第98話「無在」
黒は、姿を見せずに、先に部屋を消した。
白嶺が無月を支えているリビングで、壁の色が、一瞬だけ失われる。家具の輪郭が薄くなり、すぐに戻る。戻っても、さっきまでそこにあったはずの影が、一つ足りない。黒は、戦いに来る前に、座標から消しに来ていた。
無月が、苦しそうに息を吸う。白い侵食が、まだ止まっていない。白嶺は無月をソファに預け、残虹を手に取った。髪が虹色に変わる。刀を握った瞬間の自分が、残響と欠落の中から、わずかに立ち上がる。
『……出てこい』
返事はない。代わりに、玄関の向こうの空気が、存在を失った。ドアを開けても、夜の街が、半秒だけ白紙に見える。白嶺は踏み出した。無月が、掠れた声で追う。
「……私も」
『刀が遠い。身体も、白い。下がっていろ』
「下がりません」
無月は眩虹を握ったまま、立った。輝かない刀。それでも、盾になると決めた身体が、白嶺の後ろに続く。二人で、夜の階段を下りる。途中、白嶺は自分の名前を心の中で書いた。加藤白嶺。書ける。読める。実感が、薄い。
地上に出たとき、黒はそこにいた。
人の形をしていた。女の形だ。年齢も、顔の輪郭も、はっきりしない。見ている途中で、特徴が消えていく。黒い衣をまとい、背筋を伸ばし、玉座から下を見るように白嶺を見下ろしている。目だけが、虚ろで、威圧があった。
「……終わりにせよ。貴方も、もう十分なろう」
声は低く、澄み、命じるように降ってくる。一語も、臣民に許す余地がない。
『キョムコク』
「苦しきものも、重きものも、斬り積みし色も、娘の名も、器などと嘯く貴方も。——全て、初めより無かったことにする。それが救いだ。跪いて受け入れよ」
影がない。足元から、世界が薄くなっていく。白嶺は残虹を構えた。無月が、隣で息を殺す。白い侵食で、無月の膝が、すでに震えている。
「抗うか。愚かな。その愚かさごと、消すまで」
『救いは、いらない。自分で抱える』
「許さぬ。消えるがよい」
白嶺は踏み出した。
消される前に、斬る。名前が残っているうちに、斬る。
黒の虚ろな目が、玉座から罪人を見下ろすように、静かに開いていた。




