第105話「月が二つ」
色が終わり、家が退いてから、しばらくが経っていた。
ある朝、白嶺は無月に向かって、当たり前のように言った。
『仕事、探せ。ここは安全になった。ここに住むなら自分の食い扶持は、自分で稼げ』
無月は湯飲みを持ったまま、固まった。
「……は?」
『うちの会社に欠員が出る。紹介する。断りは、認めない』
「私は、白嶺様の——」
『盾は、夜でいい。昼は、働け。刀を取り戻したなら、普通に生きろ』
無月は反論の言葉をいくつか喉まで持ってきて、全部飲み込んだ。白嶺の目は、欠けたままの、しかし本気の目だった。取引でも、命令でもない。逃げ道を塞いだ提案だった。
「……名字が、ありません。分家の名は、出せません」
『適当につける。今日から、月村でいい』
無月の眉が、ぴくりと動いた。
「……月村、無月、ですか。月が、二つもあります」
『気がついたか。気に入らないなら、自分で考えろ。ただし、明日の書類には間に合わせろ』
「……月村、で、構いません」
白嶺は短く頷き、続けた。声は低い。欠けているのに、芯がある。
『契約は、ここで終わりだ。取引も、役割も、今日まで。これからは、対等だ。お前の人生を、自分で歩け』
無月は湯飲みを置き、白嶺の顔を見た。盾であれ、手練れであれ、分家の失敗作であれ、そういった枠を、白嶺が外そうとしている。彩華が「あー」と声を上げる。無月はその頭を、習慣で撫でた。
「……わかりました。月村、で。人生も、自分で」
『よし。初出勤は来週。服は、あたしのスーツを貸してやる』
白嶺はそれだけ言って、支度を続けた。無月は自分の新しい名字を、心の中で何度か繰り返した。月村無月。月が二つ。奇妙だった。それでも、居場所が、また一つ増える感覚があった。契約が終わり、対等だと言われた朝の感触が、薄く胸に残った。
初出勤の朝、無月はスーツに袖を通した。高身長の白嶺に合わせて作られているスーツをきた自分の姿が、少し不格好に見えた。
刀はない。眩虹は家に置いてある。白嶺と別々に出社し、受付で手続きを終え、配属先のフロアに案内される。白嶺の部署とは違う。それでも、同じ建物の空気が、無月の肩を少しだけ硬くした。
廊下で、美咲とすれ違った。
目が、合う。
美咲は、この女を知っている。白嶺の家で、生い立ちを語り、「心に寄り添って」と託した女だ。無月も、美咲を知っている。白嶺の心の側にいると、自分が認めた女だ。二人は、立ち止まらない。会釈もしない。ただ、目だけで、短い会話をした。
——加藤さんを、よろしく。
——そちらも、頼む。
目を逸らす。美咲は自分のフロアへ、無月は案内された席へ向かう。言葉は交わしていない。なのに、通じ合った感触だけが、残った。白嶺の身体の盾と、心の側にいる女が、同じ建物の中に立った朝だった。
無月は席に着き、画面を開いた。刀より、よほど勝手がわからない。それでも、白嶺が「働け」と言い、「対等だ」と言った。なら、働く。夜は、家に帰る。彩華がいて、白嶺がいて、欠けたままの日常がある。
月村無月は、そうして、普通の会社員の一日を始めた。




