第94話「まだ、」
白嶺が出社すると、フロアの空気がわずかに動いた。
美咲が、すぐに気づく。以前より、見る目が静かだ。無月から輪郭を聞かされたあと、美咲は詮索をしなくなっていた。ただ、白嶺の顔色と、席に着くまでの足取りを、黙って追う。声をかけるときは、いつも通り明るい。中身が、少しだけ違う。
「加藤さん、おはようございます。今日は、調子良さそうでよかったです」
『おはよう。気のせいよ』
「はい。無理しないでくださいね」
それ以上は聞かない。聞かない代わりに、白嶺が席に座るまで、美咲は自分の画面を見ていない。心に寄り添う、と託された言葉が、美咲の動きを控えめに、しかし確実に変えていた。
悠人は、廊下で白嶺とすれ違った。目が合う。告白のあとの距離が、そこにある。悠人は軽く会釈をし、白嶺も短く頷く。それだけだ。だが、悠人の目は、以前より長く白嶺の顔に残った。あの夜、虹色の髪に刀を持った姿を見た。似ている人を見た。聞けないなら、聞かなくていい。ただ、倒れないでいてほしい——その想いだけを、悠人は胸にしまって、先に歩いた。
玲奈は、遠くから二人を見ていた。何も言わない。苛立ちは残っているが、深入りする気はない。
白嶺自身は、まだ万全ではなかった。
残響は薄れている。黒花戦の傷も、浅いものだ。だが、白い敗北の感触が、身体の芯に残っている。消されかけた記憶の空白。全力を出せなかった恐怖。無月が色を宿して刀を失ったことへの、言葉にならない重さ。それらが、動作の端々に出る。資料の文字が、一瞬だけ白く飛ぶ。名前を呼ぼうとして、半拍遅れる。感情のハンドルは、以前よりは戻っているが、まだどこかで滑る。
(……黒が、来る前に)
白嶺は画面に目を戻した。数字は追える。仕事はできる。できないのは、自分の内側の境界を、完全に信じることだけだ。彩華の顔は、はっきり思い浮かぶ。無月の泣きじゃくった夜の温度も、残っている。それだけを頼りに、白嶺は今日も、普通に見える女として席に座っていた。
退勤時間、美咲が「お疲れ様です」と声をかける。悠人が、遠くから一度だけこちらを見る。白嶺は短く応じて、鞄を持った。
家に、彩華が待っている。
無月が待っている。
黒は、まだ来ない。
白嶺はエレベーターに乗りながら、自分の手を握った。まだ、万全ではない。それでも、立てている。それだけで、今日はいい、と決めた。




