第99話「名前が消える」
黒の攻撃は、刃ではなかった。
振るう前に、世界が薄くなる。残虹の感触が、一瞬だけ他人の刀に感じられる。白嶺は歯を食いしばり、踏み込み、切っ先を走らせた。黒の輪郭が、斬られたように揺れる。すぐに戻る。消す側は、傷つかない。存在を減らすだけで、戦っている。
「跪け。終わるのが、早い」
高圧的な声が、頭の中に直接落ちる。白嶺は答えず、【 薄斬 】で軌道を削る。効いているのか、いないのか、わからない。無月が横から入ろうとして、白い侵食に膝を折った。眩虹が地面に落ちる。輝かない刀が、鉄の音だけを立てる。
『無月——』
「……まだ、立てます」
立てていない。白が、無月の内側で暴れている。白嶺は黒から半歩退き、無月の肩を支える余裕もない。黒が、その隙に座標を消す。足元の地面が、半秒だけ白紙になる。白嶺の記憶の中で、母の最後の言葉の温度が、薄くなった。
「娘の名も、いずれ消える。先に、そちらを消してやろうか」
白嶺の胸の奥で、何かが落ちた。
呼ぼうとした名前が、出ない。顔は浮かぶ。重さも、温かい感触も、残っている。なのに、名前だけが、白い霧の中に沈んでいく。彩——まで出かけて、続きがない。
『……あ、……』
「ほら。楽であろう。名など、なくても、守る感触は残る。それだけで十分だ」
白嶺は残虹を握り直した。名前がない。それでも、この子を守る、という感触だけが、身体の芯に残っている。名前で斬るのではない。感触で、斬る。
無月が、地面に両手をついた。白い息を吐き、それでも顔を上げる。
「……白嶺様。名前が、なくなっても——」
『わかってる。消させない』
言葉は、掠れている。黒の虚ろな目が、玉座から見下ろすように、白嶺を捉えている。次の一手で、名前は完全に消える。白嶺はそれを理解したうえで、残虹を正眼に構えた。
名前がなくなる前に、届ける。
届かなくても、感触だけは、残す。
黒が、静かに手を上げた。
世界が、また一段階、薄くなっていく。




