第101話「導かれる意識」
白嶺の意識は、色の渦の底に沈んだままだった。
時間の感覚がない。痛いわけでも、楽なわけでもない。ただ、重い。十二色の残滓が、器の身体の芯で、ゆっくりと層を成していく。その層の隙間から、記憶が、断片のように浮かんできた。
——家にいた頃の、白い廊下。
感情を出すな、と教えられた日々。黒花の背中。剣の軌道だけが、正直だった時間。
——産声。
封印が崩れる音。名前をつけた夜。彩華、と呼んだ自分の声。掟を破った覚悟と、それでも手放さなかった温度。
——会社の席。
美咲が「おはようございます」と笑った顔。おでこに触れた夜の感触。大好き、と言った自分の声が、どこかで残っている。
——悠人が、駐車場で想いを伝えた夜。
受け取れない、と返したこと。それでも倒れないでいてほしい、という目を、遠目に見たこと。
——玲奈の尖った声と、解放されたあとの平坦な目。
奈々の届かなかった想い。色を斬るたびに、誰かの人生の端くれを、自分の中に沈めてきたこと。
——無月。
取引で家に来た夜。床に座ってお茶を要求した自分。子供のように泣きじゃくった無月の肩。刀が遠くなっても、ここにいる、と言った声。
——彩華。
名前が消えた夜。感触だけが残って、一閃を走らせたこと。名前が戻った瞬間の、胸の奥の音。
記憶は、順序を持たない。ただ、白嶺という人間を、層の下から支えていた。欠けても、消されても、残ったものたちだった。
その層の上から、声が降ってきた。
「……白嶺様。白嶺様」
無月の声だ。遠い。だが、座標がある。消されていない。白嶺は、その声の方へ、意識を引き上げようとした。重い。色の層が、引き止める。それでも、声が続く。
「彩華様が、待っています。私も、待っています。目を、開けてください」
白嶺は、指先を動かした。動いた。次に、まぶたが、わずかに震える。光が、痛い。色の渦が、後退していく。天井が、見慣れた天井になる。
無月の顔が、視界に入った。目の下に、影がある。それでも、無月は短く息を吐いて、肩の力を落とした。
「……戻られましたか」
白嶺は、すぐに喋れなかった。喉が、色で詰まっている。それでも、掠れた声で、先に名前を出した。
『……彩華』
「無事です。傍にいます」
白嶺は、ゆっくりと顔を横に向けた。彩華が、無月の腕の中で、小さな息をしている。名前が、残っている。感触も、残っている。白嶺は、もう一度だけ、短く目を閉じた。
全部を、抱えた。
欠けたまま、目が覚めた。
それでも、戻ってきた。
無月の声に、導かれて。




