第97話「白に沈む刃」
無月の異変は、夜に始まった。
彩華を寝かしつけたあと、無月はいつものように玄関と窓を確認し、リビングの隅に座った。眩虹は、相変わらず輝かない。柄に手を置いても、応えない。それでも、触れているだけで、まだ自分の刃だと思えていた。
その感触が、急に熱くなった。
腕の内側から、白い何かが、血管を逆流するように上がってくる。器ではない身体が、宿した色を処理しきれない。赦し、消去、白紙——シロユルの残滓が、無月の内側で暴れ始めた。無月は息を止め、膝に手をついた。次の瞬間、視界が白く飛ぶ。
「……っ」
声にならない。身体が、内側から薄くされていく。記憶の端が欠ける。白嶺の太刀筋を追っていた日々が、白い霧に溶ける。刀を握っていた感触が、指から消える。残るのは、痛みと、消去されてはいけないという、むき出しの意志だけだ。
白嶺が、すぐに傍に来た。残響で鈍い身体のまま、無月の肩を掴む。
『無月。返事をしろ』
「……白い。中が、白い」
無月は膝をついたまま、頭を振った。振れた。だが、次の呼吸で、また白が上がってくる。器量のない身体に、色が沈む。家でも正確には語られなかった「器ではないものが色を宿したとき」の結末が、いま、無月の皮膚の下で起きている。
白嶺は無月を抱き寄せ、額を寄せた。熱はない。あるのは、消去の感触だけだ。
『……引き取る。私の方で抱える』
「だめです。白嶺様は、もう十分に——」
『器だ。だがおまえは、違う』
そう言ったあと、白嶺の手が、わずかに止まった。
引き取る、と言った。だが、方法を知らない。
これまで封じてきた色は、すべて「取り憑かれた人間」から斬り離し、自分の内側へ沈めたものだ。美咲も、奈々も、玲奈も、そうだった。相手は器ではなく、憑かれた側だった。斬れば、色は離れる。白嶺が受け止めれば、それで済んだ。
無月は違う。
自ら刀を振るい、色を斬り、器ではない身体に封印してしまった人間だ。一度、刀で身体に沈めた色を、どうやって移すのか。白嶺は、その手順を知らない。無月を斬れば、色は出るかもしれない。だが、無月の身体を傷つけることになる。それは、できない。
『……方法は、わからない。でも、放置はしない』
無月は白嶺の腕の中で、小さく喘いだ。子供のように泣いた夜とは違う。今度は、存在を消されかけている者の、生理的な苦悶だった。白嶺は背中を支えながら、自分の内側を測る。黒の侵食が、外側から名前を消し始めている。その上に、無月の白をどう受け止めるか。答えは、まだない。
「……白嶺様。私は、自分で踏み込みました。だから——」
『自分で踏み込んだものは、自分で引き取れ、とは言わせない。取引の範囲外だ』
無月の震えが、少しだけ長く続く。
白嶺は離さなかった。刀を失った手練れが、色に沈んでいく夜を、ただ支えていた。方法は、わからない。それでも、切り捨てるつもりはなかった。
黒は、まだ姿を見せない。
それでも、二人の内側では、すでに戦いが始まっていた。




