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エリスの中のエリスー夢ー


 ベッドに身体を横たえて目を閉じた。

 睡魔が静かに押し寄せてきて、頭の中の全ての思考を取り払う。意識が無へと移行し、辺りは恐ろしく静かな闇に包まれる。

 眠りの淵に揺蕩(たゆた)うエリスの瞼の奥に、小さな素足が現れた。

 足はゆっくりとエリスに向かって歩き始めた。最初、足首の下だけであったのが、(すね)から膝、胸、両腕、腹、(もも)と、暗闇から白い裸体が浮かび上がってくる。

 首から下の体が揃うと、最後に頭部が現れた。

 両眼は限りなく青く、白く輝く金色の髪が胸元を覆っている。

 口元に気弱気な笑みを浮かべると、裸の少女の首が小さく傾いで、暗闇に横たわっているエリスを見下ろした。


「来ないで」


 そう口にすると、拒絶の言葉を待っていたかのように、少女はエリスへと足早に近寄った。

 エリスは少女から逃れようともがくが、体はぴくりとも動かない。仰向けになっているエリスの横に膝を付き、その細い腕に己の腕を絡めて、少女は華奢な体をエリスにそっと密着させた。

 エリスの喉から(かす)かな悲鳴が上がると同時に、少女の体が暗闇に()き消えた。




 「エリス」


 名前を呼ばれて顔を上げた。エリスの瞳にエリスを優し気に見つめる顔が映る。


(愛しい人)


 エリスは彼の名を呼んで近づくと、両手を広げてその胸に飛び込んだ。広い胸と力強い両腕がエリスを迎える。エリスは抱き留められたまま、彼の顔を見上げた。自分に向かってゆっくりと近づいてくる唇に、エリスはうっとりと目を閉じた。


(私の、愛しい人)


 初めて彼と出会ったのは寺院の門の前だった。

 死んだ父の葬式の費用を工面出来ずに泣き崩れていた自分に、心配そうに声を掛けてくれた青年が彼だった。葬式代を貸して欲しいと必死に訴えると、彼は銀貨と懐中時計を手渡してくれた。あまりの嬉しさにその手に縋りついて接吻をしたエリスが涙に濡れた顔を上げると、青年は、はにかんだように微笑んでいた。


 その黒曜石の瞳に、エリスは一瞬で恋に落ちたのだ。

 

 父親の埋葬後、礼を言おうと、エリスは青年から教えて貰っていた住所を訪れた。嫌な顔一つせずに、自分を部屋へと迎え入れてくれた青年の対応が嬉しかった。

 青年の部屋の書棚や机に積み上がっている蔵書に驚いた。エリスが見たこともない立派な装丁がされてある本ばかりだったからだ。


 青年は、一冊の本を手に取った。詩集だと言った。美が言葉となって(つむ)がれている本だと。

 自分が愛してやまない本だとも。

 難しい単語に気後れして、読み書きがままならぬのを告白したエリスに、青年は優しい笑顔で教えてあげると言ってくれた。


 彼の愛読する詩集を読みたい一心で、エリスは青年から読み書きを教授した。

 シラーやゲーテの詩集をすらすらと音読し、美しい字体で手紙を書けるようになったエリスに、青年は嬉しそうに目を細めた。

 青年の美しい黒曜石の瞳が自分の姿を映すだけで、エリスは満足していた。


 本当に、それだけでいいと思っていた。彼に母の死の知らせが届くまでは。


 母親の直筆の手紙と共に、その死を知らせるもう一通の手紙を握りしめて、床に膝を折り、肩を震わせ涙する彼の姿を見るまでは。


 自分の背中に夢中で縋りついたエリスの華奢な体を、青年の腕が力一杯抱きしめた。深い口づけの後に続いた愛の行為は、悲観に暮れた青年を自分へと一気に引き寄せる行為でもあった。


 初めて見た時から恋に落ちた。彼の身も心も、自分のものにしたかった。


 だから。初めて経験する、己の内部の鋭い痛みにも歯を食いしばって耐えた。


 エリスは彼を捕えた。

 二人だけの世界で、エリスは青年の女王となり、青年はエリスの王となった。

 青年の背に両手を回し、しっかりと抱き着いて確信したのだ。


 今、結ばれた愛は、二度と(ほど)けることはない、と。




「もうやめて」


 エリスは身悶えた。自分にしがみ付いて離れない少女の記憶を振り払おうと、必死で手を持ち上げようとするが、腕は肩の付け根から動かない。頭も足も、体の全てが闇にしっかりと抑え込まれている。動くのは両方の眼球だけだが、瞼は開いたまま固定されている。目の前に映し出される“エリス”の記憶が、否が応でもエリスになだれ込んでくる。



 体内の疼痛が去ると同時に快楽が忍び込んで来た。


 それは青年も同じようだった。熱い抱擁。熱い口づけ。青年はエリスを強く掻き抱き、躍動を繰り返した。エリスは青年の動きに従った。青年に支配されてるように見せて、エリスは青年を支配した。首を仰け反らせ、解いた長い髪を振り立てて、青年の耳元に束縛の呪文を刻んでいく。


 好きよ。愛している。ずっと離さないで。


 


 “エリス”の行為に耐えきれず、エリスは鋭い悲鳴を上げた。


 ベッドから弾け飛ぶように上半身を起こすと、冷たい汗が全身から流れていた。両腕で自分の体を抱きしめる。


「もう、たくさん!こんな記憶、いつまで私に見せるつもり?!」


 目の前から“エリス”は消えていた。後に残るのは震えが止まらない体と、泣き濡れた瞳だけだ。

 サイドボードの灯りで時計の針を見ると、午前四時を差している。エリスは乱れた髪をかき上げてベッドから立ち上がると、ふらつく足で窓際に歩いて行った。大きな窓から外を見下ろすと、点を連ねたような街の灯りが目に入った。


「エリス…。愚かな子」


 窓の外を見下ろしながら、エリスは呟いた。

 愛の行為が青年の身も心もしっかりと捉えて離さないと固く信じている“エリス”の体に変化が現れるのはもうすぐだ。


 吐き気が酷くて踊り子を辞めさせられて、初めて自分が妊娠しているのに気が付いた。

 愛しい男の子供を身籠って幸福の絶頂にいる“エリス”は、青年の微妙に変化した眼差しに気付かない。

 あなたの瞳と同じ黒い瞳の子供が欲しい。

 そう無邪気に告げる“エリス”を見る青年の表情に気が付かない。


「いいえ違うわ。あなた、本当は最初から気が付いていたのよね」


 青年の目が自分を通り越して、どこか遠い場所に向いているのを、繊細な心を持つあなたが分からない筈がない。

 

 大臣のロシア外遊に同行した青年に、毎日手紙を書いて送った。一通も返事が戻って来ない寂しさから、生まれてくる子供の為に、靴下や帽子をせっせとレースを編んだ。布おむつを縫っている時には不安で涙が零れた。


 青年が帰って来た時には嬉しさのあまり抱き着いて、その肩を涙で濡らした。


「帰って来てくれたのね!愛おしい人!あなたがあのまま私の元から去ってしまったなら、私は自分の命を絶とうと思っていたの」


 青年に、強く強く抱きしめられて、“エリス”はどれほど嬉しかったか。

 我慢し切れなくなって口から出て来た言葉が、「どうかおなかの子を私生児にしないで」だ。

 再び“エリス”を抱きしめた青年の顔は、一体どんな表情をしていたのか。


 母親は故郷と娘の間で揺れる青年の心に気付いていた。だから、自分は田舎の遠縁に面倒見てもらうから、“エリス”を青年の国に連れて帰るようにと頼んだのだ。


 その時は、“エリス”の願いも母の願いも、全てが無に帰すと想像すらしなかったろう。


 それは、青年も同じだった。


 “エリス”の人生が、たった十七歳で終わってしまう運命にあることを。





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