第96話「消されていく」
薄れる感覚は、翌日には明確な欠落に変わっていた。
朝、白嶺は鏡を見て、自分の顔を半秒だけ他人だと思った。すぐに戻る。戻っても、空白の跡が残る。彩華を抱き上げる。重さはわかる。温かい。名前を呼ぼうとして、また詰まる。今度は半秒ではない。一秒近い。彩華、という音が、喉の奥で見つからない。
『……あ』
名前が、出た。出たが、遅れている。無月がそれを見て、目を細めた。
「白嶺様。また、空白が」
『わかってる。黒だ』
「出ますか」
『まだ、姿がない。消す側から来ている。焦って動けば、向こうのペースになる』
無月は反論しなかった。代わりに、彩華を受け取り、白嶺の手を短く握った。刀を失った手だ。それでも、温度はある。白嶺はその温度を頼りに、支度を終えた。
会社では、欠落が外側にも広がっていた。
美咲が白嶺の席に来て、書類を置き、「加藤さん」と呼ぶ。そのあと、美咲は自分の席に戻りかけてから、立ち止まった。今、誰に書類を渡したのかを、数秒かけて思い出している。思い出したあとの美咲の顔が、青ざめている。聞かない。聞かずに、白嶺は書類を開いた。
悠人は、会議で白嶺の名前を出すときに、資料の文字を二度見た。書いてあるのに、認識が追いつかない。悠人は黙って資料を閉じ、白嶺の方を見た。目が合う。悠人は何も聞かない。ただ、倒れないでいてほしい、という目をする。白嶺は短く頷いた。それ以上の応答が、今日は作れない。
玲奈は、白嶺を「あの人」と呼びかけてから、自分の口に手を当てた。名前が、出てこなかった。玲奈は不快そうに舌打ちをし、席に戻った。苛立ちの下に、薄い恐怖が混じっている。
白嶺は画面の前で、自分のフルネームを心の中で書いた。
加藤白嶺。虹結白嶺。母親。
書いてある。読めている。なのに、実感が薄い。黒は、戦いに来る前に、存在の座標を消している。
退勤前、白嶺は手のひらを見た。残虹を握る感触を、記憶の中で再現する。応える。刀は、まだ消えていない。自分の輪郭が、先に消されかけている。
家に戻ると、無月が玄関で待っていた。彩華を抱いている。白嶺は娘を受け取る。名前を呼ぶ。今度は、すぐに出た。出たが、安心はできない。エスカレートしている。明日は、もっと遅くなる。その先に、完全な欠落が待っている。
『……近いうちに、姿を出す』
「私も、行きます」
『刀が、遠い』
「遠くても、行きます。身体の盾は、まだできます」
白嶺は短く息を吐いた。否定しない。今夜は、それだけでいい。
黒は、すでに側にいる。
姿を見せずに、白嶺という存在を、外側と内側から、同時に消し始めていた。




