第102話「欠けたまま」
白嶺が自分の足で立てるようになったのは、目を覚ましてから半日後だった。
身体は動く。残虹も、握れば応える。だが、内側が、以前と違う。十二色を全部沈めた器は、欠けている。感情の輪郭が薄い。嬉しいも、痛いも、届くまでに時間がかかる。彩華を抱き上げたとき、温かい。守る、という感触はある。なのに、胸の奥の温度が、半拍遅れてやってくる。
無月が、それを見ていた。
「……刀は、戻っています。身体も、剣技の感触も」
『そう、か』
眩虹が、再び淡く光っている。無月の指が、迷わず柄を握れる。白に沈んでいた侵食は、白嶺が引き取ったあとに消えた。無月は手練れの顔を、取り戻していた。それでも、白嶺の前では、刀を抜かない。
『取引は、終わっている。家も、退いた。帰りたければ、帰れ』
「帰りません。刀が戻っても、使命が戻ったわけではない。ここに、残ります」
白嶺は短く息を吐いた。否定する力も、引き止める熱も、今は薄い。ただ、無月が残ると言った事実だけが、淡く胸に残った。感じ方の濃度が、落ちている。それでも、嫌ではなかった。
夜、白嶺は彩華のベッドの傍に座った。娘の手を、自分の指で包む。名前は、呼べる。彩華。残っている。母親であることも、残っている。欠けたまま、残っている。
『……これで、いい』
誰にともなく呟く。無月は廊下の向こうで、窓の鍵を確認していた。色は、終わった。家も、退いた。残るのは、欠けた器と、娘と、刀を取り戻した手練れの、静かな家だけだった。
白嶺は、その欠けを、今夜は否定しなかった。




