第10話: 薬草園の四季
春が、辺境を塗り替えていた。
月見草は満開に近づき、白銀の六弁花が畝の端から端まで淡い銀色の波を作っている。翠玉葉は葉の枚数が倍に増え、翡翠色の表面を走る金色の葉脈が風に揺れるたびに明滅した。
東の斜面では紅陽草の苗が赤い茎を真っ直ぐに伸ばし、朝日を浴びると仄かに紅く発光する。
リリアーナは膝をついて灌魔を始めた。薄紫の光が指先から滲み出し、根を伝い、茎を巡り、葉先まで広がっていく。
「リリアーナ先生! おはようございます!」
柵の向こうから声がした。南通りのパン屋の娘マーラと、その弟のフリッツ。手に小さな木桶を提げている。
「うん! おかあさんが『先生の手伝いくらいしなさい』って」
フリッツが木桶を誇らしげに掲げた。朝になると領民が柵の前に集まり、水を運んだり雑草を抜いたりしてくれる。この園が、領民の暮らしの一部になり始めていた。
ヘルダが畝の端に腰を下ろし、摘んだばかりの霜晶草を広げていた。
「お嬢ちゃん、ちょっとこっちおいで。見せたいものがあるんだよ」
リリアーナが近づくと、ヘルダは霜晶草の根元についた白い粒を指差した。
「これ、見えるかい?」
「……白い結晶? 霜晶草の根にこんなものがつくんですか?」
「冬を越した株だけにつくのさ。あたしの母さんはこれを『雪の涙』って呼んでたよ。解熱の力が普通の霜晶草の三倍はある」
リリアーナの目が輝いた。
「三倍……! それは薬効成分が根に凝縮されているということですね。冬の低温で代謝が抑制される間に、有効成分が——あ、すみません、つい」
「いいよいいよ。お嬢ちゃんが薬草の話してる時は、いい顔してるからね」
ヘルダがにやりと笑った。母と同じ笑い方だ、とリリアーナは思った。
「この『雪の涙』を月見草と合わせれば、すごい解熱薬ができるかもしれません。ヘルダさん、少し分けていただけますか?」
「好きなだけ持っていきな。あたしの畑の霜晶草は、もうお嬢ちゃんの畑でもあるんだからね」
「——で、これがどう育つとどうなるって?」
午前の陽が高くなった頃。薬草園の東端で、ルシアンが腕を組んで立っていた。「視察」だった。毎日来る視察だった。
「こちらは紅陽草です。癒属性と浄属性の複合薬草で、特に外傷の治療に優れた効果を発揮します。朝日を浴びると茎が発光するのは、日光魔素の吸収によって内部の癒属性魔力が活性化するためで——」
「……で、俺にわかる言葉で言うと?」
「万能薬の素材です」
「最初からそう言えよ」
ルシアンが肩をすくめた。だが口元は緩んでいた。
薬草園を一巡りして、畝の端に並んで座った。夕刻に近い午後の陽が斜めに差し込み、薬草園の緑を金色に染めていた。
リリアーナは膝の上に置いた両手を見下ろした。指先が薄緑に染まっている。紅陽草の赤い汁と翠玉葉の緑が重なって、爪の際まで色が入り込んでいた。石鹸で洗っても落ちない。
「綺麗な手だな」
ルシアンの声が、不意に落ちてきた。
リリアーナは自分の手を見直した。汚れてるし、乾燥してるし、令嬢の手とは到底言えない。
「そんな——汚れていますし……でも、毎日の灌魔と手入れをしていれば自然とこうなるんです。薬草の汁は石鹸では落ちなくて。特に紅陽草の赤は頑固で、三日は残ります。翠玉葉の緑と混ざると——」
「だから綺麗なんだよ」
リリアーナの言葉が途切れた。
「汚れてるから綺麗だって言ってるんだ。毎日この園の世話をして、領民の薬を作って、俺の毒紋まで診てくれてる——その手だろ」
なぜそれを「綺麗」と表現するのか、リリアーナの中で繋がらなかった。困った時の癖で、指先が薬草ポーチに触れた。
「あ、ありがとうございます。——灌魔の後は手の乾燥が気になるので、翠玉葉の保湿軟膏を塗ると良いんですけど、ルシアン様もお使いになります?」
ルシアンが一瞬、目を閉じた。それから小さく笑った。
「……いい。いいよ、もう」
畝の端で並んで座ったまま、ヘルダが小屋の方から歩いてきた。手には湯気の立つ杯を二つ。
「お嬢ちゃん、領主さん。薬草茶でも飲みな。霜晶草と陽だまり草のブレンドだよ」
「ヘルダさん、ありがとうございます」
「ヘルダ殿、いつもすまないな」
「なあに、あたしの膝の薬を作ってくれてるお嬢ちゃんへの恩返しさ」
ヘルダが杯を渡しながら、二人を交互に見た。薄い茶色の目が、深い皺の奥で光っている。
「いい夕暮れだねえ。薬草園が金色に光ってるよ」
そう言って、ヘルダは何も言わずに小屋に戻っていった。——含み笑いを残して。
「——なあ」
ルシアンが前を向いたまま言った。
「リリアーナ」
名前だった。「お前」ではなく——名前。
リリアーナは一瞬、自分が呼ばれたことに気づかなかった。
「……はい?」
「この園、いい園になったな」
ルシアンの灰青色の瞳は温かい色をしていた。
リリアーナは頷いた。
「はい。まだ小さな園ですけれど——」
そこまで言って、気づいた。ルシアンが名前を呼んだ。四ヶ月以上「お前」だった呼び方が、変わった。
胸の奥で、何かが小さく弾けた。
だから——。
「ルシアン様」
気づいた時には、口から出ていた。「領主様」ではなく。
ルシアンが振り向いた。灰青色の瞳が僅かに見開かれている。
「……この園は、ルシアン様のおかげです」
ルシアンは一瞬、何かを言いかけた。だがすぐに視線を薬草園に戻し、片手で口元を隠した。
「……そうかよ」
声が、ほんの僅かに掠れていた。
帰り際、リリアーナは薬草園の南東の隅に寄った。星霜花の種を蒔いた場所。
膝をつき——息を呑んだ。
小さな芽が、土を割っていた。
白い、針のように細い芽。指の爪ほどの長さもない。だが確かに——土の中から、光に向かって伸びている。
「……出た」
声が震えた。
「ルシアン様! ヘルダさん!」
振り返って叫んだ。薬草の話になると冷静さを忘れる。いつもの癖だ。
ルシアンが駆け寄り、ヘルダが小屋の戸口から顔を出した。
「星霜花の芽が——ようやく芽が出ました!」
ヘルダが膝をさすりながら歩いてきて、小さな芽を覗き込んだ。
「おや。小さいけど、しっかりした芽だね。北の土に根を張ったんだよ、お嬢ちゃん」
ルシアンは何も言わず、リリアーナの横顔を見ていた。目の奥が輝いている——薬草を見つけた時の、あの顔だった。
翌朝。
城門の方角から、蹄の音が響いた。速駆けの軍馬だ。
リリアーナが朝の灌魔を終えて立ち上がった時、一頭の馬が城門をくぐるところだった。馬上の男は埃を被った外套を纏い、革の書状筒を肩に提げている。
ハルトヴィヒ侯爵家の紋章が入った外套だった。
使者が、辺境に到着した。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第十話「薬草園の四季」——穏やかな回でした。嵐の前の凪とも言えます。
ヘルダの「雪の涙」は、民間薬草学ならではの知恵です。学院の教科書には載っていないけれど、五十年の経験が裏づける。リリアーナが「三倍!」と目を輝かせる場面は、この薬師の本質を見せたかった箇所です。
二人の呼び方が変わりました。ルシアンが「リリアーナ」と呼び、リリアーナが「ルシアン様」と返す。頭で考えたのではなく、声が選んだ。
そして星霜花の芽がようやく出ました。小さな、針のように細い芽。ヘルダの言葉通り——大切なものは、ちゃんと根を張る。
歩人
☆ブックマーク・評価・感想をいただけると、次話の励みになります!




