第100話「一閃」
名前が、完全に消えた。
白嶺は残虹を構えたまま、呼ぼうとして、何も出ないことに気づいた。顔は浮かぶ。重さも、温かい感触も、抱いた夜の温度も、残っている。なのに、名前だけが、どこにもない。白紙だ。黒の高圧的な声が、頭の上から降ってくる。
「終わりだ。名も、器も、もうない」
白嶺は答えなかった。答える言葉が、ない。あるのは、感触だけだ。この子を守る。名前がなくても、守る。身体が、それを覚えている。残虹の柄が、掌に沈む。虹の光が、刀身から溢れ始める。これまで使わずに残してきた、本命の光。
名前ではない。
感触を、技にする。
【 彩華一閃 】
光が、夜を割った。
黒の輪郭が、初めて大きく崩れる。虚ろな目が見開かれ、高圧的な声が、途切れる。
「——なにを、名もないのに——」
『名前は、あとで思い出す。感触は、消させていない』
光が収束する。
キョムコクの気配が、存在ごと、白嶺の内側へ沈んでいく。消す側が、消された。世界の輪郭が、ゆっくりと戻る。白嶺は残虹を支えに、その場に膝をついた。胸の奥で、黒い残滓が渦を巻く。その渦の中心に、突然、音が戻ってきた。
彩華。
名前が、戻っている。
光が走った瞬間に、白紙だった場所に、娘の名前が、はっきりと刻まれていた。白嶺は掠れた声で、それを口に出した。
『……彩華』
残る。残った。
黒は、消えた。
その直後、白嶺は無月の方へ手を伸ばした。
無月は地面に膝をつき、白い息を繰り返している。器ではない身体に沈んだ白が、まだ暴れている。白嶺は残虹の峰を、無月の肩に添えた。斬らない。移す方法は、知らないまま、器としての本能だけを頼る。すべての色を、自分の身体に引き取る。無月が斬って沈めた白も、これまでの残響も、今沈んだ黒も——全部を、器である自分が抱える。
『……来い。私の中へ』
白い侵食が、無月の腕から引き剥がされるように流れ出し、残虹を伝って白嶺の内側へ沈んでいく。黒い残滓と、白い残滓が、白嶺の芯で重なる。十二色の全部が、器の身体に、一度に流れ込んだ。
その瞬間、白嶺の視界が、裏返った。
残虹が、手元から滑る。
無月の声が、遠くで誰かを呼んでいる。彩華の名前が、胸の奥で、まだ残っている。
それ以上は、わからなかった。
白嶺の意識は、色の渦の中へ、静かに沈んでいった。




