第8話: 灰色の噂
朝の光が薬草園の土に射し込む前に、リリアーナはもう畝の間に膝をついていた。
手袋を外し、素手を土に当てる。冷たい——だがもう、真冬の刺すような冷たさではない。指先から薄紫の光が滲み出し、土を通って月見草の根に広がっていく。
「おはよう。今日も元気そうね」
白銀の六弁花が朝露を載せて揺れた。応えてくれたような気がして、リリアーナは目を細める。
星霜の庭ではもっと大きな株だった。母が三十年かけて育てた月見草は、この辺境の株より三倍も立派だった。——だが、この子たちはこの子たちの力で根を張っている。それでいい。
「お嬢ちゃん、また朝一番かい」
しわがれた声が畝の向こうから響いた。白髪を団子にまとめた小柄な老婆が、腰に薬草袋を下げ、手には摘んだばかりの霜晶草を握って立っている。
ヘルダだ。
「おはようございます、ヘルダさん。今朝は霜晶草の収穫ですか?」
「ああ、昨夜の冷え込みで丁度良くなったからね。——お嬢ちゃんのほうこそ、毎朝毎朝よくやるよ。あたしの膝がまだ元気なら、手伝ってやれるんだけどねえ」
ヘルダが畝の端にどっかりと腰を下ろした。膝をさすりながら、リリアーナの手元を見ている。薄い茶色の目が、深い皺の奥で光っていた。
「お嬢ちゃんの灌魔は、見てるだけで気持ちいいねえ。薄紫の光が根に染み込んでいくのが、あたしにも見えるよ」
「ヘルダさんには魔力視はないはずですけど……」
「五十年も薬草を触ってりゃ、薬草が嬉しがってるかどうかくらいわかるさ」
リリアーナは思わず笑った。ヘルダの薬草の話には、学院の教科書にない説得力がある。母もそうだった。理屈ではなく、手と目と、長い年月の経験で草を読む。
灌魔を終えて立ち上がると、ヘルダが翠玉葉の畝を覗き込んでいた。
「これ、だいぶ葉が増えたね。翡翠色が綺麗だよ。金の葉脈が光ってるだろう? こうなったら摘み頃さ」
「ええ。明日の朝、朝露が乾く前に摘みましょう。——氷雪蘭のほうは、日陰に移したおかげで元気です」
二人で薬草園を巡りながら、一株一株の調子を確かめていく。ヘルダは膝が悪くて長く立てないが、座ったまま葉を触り、茎を曲げ、匂いを嗅ぐだけで草の状態がわかる。リリアーナにとって、それは学院の鑑定術とは違う種類の知恵だった。
「ヘルダさん、この紅陽草の茎、少し色が薄いのですが——」
「ああ、こいつは朝日が足りないんだよ。もう少し東に寄せな」
「やっぱり。日照量の計算では足りているはずなんですけど、実際の色を見ると——」
「数字より草を見な、お嬢ちゃん」
ヘルダがにやりと笑った。
「……はい」
リリアーナは素直に頷いた。星霜の庭でも、母はそう言っていた。
薬草園の南東の隅に、小さな区画がある。石壁に近い、日陰の湿った場所。
リリアーナはそこに膝をつき、土を見つめた。
星霜花の種を蒔いた場所だ。母が一株から増やした固有種——冬を越した株だけが免疫を強くする薬効を持つ。あの庭から持ち出せたのは、種鞘から摘み取った数粒だけだった。
土の表面に、変化はない。
「……まだ、出ないね」
声をかけてみる。寒い土地だから時間がかかるのかもしれない。それとも、この土が合わないのか。
ヘルダが後ろから覗き込んだ。
「その種、大事なやつだろう?」
「ええ。母の庭から持ってきた、たった一つの——」
「焦んなさんな。北の土はゆっくりだけど、ちゃんと根を張るよ。大切なものは、急がせちゃいけないのさ」
リリアーナは頷いた。ヘルダの言葉は、いつも胸の深いところに届く。
午後。調合室でルシアンの治療の時間だった。
椅子に座ったルシアンが、左腕の袖を捲る。銀色の紋様が灯架の光に浮かんだ。手首から前腕にかけて走る銀の枝——だがリリアーナの目は、その変化を見逃さなかった。
「……薄くなっています」
鑑草眼を発動した。紫の瞳が微かに光る。手首の周囲、最も表層に近い部分の毒紋が、氷雪蘭の冷却と浄化の灌魔によって薄れ始めていた。
「毒が、少しだけ引いています」
「そうか」
ルシアンが口の端を上げた。声の底に微かな安堵が滲んでいるのを、リリアーナは聞き取った。
氷雪蘭の葉を紋様の上に置き、浄属性の魔力を注ぎ始めた。しばらく無言で治療が続く。
「無理するなよ」
「ありがとうございます、ルシアン様」
夕刻。城の中庭に、聞き慣れない大声が響いた。
「——いやあ、遠かった! 北の果てとは聞いていたが、本当に果てだな!」
旅商人だった。冬の間は雪で街道が閉ざされていたが、雪解けと共に最初の商人がやってきたのだ。
リリアーナは調合室の窓からその様子を見ていた。ルシアンが中庭に出て商人と言葉を交わしている。
「——ああ、そういえば」
商人の声が、風に乗って届いた。
「南のほうが大変なことになっとるらしいですぞ。ハルトヴィヒ領で、原因不明の熱病が流行っとるとか。高熱が出て、ひどい咳。もう何十人も倒れとるって話ですわ。侍医が対処しとるらしいんですが、薬が効かんとかで」
リリアーナの手が止まった。乳鉢を握ったまま、動かない。
——秋霧熱。
頭の中が、自動的に対処法を組み立て始めた。星霜花の予防薬。霜晶草と月見草の解熱薬。去年は予防薬を配って、誰も倒れなかった。
だが今年は——私がいない。
指先が薬草ポーチに触れた。無意識の癖だ。一瞬だけ表情が動いた。薬師としての反射だった。
すぐに、平静に戻った。
夕食後、城の廊下でルシアンと擦れ違った。
「さっきの商人の話、聞こえてただろ」
「ええ」
「気になるか?」
「いいえ。もう、私の領地ではありませんので」
声は揺れなかった。ルシアンはしばらくリリアーナを見つめていた。それ以上は問わなかった。
「……そうか」
夜。眠れなかった。
正確には、眠ろうとしなかった。
頭の中で、対処法が勝手に組み上がっていく。星霜花の予防薬と霜晶草の解熱剤の配合。患者一人あたりの投与量。前世の断片——感染症における薬物投与のタイミング。
全て、頭の中にある。灰熱病を治す知識も技術も、リリアーナは持っている。
だが——。
「もう、私の場所ではない」
白い息になって夜空に消えた。
部屋を出て、薬草園に向かった。月明かりの下、薬草たちが灌魔の残光を纏って微かに光っている。
星霜花の種を蒔いた区画に膝をつく。土の表面を指先で触れた。
何もない。芽の気配もない。
——お母様。この種は、ちゃんと根を張ってくれるでしょうか。
薬師の頭は、患者のことを考えるのを止められない。あの領地の人たちが苦しんでいる。マティアスの教科書通りの薬では、秋霧熱は治せない。
それでも——リリアーナはここにいる。
薬草園の薄紫の光に包まれて、リリアーナは長い間そこに座っていた。
同じ頃——。
ハルトヴィヒ侯爵領の星霜の庭は、もう半分以上が枯れていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第八話「灰色の噂」——アーク2「疫病の影」の幕開けです。
ヘルダとの薬草園の朝から始めました。学院式の知識と、五十年の経験に裏打ちされた民間薬草学。「数字より草を見な」——このヘルダの言葉が、リリアーナの薬師としての幅を広げています。
星霜花の種を蒔いた場所には、まだ何の変化もありません。焦るリリアーナに「焦んなさんな」と言うヘルダ。大切なものは、ちゃんと根を張るまで待つしかない。
そして噂が届きます。リリアーナは「私の場所ではない」と言い切りますが、薬師の頭は止まらない。この矛盾が、この話の核心です。
歩人
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