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エリスの中のエリス-現・うつつ-


 日本の学校に転校して来た初日、エリスは驚愕のあまり「あっ」と声を上げる寸前だった。

 

 何故なら、生まれ変わる前の恋人とそっくりの人物が、教室の右端の後の席に座っていたからである。

エリスの元恋人と瓜二つの少年は、口を半開きにして、大きく見開いた目をエリスの顔に釘付けにしていた。

 

 担任の鈴木教諭が、その少年の後ろの席をエリスに指定した時は、心底困惑した。

 嫌とも言えずに仕方なくその席に座ると、授業が始まった。

 

 教科書のページを開くと、エリスの目に「舞姫」の文字が飛び込んで来た。


 前世で恋人関係であった“森鷗外”を調べている時、彼が官僚の(かたわ)ら小説を書いていたのを知った。

 Amazon(アマゾン)で彼の著書を取り寄せて、恐る恐る(ちょっとドキドキしながら)「舞姫」を読んだエリスは、読み終えた直後に、その文庫本を力を込めて壁に叩き付けた。


 何て酷い小説だ。もし今の時代に鷗外が生きていたとしたら、半死半生の目にあわせてやる。歯ぎしりし、目を怒らせながら、エリスは壁に半分埋まった本を睨み付けた。


 転校してきた当日、初めて開いた現国の教科書に、その憎むべき小説「舞姫」の二文字がエリスの目に飛び込んできたのである。唖然とするエリスに追い打ちをかけるように、鈴木教諭が前の席の少年の名を呼んでから驚くべき説明を行った。


「鷗外の本名は森林太郎というんだよ」


 前世の恋人と名前も苗字も同じと知って、エリスは再び仰天した。


(神様、どうかお助け下さい。私は呪われています)


 日本の高校の教室で、生まれて初めてエリスはその言葉を口にした。

 エリスの前に座る少年は教諭に指名されて朗読を始めたが、具合が悪いとかで、すぐに着席してしまった。代わりに、隣の席の少年が(つたな)い読み方で朗読を始めた。

 彼の名も、エリスが二度と聞きたくないものだった。


 前の席に「森林太郎」と「相沢謙吉」が並んで座っている。

 自分の前世の人生を滅茶苦茶にした二人だ。問答無用でぼこぼこにしてやりたいのを必死に堪えて、エリスは椅子の上で身を固くしていた。


 突然、「森林太郎」が後ろにいるエリスを振り向いて、自分の名前を叫んだのには肝を潰した。


 怒り心頭でいるエリスは、「林太郎」が口走る言葉も耳に入らなかった。自分を見つめる少年を冷たい瞳で睨み付けながら、冷徹な声で「私語を慎め」と注意した。その直後に、少年はエリスの目の前でくたくたと椅子から崩れ落ちて気を失った。


 エリスも驚いたが、「林太郎」が気絶したのを目にした隣の「相沢謙吉」が、今にも泣き出さんばかりに「林太郎君死なないで~」と、騒ぐのには閉口した。


 あまりにも間の抜けた二人の様子に、エリスの怒りはどこかへ行ってしまった。

 

 怒りが収まって冷静さを取り戻したエリスは、二人を観察することにした。


「相沢謙吉」は、前世では恰幅の良い体格で見た目通り押しが強く、自分の信念に忠実な男だったが、生まれ変わった「相沢健吉」にはその片鱗すら見い出せなかった。


 今はただの世話好きなお人好しだ。大人しい性格になったせいなのか、体格も小ぢんまりとしている。前世の記憶は全くないようで、人懐こい笑顔でエリスに寄って来た。


「森林太郎」は、顔も体格も前世とほぼ同じだった。

 とはいっても、エリスと同じ十七歳だ。顔も声もまだ少年のものだった。

 成長すれば、自分がよく知っている大人の顔になるのだろうとエリスは思った。声はもっと深みのあるテノールへと変化する筈だ。


 それにしても、現世に生まれ変わった林太郎は、前世の理知的で紳士だった「林太郎」の面影は微塵もなかった。口が悪く品もない。


 “エリス”の見せる林太郎とのあまりの落差にエリスはがっかりした。


 何故自分がこの男にがっかりしなければいけないのかと腹を立てたが、それは“エリス”の影響だろう。彼女はエリスの中でいつも「林太郎」を恋しがっているから。


 前世の“エリス”が夢中になった端正な姿そのままの林太郎は、学校中の女子生徒の憧れの的になっていた。転校早々、クラスの女ボス、堀田怜奈から林太郎に手を出すなと脅された時には、(へえ、力ずくで上下関係をごり押ししてくる人間って、日本の学校にもいるんだ。ま、どこの世界も変わらないって事ね)と、妙に納得した。

 

 怜奈が林太郎にボディタッチしてエリスに見せつけたが、正直どうでもよかった。だが、その様子を暗闇に隠れていた筈の“エリス”が目撃してしまって、怜奈の行為にショックを受けて啜り泣きを始めた。


(こんな事で泣くなんて。エリス、あなた、本当にバカな子ね)


 頭の中で嘲笑(ちょうしょう)してやると、エリスの態度に傷付いたのか、“エリス”は激しく泣き出した。“エリス”のせいで図らずも目から涙が溢れそうになったエリスは、慌てて机に腕を組んで顔を伏せた。

 そんなエリスを見て、真紀や健吉、隣の席の坂本が心配してくれたのは、ちょっと嬉しかった。

 

 彼はどうなのだろう。エリスは腕の隙間から林太郎の様子を覗き見た。

 

 どうしてそうなったのかは知らないが、林太郎は真紀に顔をガラス窓に押し付けられて、手をバタバタさせてもがいていた。その情けない姿に、エリスは込み上げてくる笑いを抑え切れずに吹き出してしまった。

 

 大笑いするエリスに“エリス”が混乱して泣き止まない。エリスは気分が悪くなり、健吉に保健室に連れて行ってもらうことにした。

 泣き疲れた“エリス”が自分の中から気配を消したので、久々に熟睡してしまい、昼過ぎまで保健室で寝入ってしまった。

 

 目を覚ますと健吉が枕元にいて、彼の隣に立っている真紀が怜奈達からエリスを守ると宣言した。林太郎の姿はない。聞くと一人で先に帰ったという。

 

 健吉と一緒に帰る途中、他校の生徒と大声で嬉しそうにエロ本談義をかましている林太郎に会った。エリスが注意すると、今度はその生徒と言い争いを始めた。


 呆れ果て、嫌味のつもりで放った言葉に、林太郎は顔を蒼白にして体を硬直させた。その姿に思わず小気味よさを感じてしまったが、前世の復讐にしては可愛い仕返しだろう。



 この様子から、健吉と同様、林太郎が前世を全く記憶していないとエリスは確信した。


 弱っちい上に子供っぽい。こんな男のどこがいいのか、登校時には彼の周りに女子が群がっていた。その光景を何度も目にしたエリスは、ふんと小さく鼻を鳴らしながら通り過ぎたが、林太郎が困った目をして自分を見てるのに気が付いた。

 

 そういえば、と、エリスは思考を巡らせた。


 最近、林太郎と目が合うことが多いのだ。席順が前と後ろだし、休み時間には真紀が必ず堀田達からガードする為にエリスと林太郎の間に立って、壁を作っている。


 顔を合わせるどころか喋る機会もなかったが、席から少し離れると、林太郎の目が必ず自分を追ってくる。エリスがその目を見返すと、林太郎は顔を赤くして、慌てて視線をあらぬ方向に逸らすのだ。

 

 エリスは思った。こいつ、私に惚れてるな。


 もしかしたら、林太郎の中に、エリスを愛した前世の記憶がほんの僅かに残っているのかも知れない。


 それを知りたくて、堀田の手先の大根田を退治した。

 邪魔者がいなくなったのに、林太郎の様子は変わらない。

 つい苛立って、現国の授業の「舞姫」に(かこつ)けて“エリス”をどう思っているか聞いてみた。

 

 林太郎は首まで真っ赤にしてエリスに「好き」だと言った。

 

 アメリカにいた頃は、セレブの子弟が多い学校に通っていた。親が富豪の男子学生は自信満々でエリスに言い寄ってくる。皆、エリスが自分を選ぶのは当然という顔をしていた。

 

 それはそうだろう。生まれてこの方、手に入らないものはなかっただろうから。

 だから。

 こういうのも、悪くない。

 

 必死な表情で自分に告白する林太郎に、エリスは嬉しくなった。




 林太郎と話すようになってから、“エリス”は安定していった。


 林太郎と穏やかに過ごす日々の回想だけで、林太郎を繋ぎ止めようとする行為の記憶は影を潜めた。これにはエリスもほっとした。夜中に悲鳴と共に飛び起きることもなく、朝までぐっすりと眠れるのだ。寝不足で学校で気分が悪くなることもない。


 “エリス”は暗闇の中に座って、じっと林太郎を待っている。林太郎がエリスの目の前に現れると“エリス”はエリスの目を通して林太郎を見つめる。林太郎がエリスに微笑むと“エリス”も林太郎に微笑みかけた。


 その、儚げで柔らかな微笑みに、エリスははっとする。

 林太郎が本当に好きなのは、“エリス”ではないかと。

 控えめな性格で、林太郎の愛読する詩集を読みたいと、彼から字を習う“エリス”。

 踊り子の仕事を終えると、林太郎が翻訳の仕事の為に新聞を読んでいるカフェまで毎日迎えに来る“エリス”。

 彼の好みの色に染め上げられて嬉しそうに目を輝かせ、口元を綻ばせる少女を。


 もし、林太郎に前世の記憶の片鱗がどこかに残っているとしたら、彼はエリスから“エリス”から感じ取って、自分に一途な思いを寄せているのかも知れない。


 そう考えると、何故か胸の奥が苦しくなる。




 “エリス”が消えて今日で三日目になった。


 林太郎がエリスを好きと言ってから、“エリス”が姿を現さない日が増えていた。

 前世で林太郎から酷い裏切りを受けたというのに、彼の愛を信じて、強く信じて、生まれ変わったエリスの中で、“エリス”は林太郎を待っていた。


 純真な“エリス”は、恋人の愛が自分から失われていないと確信すれば、このまま消滅するのだろうか。

だったら、林太郎が“エリス”を好きな方が好都合だ。その筈だ。



 そう思っていたのに。


 風呂場の脱衣所に裸で立ったまま、エリスはきつく唇を噛んで、鏡に映る自分の姿を睨み付けた。


 何故、“エリス”がこんなにも憎くらしいのだろう。



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