第9話: 効かない薬
調合室に、甘い焦げた匂いが充満していた。
マティアス・ヴェーバーは銅鍋の中身を睨みながら、三度目の溜息をついた。教科書通りに配合した解熱剤が、また濁った色のまま安定しない。
「なぜだ……処方通りのはずなのに……」
手のひらを鍋の上にかざす。指先に何の反応もない。灌魔の才がないマティアスには、薬草に魔力を注ぐことができない。だがそんなものは必要ないはずだった。王都の医学院では、薬草の薬効は化学的な反応で引き出すものだと教わった。魔力を注いで育てるなど——迷信だ。
「教科書通りの薬が効かないはずがない。薬草の品質に問題があるのだ」
棚に並ぶ薬材のラベルは、まだリリアーナの丁寧な筆跡のままだった。だがその薬草自体が——弱っている。いや、枯れかけている。灌魔を受けなくなった薬草は、日を追うごとに薬効を失っていた。
マティアスにはその理由がわからなかった。
秋霧熱が領内を蝕んでいた。
最初の患者が出てから二週間。罹患者は七十を超え、三日前に最初の死者が出た。高熱、激しい咳、全身の倦怠感。毎年小規模に発生する季節病のはずが、今年は桁が違う。
マティアスの薬は、熱を半日だけ下げた。夜にはぶり返し、前より高くなった。
「先生、薬を! もっと効く薬を!」
調合室の前に領民が詰めかけた。マティアスは扉を閉め、背を預けて震える手を見つめた。白衣の袖口が汗で湿っている。
——教科書通りの処方なのに。八年間学んだ薬理学なのに。なぜ効かない。
領民の一人が叫んだ声が、扉越しに刺さった。
「姫君の薬があれば! 去年は星霜花の予防薬で、誰も倒れなかったのに!」
報告を受けたハルトヴィヒ侯爵は、執務室の椅子から立ち上がれなかった。
「罹患者七十二名。死者一名。侍医殿の解熱剤は——」
家令の老人が言い淀んだ。その沈黙が、答えだった。
「……効かなかったのか」
侯爵の声は低い。彫りの深い顔に刻まれた皺が、この数週間で一段と深くなっていた。
「薬の効きが弱く、熱は下がるものの半日で再び上がります」
かつてこの領地で秋霧熱が流行した時のことを、侯爵は思い出していた。あの時は——リリアーナが一晩で百人分の予防薬を調合した。翌日には流行の拡大が止まり、一週間で収束していた。あまりに手際が良すぎて、侯爵は「薬師の仕事とはその程度のもの」と思っていた。
——リリアーナの時はこんなことは。
その思考が浮かんだ瞬間、侯爵は自分の顔が歪むのを感じた。
「マティアスを呼べ」
執務室に呼ばれたマティアスは、白衣の胸ポケットの羽根ペンを神経質にいじりながら口を開いた。
「侯爵閣下。薬草の品質に問題がございまして。前任の薬師が特殊な方法で管理していたようなのですが、引き継ぎもなく——」
「引き継ぎはあった」
侯爵が遮った。
「リリアーナが書き残した手入れの手順書を、使用人がお前に渡したはずだ」
マティアスの顔が強張った。
「あ、あれは……非科学的な記述ばかりで、医学的根拠に基づかない——」
「薬草園を見に行く」
侯爵は立ち上がった。マティアスの弁解を最後まで聞く気はなかった。
星霜の庭の門を開けた瞬間、侯爵の足が止まった。
そこに広がっていたのは——荒野だった。
雑草が薬草を覆い、月見草は虫に食われて折れ、陽だまり草は根腐れを起こしてどろどろに溶けている。氷雪蘭は刈り取られた後に茶色く萎びた残骸が転がっていた。
星霜花は——一本も残っていなかった。
三十年の歳月が育てた庭が、二ヶ月の無知と怠慢で死んでいた。
侯爵は立ち尽くしたまま、声を発することができなかった。
妻が三十年かけて育てた庭だ。朝早くから夕暮れまで、妻はこの園に立ち、薬草に声をかけ、一株一株に手を添えていた。リリアーナはその全てを受け継いだ。七年間、毎朝ここで「おはよう」と薬草に話しかけていた。その声を、窓越しに何度も聞いていたのに——その重みを量ろうとしなかった。
「なぜ……こんなことに……」
掠れた声が漏れた。
マティアスは園の入口で足を止めたまま、一歩も中に入ろうとしなかった。
「わ、私のせいではございません! 前任者が特殊な術を施していたのです! 正統な薬学では——」
「黙れ」
侯爵の声が凍りついた。
「お前は手入れの手順書を——妻が三十年かけて積み上げ、娘が書き残した手順書を、払いのけたそうだな」
マティアスの顔が蒼白に変わった。使用人が報告したのだ。紙束を一瞥もせずに払いのけた、あの日のことを。
「こんなものは雑草の山だ——お前はそう言ったらしいな」
マティアスは口を開いたが、言葉が出なかった。
その夜。
クラウス・フォン・ブレンナーが侯爵邸に駆け込んできた。
「リリアーナはどこだ! 彼女を呼び戻さなければ——薬草のことがわかるのはリリアーナだけだ!」
「お前が婚約を破棄したのだろう!」
侯爵が怒鳴った。
「僕が……僕が間違っていた。あのとき、ちゃんとリリアーナの話を聞くべきだった」
クラウスの声が震えた。明るい金髪が乱れ、青い瞳に浮かぶのは手遅れの後悔だった。
侯爵は沈黙した。自分もまた同じだった。妻の庭を守ってきた娘を、侍医の肩書き一つで追い出した。
「……使者を出す」
侯爵の声は乾いていた。
「リリアーナの居場所を探せ。見つけ次第、手紙を届けろ。——戻ってきてほしい、と」
書くべき言葉が見つからなかった。「戻ってこい」と命じる資格はない。追放した相手に頭を下げることは——自分の判断が全て誤りだったと認めることに他ならない。
だが領民が死んでいく。
侯爵は羽根ペンを手に取り、震える手で羊皮紙に向き合った。
『リリアーナ。私は間違っていた——』
クラウスも手紙を書いた。
何度も書き直した。言い訳を削り、自己弁護を削り、残ったのは——ただの懇願だった。
『リリアーナ。僕が間違っていた。君の薬草がどれほど大切なものだったか、今になってようやくわかった。頼む。戻ってきてくれ。僕は——』
ペンが止まった。
「少し青臭いな」——彼女の指先についた薬草の匂いを、そう笑ったことがある。あの匂いは、人の命を救う匂いだったのだ。
もう戻ってきてくれとは言えないかもしれない。だが言わなければ、領民が死ぬ。
クラウスは手紙を封じ、使者に託した。
使者の馬が、北への街道を駆けていった。
星霜の庭の跡では、踏みつけられた手順書の紙束を、庭番の老人が泥の中から一枚一枚拾い上げていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第九話「効かない薬」——元領地側の視点です。
マティアスの教科書通りの薬は効かない。八年間学んだ薬理学では、魔力を注いで育てた薬草の力を理解できない。「こんなものは雑草の山だ」と払いのけた手順書が、泥の中から見つかるラストが書きたかった場面です。
侯爵がようやく自分の過ちに気づく。だがそれは「成長」ではなく、追い詰められた末の後悔です。妻が三十年かけて育てた庭を、侍医の肩書き一つで失った。その重さが、枯れた庭の前でようやく伝わってくる。
歩人
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