっていたとは……。
でも良かった。
もっとこう、批判的な意見もあると思ってたから……。
社長と私とじゃ釣り合わないとか。
思ったよりも、受け入れてくれているようで少しほっとした。
って、事実ではないんだけどね……。
さて、ここまで話が大きくなってしまうと、後はどうすればいいか……。
まぁ、私もフラれたばっかりだし、しばらく新しい人を作ろうという気もないから、今はこのままでいいか……。
そんなことを考えながら社長室に向かおうとした時、ひときわ鋭いヒール音が響いた。
──カツ、カツ、カツ。
音を立てながらやってきたのは、美咲だった。
彼女は数歩こちらに近づいてきたかと思うと、苛立ったように吐き捨てた。
「この間は、よくも私たちのパーティーを台無しにしてくれたわね……」
「美咲……」
「人の幸せに泥を塗って、なにがしたいわけ?反撃でもしたつもり?」
「そういうつもりじゃ……」
だいたい彼氏を連れて来てと言ったのは美咲の方だ。
私が彼氏なんかいないと分かっていて、あえて言ったくせに……。
「まさか黒瀬社長を連れてくるとは思わなかった……どうやって媚を売ったの?秘書ってことは身体でも売って社長からの同情を買ったんでしょ」
「なっ……いくら美咲でも怒るよ」
身体を売るだなんて、どうしてそんなひどいことが言えるの?
「じゃないとあり得ないわ。黒瀬社長とあんたなんかが釣り合うわけないもの!」
言葉は刺すように突き刺さる。
美咲は婚約パーティで私のことをバカにしたかったんだ。
それが出来なかったからってこんなの……。
「私と圭介くんが祝福されるはずだったのに……!昔からムカつくんだよ!」
美咲は頭に血が上ったかのようにそのまま手を振り上げた。
叩かれる。
本能的に身をこわばらせたそのとき。
──パシン。
「やめてくれないか?」
低く、しかし鋭い声が響いた。
見上げると、そこには美咲の手を掴む黒瀬がいた。
「私のパートナーを傷つけないでもらいたい」
「しゃ、社長……」
美咲の顔色が青ざめていく。
「キミのパーティの邪魔をしてしまったのなら謝るよ」
「い、いえ……それはその……」
「ただね、キミが呼んだのだろう?奪った男との幸せそうな瞬間を見せつけられなくて残念だったな」
静かな声だった。
怒鳴り声ではないのに、背筋が凍るような緊張が、空間を支配する。
美咲はわなわなと震えるだけでもうなにも言えなくなっていた。
「し、失礼しました……!」
美咲はそれだけを言うと、顔を真っ赤にして、その場から離れていった。
それから私たちは社長室に向かった。
「ありがとうございます」
私がお礼を言うと、黒瀬はたずねる。
「……大丈夫だったか?」
「はい……」
「にしてもアイツしつこいな。婚約パーティを台無しにされたのは同情するが、お前が仕組んだクセに文句いいやがって……」
さっきは紳士的な口調だったのに、今はなんだかラフな話し方になっているのが黒瀬らしい。
「まぁ、またなにかありそうだったら俺に言えよ。お前の婚約者としている限りはお前のこと守るから」
守る、だなんて……。
そんなことも言えるんだな。
昔は私のことをパシリにしていたのに、そんな相手から守ると言われるのはなんだかくすぐったい。
「……でも、もう完全に社内に広まってるみたいなんですけど、大丈夫でしょうか?」
彼はわずかに視線を下に落とし、それから静かに頷いた。
「俺の方は問題ない」
「私も……今は別に大丈夫ですけど」
「じゃあいいな。もし解消したいと言うなら時期を見て言えばいい。お前には迷惑かけるが、一旦俺の両親との会食を頼む」
「それは問題ないですけど……」
黒瀬は私の言葉を聞いて安心したような顔を見せると、会食の詳細が決まったら連絡するよと伝えてくれた。
それから仕事はなにごともなく進行した。
黒瀬のスケジュールには分刻みの打ち合わせが続き、その合間に来客応対や電話の取次ぎ。
「午後の会議資料、あとでお送りします」
「頼む」
会議室の手配、出席者の確認、資料の印刷と並び順のチェック。
相変わらずやることは多い。
「社長、外にタクシーを呼んでいますので」
「ああ、分かった」
しかし、仕事の時は仕事に徹する。
それが黒瀬という男だ。
夜。
黒瀬から「あとは資料をチェックするだけだから帰っていい」と言われた。
私は黒瀬の秘書だけど、彼と同じに帰宅するわけじゃない。
黒瀬が私に配慮して早く上がるように言ってくれることが多いように感じる。
そういうところも、優しくなったよね……。
なんて考えていると、シャワーからあがった時、テーブルに置いたスマホが、静かにバイブ音を鳴らした。
画面には、「黒瀬悠真」の文字。
黒瀬とは、会社ではじめてあった時に連絡先を交換することになった。
それは仕事として。
いつでも連絡を取れるようにしておく必要があるため仕方がなかった。
【会食についてだけど、来週の土曜日になった。場所がわかりにくいところにあるから駅まで迎えに行く。
時間は18時スタート。服装はカジュアルすぎなければ自由で構わない。
緊張するだろうけど、あんまり気負わなくていいからな。なにかあったら俺がしゃべるから】
きっちりした文面。
でも、どこかで気遣いが感じられる。
ずいぶんと優しいじゃん……。
黒瀬の両親ってどんな人なんだろう。
高校時代は関わりがなかったからな……。
でも黒瀬はいいところのお坊ちゃんというイメージもある。
黒瀬は私に迷惑をかけることをけっこう気にしていたみたいだけど……今はこれくらい予定が入っている方がちょうどいいかも。
圭介くんのこと、考えなくて済むから……。
今日はもう疲れたから寝よう。
スマホを閉じて、ベッドに入る。
私は気づかなかった。
──ブーブーブー。
【着信:圭介くん】
圭介くんから連絡が来ていたことに。




