第95話「薄れる」
最初に気づいたのは、名前だった。
朝、白嶺は彩華を抱き上げながら、娘の名前を呼ぼうとして、半秒だけ言葉に詰まった。彩華、という音が出てくるまで、空白がある。すぐに戻る。娘の顔も、重さも、変わらない。だが、空白の感触だけが、指先に残った。
(……消されている)
匂いや気配ではない。すでに、内側が消し始められている。白嶺は彩華を抱き直し、名前を何度か心の中で繰り返した。残る。残っている。それでも、さっきの空白は、確かにあった。
会社に着くと、その感覚は外側にも出ていた。
美咲が廊下で会釈をする。「おはようございます、加藤さん」。白嶺が『おはよう』と返す。美咲は数歩歩いてから、足を止めた。今、誰に挨拶したのかを、一瞬だけ見失っている顔だった。すぐに「加藤さん」と思い出し、自分でも不思議そうに首を傾げて、先に行く。
悠人は書類を持って白嶺の席に来た。差し出す手が一瞬止まり、宛名を書く筆が、名前のところで迷う。加藤——と書いて、提出する。悠人は何も言わない。だが、目が、わずかに揺れていた。認識が、薄れている。
白嶺は画面に向かったまま、自分の指を見た。
残響でも、白い敗北の感触でもない。もっと根が深く、静かに、「いなかったこと」にされようとしている。黒だ。キョムコクは、戦いに来る前に、存在の輪郭から消しに来ている。
(……来るな。まだ、早い)
祈っても、止まらない。午後、玲奈が白嶺の名前を呼ぶときに、一度だけ「あ、あの……」と詰まらせた。すぐに「加藤さん」と続けたが、玲奈自身が一番、不快そうな顔をしていた。
退勤前、白嶺は無月に短い連絡だけ入れた。『今日は早く帰る』。理由は書かない。家に、彩華がいる。消される前に、顔を見ておく必要がある。
駅までの道で、白嶺は自分の名前を、何度も心の中で噛み締めた。
加藤白嶺。虹結白嶺。母親。
残る。まだ、残っている。
黒は、すでに側にいた。
姿を見せずに、消す側から、来ていた。




