第104話「心に落ちる声」
退勤前、白嶺は喫煙所に出た。
吸わない。ただ、人が少なく、風が通る。欠けた内側を、一人で測るための場所だった。誰かと短く立ち話をした記憶も、ここにある。今は誰もいない。白嶺は手すりに手を置き、下の街を見た。感情が、薄い。今日一日、人の言葉が胸に落ちなかった。
足音がして、美咲が入ってきた。
「……あ、加藤さん。失礼します。少し、風に当たりたくて」
『いいわ』
美咲は白嶺の隣に、距離を置いて立つ。煙草は持っていない。ただ、同じ風を受けている。沈黙が、しばらく続いた。美咲が、短く息を吸う。
「加藤さん。私、全部はわからないです。お家のこととか、刀のこととか、戦ってるものとか。……でも、加藤さんが一人で抱えてることは、なんとなくわかります」
白嶺は、横目で美咲を見なかった。見る必要を、感じない。言葉が、表面を滑る。
「だから、私は離れません。叶わなくてもいいし、見てるだけでもいい。加藤さんの心が、一人にならないように、そばにいます」
無月が託した言葉に、美咲自身の熱が重なっている。白嶺は手すりの感触を、指で確かめた。滑る、はずだった。今日一日、全部滑ってきた。なのに、美咲の声だけが、胸の奥に、小さく落ちた。
欠けた内側で、何かが、音を立てる。
嬉しい、というには遠すぎる。痛い、というにも、足りない。ただ、受け取ってしまった、という感触だけが、はっきりと残った。白嶺の目の端が、熱くなる。涙ではない。涙になる前の、うすい光だ。自分でも、意外だった。
美咲が、それに気づいた。
「……加藤さん」
『……何でもない』
「いいえ。今、目が——」
『気のせいよ』
白嶺は顔を、風の方へ向けた。美咲は追わなかった。追わずに、同じ手すりに、自分の手を添える。距離は、変わらない。なのに、白嶺の胸の奥では、一日中滑っていた言葉の中で、初めて何かが、残っていた。
欠けたまま、心が、わずかに動いた。
美咲はそれを、見ていた。見ているだけだと言いながら、ちゃんと見ていた。
白嶺は短く息を吐き、喫煙所を出る準備をした。
『……先に帰るわ』
「はい。お疲れ様です、加藤さん」
その声も、薄く、胸に残った。
白嶺は廊下を歩きながら、自分の目の端に残る熱を、否定しなかった。




