第103話「何も感じない」
白嶺が会社に戻ったのは、意識を取り戻してから数日後だった。
席に着く。画面を開く。数字は追える。仕事はできる。だが、人の言葉が、胸に落ちない。美咲が「おかえりなさい、加藤さん。心配してました」と笑顔で言っても、嬉しいという感触が、後からしか来ない。来ても、薄い。悠人が軽く会釈をして、「無理しないでください」と目だけで伝えてきても、安堵も、申し訳なさも、輪郭が曖昧だ。玲奈が小さな嫌味を言っても、苛立ちが起きない。
(……欠けている)
白嶺は自分の指を、デスクの下で握った。十二色を沈めたあと、感情の濃度が、明らかに落ちている。守る、という感触だけは残っている。彩華の名前も、残っている。なのに、他人の言葉が、表面で滑っていく。
美咲は、それに気づいているようだった。以前のように深くは踏み込まず、でも離れず、白嶺の席の近くで仕事をしている。心に寄り添う、と託された言葉を、美咲は静かに守っている。白嶺はそれを、ありがたいとも、重いとも、うまく感じ分けられなかった。
昼休み、悠人が書類を置いていった。
「これで以上です。体調が戻られて、よかった」
『……ええ』
言葉は返せる。温度が、乗らない。悠人はそれを受け取り、何も聞かずに席へ戻る。あの夜、刀を持った姿を見た男が、今はただ、倒れなかったことを確認するように、背中を見せて歩く。白嶺は画面に目を戻した。
退勤まで、何も大きくは起きなかった。
人の言葉が、胸に落ちない一日だった。欠けたまま、普通に見える女として、白嶺は鞄を持った。
家に帰れば、彩華がいる。無月がいる。
そちらだけは、まだ、感触が残っていた。




